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愛殺優  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

イーハトーブの農業試験場(日曜日)

 

陽炎か蜃気楼のようなとりとめもない心地よい無想がいつの間にか途切れた。朝になっていた。なんとなく、いつもの朝と異なる気がした。旅行先で外泊したせいかも知れない。ドアの上の明かり取りの窓から差し込む陽光に瞼越しに軽い痛みを覚えた。昨夜の疲れが後頭部にやんわりと蹲っていた。眠気はなかった。跳ね起きる気にはなれなかった。

トイレで用を済ます。再びベッドに倒れ込んだ。マットレスが激しく揺れた。余震が心地よく暫く続いた。ベッドの軋みが止んだ。耳を澄ますと扇風機の回転音が聞こえてきた。茫然としていた。室温が次第に上昇してくるのが感じられた。

そそくさと身支度をする。ドアを開け放った。ドアストッパーがない。目に入った中庭のこぶし大の石をドアの下に挟んだ。そこから見える中庭の細い路地の両側に原色のきらびやかな草花が狂ったように咲き乱れていた。めくるめく色彩の斉放にいざなわれた。一壷天のような中庭に出た。

さまざまな熱帯植物の根元や枝に手書きの名札があった。見上げるような日影ヘゴ。骨組だけの巨大な番傘が聳然と雲を突き刺す勢いだ。十フィートはありそうだ。

白地と桃色に黄色いおしべの胡蝶蘭。襞付きの蝶々のような大きな帽子を被らされた赤子のようだ。

緑の枝の先端に咲く桃色の花弁に黄色の花芯のゲットウ。半開きの花は蛇が鎌首を持ち上げ、小動物を呑み込もうとしているようだ。

葉軸と付け根の鞘が真紅の猩々椰子。紅い茎が剥きだしになった極太の血管のようだ。

浅黄の実が垂れ下がるマンゴー。茎から長い鞘で延びる果実は轆轤っ首のようだ。

見上げると星型の黄緑のゴレンシ。戦闘機の木製のエンジンのようだ。

薄紅に紫の葉脈のような筋をもつ五弁のバンダ。紫の袴を穿いた土偶のようだ。

赤紫に白い縁取りのあるローレルかずら。五弁のボケのようだ。ココヤシに絡みつく緑葉に黄緑の筋の入ったポトス。巨大な爬虫

類の舌のようだ。

深紅の花弁と黄色いおしべのハイビスカス。小さなパラボラアン

テナのようだ。

根茎からのびる棒状の花茎に着くトーチジンジャーの紅色の苞と

円錐形の花穂。たいまつ状の苺が紅いフレアスカートを穿いているようだ。

釣鐘状の四弁の赤と橙と黄色の小花の群がり咲くカランコエ。

中庭のほぼ中央にショレア・アクミナティッシマの巨木。天女の羽衣のように波打つ板根が四方八方にのた打ち回っていた。

さながら入園者の途絶えた手入れの悪い場末の植物園のようだ。中庭を左に行くと裏庭がある。大粒の砂礫の地面に雑草の撩乱が拡がる。その向こうに、縮緬絵のような青々とした水田がきらきらと輝いていた。稲の草丈は一ヤード程度。そこだけが周囲の野放図な風景と不釣合いなほど整然としていた。

部屋に戻った。壁に埋め込まれたLANコネクタを探した。見当たらない。それらしい事務用のテーブルすらない。無線LANも試してはみたが繋がらない。落胆した。

ヒタヒタという足音がして止まった。振り返るとドアの前にビゲンノラが裸足で立っていた。開かれたドアにノックしようとしている。目が合った。

「グッドモーニング、ビゲンノラ」

と声をかけた。彼女は驚いたように瞳孔を大きくして上目使いに、

「グッモーニン、サァ。ブレクファスト」

とクイーンズ・イングリッシュで言う。首をすくめている。部屋の中を流し目で覗いていた。

「すぐいきます。昨晩、夕食を食べたところですね」

と念を押すと、不意に、

「あなたは、かれと、同じ国のひと?」

とたどたどしい英語で質問をする。

「そうだけど、どうしてそんなこと聞くの?」

と首を少し傾げながら聞き返した。すると、

「だって、話し方、身ぶり、手ぶり、眼の表情、どれもみんな違う」と詰問するような瞳で訥々と言う。

「そう」

とだけ答えた。

彼女は食堂の方へ裸足の足音を立てて走っていった。

扇風機のスイッチを切った。鼓膜がかすかな痛みから解放された。荷物はそのままにして食堂にむかった。

食堂には派遣員と場長が着席していた。

テーブルの上には薄い平焼きパン、真黄色のカレー、白い塊の混ざったヨーグルト、甘そうなミルク紅茶が並べられていた。

二人と朝の挨拶を交わした。

「よく眠れたか?ミスター・トキ」

と場長が平焼きパンを千切りながら訊いてきた。

そう訊かれて朝方、硬く狭いベッドの上で幾度となく寝返りを打ったことを思いだした。

「ええ、よく眠れました」

と土岐はさしさわりなく答えた。

それにかぶせるように場長が言う。

「耕運機をみたあとは、田圃もぜひみてほしい」

と平焼きパンが重ね置かれた大皿を差しむけてきた。

厚さを確認しながら、一枚取った。

「さきほど、中庭から見ました」

と言うと、場長は紅茶に砂糖を入れながら大きくかぶりを振った。

「あそこからみえるのはほんの一部だ。あれだけではない」

と濃い狐色に焼け焦げたガリガリの平焼きパンを口に含む。

「あれは芸術だ。あれほどきれいな田圃はこの国のどこにもない。だいたいこの国ではメジャーで測って田植えすることはない。水田の形からしてそうだ。目分量で適当だ。本当に君たちは不思議な国民だ。田植えすらも芸術にしてしまう」

と唾液と混ざった平焼き食パンが良く見えるほど口をあけて話した。

 朝食が済んでから、三人で裏庭の隅に放置されている耕運機を見に行った。

パンフレットによると、耕運機のこの型式では最大の九馬力の機種だ。

場長は大きく目を見開いたり、太い眉根を寄せたり、肩をすくめたり、両手を大きく広げたりして、耕運機がいつ、どうやって故障したのかを唾を飛ばして説明する。

「どこかの部品が不良らしい。エンジンがかからない」

と意見を求める。土岐の顔を覗き込んできた。

「たぶん、イグニッション系の故障じゃないかと思います」

と土岐は適当なことを言った。別の耕耘機から抜き取った燃料を少し入れた。キーを差し込んだ。形だけでもスタートさせようとした。無駄だった。内燃機関のことは何もわからない。始動方式がリコイルスターターであること以外はパンフレットにも書かれていない。外見では破損している部分はなかった。手入れがまったくなされていない。本体の赤い塗料が分厚い土埃の被膜に覆われていた。粗悪な安い燃料を使い、不純物でエンジンを傷めたのかも知れない。

正常な耕運機と部品を入れ替えた。あちこちをいじってみた。

「すいません。メカニックでないので、よくわかりません」

と詫びる。機器については藤四郎であることを白状した。

「アフタサービスとして直してもらえないだろうか。それが駄目なら、貴国の大使館と掛け合って、新品でも、中古品でもいいから、動くものと交換してもらえないだろうか」

と腰を少し斜に屈めた。場長は額に横皺をつくりながら哀訴する。

「わかりました。事務所に帰り次第、長谷川に伝えて善処させます」としか答えようがなかった。

それを聞いて場長が喜んだ、善処の意味を誤解していることに気づいた。誤解をこのまま放置していいものかどうか、ずっと黙っている派遣員の表情を見た。気づいた風情はなかった。ただ、

「この国は労働力豊富だから人手を節約するような機械は本質的に不要です。維持費だけでも結構おカネがかかります」

と場長に助言してくれた。場長は耳をまったく傾けていない。終始怪訝そうな顔つきだ。ペリカンのような顎の下の弛みと頬の贅肉を震わせる。しきりに首を左右に振っていた。

 農業試験場は一エーカーほどの広さだった。そのうち水田は一平方チェーンほど。細い紐で四分割されている。長線形の葉身と葉鞘の高さや幅の違う稲が植えられていた。

田圃の脇の納屋の周辺に心地よい空気が漂っていた。

派遣員は一区画ごとに品種と使用している肥料の組み合わせの違いを解説してくれた。サチバ種の中粒、長粒、大粒の三品種が中心だと説く。土岐は興味がなかった。聞き流していた。

「種が結構高いんですよ。これも無償援助ですけどね。ここにあるのが三代目で、安い肥料で収穫の多い種を増やすのが目的です。一年目に近郊の農民に配った品種が従来の倍以上の収穫があって、この農業試験場が州の表彰を受けたんです。いまじゃ、この州の米作農家の大半がこの手前の大粒の品種を栽培しています。種をまけばあとは収穫だけというここの農民にいかに稲を育てるのかを指導するのが自分の仕事です」

と親指で鼻先をさし、

「同じことを五回いってもわかってもらえないことが多いんです。今言ったことを言わせるとできるので、わかっているのかと思ったら大間違いで、つんぼでないから声は伝わるけれど、理屈は伝わっていないということを理解するのに一年以上かかりました。意図的に努力して計画を立て必要以上に多量に生産するという概念を理解してもらうのに家電製品のカタログの価格に米の収穫量を書きこみました。それだけ米を収穫すればその家電製品が買えるという意味です。二年目にテレビを買った農家があったんですが、たった二局しかないチャンネルの争いで家族が大喧嘩したという例がありました。小作も雇っている大きな農家では二年目に一人一台のテレビを買って、家族がほとんど口をきかなくなったという例もあります。なにが幸せなのか?経済的に豊かになることが幸せであるのなら、先進国では、不幸という言葉はとっくに死語になっているんじゃないでしょうか」

 昼が近付く。暑くなってきた。建物に入ることにした。昨夜は気づかなかったが、試験場の建物はコの字型になっていた。正面玄関から入って右側に食堂、厨房、便所、浴室がある。左側に二三十人が受講できる教室が二つ。中庭をはさんでゲストルームが三部屋。農業試験場の職員の住居は教室とゲストルームの間にあった。

派遣員がまだ何か話そうとした。場長がそれをやんわり制して、

「そろそろ昼食の時間だ。皆さんお腹がすいたでしょう」

と土岐を食堂に誘導した。

朝食とまったく同じものが食卓に並べられていた。

食事中も派遣員の講義は続いた。

「農業の生産性があがると、農村にいらない労働者があふれます。いてもいなくても生産量はかわらないんです。だから長男が土地を相続すると次男、三男は農村を追放されます。生産性が低ければ、かれらも必要な労働力だったんですが。仕方なくかれらは現金収入を求めて都市に流れてゆきます。都市がスラム化し、貧困が顕在化します。都会で食いつめて、故郷に帰ることができれば昔の生活に戻り、食べていくことはできるんですが。でも、故郷では長男の生活が確立していて受けいれてもらえません。こういう連中が都市の治安を悪化させます。先進国のようにさまざまな産業が発展して、工場でこういう連中を吸収できれば、問題は深刻化しないんでしょうけど。でも、そういう産業がないから発展途上ともいえるんじゃないでしょうか。この事態を生みだした最初の原因は、じつは農業生産性の向上にあるんです。この農業試験場はその助長にひと役買っています。皮肉な話です」

 食事が終わると用はなくなった。ハイヤーの運転手と約束した午後一時にはまだ時間があった。少し早めに州都の駅にむかうことにした。昨日の運転手を探した。玄関に出た。見渡すと門柱の脇の日影に見覚えのあるハイヤーが駐車していた。窓がすべて開け放たれている。前部座席の窓から運転手の裸足の足裏が出ていた。近付いて行った。車内を覗き込む。運転手が助手席を頭にして昼寝していた。運転手を起こす。ゲストルームに戻る。ショルダーバッグに荷物をまとめた。玄関で派遣員と場長に別れを告げた。

派遣員はハイヤーの傍まで付いて来た。別れ際に眩しそうな目をしながら受賞辞退の理由を披瀝した。

「昨晩、寝ながら考えたんです。受賞を断りたい理由はたぶんこういうことじゃないかと思うんです。今回の受賞は自分が求めたものではない。応募したわけでも、推薦されたわけでもない。受賞の理由は高収穫稲の普及と聞きましたが、種は輸入したもので、土壌改良も肥料もすべて本に書かれていることです。自分はただ普通の指導を普通にやっただけで表彰に値するようなことは何一つしていない。これは自分で言うんだから間違いないです」

とうなずきながら、

「もし受賞したとすると、それは人々を欺くことになる。今回は巡り合わせでたままた自分が派遣されましたが、自分と同じ指導のできる人間は我が国には五万といます。でも優秀な大使館の人からの話なんで、自分がわかっている程度のことはわかっているのではないか。つまり自分に受賞に値するような業績のないことを承知で授賞しようとしている。そうであるとすると、このことを何かに利用するのではないか。偽りの授賞だから誰かを騙すことになる。うっかり受賞したら自分が知らないうちにそれにひと役買うことになる。それはいやだ。だから受賞したくない。舌足らずでうまく説明できませんが、たぶん、そういうことじゃないかと思います。確信はもてませんが。もしあなたが褒章をくれるというのなら喜んで貰いますが」

と最後に意味不明のことを言った。彼の言ったことがよく理解できなかった。どう質問していいかもわからなかった。

「気の変わることを期待して、首都で待っています」

と土岐は目を合わせずに願望だけを述べた。車に乗り込もうとした。すると、

「主義も、主張も、信念も、なにも持ち合わせていないですから、ひょっとしたら、気が変わるかも知れないです」

と彼はあたかも他人事のように鼻の頭に小皺を寄せて微笑んだ。

土岐は、蝶番が錆びて脱落寸前のハイヤーのドアを開けた。

「とにかく、首都の駅で待っていますから。たぶんあなたは、自分で自分の気持ちがその日にならなければわからないんだろうと思います。火曜日の昼過ぎに着く列車を昼休みの散歩がてら勝手に出迎えることにします。気が向いたらでいいですから来て下さい。交通費と滞在費はこちらで持つと長谷川が言ってましたから」

と派遣員の重荷にならないように配慮して言い切った。すると彼は、「ほんとうに、すいません。ご苦労様でした」

と心底すまなさそうに深々と頭を下げた。そのとき彼の頭頂に二三箇所のコインほどの大きさの円形の脱毛部分のあるのに気づいた。 

土岐は、木板にシートを貼り付けたような後部座席に乗り込んだ。

「来るにしても来ないにしても連絡は不要です。とにかく、来ても来なくても駅に出迎えにいきます。かりに駅まできて、授賞式に出たくなくなっても結構です。それでも構いません。とりあえず、片道の交通費をお渡ししておきます」

ともう一度執拗に念を押した。財布から高額紙幣を抜きだした。

すると彼は、手のひらを振って拒んだ。

「お返しする場合、面倒になるので、受取らないことにします」

場長が代わりに受取ろうとしたが派遣員がそれを制した。

派遣員はむげにはできない様子で、

「そこまでおっしゃるのなら、いかなければならないかも知れないですね。でもほんとうに期待しないで下さい」

と困惑したように頭を掻いた。静かに笑った。

土岐は、紙幣を財布に戻した。ドアを閉めながら、

「あくまでも、気が向いたら、でいいですから、遊びにくるようなつもりで一向にかまいませんから」

と再度彼に別れを告げた。

運転手は先刻から会話を不審な面持ちでうかがっていた。盗み聴きするように五ガロンサイズのポリタンクのガソリンを燃料タンクに注ぎ込んでいた。注ぎ切ると運転席に飛び乗った。エンジンをかけた。

「うかがう場合は、かならず事務所に電話連絡しますから」

と彼は最後に小さく手を振ったが、電話番号は聞こうとしなかった。

玄関のポーチで場長は終始にこやかだった。

少女の姿はなかった。いるのかいないのか確認しなかった。少女の母親、場長の配偶者も顔を見せなかった。

派遣員がまた何か言い出す前に運転手を促して農業試験場をあとにした。振り返ると、派遣員は道路に出て、見えなくなるまで、いつまでも名残惜しそうに手を振っていた。遠ざかるほど手の振り方が次第に大きくなっていった。

開放した車窓から心の中をさわやかに吹き抜けるそよ風がしばらく吹き込んできた。草と土のおだやかなにおいがする。あとはまた、うんざりするような退屈なドライブだった。なんの変哲もない荒れ果てた風景が蜿蜒と続いた。

多少寝不足気味だった。眠ろうと勤めた。目を閉じても鬱勃たる草木の間を凹凸の激しい田舎道が頭の中で蜿蜒と繋がっていた。結局一睡もできなかった。意識も覚醒していなかった。

車に身をゆだねた。土岐は派遣員に好意を抱いている自分に気付いた。理由を考えた。彼の風貌を思い起こす。彼の印象を確認した。美男子ではない。朴訥な感じがする。言葉を弄して相手を操ろうとする姿勢が微塵も感じられなかった。話している言葉と心の中が同じものであることがなんの疑念もなく見通せた。そして、頭の形や頭髪がアルベール・カミュを彷彿とさせた。出あうことができたらば、たぶん抱き締めずにはいられないその文学者になんとなく似た雰囲気を派遣員は持っていた。

説明のできない不快な気分が胸中にうずくまる。うら寂しい州都の駅前に降り立った。ハイヤー代は今日の分まで長谷川が払ったはずだ。超過料金を請求された。ハイヤー事務所で運転手の請求するままに料金を支払った。藁半紙に赤いゴム印と手書きの領収書を受け取った。国立銀行で余分に下ろしたはずの紙幣がほとんどなくなっていた。

時刻表によると、次の列車は三十分近くの待ち合わせだった。改札口で茫然と待つ。十分もしないうちに列車が入線してきた。あわてて改札口の駅員に列車の行き先を確認すると、

「間違いない。首都行きの列車だ」

と面倒臭そうに言う。

さらに発車時刻を確認すると、

「前の列車が2時間ほど遅れているだけだ」

とうるさそうだ。

苦笑する。事情を把握した。列車はすでに動き始めていた。あわててデッキに駆け込む。車内に足を踏み入れる。三等車両だった。一等車両は列車最後部にある。進行方向とは逆方向に車内を移動した。二等車両までは通路もかなり混雑していた。一等車両は空席ばかりだった。四人がけのボックスをひとりで専有することができた。

退屈でゆだるような列車の旅が始まった。何も考えず、漫然と車窓を泥濘のように流れる風景を薄目で眺めていた。手付かずのすさんだ自然が埃にまみれている。白く干からびて横たわっていた。点在している畑も手入れが行き届いていない。よく観察していないと、天然自然の一部として見過ごしそうだった。

ときおり皺だらけの長袖シャツに腰布だけの農夫が気だるそうに国道を歩いていた。彼らの日常生活を想像してみた。電気がない。だからテレビもない。洗濯機、冷蔵庫などの家電製品は一切ない。暗くなったら寝るだけだ。眠くもないのに寝れば、することは一つしかない。だから子供はどんどんできる。子供はできても所得が低く、食べさせるのがやっとだから教育を与えることはできない。教育を受けられないから経済が発展しない。経済が発展しないから農夫の所得も低い。貧困の悪循環だ。当然、朝は早く眼が覚める。しかし日中働き詰めになるほどの土地も体力もない。少し働いては休み、休んでは少し働く。そういう生活の繰り返しだ。そうやって代々生き、そうやって代々死んでゆく。

途中の駅で列車は一時間近く停車した。首都の近郊でバラックの群れの中に二階建ての人家が散在していた。窓から前方を見ると支線のポイントの辺りに乗務員らしい男がふたり、困り果てた様子で腕組みをして立っていた。

乗客の中に現地語の発音のままの英語で、

「どうやら反政府ゲリラの仕業らしい」

という声があった。声の方を見ると、丸顔で背の低いゲンジュイ人と撫で肩で背の高いブシュウン人が話し込んでいた。反政府ゲリラの中心は、少数民族のブシュウン人だ。紛争の根源的な原因は宗教対立にある。表面的には政治が多数民族のゲンジュイ人によって独占されていることある。使用言語も違う。同国人でありながら、共通言語は英語だ。

「ゲリラがこんな人目のある所で仕掛けをするはずがない」

という押し殺したような声も線路端から聞こえてきた。

次第に彼らの捉え所のない表情が顔の輪郭と共に夕闇に鎔け込んで行った。そのとき携帯電話メールのマナーモードの着信振動が発動した。優子からだった。


@主人は大使館のお手伝い。どこかで夕食でもどう?@


 土岐は長谷川からの空メールを探し、そのアドレスに優子のメールを転送した。しばらくして長谷川からSNSでメールがきた。


@いま、どのへん@

@いま、止まっているんだけど、もう首都圏に入っているので、この先何もなければ三十分程度で着くと思うけど@

と返信すると、またしばらくして、

@そう、じゃ、改札口で待っている。それで、説得の方はどう?@

と返信があった。すぐ、

@ペンディングにした。われわれのように軟弱じゃない@

と返信すると、またしばらくして、

@われわれって、それじゃ、おれも軟弱ってこと?@

と口を尖らせている姿が眼に浮かぶ。そこで、土岐は、

@かれが事務所のパーティーに行ったこと知っている?@

と返信した。

@かれって?@

@農業派遣員@

@農業派遣員って?@

@小川伺朗@

@昨日試験場で会ったのが2回目だ。そんなによくは知らない@

と言う長谷川のメールは嘘かもしれないと思った。

土岐は書かずにはいられなかった。

@牛田夫人と寝たことがあると言ってた@

と土岐は鎌をかけた。

@いつ?@

と言う長谷川のメールにささくれた嫉妬が感じられた。

@彼がこの国に来てしばらく首都に滞在していたとき君の事務所でパーティーがあってそこではじめて牛田夫人にあった@

@そうか、翌日、家に招待したことは聞いたことがある。すると、酒の弱いご主人が酔いつぶれた後ということか@


と長谷川は状況を想像しているような書き方をする。そこで電話がかかってきた。発信者は牛田夫人だ。一瞬土岐はためらったが出た。

「嘘!それを信じたの?わたしのこと、そんな女だと思ってたの!」

と言うなり、泣き声をだし始めた。携帯電話の送話口を口元から遠ざけることなく、幼女のように泣きじゃくる声が、じかに聞こえてきた。この悲しみと侮辱された嘆きを聞けとばかりに、これみよがしの泣き声は三十秒あまりも続いた。思わず携帯電話を耳元から少し離した。号泣するその声が車内に漏れた。逆に耳に強く押し当てた。彼女は土岐が電話に出たと思っていない。土岐はどう言っていいかわからない。とりあえず、何も言わずに電話を切った。

それから、SNSで長谷川にメールを送信した。


@かれがそう言ったのは確かだけど、君には言うべきではなかった。当然、かれの言うことは信じていない。謝る。もう遅いかな@


SNSはそれで途切れた。

牛田夫人と長谷川がどういう連絡を取り合ったのかわからない。

暫くして長谷川から電話がかかってきた。

「出迎えに行くので、一緒に食事しよう。その携帯のSNSメールは牛田夫人にも同時送信されるの気を付けてくれ。それじゃあ」

とまだ何か言いたいようだった。名残惜しそうに長谷川の通話が切れた。

窓外には夕闇が列車をせかせるように迫っていた。暗色の風景の書割が消えかけたころ、やっと列車が動き始めた。

終着駅の一つ手前の駅を出た。車掌の検札はもうなかった。

一等車と二等車の連結部分に屯していた乗客が薄暗がりの中をぞろぞろとゾンビのように無言で入ってきた。同じボックスに親子連れらしい夫婦と少女が座り込んできた。よく目を凝らさないと彼らの顔つきはわからない。かろうじて少女の髪がお下げ髪であることがわかった。隣に顔をむけると間近に男の顔があった。慄然というほどではないがなんとなく驚いているような雰囲気を感じた。あとから一等車に入ってきた連中は息を殺すようにひっそりと空席に座り込んだ。不意に乗客の一人が懐中に刃物を忍ばせていて他の乗客を襲うのではないかという恐怖に囚われた。

@I kill you@のメールが頭をかすめた。

顔を見られないように顎を引いて窓外に目をむけた。

夜空に星は出ていた。昨夜の千分の一にも及ばなかった。代わりに眼の高さに無数の青白い小さな明かりが浮遊していた。クリスマスツリーの電飾のように大木の輪郭が暗闇に浮かび上がっていた。柔らかく冷たそうな小さな明かりは草原や小川の風景に沿って黄泉の国からの遣いのように霊気を放って漂っていた。小川に沿ってちりばめられた揺れ惑う数多の明かりは、大観衆のペンライトのようにも見えた。夥しい数の冷ややかな光源に、

「蛍」

という言葉が思わず口をついて出た。冷菓のようにいまにも溶けだしそうな明かりは終着駅に近付くにつれて何の趣もなく数を増してくる民家の無粋な照明の中に消えていった。

終着駅に着いた。腰の辺りに重い疲労感を覚えた。昨日から列車とハイヤーの座席に合計で十時間ほど腰掛けている。プラットフォームに降り立った。知らないうちに腰の辺りを摩っていた。

改札口あたりだけにワット数の低い照明があった。始まったばかりの夕闇の中にそこだけぽっかりと浮かんでいた。


虎刈りの報酬(日曜日晩餐)


土岐が改札口を出る。

長谷川と優子が困惑したような顔をして立っていた。

「どうしたの?」

と声を掛けたくなった。傍らの長谷川が優しく声をかけようと彼女の肩に口を近づけようとした。彼女はさっと身を左にずらした。

不意をつかれて、長谷川は唖然としている。

「お帰りなさい」

と言う声が、彼女が立ち退いた場所のすぐ後ろから聞こえてきた。長谷川はぎょっとして振り向く。慶子だ。

「さっき、加藤さんが、ご一緒に食事どうかしらって」

と優子は申し訳なさそうに、残念そうに長谷川に言う。言い終えて、その口調から残念という思いを慶子に気どられたのではないかと心配そうな目線を宙に浮かせた。慶子に対して異様に気を遣っている様子が読みとれた。

土岐には一瞬状況が読めなかった。

(一体、長谷川はなぜ牛田夫人と一緒にいるのか。加藤夫人がなぜ来たのか?)

下手なことを言うと、まずいことになりそうだ。駅前の駐車場へ四人で歩きながら、緊急に思考を巡らせた。

(長谷川が男二人の夕食に牛田夫人を誘うことは考えられない。とすると、牛田夫人が勝手に夕食に参加すると言ったのか。長谷川はそれを断れなかった。そのあと加藤夫人が牛田夫人に電話して、それじゃ一緒に夕食を、ということになったのか?)

土岐はどういう立場で、どういうものの言い方をしなければならないか判断がつかなかった。しばらく三人の様子を覗いながら状況を理解することにした。

車は優子のフランス車だった。慶子が助手席に乗り込んだ。土岐は長谷川と後部座席にもぐりこんだ。

車が走りだす。慶子が二人に提案してきた。

「タンドリチキンでいいかしら?」

と言う。もう決まっているという抑揚があった。

「この四人だと目立つので、土岐さんのホテルでどうかしら?」

と慶子が後ろを見ながら聞いてきた。

「そうですね。あそこなら、邦人もいないし、ローカルホテルだから、政府関係者もいないし、泊まっているのは、地元の行商人みないなのばかりだから、いいかも。安いし」

と長谷川が賛成する。

「それに、あなたたちを送らないで済むし」

と慶子。

優子は終始沈黙を保っていた。運転に集中しているようにも見える。彼女の横顔から感受できる頬のそこはかとない引きつりが何かを訴えかけているような雰囲気を感じた。

優子の運転はお抱え運転手のようにうまくはない。運転にメリハリがない。時々急ブレーキや急発進がある。滑らかな加速とゆるやかなブレーキ操作となだらかなハンドル操作だ。波浪のない湖面を走っているようだとは言えない。高級車の居住性の高さが彼女の運転を補っている。

二十分ほどでホテルに着いた。優子がベルボーイに鍵を預けたのを見届けた。先に三人で一階奥の、レストランにむかった。

優子は後から小走りに駆けて来た。

「席が決まったら、荷物を部屋におきにいきます」

と土岐は彼女らにショルダーバッグを見せた。

「ぼくもちょっと、部屋へ」

と長谷川も言う。すると席を決める途中で、優子が立ち止まった。

「わたし、ちょっと手を洗いたいので」

とエントランス右手のレストルームに消えた。

慶子と長谷川が二人で席を決めた。

土岐は思いだしたように言った。

「荷物を部屋に置いてきていいですか。オーダーはお任せします」

と先に土岐が席を立った。階段を上りかけて、一階のエレベーターホールを見た。レストルームの傍らで優子が人目を憚るように縋るような眼をして立っていた。

「それじゃ、ぼくも」

と言う長谷川の声が階段の真下から聞こえた。

土岐は二階の自室へ階段を駆け上った。ズボンのポケットから鍵をだした。ドアを閉めショルダーバックをベッドの上に放り投げた。一階のレストランに戻ろうと、ドアに近づく。廊下から、

「トイレの方はいいんですか?」

と言う長谷川の声がした。鍵を隣のドアの鍵穴に差し込む音がする。ドアを閉めた途端、ベッドの上に二人とも重なるように倒れこむようにベッドの軋む音がする。

土岐は隣室との壁際に置かれている箪笥の上に上った。立ち上がると頭が天井に着く。天井から1フィートほどの幅の欄間のようなラーマヤーナの透かし彫りがある。そこから長谷川のベッドが俯瞰できた。長谷川がベッドの上でうつぶせになっている。その背中に優子がおおいかぶさっている。彼女のふくよかな胸のウイロウのような弾力が長谷川の背中一面に広がっている。

長谷川は顔からベッドに突っ込んだ。息苦しくなったようだ。口だけ横にむける。その唇を彼女の唇が求めてきた。二三分、長谷川は彼女のなすがままに任せていた。長谷川の反応が弱い。

彼女がじれたように唇を甘く噛んだ。

「いてて」

と長谷川がささやくように叫ぶ。

やがて痛みに耐え切れなくなった長谷川は、

「いたいよう」

と言っておもわず唇を引っ込めた。それでも彼女の唇が追いかける。腹ばいで首だけ斜め後ろの無理な姿勢のせいか次第に長谷川の首筋が痛くなってきたようだ。長谷川は首を元に戻すと両腕を立てて起き上がろうとした。彼女が背中にしがみついたまま離れなかった。かなりきつい腕立て伏せだった。長谷川はやっと、息をついた。

「貴方の電話が終わったあと加藤さんが突然私のうちに来て、夕食でも一緒にどうかというの。わたしが、あなたとの約束があるので返事をためらっていると、あなたも交えて四人でどうかと言うの。誰に聞いたのか、あなたが土岐さんを駅に迎えに行くことを知っていて駅に電話して時刻表を確かめたらしくて、ヒジノローマからくる列車はお昼ごろと、夕方と夜中に到着する三本しかなかったんですって。お昼過ぎにホテルに確認したら、あなたはまだ帰っていないって。それでこうなってしまったの。なんで彼女が来たのかしら」

 だいたい想定されることではあった。慶子は四人で食事をすれば、たとえ誰かに目撃されたとしても、問題ないと考えたのだ。

「さあ、早く行かないと、加藤さんにうたがわれるよ」

「さきに加藤さんとこへ行って、わたし、ほんとに具合が悪いの」

「つわり?」

と長谷川が言った。彼女はそれに答えない。隣の部屋を出て行った。今度は本当にレストルームに行った。

土岐は廊下に牛田夫人がいないのを確認した。階下のレストランに戻った。

ボーイが神妙な面持ちで慶子の傍らに立っていた。メモ用紙にオーダーを書き込んでいた。

土岐は彼女のむかいの席に着いた。

少し遅れて、長谷川がやってきた。

「私の分はオーダーしたけれど、あなたがたは何になさいます?」とメニューを差しだしてきた。一人分しかメニューカードがないのかといぶかしく思った。よく見ると今夜は珍しく、客が多かった。いずれもたった今来たようだった。

「面倒だから、同じでいいです」

と土岐が言うと、

「それじゃぼくも」

と長谷川が追従した。

「ほんと?わたしのはレディースメニューよ」

「そんな気の利いたメニューは、場末のホテルにはないですよ」

と長谷川はやや憮然とした面持ちでいう。

「言ってみただけ。レディーが注文するようなメニューという意味」とどことなく、とげとげしい言い方だ。理由は次の言葉でわかった。

「どうでもいいけど、あなた、口の周りが赤いわよ」

と言われて長谷川は返答に窮した。窮しているという表情を彼女に見られないように眼を落とした。スープスプーンの裏に顔を映した。

「すいません。あまりに、空腹だったもんで、さっき部屋でいそいでチョコレートを食べてきたんです」

 そこで土岐は長谷川に助け舟を出した。

「君にあげたチョコレート、まさか全部食べていないよな」

「ずいぶんと、赤いチョコレートだこと。あとで、私にも分けて」

「そうしたいところですが、全部食べちゃったもんで」

と長谷川はしどろもどろになる声音を制御する。自分の声を自分の耳で確かめる。口の周りを右手の甲で拭った。右手を見ても赤い色は確認できない。取れたかどうか不安だった。ナプキンで丁寧に拭った。ナプキンを広げて、確認した。それらしい赤っぽい口紅は見られなかった。

(そもそも、優子は口紅をつけていたのかどうか)

土岐は想い出せない。口の周りの赤い色という指摘は慶子がかけてきた誘導尋問だったのか。それとも、優子に噛まれて赤くなっていたのか。

そこに、優子が戻ってきた。髪を整え、化粧を直したようだ。駅で見たよりも、化粧栄えが鮮やかだった。口元を見ると薄いピンクのリップグロスをつけている。

二人を並べて比較して見る。優子の方が、童顔のせいもあるが、十歳程度若く見える。

「優子さん、具合でも悪いの?」

と慶子がレストルームに居たのが少し長すぎたのではないかと言外に匂わせる。

「ええ、少し」

「私のでよろしければ、お薬、いまここにあるわよ」

「いえ、もうだいじょうぶです」

と言う。夜のせいもあるかも知れない。顔色はいいとは言えない。

「わたしたちは同じメニューにしたけれど、あなたはどうします?」

「わたしも、同じで結構です」

と優子が言う。慶子が即座に指を四本立てた。

「イーチ、フォー」

とボーイに告げた。

最初にワインのロゼがボトルで運ばれてきた。グラスが四つ。ボーイがコルクを手際よく抜く。慶子のグラスに試飲用に十CCほど注いだ。彼女はそれを口に含み、

「オウケイ」

と言うと、ボーイは四つのグラスになみなみとロゼを注いだ。

「それでは何に乾杯しようかしら。外務大臣訪問に、でいいかしら」

「いいでしょう。それじゃ、外務大臣訪問に乾杯」

と土岐は唱和する。喉が渇いていたので、一息で飲んでしまった。手酌で空になったグラスにロゼを注ごうとしたら、先に優子がボトルを手にしていた。

彼女がグラスに注いでくれている間、慶子の視線が優子の手元に釘付けになっているような気がした。

ワインのアルコールが空っぽの胃の中に染み渡っていく感覚がなんとなく不安を醸成して行くように感じられた。

「注いで下さる?」

と慶子が空になったグラスを指の間でくるくると回転させた。

土岐は即座に注ぎかけて、逡巡した。

「帰りの運転大丈夫ですか?まあ、警察につかまっても外交官特権で凌げるとは思うけど」

と土岐が言うと、

「あら、車は牛田さんのよ」

と言いながら、優子に視線を送る。優子はそれに答える。

「でも、この国では酒酔い運転の取り締まりなんかしていないでしょ。もともと、この国の人は建前ではお酒を飲まないことになっているし。だいたい、自家用車を運転している人なんて、ほとんどいないでしょ。それもフランスの車を」

「それはまあ、そうですが。自損事故でも起こしたらまずいでしょ」と長谷川は優子の飲酒をセーブさせたい。

「そんなに、おっしゃるなら、このホテルの部屋をとってくださる?さっき外から見たら殆どのお部屋に電気がついていなかったわ」

と言いながら慶子は優子の表情を観察している。

土岐は慶子が二人の関係に感づいているような胸騒ぎがした。

「タクシーで帰りますから、お三方とも存分に召し上がって」

と慶子が悪戯っぽく微笑む。グラスを弄ぶように傾けた。

昨日の午後、ヒジノローマで手を振っていた彼女に対するいとおしさは、いまは長谷川の脳裏から霧消している。言いようのない居心地の悪さだけが、長谷川の表情から感じられた。

 前菜が運ばれ、それが終わると、スープが運ばれた。そこでロゼのボトルが空になった。

慶子が手を上げてボーイを呼び寄せた。

「白にしようかしら赤にしようかしら」

と慶子が土岐と長谷川の顔をかわるがわるうかがった。

「聞くのを忘れていましたが、メインディッシュは何ですか?」

と長谷川が言いよどんでいる土岐の代わりに訊いた。

「そう、わたし言わなかったかしら。タンドリチキンです」

「それじゃ、どっちでもいいですかね」

と土岐がとりもつ。

「あなた、どちらがいいの?」

と長谷川が詰問される。

「まあワインにもよりますが、飲んでおいしいと思うのは赤ですね」

「優子さん、赤でいいかしら?」

「ええ、結構です。でも、わたしはもう」

「あら珍しい。優子さんがお断りになるなんて」

「いえ、最近は、お酒がおいしくなくって」

「お体がどこか悪いんじゃないのかしら」

と二人がおしゃべりしている間に長谷川は旧知のボーイからワインリストを取り寄せた。旧宗主国から輸入された赤ワインを勝手に注文した。注文し終えて、二人の意見を聞かなかったことに自らの身勝手を反省してる素振りを見せた。それから優子にはあまり飲ませないようにして、長谷川は赤ワインを飲み続けた。

(酩酊して自尊心の帳が解ければ、彼女もただの女になる。ただの女になれば抱かないわけにはいかない)

と長谷川は考えているのではないか。赤ワインのボトルを傍らに置いている。要請がなければ慶子には注がないようにしている。

メインディッシュが運ばれてきた。赤ワインのボトルは空になっていた。

「メインディッシュがきたのに肝心のワインがなくなって」

と慶子がしとやかな声音で嘆息した。

「もう、ボトルは飲めないんでえ、デカンタにしますかあ?」

と長谷川の呂律があやしくなっている。

「そんなの、あるの?でも、デカンタじゃ、中身があやしいでしょ?お食事中にボトルをあけられなくっても、残りをあなたのお部屋までお持ちになったら?」

と言う慶子の意見に長谷川は従う。

「そうしますかあ。そうするんだったらあ、赤ワインを急いで飲むことはなかったあ」

「なんで、急いで飲まなければならないの?」

と慶子に言われて、長谷川は返答に窮した。

傍らで優子がわけもなく、くすくすと軽やかに笑っている。そのままの笑い顔で泣き出すのではないかと土岐は心配した。急に飲みすぎて、長谷川が酩酊しているのを笑ったのかも知れない。

レストラン全体がゆるやかに揺曳し始めるのを土岐は感じた。脳漿が膨張をし始めた。脳動脈のパルスがこめかみを締め付けた。急激に酔いの回ってくるのがわかった。夫人たちのテンションの低い会話が打ち寄せる波のように近づいたり遠ざかったりした。不覚にも、そこで土岐の記憶は途切れた。その後どうなったのか、まったく覚えていない。


懈怠の夢のその先(月曜日)

 

気がつくと土岐は長谷川の部屋のベッドの中にいた。飛び起きて記憶をたどろうとした。何も覚えていない。ベッドカバーやシーツに脂粉の匂いがこびりついていた。誰かと寝たのか。覚えていない。夕食前に長谷川が優子と抱き合ったときの名残なのかどうかもわからない。よろめくように立ち上がった。

脱ぎ捨てた衣服が床に散乱していた。

長谷川の部屋を出た。隣の自室を開けようとした。カギがかかっている。長谷川の部屋に戻る。隣の部屋に電話した。

コール音5回で、長谷川が出てきた。

「土岐だけど、部屋のカギを開けてくれないか」

「どうした?」

「下着を替えたいんだ」

「なんで?」

「なんでって、そこは僕の部屋だ」

 長谷川がベッドから飛び起きる気配がした。

「なんでおまえの部屋で寝ているんだ」

「それは、こっちが聞きたい。どうでもいいから、鍵をあけてくれ」

と言いながら、電話を切った。土岐は隣の自室のドアを開けた。

長谷川が素っ裸で立っていた。陰毛がない。

土岐は思わず笑った。

「君、毛なかったっけ」

 長谷川は一瞬、意味を理解できないという顔をした。頭に手をやる。毛髪をかきむしる。もう一度、土岐の眼を見る。

「どこの毛だ」

「下だ」

 長谷川は目を落として、やっと気づいた。

土岐はクローゼットから下着を取りだした。着替えた。

「下腹部が毟られたようにヒリヒリする」

と泣き出しそうな長谷川の声に土岐はおかしさをこらえられない。

「ひどい虎刈りだ」

「何か悪いことでもしたのか。まるで見当が付かない」

と床に落ちていた下着を長谷川は身に着ける。

腕時計を見る。七時を回っていた。

土岐は長谷川を隣の部屋に追い出した。急いで、身づくろいをした。階下に降りた。エントランスのベルボーイを捕まえた。

「昨夜来た、二人の夫人はどうした?」

と聞く。眠そうな眼で少し思い出すようにして天を仰ぎ、

「二人とも、遅くになって帰りました」

と答える。続けて、確認した。

「車は?」

と聞くと、意味がわからないようだった。言い直した。

「乗ってきた車に二人乗って帰ったのか?」

「ええ、乗ってきた車で」

「どっちが運転してた?」

「小柄な女性の方が」

ということは優子が運転したということだ。

「何時ごろだった?」

「ずいぶん、遅かったですよ。十二時は過ぎていたかも」

 いつの間にか、長谷川が身づくろいして土岐の背後に立っていた。土岐とベルボーイの会話を聞いていた。

「それはへんだ。レストランは十時がラストオーダーだ。ラストオーダーから二時間も飲み食いは出来ない。とすると、部屋で四人で飲み続けたのか。しかし、部屋には空のワインボトルもグラスもテイクアウトの食べ物も何もなかった。二人が帰り際に片付けたのか。それにしても、なんで裸だったのか。どんなに熱くてもどんなに酔っていても一人のときは裸で寝たことはない。ということはやはりどちらかと寝たのか。しかし、ふたりは一緒だった。三人で寝たなんていうことがありうるだろうか。それとも単に二人が帰ったあとで熱くなって自ら脱いだのか。あるいは二人がひん剥いて、ワイン片手に男の裸を鑑賞でもしたのか。あまりに酩酊していて、彼女らの要望に応じてしまったということなのか」

「君も思い出せないのか」

「想い出そうとしても、何一つ想い出せない。ただなんとなく、ホテルの部屋の中を夢遊病者のように行ったり来たりしていたような記憶がある。そのまえに、ホテルの階段を泳ぐようにして上ってきたような記憶がとりとめもない夢のようにある。しかし、不思議と部屋での二人の夫人の記憶は微塵もない」

「いずれにしろ、君の毛は誰かに剃られたんだろう」

「いくら酔っていたとしても、自分で剃るとは思えない」

「まあ、そうだろうな」

その後、二日酔いの頭痛を抱えたまま夢の続きを見ているような気分で土岐と長谷川は事務所に出向いた。

車の中で携帯電話と一緒にショルダーバッグを長谷川に返した。

土岐は長谷川に農業試験場での詳細を説明した。

事務所に着く。長谷川は所長に出張の結果が現在のところ不首尾であることを報告した。

「現在のところ、不首尾ってぇのはどう言うこったい?」

と所長が質問してきた。

「授賞式に出席すると言う確約をもらえなかったということです」

「それは不首尾ってぇこったな。それで現在のところってぇのは?」

「出席しないという確約も取らなかったということです」

「どういうこったい?」

「火曜日の昼ごろまでわからないということです」

「ふう~ん、随分と勿体を付けてんだな」

「その場で決断を迫ると出席しないことが確定しそうだったんで」と土岐が補足した。

「何だいそりゃ、出そうで出ないババアの小ン便みてぇだな」

長谷川は明日の午後、事務所の自動車を使用したい旨を伝えた。

「とりあえず、駅まで土岐が出迎えに行きます」

「それは了解したけれど、今日は代休でも良いよ。酒臭ぇいぞ」

と彼は無理するなと労うようにして気を遣ってくれた。

「とりあえず、今朝のメールを整理しなければならないんで」

と長谷川は申し出て、マウスを握り締めた。

土岐は長谷川の隣の机についた。長谷川に指示されるままパソコンのファイルを引き出した。出張報告書の空欄に必要事項を記入させられた。途端にエンドルフィンが分泌された。心身がいやされるようなIT感覚に捉われた。

長谷川は本社からのメールを開く。件名をざっと見渡している。

「例によって佐知子からのメールが日めくりのように来てる。それを読むのは後回しにして、急を要するメールのないのを確認し、大使館のヘンサチに電話をかけるか」

と独り言。固定電話のプッシュボタンを押す。だれか出たようだ。だらしなく押し当てた受話器から、相手の声が漏れてくる。

「多分、午後には、大臣より一便先に、戻ってくると思いますが」

「帰ってきたらこちらに連絡をするように伝言願えますか」

と言ってすぐ切った。土岐と目が合った。長谷川は言い訳のように、「出たのは本国から派遣されたアルバイトの研修学生だ」

と吐き捨てるように言う。

「詳しい伝言を頼むわけにはいかないので、帰ってきたら事務所に連絡してくれるように頼んだ」

と付け足す。

土岐は、

「出張報告書に記入したけど」

と言う。長谷川はUSBメモリーを取り出して、

「ファイルを貼り付けて、こっちにくれ」

と言う。USBメモリーを渡すと出張報告書に金額を記入する。プリントアウトして、所長の机に持っていこうとする。所長は不在だ。

「トイレか、コーヒーか」

と長谷川はメールを読み始める。

所長の机の上にマグカップがある。多分トイレだろう。

所長が戻ってきた。

長谷川は立ちあがって出張報告書を持っていく。金額について所長と長谷川がやりとりをしている。

土岐はそれとなく、長谷川が開けたメールに目を置いた。佐知子からのメールだ。最初は、日曜日のメールだ。


@わりといい人そうだった。断るのが申し訳ないみたい。中に立つ人は、断ってもかまわないから、二、三度お会いしてみたらというけれど、そのあとでお断りするのは悪いみたい。ほんとにいい人そうなんだけど、なんとなく、ぱっとひらめくものがなくって、お会いするのが億劫というか、面倒というか、これという何かが感じられないの。どんな人とでも、いったん結婚してしばらくたってしまえばそんなものかも知れないけれど、そんなんで結婚してしまっていいのかとも思うし。「気が進まない」って母に言ったら、「長谷川さんのことが、まだ終っていないのかい」って。だから、「終るも何も、始まってもいない」って、答えたら、「同棲までして、始まってないってことがあるかい」だって。あなた、どうおもう?@


液晶画面のフォントを通じて、佐知子の情感が伝わってくる。

長谷川が戻ってきた。同時にショスタロカヤが事務室に入ってきた。長谷川の背後に迫る。背後から、ショスタロカヤが覗き込む気配を感じて、一瞬前かがみになって隠そうとした。彼は読めないことに気づいたようで、すぐ姿勢をもとに戻した。

つぎに、長谷川は今朝着信のメールを開けた。土岐の視線には気づいているはずだ。隠そうとはしない。

土岐は他にすることもない。斜め横から画面の文字を追う。

長谷川は思いついたように、

「コーヒーでものむ?」

と土岐を気遣う。

「サンキュー」

と言うと、長谷川はキッチンに向かう。メール画面が残された。


@返信なかったわね。いそがしかったの?それともレセプションか何かで飲みすぎてダウンしてたの。心配するから、空メールでもいいから、返信ちょうだい。ところで、今日はあなたのおかあさんが大変だったのよ。買い物のついでにちょっとよってみたら、わたしの顔をみるなり大声で泣くの。「どうしたんですか?」って聞いたら、お漏らしをしちゃったんだって。時々、おもらしをするんで、パンツをいつも三枚はいているんだけど、その日はうっかり一枚しかはかないでスーパーに買い物に行って、牛乳とかソフトドリンクとか重たいものをレジ袋に詰め込んで、持ち上げたとたんに、ジャーってやっちゃたんだって。靴下までぐしょぐしょになって、サンダルから流れ出たのが、歩道にあふれて、足跡みたいになっちゃって、急ぎ足で帰ってきたんだって。それだけじゃなくって、大きい方をした後、いくら紙でふいてもパンツが汚れるんだって。「ウオッシュレットにしたら」って言ったら、「この間、妹の家で使ったけれど、舌でなめられているようで気持ち悪い」って。まあ、なれなんだけどね。「痔かも知れないから、みて」って、パンツを下ろして、お尻をつきだすから、みちゃったけど、痔核があるみたい。痛くはないと言うから、それほど深刻ではないとは思うけど。ごめんね。これ読みながら食事でもしていない?@


 女同士だと、尻の穴でも見せ合えることに土岐はへんに感心した。

長谷川はコーヒーカップを二つ持ってきた。一つを土岐に渡すと、


@今日ちょっと忙しいので明日ちゃんとメールを送信するから@


と返信した。それから、その他のメールを整理した。返信の必要のあるものは返信をした。ひと段落着いた。

隣国のヘンサチから電話が入った。大使館の研修生が連絡してくれたらしい。ショスタロカヤの取次ぎだ。

土岐が報告したヒジノローマでのことの顛末を逐一説明する。長谷川が耳に軽くあてている受話器からヘンサチの落胆したような舌打ちが漏れてきた。

「困った、困った。最悪のシナリオだ」

と『困った』をそうでもなさそうに連発している。そう言いながらも、言葉の端々から偏差値七十を超える頭脳で奸計を巡らしていることは推察できた。

「かりにくるとしても、授賞式に間に合わないかも知れないな。ここの列車は二、三時間の遅れはあたり前だから。まあ」

と送話器を突風がすり抜けたような深い落胆の溜息をついた。

「あてにできないな。なんとかするか。しょうがない」

と言い捨てて、電話を叩き切った。

長谷川は土岐の顔を見て肩をすくめた。長谷川が受話器を耳にゆるくあてたのは、土岐に聞かせるためだと気付いた。

その後、二三時間、土岐はぼうーっとしていた。何もする気が起きなかった。二日酔いのせいだ。何もすることがなかった。 

昼近くになって、ジャナイデスカから長谷川に電話があった。ランチの誘いだ。

朝食を抜いていた。二日酔いにもかかわらず、土岐は空腹を感じていた。

長谷川が了解との返事をする。

程なくして、事務所前で急ブレーキの音がした。確認するまでもない。長谷川は所長にキスケンシュノショへの昼食不要の伝言をお願いして事務所を出た。土岐もそれに従った。事務所のドアを開ける。ちょうどジャナイデスカが車を降りるところだった。

土岐は、

「こんちは」

と力の入らない声をかけてやった。

ほんの一瞬だったが、ジャナイデスカが暗い表情を見せた。先週とは別人だ。ジャナイデスカがひどく大人びて見えた。助手席に長谷川が乗り込む。ジャナイデスカは話しかけてこない。

「土岐も一緒でお願いするよ」

と長谷川が言う。承諾まで一瞬の間があった。

「ええ、どうぞ」

とはいうものの、気の進まないのが感じ取れる。

土岐は後部座席にすまなさそうに乗り込んだ。

車は駅の裏手の商店街にむかっていた。

長谷川がジャナイデスカの肩に手を置いた。

「どうしたの?元気ないね」

「ショック!」

と言っただけで、また黙りこくった。

長谷川はとりつくしまがない。

ジャナイデスカはハンドルを思いつめたように握りしめている。顔の造作は同一人物だが、その表情は見たことのない人間だった。

車は駅の裏側のロータリー内の丸い空き地に停車した。

「タンドリチキンでいいですか?」

という申し出に、土岐は、

(またか)

と思った。彼の提案に従った。そうしてやらなければならないような気分だった。

チキンの専門店は、駅前ロータリーを挟んでちょうど駅舎の正面にある。右手奥に魚市場が見える。黄緑色の土壁の二階建てのローカルレストランだ。

ジャナイデスカは夢遊病者か、やじろべえのように心持左右に揺れるようにして歩く。地面を踏みしめているという感じがない。重心が低い空間をさまよっている。

一階は地元民で満席だった。一階入り口の傍らの狭く急な板階段を上る。二階の窓際のテーブルに着いた。他に客はいなかった。メニューはタンドリチキンしかない。あとは、平焼きパンを何枚たのむかだ。

ジャナイデスカは三人合計で三枚注文した。料理がくるまでジャナイデスカはベニヤ板にニスを塗っただけのテーブルに両肘を突いていた。右手の親指と人差し指で耳の上辺りの頭髪を捩り始めた。何か困ったことがあったり手持ち無沙汰になると始める癖のようだ。

「なんか、食欲もないみたいだね」

と長谷川がいたわるように言う。

「昨日もよく眠れなくってぇ、こんなことうまれてはじめてぇ」

と目をこする。瞼が腫れぼったい。なにがショックなのか興味があった。長谷川は彼の方からしゃべりだすまで聞きださない。

香辛料をたっぷりまぶしたタンドリチキンが運ばれてきた。チリで真っ赤だ。赤い辛子の中に刻んでまぶした緑の葉のかけらが散見される。薄っすらと焦げ目がある。見た目は食欲をそそるものではない。

ナイフもフォークもない。まだ熱い焼け爛れたチキンを手でむしって食べる。空腹であれば美味しく食べられそうな味だ。一匹のオーダーで正解だった。

程なく、平焼きパン三枚とヨーグルトが運ばれてきた。タンドリチキンをむしる。適当な大きさにちぎったパンにはさむ。ヨーグルトに浸して食べる。土岐の口にはうまいわけがない。

ジャナイデスカが土岐を一瞥した。長谷川の方を向く。唇を突き出す。悄然と話し始めた。

「きのうの夜、大使館で外務大臣歓迎の準備作業のお手伝いがあって、研修生に送ってもらって、帰宅したのが遅かったんです。優子がいないんでびっくりして、携帯に電話しても圏外かスイッチオフで、加藤夫人と一緒かと思って彼女の自宅に電話したら、彼女もいない。いったい、こんな夜中にふたりでなにしてるんだろうかと、寝付けないから仕方なくリビングで空輸してもらったビデオみてたら、そとで車のとまる音がしたんで、窓から外をみたら」

といいかけて一息ついた。言うまいか、言うべきか、躊躇している。目線が乱雑に毟り取られたタンドリチキンのあばら骨のあたりを揺れ動いている。

「みちゃったんですぅ。ふたりがだきあっているのを。こんなことをいえるのは、あなたしかいない」

二人とも多少酔っ払っていた。運転を優子から慶子に代わるときに接触した。それが夜目に抱き合っているように見えたのではないか。しかし、二人とも酔っ払っていたことを知っていたとは迂闊には言えない。

それにしても、車は優子のフランス車だから、慶子がなぜジャナイデスカ宅まで同乗してきたのか。慶子は足がないのだから、先にヘンサチ宅に寄り、慶子を落として来なかったのはなぜか。

「二人はどこにそんな夜遅くまでいたんですか?」

「ホテルのラウンジだというんですけどぉ。どのホテルとは言わないんですぅ。酔っていて、どこだかわからなかったってぇ、白々しい嘘をつくんですぅ」

 本当のことを言うよりは、嘘とはわかっていても、その嘘の方が、ジャナイデスカはまだ救われるかも知れない。

「じつはなんとなくぅ思い当たる節があるんですぅ。夜、求めてもぉ疲れているとかぁ、生理だとかぁ、眠いとかぁ、明日またぁ、とか言ってぇ断ることが最近多くなったんですぅ。その理由がレスビアンだったなんてぇ。こっちが仕事している午前中、ふたりはしょっちゅうテニスしていたというけど、そういうことだったんですぅ」

と撫で肩をさらに落とす。ついでに平焼きパンにはさんだ毟り取ったチキンもテーブルの上に落とした。

そこに現地人の男二人が階段を上ってきた。隣のテーブルについた。二人とも黄ばんだ半袖シャツに、国防色のズボンにビーチサンダルという格好だ。

このままジャナイデスカが昨夜のことに拘泥すると、真実にたどり着く恐れがあった。

長谷川は保身のため彼の関心を別のことに振りむける必要性を感じたようだ。

「これは誰かから聞いたんだけど、奥さん、妊娠したらしいですよ」と言うとジャナイデスカの体の全ての部位が停止した。

数秒して最初に動きだしたのは瞳だった。黒目がせわしなく上下左右に動く。暫く口を開けたまま長谷川の顔を凝視し続けた。ふと眼を伏せると、

「ほんとですかぁ?ほんとならぁ。でもぉ。そんな大切なことを、なんでボクにさいしょにいわないんだろう」

と呟く。挑むように目を上げた。

「それ、だれからきいたんですか?」

と長谷川に詰問する。長谷川は弱ったような顔をする。あたりさわりがないと考えて、

「たぶん、ゴンゲイガウじゃないかと思うけど」

と咄嗟に答える。そこでジャナイデスカが立ち上がった。

「すいません。ちょっとトイレ」

ジャナイデスカがトイレに消えるのを目で追いながら長谷川が、

「ゴンゲイガウは片言の英語しか話せない。こんな込み入った話が嘘であると彼女を経由してばれることはないだろう」

 ジャナイデスカはすぐ戻ってきた。

「ゴンゲイガウ?あの掃除婦の?あの女ともできていたの?」

 そう言われて、長谷川が顔をしかめる。

「できていた?だれが?優子さんが?ゴンゲイガウと?まさか!あんたが、お父さんでしょ。女性は赤ちゃんを守るために妊娠すると、男を拒絶するんですよ」

と長谷川は適当なことを言っている。

「へー、そうなんですか」

とジャナイデスカはうれしいような、かなしいような、なきたいような、なんとも形容しがたい間の抜けた表情をする。体調が変化したから自分を拒絶したのだと納得したようだ。

ジャナイデスカの精神衛生は徐々に回復してきた。昨夜目撃した二人の抱擁は自分の見間違えだと思い始めた。彼の表情が曇天から薄曇になるにつれ、土岐の気分も次第に晴れてくるような気がした。

タンドリチキンは食べ散らかしたまま、店を後にした。店の二階に残った現地人ふたりが、食べ残したチキンを凝視していた。

 事務所前でジャナイデスカに車から降ろしてもらった。その場で彼の車が見えなくなるまで見送った。

それから、その場で長谷川は優子に携帯で電話した。

土岐が事務所に入ろうとする。長谷川が引き止めた。

「ちょっと、待ってくれ」

と言う間もなく、優子が出た。

「はい、優子です」

という別誂えのなまめかしい声が長谷川の携帯電話から漏れてくる。

「長谷川です」

と言うと、しばらく、意味の理解できない間があった。

「なんですか?」

「そばにだれかいるの?」

「誰もいないけど、突然だったので」

「きのうの記憶がないんだけどレストラン出てからどうしたの?」

と言いながら長谷川が土岐にめくばせをする。一緒に聞いてくれと言う目だ。

「えっ」

と絶句したなり、彼女は沈黙した。

「いや、べつになにもなかったのなら、それでいいんだけど」

「ちょっと、言えない。あなた、ひどかったのよ。最低」

「ひどかったって、なにが?」

「とても言えない。記憶がないなんて、卑怯ね。わたしじゃなくて、土岐さんに聞いて」

「それが土岐も記憶がないというんだ。ほんとうに、記憶がないんだ。教えてもらえない?」

「それじゃ、加藤さんに教えてもらって」

とにべもない。長谷川は話題を変えた。

「いま、だんなと食事して、妊娠していること言ったから」

と告白すると予想通り、罵声が返ってきた。

「なんでそんなこというの!ひとのプライバシーじゃない!ひどい!なんてひと!もうきらい!」

と烈火のごとく泣きだした。甘えるような泣き方ではなかった。拒絶の涙声に聞こえた。

そこに勝手口からキスケンシュノショが出てきた。事務所の昼食が終ったらしい。今日の昼食が不要であることが所長から彼に伝わってなかったらしい。彼の表情がすこし険しく見えた。

長谷川は携帯電話に耳を軽くあてたまま土岐を見て肩をすくめる。 

優子はまだ泣いている。

傍らをキスケンシュノショが、

「お前の悪事は何でも知っているぞ」

というような剣呑な目つきで通った。

長谷川は携帯電話をもったまま体を回転させた。耳から漏れている泣き声が聞こえないようにした。

「もうしわけない。いきがかりで、いわざるをえなかった。あなたを悲しませようとしていったんじゃないから」

と言いつつも、

「妊娠が夫婦間でプライバシーであるわけがないだろう」

と言いたげな雰囲気が長谷川にあった。

「結果がすべてよ。どういう考えでそういったにしても」

と言われてしまえば、長谷川も言い繕いのしようがない。でも、弁解せざるを得なかった。

「それを言わないと、だんなは加藤夫人と関係があると思い込みそうだったから」

「本当のことなんだから、そう思わせとけばいいんじゃなくって」

「ちがう!ちがう!」

と否定はしてみたものの、その通りだが、その通りだとも言えない。

「だんなが思い込みそうだったのは、あなたと加藤夫人の関係だ」と長谷川が大きな声で言うと、殺し文句が返ってきた。

「そんな、口からでまかせを言って。わたしのおなかの子の本当の父親を知っているのはわたしだけだということを忘れないで」

 一瞬、長谷川の顔から血の気が失せた。長谷川が懼れていたことだ。その子の父親がジャナイデスカでないとして、そのことを明らかにした後、優子はどうなるのか。この長谷川が、

「ジャナイデスカとわかれて一緒になってくれ」

と彼女に言うはずがない。

長谷川が慶子と二股をかけていることを薄々感づいている優子も、

「わたしと一緒になって」

と言えないだろう。

生まれついての女たらしの長谷川が、

「君を心から愛している」

という言質をとられるようなことを言うはずもない。お互いにお互いの立場を尊重して、不即不離のアバンチュールの関係を保ってきたはずだ。二人の関係を更に発展させることも後退させることもできなかったのではないか。その関係にどういう意味があるのかということを突きつめて話し合うこともしなかったのだろう。関係をはっきりさせようということになれば、人倫にもとる関係であることを認めざるを得ない。いいかげんのまま放置しておけば、いずれ時が来れば、すんなりと解消される。それが長谷川の手口だ。

長谷川が何もいえなくなって、黙っている。突然電話が切れた。だれか彼女のそばにきたのか。何かの拍子にオフのボタンを誤って押してしまったのか。それとも、加藤夫人との関係は誤解ではなかったのか。ばかばかしくて聞いていられないということなのか。

長谷川は折り返し、リダイアルしようとした。言うべきことは言ったようで、そのまま放置して、事務所に入った。

土岐はその後ろに続いた。事務所に戻っても優子の、

「本当の父親を知っているのは私だけだということを忘れないで」という言葉の意味がよく理解できない。喉に刺さった小骨のように土岐の脳裏にひっかかっていた。

(本当の父親はあなただ、という意味なのか?そうだとしたら、『忘れないで』という言葉は、脅しの材料に使うという意味なのか?それとも単に事実を言っているだけなのか?いや、事実を言っているだけだとしたら、『忘れないで』と言う必要はないだろう。それともただ意味もなく、不愉快な気分に押し出されて口をついて出てきた言葉なのか)

と考えてみたが土岐にはわからなかった。

長谷川は時間がたって優子の不機嫌が解消されることだけを願っているようだ。

事務所では所長が邦人の誰かと明日か明後日の外務大臣との懇談のことを電話で打ち合わせていた。

長谷川が所長の電話の内容を土岐に解説する。

「邦人と言っても数えるほどしかいないので、たぶん、出向できている造船所の社員か、電話会社の顧問のいずれかだろうと思う。いずれの邦人も、大使館員も含めて、本国ではほとんど影響力のない人々だ。外務大臣が邦人との懇談に三十分の時間を割いたのは、所長の力かも知れない。この国では川野所長はそういう立場にある」

 長谷川は雑用を始めた。

土岐はすることがない。ローカル英字新聞を読みふけった。 

夕方近くになって所長から外務大臣歓迎についての作業割り当ての説明が長谷川にあった。土岐がヒジノローマに行っている留守中に段取りをつけたらしい。

「久しぶりに所長の張り切っている姿を見た」

と長谷川が土岐に笑いかけた。

 その日の夜、下宿のホテルにヘンサチから土岐に電話があった。彼の声は勝ち誇ったように快活に弾んでいた。要件は、

「大使館側で急遽ピンチヒッターを周旋したので、ごねる派遣員には、もう来て貰う必要がまったくなくなった」

ということだった。聴いていることを顕示するために時々合いの手を入れた。彼は手柄話のように自慢げに喋り捲った。

「じつは授賞式に参加する人間を一人一人確認したところ、派遣員の顔を知っている者が一人もいないことがわかった」

ということだそうだ。ヘンサチが内務省に問い合わせたら、

「顔を知っている者もいないし、写真も持っていない」

とのことだった。彼と話をした人間も一人もいないらしい。

「褒賞を貰うだけで、スピーチをする訳でもない。レセプションに招待されてはいるが、それは何とか理由をつけて断ればいい。派遣員はそもそも無償援助のダシであって、是非とも会いたいと思っている人間は一人もいないんだ」

と彼は自らのアイディアを傲然と正当化した。

ピンチヒッターは我が国からの国費留学生とのことだった。年齢は派遣員よりも一二歳若い。出身地も派遣員とは異なるらしい。

「国のカネで勉強しているんだから、国に協力するのはあたり前だ。で、申しわけないが、派遣員には断ってほしい」

というヘンサチから土岐への身勝手な依頼だった。

最後にヘンサチは学生時代に低偏差値生徒の家庭教師をしていたときのことを朗々と話し始めた。

「偏差値が低いということの意味を十年間忘れていたが、今回の事で思いだした。そう言えば偏差値の低い人間と接触する機会が十年間なかったということでもあるな。学生時代だけど、アルバイトで低偏差値の高校生の家庭教師をした事がある。政治経済か何かだったと思う。為替レートが変わると、輸出業者や輸入業者がどうなるかというテーマで、例えば自国通貨の価値が高まると、輸出代金の受け取りが減り、輸入代金の支払いが減る。だから、輸出業者は大変で、輸入業者は左団扇だという話を、具体的な数値例で説明してやったんだ。『わかったか?』って聞くと、『わかった』と言うんで、説明させると、教えた通りに復唱する」

と軽い咳払いをし、

「しかし、数値を変えるとてんで分からない。という事は、復唱したのは私の言った音声を繰り返しただけで、論理は理解していないという事だ。翌週も、もう一度、同じ説明をし、数値例を変えて説明をし、復唱させると、教えた通りに復唱する。しかし、数値例を変えるとまた分からない。その翌週も同じ事をやった。でも、分からない。こっちは金を貰っているからしつこく、同じ説明を三ヶ月ほど繰り返した。最後に、『何でわからないんだ』と怒ったら、両手で側頭部を抱えて泣き始めた。頭を抱えるというのは比喩的な表現かと思っていたが、本当のことなんだと、そのとき得心したよ。大学を卒業してからは、関わり合う人間はみんな偏差値七十前後ばかりで、偏差値五十以下の人口の二分の一を占める人間の存在を今回の一件に遭遇するまですっかり忘れていた」

とため息をつき、

「願わくは、こういう人間と接触する事なく、これからの人生を送ることが出来ればと、つくづく思った次第だ。ああ、それから、大使館の例のアルバイトの研修生に伝言するのは止めて貰いたいと長谷川君に伝言願えないかな。所詮、偏差値五十程度の大学から来ているから、使い者にならない。普段の日常会話程度なら、問題はないが、話が少しでも込み入ってくると要領を得ない。馬鹿が、多少英語がしゃべれる程度で、ひょっとしたら外交官になれるかも知れないと思い込んでる。本省も罪作りだ。それはありえないと、言ってあげないと可哀想だ」

そこでいったん話が途切れた。

土岐が電話を切ろうとしたら、続きがあった。

「多くの企業は、出身大学で新卒を雇うが、これは正しい。なぜならば、十八歳時点の偏差値は一生変わらないからだ。十五歳程度であれば、努力次第で偏差値が上がる可能性はあるが、十八を過ぎたらその可能性は限りなくゼロに近いというのが彼らの前提だ。君の経験でどうだ?十八歳時点で低偏差値だった人間が二十歳過ぎてから、高偏差値になったという事例を知っているか。私の場合は、低偏差値の人間とは小学校以来かかわっていないので、小学校の同窓会でそれを確認することが出来た。高卒の連中は自営業とか有限会社とか、わけのわからない職業についていた。まあ、それで食べているんだからそれはそれなりに、社会的なニーズがあるということだろう。大卒の連中も、低偏差値大学出身のやつらは、非上場ばかりで、聞いたこともないような会社に勤務していた。それはそれで、立派なことだが、年収を聞いて驚いた。なんと長谷川君の年収の五分の一だ。これじゃ、貧富の差が生まれるわけだ。ざっと、生涯所得を計算してみても、長谷川君の場合は五億ぐらい、連中はせいぜい、六七千万程度だろう」

たまりかねて、土岐は反論してしまった。

「それはそうかも知れないですが、でも、まあ、人生カネだけでもないと思うんですが」

と言うと、土岐が言い終えないうちにまた話しだした。

「収入と偏差値には高い相関関係がある。もちろん,例外はある。偏差値の高い者は高い者同士で群れを成す。一部上場企業の高所得グループがそうじゃないか。そういう連中同士で巡り合って姻戚関係を結ぶ。偏差値には多少の遺伝性があるから、そういう階層が再生産される。高偏差値と高所得の親が高偏差値と高所得の子供を育む。我が国にはこの国のような身分制度はなくとも、厳然とした階層が存在している。こうした認識を誤ると今回のようなすったもんだに巻き込まれる。君も注意した方がいいよ」

「低所得で低偏差値でも幸福な人はいるんじゃないかと思います」

と土岐が言いかけたら電話が切れた。


優柔の断捨離エピローグ

 

翌朝、長谷川と少し早めに事務所に出勤した。長谷川が所長に依頼されていた外務大臣歓迎の雑務がかなりあった。長谷川は出勤してすぐ、電子メールを開けた。土岐は隣の席から液晶画面を眺めた。長谷川は最初に、メールを探している。ハートマークに挟まれた件名♡ノマノマへ♡をクリックした。


@ずいぶんと、そっけないメールね。あなたはいつもそうだけど、メールの文面だけでもあなたの情感や情の薄い性格が伝わってくるから不思議ね。今日ちょっとした事件があって、夕方お母さんのところによったら、信用金庫の通帳を見せて、怒っているの。聞いたら年金の受け取り口座がいつのまにか郵便局から信用金庫に変更になっているんだって。『おかあさん、信用金庫の職員が持ってきた書類にサインしてはんこおさなかった?』って問いただしたら、『そうしたような、気がする』だって。郵便局は歩いてすぐのところにあるから、使い勝手がいいけれど、信用金庫のATMは隣駅よ。わざわざ下ろしに行ったら定期預金の金利なんか一回でふっとんじゃうでしょ。あなた、おかあさん、一人にしちゃ駄目よ。老齢者を狙った詐欺が横行しているんだから。郵便局の残高がなくなっちゃって、自動引き落としが出来ないのよ。電気代だって、ガス代だって、水道代だって、振り込み手数料を取られるのよ。あなたのおかあさんなのよ。なんとかして!@


 長谷川はひとりごとのように話し出した。

「これ読みながら母に対してはこれといった親孝行をしていないことに思い当たった。それほど情愛細やかな母とは思わないが、それでも今日明日にでも死んでしまえば、何もしてやらなかったことを深く後悔するだろう」

それから長谷川は意を決したように佐知子に返信メールを打った。


@佐知子、ありがとう。君の母親でもないのに毎日のようにご機嫌伺いをしてもらって感謝している。この国にはとりあえず、あと一年いることになりそうだ。正式には来月の下旬あたりにわかるが、決まったら、母と二人で来ないか。三人で結婚式だけでもしよう。それまで、母と君のパスポートをとっといてくれ。ビザの申請に何週間か掛かるから、今週中にでもパスポートを申請してくれ@


打ち終えて長谷川はまた、独り言を言う。

「そっけないとは思うが、なんとなく胸がいっぱいになって、これ以上書けない。結婚を申し込む前に、佐知子の了承をえる手続きを踏む必要があるとは思うが、彼女が断るとは想像も出来ない」

つぎに、長谷川はヘンサチとジャナイデスカの個人メールアドレス宛に電子メールを送信した。


@加藤威雄様・牛田恵一様。急ではありますが、このたび私、長谷川誠は、水野佐知子と結婚することになりました。水野佐知子とは、当地に赴任する以前からの長い付き合いで、この三年間、遠距離愛を育んで参りました。二、三ヶ月後には、当地でささやかな結婚式を挙行する予定ですので、業務多端の折柄とは拝察申し上げますが、その折には、御令閨様共々、ご臨席を賜りたく何卒宜しくお願い申し上げます。追って正式なご招待状をお送り致しますが、本日は取り急ぎ、事前のご報告まで。長谷川誠@


 それを見て土岐は、お祝いの言葉でもかけようと思った。長谷川は腕組みをして考え込んでいる。送信し終えて、慶子と優子の反応を想像しているのかもしれない。ヘンサチは慶子の個人アドレスへそのまま、なんのメッセージも書き込まずに転送するのではないか。そうした細やかな思いやりのかけらすらないヘンサチの仕打ちが慶子を愛のない生活に追いやったのかもしれない。

ジャナイデスカも優子の携帯アドレスに転送するかもしれない。彼には着信記録や受信記録を削除して本文の前に一行、

@長谷川さんからこんなメールがあった@

という程度の書き込みをする気遣いはあるだろう。転送メールを受け取った慶子と優子はどういう反応をするか。許婚のような女がありながら、関係を持ったふしだらな長谷川に対して、どういう憎悪を抱くのか。

そう思いながらも土岐は、一昨日の深更、下宿にしているホテルでの出来事が気になった。優子は言いたがらなかった。慶子はどうなのか。長谷川は慶子と連絡を取りたいのではないか。

昼ごろまで、長谷川は何かを考えながら、他のメールを処理した。所長に頼まれた邦人懇談会用の参加者のネームカードを作り上げた。ちょうどそこに、ショスタロカヤがやってきた。それを追いかけるように、先日より早めに所長もやってきた。

所長が着席する。長谷川は彼の机の前に立ち決然と告げた。

「転勤願いは出さないことにしました」

所長は一瞬表情を静止させた。すぐ、さもありなんという面持ちで幾度も頷いた。

「おれの後任に誰が来るか分からんけど、引継ぎがあるから、願いを出しても、電化プロジェクトの件もあるし、人事の方で、もう一年延ばすかも知れねぇな。人事部は何を考ぇてる分かわからんところがあるが、いくら何でもその程度の見識はあるだろう。その方があんたのためにゃ良いかも知れねぇなぁ」

と独りごと。

事務所の昼食まで、しばらく時間があった。手持ち無沙汰で所在のないとき、土岐はサイコロを振るのが癖だ。もともと、軽い喘息の持病があった。この国に来てからタバコをやめているが、机の上の灰皿の中に麻雀のサイコロを置いている。

「派遣員はくるか?来ないか」

と呟きながら土岐はサイコロを振る。サイコロの一振りで運命の決まる恐怖に耐え切れない。いつも賭けはしない。半が出ても、丁が出ても、何の意味もない。何の意味ももたせずにただ振る。

それを見て、長谷川が不意にいう。

「キスケンシュノショもゴンゲイガクもショスタロカヤも、面とむかうと、おれを、『所長代理』と呼ぶが、陰では、『ドンファン』とあだ名で呼んでいるらしい。やつらは机の上で所在なげにメールを読んでいると、傍らを通りながらニヤリとする」

しばらくしてキスケンシュノショの用意したピリ辛の昼食をすませた。ゴンゲイガウに食器の後片付けを頼んだ。ショスタロカヤの運転で土岐は長谷川と一緒にターミナル駅にむかった。

車の中で長谷川がぽつりと言う。

「慶子に電話をすることも考えたが言語能力に長けている彼女に適当にあしらわれそうな気がする。直接会うことにした。ヘンサチ宅は少し遠回りにはなるが駅にむかう方向の途中にある。ショスタロカヤに寄ってもらうことにした」

 ヘンサチ宅に着くと土岐を誘い、長谷川は車を出た。

「こないだの夜のことを確認したい。一緒に来てくれ」

土岐は従った。土岐も真実を知りたい。

ロココ調の瀟洒な青銅の彫刻のある玄関で長谷川がチャイムを鳴らす。

現地の若いメイドが出てきた。長谷川の顔を見るなり、ドアの中に招じ入れた。応接間に通すなり消えた。

しばらくして慶子が嫣然と出てきた。長谷川の隣の土岐を見て、「おや?」

というような顔をした。すぐ長谷川をまっすぐ見捉えて、

「ご結婚おめでとうございます」

と背筋が凍るような微笑を浮かべる。

外気を暑いと感じる体表感覚が吹き飛んだ。その怜悧な表情を理解することはできた。受け入れることはできなかった。

「ありがとうございます。でも、まだ本人の了解を得ていないので破局があるかもしれません」

と長谷川が切り返す。

「そういう、ひとに気を持たせるような言い方はやめて。相手のことを考えてそういうのかも知れないけれど、いつもそうとは限らないのよ。あなたの言ったことを相手がどう受け取るかを考えないと。受け取り方は相手によって違うのよ」

と最初のうちは、土岐の存在を気にかけて冷静を装っていた。徐々に感情が込められて行くのが分かった。

「ほんとうに、こっちが勝手にそう思い込んでいる段階なんで」

と長谷川は往生際が悪い。

「そういう段階で、さも結婚が決まってしまったかのようなメールを打ってしまうわけ?」

 長谷川の斜め後ろに立っている土岐まで詰問されているような気になる。

「すいません。なにもかもあやまります」

「謝れば、なんでも済むとは限らないわ」

 二人とも、ソファーに掛けもせず、応接間のドアの傍らで話し続けた。慶子は視線を合わせようとはしない。応接間の窓から伺える庭木に目を据えていた。

「おとといの夜、ワインを二本カラにしたところで記憶を失ってしまったんですが、そのあと何があったか教えてもらえます?」

と長谷川が言っても、慶子は目線を合わせようともしない。

「優子さんに聞いて」

と感情を見事なまでに抑制した口調で言う。呼吸の乱れが、ベージュの花柄模様のチュニックの上からうかがえる。

「いや、彼女は加藤夫人に聞いてくれって」

と長谷川が言っても慶子は応接間のペルシャ絨毯に眼を落としたままだ。浅く腕を組んだまま顔を上げない。

「それじゃ、お友達の土岐さんに聞いて」

ととばっちりが土岐に及んだ。

「すいません。僕も記憶がないんです」

と土岐もとりあえず謝る。

「そう。それじゃしかたがないわ。わたしのほうが年長だから教えてあげるわ。言ってあげないと蛇の生殺しになるかも知れないから」

そういいながら、彼女はやっとソファーに腰掛けた。土岐と長谷川にソファーをすすめることはしない。彼女は窓の外に視線を送りながら、遠い昔話のように話し始めた。

「レストランを後にして、四人で土岐さんの部屋に行ったの。そしたらいきなり、最初はわたし、つぎは優子さんをかわるがわる抱きしめて、土下座したのよ。それから、二人の関係を呂律の回らない舌で延々と告白したのよ。どういうつもりなのか得意げだったわ。最後に、二人と関係のあったことを懺悔するって。そのあと、勝手に裸になって、『気のすむようにしてくれ』ってベッドの上で大の字になったの。だから、二人で下の毛を毟り取ったの。痛かったでしょ。そのとき、土岐さんが電気髭剃りを貸してくれて。おまけに、暴れだしたら、体を押さえてくれて。だから虎狩になったのよ」

と言われて長谷川は股間のひりひり感を思いだしたようだ。

土岐は自分が果たした役割を知った。潜在意識の中に長谷川に対する恨みのようなものがあったのかもしれない。土岐は長谷川の顔を見て少し頭を下げた。長谷川はそれを無視した。

「でも、もう怒っていないわよ。安心していいわ。怒っているのは、自分に対して。結婚して貞操観が変わったけど、主人を愛せなくなって、自暴自棄になっていたみたい」

と慶子がノースリーブの腕を組みながら自己分析をはじめた。

外に待たせているショスタロカヤが土岐は気になった。

長谷川もそう思ったらしい。

「すいません、運転手を外に待たせてあるんで」

 慶子は引きとめようとはしなかった。

「愛、切る、優、がなんとかとか、言っていたけれど何のこと?」

と呟くような質問が土岐の横顔に飛んできた。

土岐はジャナイデスカの目撃現場について慶子に聞いた。

「牛田さんが、先日の深夜、夫人とあなたが牛田邸に一緒に来られたのを目撃されていますが」

「ええ。それが何か?」

「確か、車は牛田夫人のフランス車だったと思うんですが」

「そうです」

「そうだとすると、なぜ、先にこちらに寄って、あなたを下ろさなかったんですか?」

「彼女、つわりがひどくなって、それで、わたしが運転を代わったんです。わたしは真夜中でタクシーが拾えなかったので、彼女の車でここまできました。次の朝、優子さんがタクシーで車を取りに来ました。それが何か?」

と言う慶子の目が明らかに土岐をさげすんでいる。記憶を失うほど酔った勢いで、列車の中の慶子と長谷川の情事を土岐が盗み聞きしていたことを長谷川がばらしたのかもしれない。

「だから牛田邸で牛田夫人を抱きかかえて車から降ろした?」

と言い終えて土岐は慶子の質問が来る前に振り返ることもなくそのまま屋外に出た。車の後部座席に飛び乗った。

助手席の長谷川の血相に怖気づいたのか、運転をしながらショスタロカヤは何も話しかけてこなかった。

先週末と同様に黄色い太陽が頭上にあった。精神は暑気をまったく受け付けない状態にあった。土岐がこの国に来て初めて味わう精神状態だった。

五分で駅に着いた。駅前の雑踏にショスタロカヤを残した。土岐と長谷川は改札の駅員にヒジノローマ方面からの列車の到着予定時刻を尋ねた。

駅員は眠そうな眼をしていた。

「駅事務所の中で訊いてくれ」

と言う。出札口で長谷川が尋ねると暫く待たされた。

やがて、

「めずらしく、予定通りです」

という回答を得た。午後一時半の到着予定。あと十分ほどの余裕があった。

長谷川は社用車に戻る。ショスタロカヤにそのことを告げた。

ショスタロカヤは力なくへらへら笑う。

「駅員のやつらの予定通りは遅れが1時間以内という意味だ」

と愉快そうに吐き捨てた。

土岐と長谷川は一旦車内に戻り改札口の見える位置に移動した。エアコンをかけっぱなしにした。列車の到着を待つことにした。

長谷川は黙っていた。

停車しているにも拘らず、車は小刻みに振動していた。エアコンにしては少し振幅が大きい。運転席の足元を見るとショスタロカヤが貧乏揺すりをしていた。

その車内を通りかかる人々が必ず覗き込んで行った。土岐はあまり気にならなかった。

不意に携帯メールの着信メロディーが流れた。

長谷川が携帯メールを開ける。

土岐は後部座席から覗き込んだ。優子からのメールだ。

運転席のショスタロカヤも液晶画面を覗き込んできた。彼には読めない。長谷川は隠さなかった。


@転送メール読んだわ。おめでとう。これであなたと会わないですむ理由が出来たわ。これからは子供を生きがいに生きてゆくわ。だから最後のお願い。わたしのメルアドと着信履歴を全部削除して。あなたとのことはわたしたち三人だけの秘密にすると言った一昨日の約束を一生忘れないで守ってね。土岐さんの口止めをお願いね@


読み終えて、すぐに長谷川はすべてを削除した。長谷川の胸の中に空洞が二つ並んでできたように見受けられた。

(それは当然の報いであり、早晩訪れるものだ)

という思いが土岐にはあった。しかし、長谷川のその喪失感は爽快さを伴っていたようだ。

それから十分経過した。列車はまだ到着しない。

土岐と長谷川は社用車を出た。出札口でもう一度同じことを訊いた。

出札口の駅職員は、

「なんだ、また、お前らか」

というような顔をした。同じ回答が戻ってきた。

車に戻ると土岐はショスタロカヤに派遣員に関する一部始終を語り聞かせた。

するとショスタロカヤは、

「そういう人間は珍しくない。私の妻がそうだ。気まぐれで、気が変わりやすくて何を考えているのかさっぱりわからない。一日単位でも、週単位でも、月単位でも、年単位でも、まったく予定が立たない。こういう人間は商売には向いてない」

と実感のこもった悪態をついた。

土岐は彼に、

「退屈だから、賭けをしないか?」

と持ち掛けた。

ショスタロカヤは不意を突かれたようだ。少し考えてから、

「どんな賭け?賭けによるけど」

と興味を示すような素振りをした。

「派遣員が来たら君の負け、来なかった君の勝ちでどう?」

とルールを説明する。

ショスタロカヤは掛け金を知りたがった。

「君が勝てば君の息子の授業料を僕が払おう。君が負けたら君の自宅の夕食に招待してくれ」

と条件を提示する。

彼は俄かには承服しかねる様子で、

「それはフェアじゃない。金額が五十倍近くも違う」

と真顔で首を捻った。

土岐は彼を懐柔するように、

「いや、日本人と現地従業員のサラリーに、だいたい比例している。むしろ、きわめてフェアなオッズだ」

と指摘した。

ショスタロカヤはすぐ納得した。

長谷川は笑っていた。

それから五分ほどして暗褐色の錆にまみれた六両連結の列車が到着した。列車が停止する。百人ほどの人々が各車両のデッキから吐瀉される。一斉にフォームに出てきた。女性はほとんどいない。いずれも黒い髪と黒い顔をしている。着ている服は白黒写真で撮影しても、カラー写真で撮影しても見分けのつかないものばかりだ。肥満体と白髪頭は数えるほどしかいない。

貧相で恰幅の悪い人々の群れを見ながら、長谷川は、

「貧しい国は食い物がまずい。宮廷料理はうまいが貧しいから食えない。食い物がまずいから太っている人間も少ないと、いつだったか、ヘンサチが、『ホンコン』で薀蓄を傾けたのを思いだした」

と語る。大半の人々が行商人のように大きな荷物を背負ったり、抱えたりしていた。先頭集団は横一列で十人ほど並んで出札口にやってきた。いずれも三十代前後の中産階層の現地人のようだ。

「派遣員は所長代理と同じ国の黄色い人でしょ?」

とショスタロカヤがフロントガラスに額をこすりつけるようにして、目を輝かせて確認してきた。

土岐は大きく頷いた。車の外に出た。灼熱の外気に包まれた。

三十人、四十人と出札口を出た人々は、出迎えに来た人と抱き合ったり、握手をしたり、挨拶を交わしたりしていた。彼らは出札口で左右にわかれる。駅前から街中へ散っていった。

五分経った。

土岐は、改札口の手前まで歩いて行った。

十分経った。

やがて列車は鋼鉄の鈍い軋み音を残して操車場に移動して行った。

プラットフォームの向こう側の駅の東口広場が見渡せるようになった。昨日、ジャナイデスカと昼食をとったレストランの二階とその右手の魚市場の看板が見えた。

人々の流れが急にまばらになった。

駅員が身の丈ほどもある大きな荷物を引き摺っている男の出札をせかしている。その男が口に咥えていた切符を駅員に突きだした。駅員は、その切符を二本の指で挟み取った。男は荷物を抱えたまま窮屈そうに出札口を出る。引き摺るように抱えてきた荷物の上にへたり込む。煙草に火をつけた。駅員は迷惑そうにその男に何か言う。プラットフォームを見渡す。出札口を長い鉛色のチェーンで封鎖した。立ち続けている土岐を一瞥して隣の駅事務室に消えた。

「ヘィ!ユゥルゥズ!」

とショスタロカヤがはしゃぎながら快哉の声を上げた。それから拍手をしながら近づいてきた。土岐に握手を求めてきた。

「ミスター・トキ、わざとまけてくれたことはわかってるよ。ありがとう。あなたがハンサム・ボーイに見えるよ。ずいぶん以前に、所長代理を自宅でご馳走したことがあったんだ。所長代理はこの国の習慣を知らなかったんだろうと思うけど、この国では自宅に招待されて、ご馳走されたらば、何らかの形でお返しをしなければいけないんだ。ずっと所長代理が無視してきたから、先週の金曜日変なメールを送信した。今思えばいけないことだった」

といわれて、土岐は体から体重が失せていくような感覚に襲われた。ショスタロカヤに、

「He was killed!」

と答えた。体表とあたりの空気の境目がなくなって、土岐は自分自身が猥雑な駅の喧騒の中に溶け込んで行くような気がした。〈完〉


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