「禅」としての研究[11/15]
誰からも賛同を得られない個人的な意見だが、自分にとっての体の感覚・不調に対して関係が少なからずあると思う。。。
研究活動、特に数式を計算している状態は「禅」のような効果を示すと考える。
禅にも種類があるので完璧な一致を指しているわけではないが、大きな二種類を包括するような以下に議論する関連性を持っている。
最も計算などに集中しているとき、自我や体の感覚から離れた状態であり、論理に関わる思考は鋭敏でありながら人間的で世俗的な思想とはかけ離れている。
故に一切の邪念のない、自然界あるいは数学的論理を師とした問答とも考えられる。
人間的な観点や直感とは異なって、答えを知っているわけではなくnaturalに答えにたどり着く「直感」と研究対象に対する論理性のような思考に支配された状態である。
一つの具体例では、A4数ページに渡る一個の数式を見定め、あたかも最終的な形が見えているかの如く計算を進めるような状態である。
これは実際に自分の論文の計算であるが、誰に聞いても後ほど見直しても途中がどうしてこのような計算なのか理解不能である。
人は意識して行動することを学習するあまり、無意識状態をあえて区別する傾向にある(と思う)が、実際のところ人体の活動において大概が無意識的に動いているものである[9]。
脳が一つの思考や意思決定を集中して考えているよりは、人の意識は数多の脳の活動の一つ(のプロセス)として表面化しているに過ぎない。
研究においても、わからないことをいつでも考えて寝ている間でも計算している状態を繰り返していると、無意識の脳にその計算を求めること・計算を実行することに慣れた状態を作り出すことができ、日常のふとした瞬間に答えにたどり着く。
計算をしているときの状態として、自我や自己という意識を消失し、最も論理的で数学的直感に近い部分の無意識が活発化し、ペンや紙、PC、キーボート、そして人体という外部デバイスを用いて表現していく行程が計算であり研究である。
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[9] そもそも心臓を動かしたり消化器などを制御したり、全部意識的にやっている人間がいるわけない。