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愛殺優  作者: 野馬知明
3/4

土岐明調査報告書

身代わり出張の遠謀(土曜日午前)

 

翌朝七時に眼が覚めた。同時にモーニングコールがあった。

土岐の寝起きはあまりよくない。側頭部が重く痛い。腹ばいになる。ベッドカバーにアミューズメント・センターで体中に塗りつけられたオイルのにおいがした。

メモを見る。ベッドの中から駅に電話した。

「ダイヤは予定通り」

と子音と母音を機械的に組み合わせただけの無機質な答が返ってきた。

ベッドから転がり落ちるようにして起きた。シャワーを浴びる。簡単に歯を磨いた。バスタオルを腰に巻く。脱ぎ捨てた下着をホテルが用意した小袋入りの粉石鹸で洗った。軽く絞る。ベランダの庇の下に干す。

使い古した黒いショルダーバックに一泊分の下着と髭剃りを詰め込んだ。それから一階のカフェテリアに降りて行った。

アメリカンブレックファストをオーダーする。最初にアメリカンコーヒー。暫くして、こんもりした白っぽい黄身のサニーサイドアップ、大きさも厚さも不揃いなガリガリのベーコン三枚、あばた模様に焼け焦げたトーストが二枚出てきた。

コーヒーを少しすする。ウエイターが注ぎ足しにくる。

スピーカーから半世紀前にリリースされた映画音楽が流されていた。

カフェテリアの木枠の窓から見える空は薄曇りだった。

そろそろ雨季が始まる。ガイドブックに書かれていた。

湿度が高くなっている。夜露が降りた。窓外の花壇の艶やかな緑の肉厚の葉に細やかな水滴がきらめいていた。トーストにバターを塗る。ベーコンを挟んで食べる。その葉の水滴が小さくなって行った。

コーヒーカップを片手に行雲の動きを眼で追った。

「カフィ?サァ」

と銀色のポット片手にウエイターがやって来た。

もう三杯も飲んでいる。

長谷川が腫れぼったい瞼をしてやってきた。

「やあ、おはよう。どう?よく眠れた?」

「ああ」

と土岐が答える。

ウエイターが長谷川の前のからのカップにコーヒーを注いだ。

「今日、列車で少し遠出するけど、水分は余り取らない方がいいよ。ここにも、公衆トイレはあるけど、溝だけがあって、個室も仕切りもない。大も小も蓋のない溝に沿って蕩々と流れてゆく。公衆便所にはできるだけ入らないほうがいい」

土岐はそれを聞いて、カラのカップにコーヒーを注ごうとしたウエイターに、

「ノーサンキュー」

と断った。

ウエイターはその場で踵を返した。そこに地元の客が裏口からひとりふらりと入ってきた。どのテーブルに着こうかと腰に手を当てて思案している。その客の後ろから巨漢のベルキャプテンがこちらを覗き込む。手招きをする。

「旦那、タクシーが来た」

と太い人差し指で合図する。

長谷川は小額紙幣でチップを渡す。三輪タクシーに乗り込んだ。

土岐も続いた。ターミナル駅にむかう前に事務所に寄った。

「メールのチェックをしないと」

と長谷川が言う。事務所に着く。運転手を待たせた。

「自宅にパソコンがないのは不便な話だが、電力事情が悪いんで仕方ない」

と長谷川がぼやく。机に着く。すぐパソコンを立ち上げる。メーラーを起動させた。

土岐はその傍らに椅子を置いて腰かけた。

「事務所宛のメールは所長に任せるから個人宛のメールだけ開けさせてくれ」

と長谷川が言う。

画面上に巣穴から続々と繰りだしてくるゴキブリのようにメールの件名がぞろぞろと這いだしてくる。80%の開封状況で二百通を越える。90%以上は迷惑メールだ。

「本社のサーバーはさすがにセキュリティがしっかりしている。本社経由の迷惑メールはほとんどない。迷惑メールの大半は地元クライアントとのメール交信を傍受された結果だ」

長谷川は水野佐知子からのメールをうっかり削除の惰性で削除トレイに移してしまった。削除済みアイテムのトレイに移動して読み始める。発信時間を見る。現地時間で午後十一時。傍らで土岐も画面を見ている。長谷川はまったく頓着しない。


@今夜は合コン。つまらない男ばかり。貴方と比べると薄っぺらでパーっぽい連中。一緒に行ったナビ子にはあなたとこの連中の違いがわからないみたい。商業高校をやっと卒業したようなナビ子には知性を実体的に感受することすらできないみたい。貴方のことを、とっても頭のいい人だと彼女に言ったことがあったけど彼女にはピンとこなかったみたい。なんとなく貴方のことが嫌いみたい。きっと彼女には理解できない論理や知らない用語や概念を口にするのが高慢に見えたのね。彼女は自分がどう見られているかということにはとても敏感で、その感性にはわたしもびっくり。人間の能力って不思議ね。彼女、高校時代、暗算のチャンピョンだったのよ。わたし何書いてるのかしら。ナビ子のことはどうでもいいの。昨日書かなかったけど実家の母が縁談を持ってきたの。わたしももうすぐ三十だし、お願いだから三十前には結婚してくれって懇願されたの。相手の写真と履歴書を添付するからあなたの感想を返信して。とても急ぐの。お願いね。絶対よ!いい、絶対よ@


 ウイルスやスパイウエアの恐怖に慄く素振りを見せて、長谷川は添付されている写真を開く。画素が少ない。画質が悪い。色の浅黒い面長の精悍そうなイケメンだ。

「どう?」

と長谷川がちらりと振り返る。土岐に聞いて来る。

「履歴書をみると、佐知子より五歳ばかり年上だから、ヘンサチとほぼ同年齢だ。ただ、二流大学の出身だ。勤務している会社は非上場だが、一部上場企業にしては珍しい同族会社もどきの消費者金融会社の連結子会社だ。男の親族をみると、親会社の会長や社長一族とは無縁のようなんで、たぶん出世は見込めないだろう。年収も親会社ほどはないだろう」

と長谷川は解説しながら、


@出世ばかりが人生ではない。平凡で平穏な人生だって人生だ@


と打ち込んで返信しようとした。手が止まった。

「佐知子の真意がはかりかねるな」

と呟く。つづけて、

「自分にはこういう良縁があるのだということを誇示したいのか。こちらを焦らせて嫉妬させてプロポーズさせようという魂胆なのか。純粋に縁談に関する客観的な意見を求めているのか。しかし縁談の男と天秤にかけていることは間違いないと思うが、どう思う?」

と土岐に聞いて来る。

「どう思うって、君とその佐知子さんがどういう関係なのか、僕は知らない」

「昨日も言ったけど、ここに来るまでは同棲してた」

「結婚の約束めいたことを言ったのか」

「いや。言っていない。ナビ子のことばかり書いていて、縁談の記述があまりにも少ないんでなんとなく、おれの反応を確かめようとしている気がする。佐知子はそういう女だ。どうでもいいことについては、饒舌なくせに、肝心なことになると寡黙になる。おれは、そういう点をまだるっこしいと感じてた。そういう性格でなかったら、とっくに結婚して、ここに連れて来てたかも知れない」

「縁談についてのコメントは書かないで、彼女に判断の材料を与えたらどうだ」

と土岐は適当なコメントを言った。

「そうか。それでおれの思いは伝わるだろう」

と長谷川は長いメールを打ち始めた。


@誰と結婚しようと君の自由だ。自分のことは自分で判断する。これが君の『自由への道』だ。しかし、結婚すると結婚相手に拘束されることを忘れてはいけない。半同棲中に子供を作らなかったのには言いたくなかった理由がある。メールなら書けそうなので伝えよう。実は、母の弟は犯罪者で、猥褻事件を起こした後、十年前に刑期を終え、精神を病み、いま人里離れた精神病院に隔離されている。親類の間ではこの件は話題にすることがタブーで、話してはいけないことになっている。母は役所からの問い合わせに対しても、「そんな弟はいません」って堂々とシラをきっている。詳細はわからないが、母の叔父も窃盗か何かの犯罪者だ。母の姉の長男、つまり従兄弟はいかがわしいキャバクラを経営し、たびたび警察の手入れを受けている。母の妹の次男は、やくざの舎弟で、ゲーム賭博を開帳し、刑務所と娑婆を頻繁に出入りしている。離婚した父は、想像を絶する自己中で、酒乱だった。父の名前は口にするのも不愉快なので、母に父のことを言う時は、『アルチューデ・ランボー』とあだ名を使っている。父の兄は、酒乱の果てに祭りの日に神社で喧嘩し、撲殺されている。本家の長男は、家業がうまく行かず、癌に侵されていたということもあるが、首吊り自殺している。父方、母方、どちらの家系にも問題がある。尋常ではない。両親が離婚したのも、母方の犯罪者と父の酒乱による家庭内暴力が原因だ。父は祖父をつかまえて、泥酔した挙句に、出刃包丁を押し付けて、犯罪者の叔父と、「刺し違えて心中しろ」と迫ったことがあった。そしてこれが一番重要であるかも知れない。両親の離婚の原因は父の酒乱と家庭内暴力だと母から聞かされてきたが、親類の話では母の方にも多少の原因があったらしい。実際に目撃したわけではないが、母は浮気していたらしい。母が多情のせいもあって言い寄る男はかなりいたらしい。そのすべてと浮気をしたとも思えないが、その血はこの息子が受け継いでいるようだ。自分でもどうにも自制ができないほど女性に対してストイックでない。われながら情けなく思う。どちらの家系も、親族が存在することで不幸のどん底にあえいだ。子供を作れば、その可能性を抱えることになる。自分が不幸になるだけではなく、周囲もその不幸に巻き込むことになる。子供を作ろうとしなかったのは、子供が嫌いだったわけでも妊娠をネタに君から結婚を迫られることを回避しようしたためでもない。君には幸せになってもらいたい。ただ、それだけだ@


 送信した後、長谷川がぽつりともらした。

「このメールを読んだあと縁談を断るような予感がする。佐知子の想いの重味がおれの両肩にのしかかってくるような不安がよぎった。佐知子がここに押しかけてきたらどうしよう。馬鹿げた妄想かな」

長谷川はメーラーをログオフする。パソコンをダウンさせる。

B5のノートパソコンとスペアのバッテリーを土岐のバッグに入れる。急いで事務所を出た。

タクシーの運転手は車の外に出てタバコを吹かしていた。土岐と目が合う。あわててタバコをスニーカーの爪先で揉み消す。運転席に飛び乗った。

土曜の朝のせいか国道はすいていた。

途中動物園の入口付近で子供だけはしゃいでいる何組かの家族連れを見かけた。間延びした象の咆哮が聞こえてきた。

「実は、途中まで、ヘンサチ夫人が同行するかもしれない。ただ、おまえのことは言っていないんで、彼女に見られないようにしてもらえるか?込み入った話があるようなんだ」

「そうか。じゃあ、べつの車両にのればいいんだな」

と土岐が念を押すと長谷川は、

「いや。彼女もI kill youの容疑者の一人なんだ。見つからないように、隣の座席に隠れて話を聞いて、推理してもらえないか?」

「聞いていれば、彼女が真犯人か分るのか?」

「いや、どういう話が出てくるか分らないが雰囲気で判断してくれ」

「そうか。直接彼女に質問できないんであれば、それを引出すような質問をしてくれ」

「わかった。とにかく、辛抱強くつき合ってくれ」

と長谷川は言うが、土岐には長谷川の真意が掴めない。

駅に着いたのは九時十分前。出札口で長谷川がファーストクラスの切符を買い求めた。参考までにセカンドクラスの運賃を土岐が訊く。半額だった。

改札口からプラットフォームを望む。列車はまだ入線していなかった。乗客らしい人影もまばらだった。

不安が長谷川の目の奥をよぎったように見えた。

長谷川が改札口の駅員に列車の到着時刻を訊いた。

「ダイヤ通りだ」

と仏頂面で答える。

「始発だから定刻前に出発することはないはずだ」

と長谷川は不快そうにつぶやく。

九時近くになった。線路の両方向を見やった。列車の姿は見当たらなかった。振り返るとフォームの中央に歪んで倒れそうなキオスクがあった。

廃屋のような店先に新聞と薄い雑誌と甘ったるそうな駄菓子が雑然と置いてある。駄菓子は薄っすらと埃を被った硝子瓶に入っていた。

ガムを買った。黄色と赤の印刷のずれた硬い包装紙を破る。一枚口の中に放り込んだ。異様に甘い。砂糖の粒子が舌先でざらつく。噛みながら駅舎のローマ数字の掛時計を見る。九時を少し回っている。手元の腕時計より二三分遅れていた。

長谷川が改札口の先刻の駅員にもう一度同じことを尋ねた。

「予定通りだ」

とさもつまらなそうに答える。

長谷川は傍らに回りこんで、鼻先に腕時計を突きだす。もう一度確認する。

うんざりしたように、

「時刻表で9時というのは9時以降に出発するという意味だ。9時前には、出発しないという意味だ。わかったか?」

と傍らの土岐の瞳を蔑むようにのぞき込んでくる。

「英語がわかるのか」

と言いたげな目付きだ。

仕方なく長谷川はうなずいた。

「そろそろ、離れてくれるか?」

と長谷川が土岐に言う。

土岐は後ずさりする。濃いサングラスをかける。長谷川から離れた。そのとき待合室のベンチに腰掛けていた乗客が十数人、大小の荷物を引き摺りながらぞろぞろと出て来た。彼らはゆっくりと、地面にコンクリートを打っただけのプラットフォームに拡がった。その中に、白地にピンクと紫と緑の絞り染めを施したようなフレアスカートを靡かせて長谷川に嫣然と微笑みかける東洋人がいた。

一瞬、土岐の心臓が止まりかけた。

(慶子だ)

薄い黄色の鍔広の帽子に濃い緑のリボンが巻かれている。同色の濃い緑のベルトがウエストにアクセントのように巻かれている。

「おどろいて?」

と慶子は畳んだ水色のパラソルの先を長谷川にむける。蜻蛉を捕まえるかのようにゆるやかに円を描いた。

土岐は慶子の背後に回った。

「どうしたの?鳩さんが豆鉄砲をお召し上がりになったようなお顔をして。今日いくようなこと言ってなかったかしら」

 確かに長谷川は一瞬息の詰まったような顔をしている。円を描くパラソルの先で眼が回った訳ではない。しばらく眼の焦点が合わなかった。

「なんで?」

と思わず土岐の口から出そうになった。

出会いの瞬間から一拍おいて、最初に出た長谷川の言葉は、

「旦那は知っているんですか?」

言い終えて忸怩たる想いが長谷川の全身を痙攣のように走っている。

慶子の反応に土岐は耳をそばだてた。

「間男さんみたいな台詞ね。知っているとお思いになる?」

「勿論、知っているわけがないだろう。言わずもがだな」

と土岐は心の中でつぶやいた。

「旦那は今どちら?」

と長谷川が聞く。

土岐は長谷川は知っていると思っていた。

(でも聞いたのはなぜか?知ってはいたが他に言うことが思いつかなかったのか?)

長谷川は言ってからばつの悪い思いをしている。

「隣の国に出張ですって。外務大臣様を早々に出迎えに行ったわ。宮仕えはご苦労なこと」

 慶子の大きな瞳が悪戯っぽく笑っている。目尻に細い皺が一本走る。

通りすがる現地人が眉根に深い皺を寄せる。珍しそうに慶子を上から下まで、舐めるようにして見て行く。

慶子は年齢的には一二歳ほど長谷川より上のように見える。土岐には精神的は十歳近く上に思える。

「ヒジノローマまで、ご一緒してよろしいかしら?」

「え、ええ」

と長谷川はわざとらしく口籠もっている。いやとは言えない。

「是非もないということかしら?」

 本音を全て見抜かれている。言葉の抑揚、目の動き、手振り、身振りで慶子は長谷川の心理を母親や姉のように見透かしている。

「一向に差し支えありませんが、往復で一日つぶれますよ」

「いいの、つぶしたいの。つぶさせて」

 そう言われてしまえば、長谷川もなんとも返答の仕様がない。肩をすくめる。首をかしげる。承諾の意を表した。

遠くで警笛の鳴るのが聞こえた。音の方角を背伸びして見る。茶褐色のディーゼル機関車が自動連結器の鼻を上下左右に振っている。脱線しそうなほど大げさに揺れている。北の方角から入線して来た。九時五分過ぎに到着。前部標識灯の一つ眼を震わせて暗褐色の錆にまみれたディーゼル機関車の後ろに客車がぞろぞろと六両連結していた。後ろ一両がファーストクラス、次の二両連結がセカンドクラス、残りの三両連結がサードクラスの編成。

慶子を先に立てて、長谷川は六両目に乗り込んだ。

最後尾半分が郵便貨物用で車掌室も兼ねていた。

土岐は車掌室の方から六両目に乗り込んだ。

長谷川と慶子は出入り口に一番近いプラットフォームを見下ろす席に着いた。慶子は通路側に腰掛けた。

窓外の景色が見易いようにと、

「窓際に来ますか?」

と長谷川は気を利かせたつもりだった。断られた。

「ありがとう。営業的でもそういう気遣いがうれしいわ。窓際はお日さまが当たるでしょ。紫外線はちょっとね」

慶子は帽子を取る。長い髪を白い指で梳る。むかい合っている前の座席に置いた。長く明るい黒髪が車内の空間に解き放たれた。

土岐は横を向きながら慶子の斜め後ろのボックスに席をとった。二人の会話が十分聞こえる距離だ。

慶子の右肩と右足が通路にはみ出ている。

前かがみになって、斜め後ろを見れば、慶子の横顔を見ることができた。

長谷川の頭頂部は半分ほど背もたれから突き出ていた。

慶子の頭髪も長谷川の髪の隣にすこし見えた。

三人のほかには、同じ車両には国防色の軍服を着た中年の男がひとり乗っているだけだった。

土岐が窓から顔をだす。セカンドクラスの方を見る。それぞれの昇降口に艶やかで浅黒い人々が五六人ずつ固まっていた。反対側のプラットフォームからも線路を越えて、大小さまざまな荷物を目一杯抱えた乗客が三々五々集まってきた。

プラットフォームと歩道を仕切る黒く焦がした枕木の柵を潜って、少女がひとりやって来た。柵の外には中年の女がひとり、少女を手の甲で追いやるようにしていた。少女は幾度も振り返る。立ち止まりと小走りを繰り返す。列車に近付いてくる。

改札口の駅員からその少女が見えているはずだが、咎めようとする様子がない。

少女は車窓の下までくる。ブリキの空き缶を無言のまま掲げた。缶の内側は茶褐色に錆びきっていた。外側の千切れたラベルに、かろうじて、〈ツナ〉の文字が見えた。

少女の瞳を見つめながら、

「あっちへ行け」

とばかりに隣のボックスの軍人の方へ顎をしゃくった。二度、三度、繰り返した。

少女は円らな瞳を瞬きもさせない。動く気配を見せなかった。

「なぜだ!なぜあっちに行かないんだ!消えろ!失せろ」

と土岐は口を閉じたまま言語中枢で叫んだ。

軍人の方を一瞥した。少女は身じろぎもしない。移動する気配はない。彼女の背後で柵の外の中年女が軽く会釈した。お辞儀をしているように見えた。眼下では煤けた額の下の丸い瞳とふっくらとした小さな頬が無表情のままぽつねんと静止していた。少女から逃れるように視線を逸らした。頬の辺りに彼女の鋭く射るような視線を感じた。

土岐は慶子の真後ろの席に移動した。窓の外を見る。先刻の少女と似たような風情の少年が、空き缶をもって佇んでいた。

長谷川の腕が窓外で、その少年を追いやろうとしている。

そのとき、一瞬少年の目の前を銀貨がきらめきながら通り過ぎる。高く乾いた音をたる。窓の外に落ちて転がって行った。

慶子の指先が投げ終わった状態で優雅に窓外で宙に浮いていた。

「見たくない者に消えてもらうためにはお代を払わなきゃ駄目よ」と慶子は小突くように二の腕を柔らかく長谷川に押し付けている。

プラットフォームに人影はなくなっていた。

駅舎の壁の掛時計は九時十分を少しまわっていた。

小学校の遠足に行くような気分がこみ上げてきた。

土岐の背後から長谷川の声が聞こえてきた。

「いまね、不意に旦那の言説と前任者の言辞を思い出した。旦那はきっぱりと『私もヒューマニストではないが私はカネをめぐむ』と言い放っていた。前任者は真面目な面持ちで諄々と私を諭すように『女を買うことでこの国にカネを落とすことは民間レベルでの、個人レベルでの経済援助の一環だ。わたしが夜な夜な女を買っているのはただ好きだからというだけではないんだ。こうして落としたカネが巡り巡ってわが社の売り上げに貢献する。カネは天下の回り物。ケチっちゃいけないよ』と繰り返し言ってた」

と長谷川は間を取って、

「この国ではどこに行ってもベガ―に出くわす。そのたびに離婚直後、母と二人で暮らしていた6畳一間のアパート生活を思い出す。ひと月の間ご飯と塩だけで食事を済ませたこともあった。食用油で炒めただけのご飯でも御馳走に思えた。父は常々『おれは自分自身のためにだけ生きる』と標榜してた。自分の稼いだカネはすべて酒と女とギャンブルにつぎ込んだ。離婚しても慰謝料も息子の養育費も一銭も払わなかった。母子家庭の生活を誰も助けてくれなかった。中学の担任教諭も話を聞いてくれただけで何もしてくれなかった。今になってみれば担任も話を聞くのが精一杯だったろう。幼さゆえに何もしてくれない担任や世間を恨み続けた」

少年の缶の脇を慶子が投じたコインの落ちて行く情景がスローモーションで幾度も土岐の脳裏に描かれた。脳裏の中の少年は無言のままストップモーションで立ち去ってゆく。

土岐のズボンのポケットの中には小銭があった。太腿の辺りにコインの膨らみとわずかな重みが腫れ物のように感じられていた。

発車のブザーが幕切れを告げるように唐突に鳴り響いた。少年の「あなたからも欲しい」

と言いたげな恨めしそうな表情はこわばったままだ。

軽い衝撃と共に列車が突き動かされるようにゆっくりと走り出す。土岐は斜め後ろの慶子を確認しながら元の座席に戻った。

窓外で少女がピボットターンする。飛ぶように柵の外の中年女の方に駆けて行く。

土岐は息苦しさから解かれた。滞っていた血の流れが再び動き始める。息継ぎをして眼を閉じると血栓が溶ける。こめかみの脈動と心臓の鼓動が感じられた。

「ところで、ヒジノローマには何しに行くんですか?」

と予想はついているような口調で長谷川が慶子に聞いている。

「あなたと一緒にいたいだけ。列車に乗ったこともないし。なんかわくわくするわ」

 容貌は年相応に大人びている。言うこととすることが子供じみている。そうした慶子のアンバランスが土岐の気に障る。

列車は十マイルほどの速さでそろそろと駅をあとにした。

駅のすぐ近くに踏み切りがあった。短い遮断機の背後に屯していた手ぶらの人々が一斉に線路内に侵入する。列車と並走し始めた。リレー競技でバトンを受け取るようにデッキの手摺に手を掛ける。十人、二十人と力強く平然と列車に乗り込んできた。

土岐が窓から首をだして見る。それぞれのデッキで五六人の若者が手摺にしがみついていた。縮れた頭髪が風に靡いている。

次の駅に近付く。速度が落ちる。彼らは次々と軽快に飛び降りて行った。

その駅を出る。暫くすると符牒を合わせたように車掌が検札に回ってきた。開襟シャツもズボンも平服。車掌とわかるのは草臥れた制帽と擦り切れた集金鞄だけだ。

その間、列車は国道と海岸線の間を南下していた。

突然、長谷川の携帯電話からメール受信音が流れた。

「あらチャイコのピアノコンチェルトね」

と慶子が携帯電話の液晶画面を覗き込んでいる。

「変なメールね。件名だけで、@昨夜はごめんね@って、どういう意味?本文がないのね」

長谷川がほっとしているような溜息が聞こえる。

「発信者の@ねこ@って誰?」

背中越しに慶子の少し棘のある声を聞きながら、@ねこ@は優子ではないかと土岐は推察した。

「@ねこ@ってどなた?」

と慶子がしつこく聞く。

「事務所の家政婦です」

という嘘のようなセリフが長谷川の口から滑らかに出てきた。

「まさか、あの人、日本語はできないでしょ?」

「いえ、簡単な言葉だけ教えたんです。本人も勉強したいと言うし、仕事は暇だし」

と長谷川はしらじらしい嘘をつく。

「存じ上げなかったわ。ゴンゲイ、なんていう名前だったかしら?」

と慶子は嘘を見抜いた上で、言葉を繋ぐ。何の動揺も、嫉妬の素振りも見られない。感情を露にしない慶子に年齢以上の大人を感じる。

「ゴンゲイガウ」

「変な名前ね」

とフレアスカートの裾を右の手の指先で軽くつまみ上げる。股間にゆるやかな風を送り込んでいる。その仕草が土岐の脳下垂体をオートマチックに刺激する。

「彼女も、われわれの名前を変だと思っているかも知れませんね」

「それも、そうね」

と慶子はつまらなそう。批判されたと感じたらしい。こういう高慢さは慶子に興醒めさせる。しかし逆に、抱きしめるときは強烈な征服感に満たされ、異様な興奮に駆られるかも知れない。

国道沿いのオオギバショウ越しに白亜のリゾートホテルが散見された。海岸で紅毛の白人がビーチパラソルを閉じて日光浴していた。スーラの点描のような海は穏やかな蒼い波に包まれている。波頭が不揃いなスパンコールのように輝いていた。

やがて国道を走る乗用車が見られなくなった。時折ボンネットバスや耐用年数をはるかに超えたトラックが白茶けた土埃を巻き上げてのどかに走っていた。海岸線にも建造物は見当たらなくなった。線路脇の濃い緑の雑草、人影のない白浜、蒼い海原、きらめく波頭が車窓を単調に流れた。線路のつなぎ目を越えるたびに、列車はゴトンゴトンと眠気を誘う単調な響きを奏でる。

「私の父の会社が倒産したことを主人から聞きました?」

と慶子が長い沈黙の後、唐突に話し出した。長谷川は、

「いいえ」

と答えたものの、そのあと何を言っていいのか分らない。

慶子の横顔をこっそりと盗み見る。涼やかな目元が伏せられている。下向きの長い睫毛が瞬かれていた。

「正確に言うと不渡り手形で会社が倒産したのではなくて社長個人の名義で借りていたお金が返せなくなったの。自営業みたいな会社だったから、会社も個人もおなじお財布。銀行には会社の融通資金だと言っていたみたいだけれど、全て、選挙のときの買収資金」

「お父様は地方政治家ということは、耳に入れたことがあります」

「とっても貧しい土地柄で、選挙民は僅かなお金でみんな買収されるのよ。だから、戸票を買うのは、実家では当然のことで、買わなければ誰だって当選しない。賄賂を貰って土建業者に便宜を図らなかったのが、良かったのか、悪かったのか。闇献金を貰っていれば、倒産することもなかでしょうに。でも、貰っていれば選挙民の同情は買えなかったでしょうね。土建屋からお金を貰っていなかったから、地元では高潔な政治家ということになっているけれど、高潔な政治家が票を買うかしら」

「そうですか、大変だったんですね」

「私は父に贅沢をさせて貰ったので。ピアノも買ってもらったし、ハンサムな家庭教師もつけてもらったし、東京の大学に行かせて貰って、豪華なマンションを借りてもらったし。だから傍にいてあげたかったんですけど夫婦だから付いて来ない訳にはいかないし」

「それはそうでしょう、結婚したら別所帯ですから」

「それがそうじゃないのよ。彼は父を利用することを考えていたのよ。次の選挙で、父は国会議員に立候補する予定だったから。彼は官僚として、父のような政治家の後ろ盾が欲しかったのよ。私は私で、親類縁者にない職種、外務官僚、高級官僚を夫に欲しかったの。私の親族には、医者もいるし、弁護士もいるし、大学教授もいるし、一部上場企業の重役もいるし、父は地方政治家だし、でも高級官僚だけがいなかったの。肩書きコレクターみたいね。今考えると馬鹿みたい。そんなもので、幸せになるわけがないのに」

と慶子はほどよく感情を抑え、他人事のように淡々と話す。発声のトレーニングを受けたアナウンサーのように、正しい発音で澱みのない語り口だ。声を聞いているだけでほのかな欲情が土岐の体の中に蓄積されていく。

平坦な海岸線に何の脈絡もなく、尿素肥料プラントが忽然と出現した。機械仕掛けの大蛇と極太のミミズが数千匹蝟集し、錫メッキで固められたようなパイプの塊が焼け付くような陽光に燦然と輝いて屹立している。隣に海坊主のようなナフサとアンモニアの貯蔵タンクがそびえ立っていた。周囲の無作為の自然とのあまりの不調和に月か火星にありそうなSFの宇宙基地か性悪なエイリアンロボットの内臓のように見えた。看板に日本で見なれた大企業のロゴがある。まるで消し去り難い強欲という罪業の痕跡のようにグロテスクだ。

「この工場サイトで生産された尿素肥料の一部が、いまむかっている農業試験場に無償で流れているはずです」

と長谷川が話題をそらすように慶子に説明している。

「このプロジェクト実現の際の最大のネックは環境問題だったんです。この工場で尿素肥料のみならず、燐酸、硫酸、二燐安の生産も行われることを観光・環境大臣が問題にしたんです。完成が遅れて、建設コストが五割り増しになって。結局この大臣には巨額の賄賂を支払うことになったんです。贈賄工作の過程で背後でこの大臣を操っていたのが、我が国の同業他社であることを突き止めたときには、さすがに愕然としました」

と得意げに、

「他社はこのプラントの完成で、尿素肥料の輸出市場を喪失することになるんです。考えてみるまでもなく、何もしないで傍観している方が商社としてはおかしい。世界中で殺人を除く悪行の限りを尽くしている者同士として奇妙な連帯感があって、口銭の何割かを贈賄工作に費消したんですが、敵対するその商社を憎む感情は湧いてこなかった。われわれの仕事が最もやりにくいのはカネで動かない政治家が支配している国なんです。この国も、そして我が国もマークアップ率さえ気にしなければ、仕事はやりやすい。ホイホイとカネでいかようにでも動く存在の軽い政治家ばかりだから。このときの同業他社の商社マンが、執念深く、I kill youと送信してくる可能性は大いにある」

 最後のフレーズは土岐に対して語っているように思えた。

「なに?その『愛』『切る』『優』って?」

と慶子が聞く。その質問に不自然さがない。

「いたずらメールです」

と長谷川が答える。

十時を過ぎたころ、列車は海岸線を離れた。内陸に入って行った。国道は陸橋の下を潜り線路の反対側を並走する。窓外には白茶けた潅木と荒れ放題の雑木林が続いていた。所々に猩々椰子に囲まれた泥沼のような湿地があった。手入れの悪いサトウキビ畑が背の高い雑草のように鬱然と点在していた。

「この国に来たのは、父の債権者たちから逃げるためだったの。慌てて海外勤務の希望をだしたので、こんな国しかなかったみたい。でも背に腹はかえられないので来てしまったわ。この国では彼のキャリアにならないでしょう。彼の予定では、父が国会議員に当選した後、その後継者として、いずれ地盤を引き継ぐつもりだったみたい。計算を狂わせてしまったわ。あなたはどう?計算通りに人生を生きていられるの?」

と独り言のように言う慶子に長谷川は戸惑っているようだ。

しばらく沈黙がある。同情していいのか慰めるべきなのか言葉が見つからない。こういうものの言い方は昨夜の優子とはずいぶん違う。優子が話すのは自分の事ばかりだ。相手の身の上を聞くということをしない幼さがあった。

「計算通りかどうか、計算したことがないもんで。行きあたりばったりというか、行き当たってバッタリといつも倒れるばかりで」

「ふふふ。面白い人」

と慶子が生ぬるい微風のように優しく笑った。

時々、廃車寸前のようなトラックが国道を蛇行していた。木枠の荷台に鈴なりの人々が乗っていた。不揃いなウツボカズラのような黒い頭が一斉に上下左右に激しく揺れていた。

列車に追い越されるトラックも擦れ違うトラックも空中分解しそうなほど激しく振動している。長い裾を引き摺るように土埃を引き連れて遠ざかって行った。

白い埃の剣幕の中から、トラックに追い越された若者や壮年の農夫が何ごともなかったかのように平然と歩いて現れた。若者は数多の牛を追い回し、農夫は荷車を漫然と引いていた。

不意に、慶子が、

「この国に来てから、夫婦生活がないの」

と言う。土岐は思わず車内を見まわした。三人以外は先刻の軍人が一人いるだけ。言っている意味を理解しているようには見受けられない。土岐は自分の耳のあたりが強張ってくるのが自覚できた。

「薄々気づいていたでしょ?」

と慶子は首を傾げる。長谷川の顔色をうかがうように覗き込む。

背もたれの上に少し出ている長谷川の頭髪が無言のまま左右に揺れている。

「どっちもどっちね。お互いに打算で結婚したんだから、打算の条件が崩れれば、夫婦生活もなくなるということかしら」

「いやあ、また、新しい条件が揃うんじゃないですか。一度は、ともに結婚という重要な契約を取り交わすことを承諾したんだから」

「たしかに。ホテルの教会の十字架の前で牧師様の言葉を復唱して永遠の愛を誓ったわ。永遠の愛というのはあの時点での永遠の愛という意味だったみたい。時間と場所が限定されていたのね。でも、こんなに早く条件が崩れるなんて。せめて子供でも出来ていれば、また状況も違っていたかも知れないのに」

 ひたすら他人の非をあげつらうような加藤の性格がそういう夫婦関係を誘引したのか、あるいはそういう背景が彼のそういう言動を導出しているのか、どちらにしても結果は同じなので問いただすことはせず、長谷川は沈黙を守っている。

車内は鋭利な直射日光で次第に暑苦しくなり始めていた。開け放たれた車窓から吹き込む風はむっとするほど生温かった。草いきれが鼻腔を小突く。代わり映えのしない荒れ果てた風景が延々と続いた。

次第に意識が霞む。瞼が重くなる。無想の状態が長く続いた。車輪が線路の繋ぎ目を跨ぐ音がメトロノームのように近付いたり、遠くなったりした。窓から吹き込む風が間欠的に強くなったり、弱くなったりした。踏み切りの警報音が高くなって近付き、低くなって遠ざかって行った。土岐の意識がフェイドアウトした。

「あなたって不思議な人。恥ずかしくて言えそうもないことも平気で言えてしまうわ」

「そう言えば、高校生のとき、受信局というニックネームをつけられそうになったことがありました」

と多少、脚色めいたことを長谷川が言う。

慶子は乾いた声で力なく笑った。

「まあ、そうなの。放送局というあだ名はよく聞くけど」

不意に、座席と衣服が擦れ合う音が聞こえてきた。慶子の上半身が長谷川の方に傾いた。

長谷川が慶子の肩に手を回して少し引き寄せている。

慶子は前屈して横向きに倒れた。

土岐は通路側に移動する。斜め後ろから覗き込んだ。慶子の豊かな黒髪が長谷川の下半身に散らばっている。

慶子は片方の耳を下にしている。家猫のように目を閉じて長谷川の股間の上で気持ちよさそうに眼を閉じている。

「私、彼がマスターベーションしているところを見てしまったの。よくわからないけど、女の人と男の人のってどう違うのかしら」

という告白に長谷川は言葉を失った。

「さァ」

としか答えられない。

長谷川の下半身の血流が徐々に増える。心臓からの脈動が慶子の横顔に十分伝わっている。

慶子は眠り始めた。

土岐は同じ車両の軍人の視線が気になった。

いつの間にか二人とも眠り始めた。少し、背伸びをして覗き込む。長谷川が下半身をもぞもぞさせている。慶子の上体の重みで下半身に軽い痺れを感じている。

腕時計を見ると十一時を過ぎていた。

長谷川は眼を閉じたまま、慶子の髪を弄んでいる。

長谷川から受け取った耕運機のファイルが前の座席のショルダーバッグの中にあった。読む気になれなかった。現物を見てみなければ何もわからない。着くのは夕方だろう。点検作業はたぶん明日になると高をくくっていた。

長谷川の携帯電話のメール着信音が聞こえた。

慶子が眩しそうに目を覚ました。瞳の焦点が合っていない。

「あら、またチャイコのピアノコンチェルトね」

 長谷川がメールを開ける音がする。慶子がそれを読み上げる。

「@昨日のことバレたみたい。あなたを送り届けただけということになっているので、よろしく@って、なんのこと?」

 長谷川が慌てて液晶画面を閉じる。

「あら、見てはいけないメールなの?」

「どうでもいいけど、発信者のプライバシーにかかわることなんで」と長谷川のしどろもどろの声がする。

「そうね、貴方にとって良くっても相手の方にとっては都合の悪いことってあるものね。でも、そういう何気ない仕草が人を傷つけることってあるのよ。貴方の隠し方は、私の人格を無視するような素振りだったわ。わたしはとっても敏感だから、貴方にとっては何気ないそんな素振りでもとても傷つくの。たとえば、向こうから知っている人がくるとするでしょう。その人が、目を伏せて、挨拶もしないで通り過ぎようとするだけで、わたしはその日一日、憂鬱なの」

「それは、同感です。でも、その人にそうさせるのは、自分が気づかないうちに、その人を傷つけていて、だからその人は目線を合わせて、挨拶ができないのかも知れない」

そう言うと慶子は長谷川の太腿を抓った。

「いたっ!」

「あら、貴方にとってわたしはそういう女だったの?」

「いえ、これはあくまでも一般論です。奥さんがそうだと言うわけではありません」

「やめて、奥さんって呼ぶの」

と慶子は声音を緊張させた。今日初めて慶子が吐いた剥きだしの感情だった。

「じゃあ、なんてお呼びすればいいんですか」

「そうね、二人だけのときは慶子って呼んで」

「慶子さん?」

「ううん、慶子って呼び捨てにして。わたし、呼び捨てにされると陵辱されたみたいで、少し興奮するの。マゾヒスティックかしら。あら、ごめんなさい。少しお下品だったわね」

と右肩を動かしている。

「くすぐったい」

と長谷川が笑う。

(長谷川の体のどこかに人差し指の先を立てて、円でも描いているのか?)

慶子の右肩が座席の背もたれに隠れる。右足の先が通路に斜めに投げ出される。

「なんか、とても幸せ。つかのまだけどほっとするような感じ。あなたは気づいていないかも知れないけれど、あなたは癒し系なのよ。しばらく逢わないで、逢いたくなる人はみんな癒し系だし、逢うことに抵抗がないのも癒し系なのよ」

と慶子が席を立った。通路を進行方向に歩いてゆく。

土岐は慶子が車両から消えたのを確認する。声だけで長谷川に話しかけた。

「彼女、トイレか?」

「たぶんな」

それからしばらく沈黙が続いた。

「さきのメールはジャナイデスカ夫人からだ。返信メールを打たなきゃならんという強迫観念に囚われてる。でもヘンサチ夫人が興味深げに覗き込んできそうでメールを返信できそうにない。交替でトイレに行って独りになったらすぐ返信することにした。だからというわけではないが、この国に来てから知らず識らずのうちに何でも先送りする習慣が身についてきた。今日できる仕事は明日にする。明日できる仕事は明後日にする。明後日できる仕事は明々後日にする。明日できない仕事だけを今日やるというのが習い性になった。形状を記憶できないバネが延び切って、だらしなく弛緩した状態だ」

 慶子が戻って来た。長谷川が話し終えた瞬間のタイミングだ。

交替で長谷川が席を立った。

それからしばらくして列車は鄙びた駅に停車した。

昼近くになっていた。

停車した駅で包装のない剥きだしの菓子パンを売っていた。

土岐は少し空腹を覚えていた。

銀色にピカピカ光る蠅が二、三十匹ほどたかっていた、買う気にはなれなかった。そのうちの一匹が通路に伸びた慶子の右腕に着地した。慶子はゆっくりと左手の指先で払った。

隣のボックスの軍人が駅の売り子からパンを二つ買って食べていた。パンを裂いても香ばしい匂いがして来なかった。食べ終わる。ローカル・マガジンの上にこぼれたパン屑をいとおしむように指先で摘まんで口に運んでいた。

土岐は仕方なく始発駅で購求したガムを口に放り込んだ。ひどく甘ったるい。砂糖の粒が上顎に当たった。空腹が多少和らいだ。

長谷川が戻って来た。立ったままポケットから取り出したガムの包装を解く。慶子の顔のあたりに板ガムを差し出している。

「ガムかしら」

と慶子が推測するように気だるげに言う。眼を閉じている。

列車が動き始めた。

その駅から五分ぐらいして列車は突然停止した。

慶子の上体が、通路側に滑り落ちそうになった。

予定通りであればあと一時間ほどで乗り換え駅に到着する地点だった。

土岐が窓から前方を見る。乗務員らしい男が二人でディーゼル機関車の下を覗き込んでいた。

慶子も立ち上がって、反対側の窓の外に視線を送っている。

十分経っても車内放送はなかった。そもそも放送設備そのものがないのかも知れない。始発駅を出発してから一度も車内放送はなかった。

停車してから三十分経った。

軍人は右手の親指の爪を噛みながら悠然と薄っぺらな雑誌を読んでいる。指を舐めながら、頁を捲っていた。時折、思いだしたように反対側の窓の外に首をだして眩しそうに辺りを見回す。不意の停車がまったく気にならないようだ。傍らを車掌が通り過ぎたときも何も声を掛けなかった。

長谷川が立ちあがった。土岐とななめに眼が合った。長谷川は背もたれの裏の軍人の動作を、不潔なものを見るような視線で一瞥した。

しばらくして、線路に子供たちが七八人やって来た。男の子は筒袖の上着に短めのズボン。女の子は脇の下や腰の辺りに大きな穴の開いた引き摺りそうな無地のワンピース。彼らは車両の下を覗き込んだり、乗客をもの珍しそうに見上げたりしていた。土岐を見ていた男の子の一人が外国人であることに気づいた。

土岐が視線を送り返す。半分笑い、半分泣きだしそうな顔をする。隣の男の子の脇腹を肘で突っついた。敵か味方か、判断つきかねるという様子だ。

土岐はガムを一枚投げてやった。男の子はそれを拾い上げると仲間に声を掛けた。これみよがしにみせびらかした。彼らは一斉に土岐を見上げた。ほんのひととき見詰め合う。土岐は残りの三枚を同時に投げ与えた。彼らは奇声を発し、奪い合った。

ガムを取れなかった子が土岐を見上げた。

土岐は両方の手のひらを広げて見せた。それを確認すると女の子は嬌声を上げた。男の子は何かを叫びながら走り去った。

白い暑気だけが陽炎のように残った。

「わたし、加藤と別れようと思うの。どう思う?」

と唐突に慶子が聞くともなく呟く。自問自答しているような抑揚だ。答えていいものか、長谷川は咄嗟に判断がつきかねている。

「話し合ったんですか?」

という言葉が無意識のように出た。

「いいえ。話すだけ無駄でしょ。離婚ともなれば彼のキャリアに傷がつくし、彼にとってわたしは、いればいいだけの存在。実家が倒産したこともあるし、一緒にいるだけでありがたいと思えというような態度。所詮、女と男は一緒に生活していてもわかり合えないものなのかも。なにか、精神的に疲れてしまって。このまま、人生が無駄に過ぎて行っていいんだろうかと不安になるの」

「どこの夫婦も似たり寄ったりじゃないんですかね。比較するのは難しいけれど」

「あなたはそうやって、いつもあたりさわりのないことばかりを、おっしゃって。それは、商社マンとして言ってるの。それとも浮気手として?」

「浮気相手というのは穏便ではないですね。過ちがあったのはたった一度で、しかもそのときは二人ともかなりの酩酊状態だった」

「おんなは一回で十分よ。頭では忘れていても膣が覚えているの。酔っていようといまいと、そんなことは関係ないわ」

「まあ、たった一度というのは、たった一度の機会しかなかったからなのかも知れないですね。旦那は海外出張のときは必ずあなたを同伴していたし、数は少ないけど、邦人の目もあるし、現地人の目もあるんで、二人だけで行動することは目立ちすぎて危険だったということもあるかも知れない」

話題のせいか、土岐の眠気はとうに抜けていた。固い座席のせいで腰と尾てい骨が痛くなってきた。時々慶子の気配を伺いながら少し腰を浮かせる。腰を伸ばした。その折に、右隣のボックスの軍人の所作をうかがった。彼は相変わらず色どりの不鮮明な薄っぺらな雑誌を広げていた。時々、こちらに視線を流している気配を土岐は感じていた。雑誌を読み耽っているのか、眠りこけているのか判然としない。

「結婚するときは、加藤を愛していると思っていたけど、それはどうも錯覚だったみたい。わたしが愛していたのはキャリアの外務官僚という肩書きだったみたい。でも、そういうものでも愛せるものなのね。不思議ね」

空気が澱んでいるのと日差しが強くなったせいで、車内は耐えがたい暑さと湿度になっていた。土岐の額にも薄っすらと滲むような汗が浮かんでいた。暑気に喉を絞められる。窒息しそうな気がした。 

窓から顔を出す。線路や鋼鉄の車体から立ち上る熱気に焙られた。午前中は滲む程度だった汗が滴になってゆるやかに流れ始めた。額、眼窩、鼻の下、顎、首筋、襟の順にハンカチで拭う。腹立たしくなるほど汗は止まらなかった。

軍人は汗を拭うでもなく、泰然と足を組んでいる。膝の上に粗悪な紙の雑誌を広げていた。こめかみに薄っすらと綺羅のような汗が滲んでいた。軍服の襟ボタンは外していた。軍帽は浅く被ったままだ。

「それに、愛されているという実感がないの。『チャタレー夫人の恋人』じゃないけれど、貴方に抱かれてはじめて、愛情と性欲は別物ということがわかったような気がするの。学生の頃、仲の悪い夫婦の間に、なんで子供が生まれるんだろうって不思議だったけど」

土岐のハンカチは汗が染み込んでいた。拭いても汗を吸収しなくなっていた。

慶子はポシェットから二枚目のハンカチを取りだしていた。それを斜め右に片眼で見る。土岐は前の座席のショルダーバッグを取り上げる。タオルを探したが見当たらなかった。記憶を順に遡る。ホテルのベッドの上に忘れてきたことを思いだした。すでに体中の毛穴が開き切っている。下着が肌にべっとりと密着していた。汗のナメクジが背中に、ミミズが腰の周りにうごめいていた。サウナに入っているのだと思い込もうとした。サウナにしては温度も湿度もはるかに低い。だが、ここから抜け出せないという閉塞感で、しのぎ易さを錯覚することはできなかった。

座席の背もたれに二の腕が触れる。自分のねっとりとした汗を感じる。即座に離さざるを得なかった。

「結婚して、貞操観念が変わったわ。結婚する前は、倫理的にという意味ではなくて、それに見合う相手で、しかもそれに見合う見返りがなければ、貞操を差し出せないという想いだったの。よく考えてみると、かなり打算的ね」

「結婚してどう変わったんですか?」

「この国にくるまで、タイプの男で言い寄る人が居なかったので、とくに考えることもなかったけれど、加藤に知られて、それが理由で離婚するときの慰謝料と貞操が天秤に掛かるような感じ」

「それもまた打算ですね。こうしていて大丈夫なんですか?」

「貴方は大丈夫。加藤に言うような人ではないわ」

「どうして、そう思うんです?」

「どうしてって、加藤に言えるわけがないでしょ。言ってしまったら、援助がらみのお仕事がなくなるのじゃなくって」

「それもまた打算ですね。計算高いというか。たぶん、人倫というのは、そういう打算を超えたところにあるんでしょうね。偉そうなことは言えませんが」

「ということは、私たちの関係は人倫にもとるということかしら」

「ことかしら、じゃなくって、ことだ、と断定すべきでしょうね」

 慶子は少し溜息を洩らして黙った。

列車はまだ止まっている。

土岐が窓から首をだした。進行方向を見る。先頭に機関車がもう一両連結されていた。コツンと軽い衝撃があった。一時間近く停車して何事もなかったかのように動きだした。走りだして車窓から風が入ってきた。体の暑い緊張が少しずつほぐされて行く。徐々に体表温度の低下して行くのがわかった。呼吸が楽になった。息をつけた。熱気で張り詰めた筋肉の腱が一本ずつほぐされて緩んでいくようだ。

気持ちよさそうに微笑む声を漏らす慶子のフレアスカートの裾が風に弄ばれていた。

しばらくして列車がいきなり急勾配を登り始めた。ディーゼル機関車がゼイゼイと息を切らしている。

土岐の視界が開ける。前方に湖畔がすべて見渡せるほどの大きさの湖が見えてきた。湖面の中ほどに毬藻のようなこんもりとした島がある。そこへ極彩色のおもちゃのような遊覧船がむかっていた。長谷川の説明が聞こえてきた。

「あの島には二千年前に大乗仏教哲学の体系をまとめた高僧を祀った社があるんです。イスラム教の侵攻後は、廃墟になっていて、ダム湖ができる前は、小高い丘の頂だったはずです。近年、観光資源として整備されたんですが、麓から登る参道の石仏遺跡をすべて頂に乱雑に積み上げたため、社殿の周りは足の踏み場もないほどなんです。二年前に参拝したことがあるんですが、もう一度拝殿しようという気にはならない」

観光船の消えかかった航跡を逆にたどると湖の縁に灰色の長細いダムサイトが見えた。

列車はダムパワーハウスの傍らを緩慢に通過する。しばらく運河に沿って下る。それから更に一時間ほどしてヒジノローマに到着した。

先頭の機関車はフォームからはみだしていた。

昇降客は数えるほどだった。

二時を少し回っていた。

一等車両の乗客は軍人一人になった。

長谷川は慶子と連れ立って、出札口で眠そうな駅員に尋ねている。土岐は遠巻きにして、靴紐を結び直した。

慶子は駅舎の中のトイレに向かった。

「ハイヤーを雇いたい」

と長谷川が言う。駅員は駅前通りの向こうを指差した。

駅前には食堂も三輪タクシーも四輪タクシーもなかった。人通りもなく、時折陽光の輻射を孕んだ熱風が黄土色の埃を巻き上げていた。

土岐は、長谷川に近づいた。

「僕はどうすればいいんだ?」

「彼女を送り返すから、もう少し、隠れていてくれ」

と長谷川に言われて、土岐は先に改札を出た。

しばらくして、慶子がやってきた。

土岐は出札の窓口から二人をうかがった。

「帰りの汽車は何時かしら?」

と慶子がホームの壁の上の時刻表を見上げている。

長谷川は出札の窓口の上の時刻表を見る。三時発の列車が確認できた。

「三時までどうします?」

と長谷川が聞く。

「付き合ってくださる?」

「そうですね、こんな寂しい駅にお一人でおいとくわけにもいかないでしょう」

「なんであなたはそういう言い方をするの?」

「そういう言い方って?」

「他人行儀な。ここにはわたしたちのほかには、だれもいないのよ」

と言う慶子に、

「ここにもう一人いる」

と土岐はいいかけて、やめた。

 長谷川が時刻表を見上げながら言う。

「あなたは針の先ほどの言葉でも巨木ほどに増幅して解釈する能力がある。テニスに興じているときに喉が渇いたり空腹になったり疲労困憊して言いそびれているときは、その能力はありがたいけど、心の中のわずかな言い難い襞を言葉に込めたときは、正直困るときもある。あたなが感じ取るほどに、言ってる本人の想念は、大仰でないことが多いんです」

「あなたは、どきどき、訳のわからないことを言うのね。それがまた、魅力でもあるんだけど」

と言いながら慶子は長谷川の背中を撫でる。

ハイヤーの事務所は駅舎のむかいの平屋五軒の棟続きの中央にあった。赤茶けた煉瓦造りの各棟の間隔は一ヤードほど。煉瓦はいたる所が剥落していた。補修した跡もある。そこもいくつか欠落していた。補修の代わりか、州選挙のポスターがいたるところに貼ってあった。白黒のコピー用紙だ。幾度もコピーを繰り返したようだ。活字の角や写真の細部が潰れていた。候補者が指名手配犯のように見えた。そのポスターの下や周りに、幾枚ものポスターが剥がされた跡があった。

土岐は出札窓口の脇の窪みに身を隠した。

事務所には扉もシャッターもなかった。内部には傾きかけた傷だらけの机がぽつねんと一つあるだけだった。誰もいなかった。

駅から出てきた長谷川が暫くそこに佇んでいる。背後から五六才の薄汚い少年に半袖の裾を引っ張られた。長谷川が振り返ると、

「こっちへ来い」

と手招きしている。

物珍しそうにしている慶子と一緒について行く。事務所の裏手に消えた。

土岐は通りを渡る。かれらを追跡した。獣道のような狭隘な径が崖の下に延びていた。

慶子の足元がおぼつかない。履物を見るとローヒールだった。

一瞬、長谷川が手を貸そうとして、やめた。

慶子は足元に神経を集中するのに夢中で、それを求めているようには見えなかった。

樹木の隙間から、穏やかな川の流れが見えた。

土岐が柔軟にしなう月桂樹の枝につかまる。距離をとって川原に降りて行く。木々の間から途中に小さな滝が見えた。

少年はその滝の傍らに立ち止まった。

あたりに誰も見当たらなかった。

少年の指差す方を見る。苔むした猿の石像が鎮座していた。足元に細かい奇石が供え物のように散乱していた。背中に双葉柿の巨木がある。幹を覆い隠すように蔓植物が絡みついている。根元には縞模様の林床植物の葉が生い茂っていた。その奥の滝壺の脇に小さな沼がある。水面に蓮の葉が数葉広がっていた。ひんやりと心地よいスポットだった。

「しゃがんで」

と慶子が唐突に命令口調で長谷川の耳の後ろで命令した。

長谷川は、その意図がわからない。問いただすこともない。不承不承のように川岸に跪いた。その途端、慶子の薄緑色のフレアスカートが土岐の視界から長谷川を遮蔽した。

「なんですか?」

と長谷川はくぐもった言葉を発する。

長谷川の薄暗い目の前に慶子の二本の白い太腿が佇立していることを土岐は想像した。

やがて長谷川の後頭部が慶子の両手のひらで抱え込まれた。長谷川のぼんの窪あたりに押し当てられた慶子の指に指圧のように力がこめられている。

「やさしく、口付けして」

という声が川のせせらぎに紛れて聞こえてきた。すぐそこから発せられているはずなのに、ひどく遠くからの声のように聞こえた。

抱え込まれた手のひらの熱気に促されるように、薄いピンクのショーツに熱い息を吹きかけるように、長谷川が唇で肉片を摘み上げるように口づけしていることを土岐は想像した。

深呼吸をするようなため息が長谷川の唇を通じて聞こえてくる。自らの呼気で暑苦しくなったのか、長谷川が勢いよく立ち上がった。慶子の帽子の幅広い鍔が長谷川の鼻先に当たった。フレアスカートが慶子の胸までまくれ上がった。

長谷川は息苦しさから開放された。長谷川の目の前には晴れやかな慶子の微笑みが待っていた。その瞳の後ろには先刻の少年が目を丸くして佇んでいた。呆然としていた少年が我に返ったように同じ言葉を繰り返した。

「マニィ、マニィ」

と叫ぶ。手の指を足元にむけて反らす。白っぽい小さな手のひらだけを長谷川に向かって、差しだした。

土岐が状況を理解するのに数秒を要した。

「こんなちんけな石像にカネが払えるか。馬鹿にするな!」

と長谷川は吐き捨てた。少年に慶子との醜態を見られたことに腹を立てた。

二人はゆるやかな崖を足早に引き返した。

土岐は反対側の木陰に身を隠した。

少年は慶子の方を一瞥した。慌てて長谷川を追いかけてきた。少年は事務所の裏手に出ると踝を返した。スカートの裾をたくし上げて登ってくる慶子の往く手を遮った。

「マニィ、マニィ」

と叫び続けた。

慶子は崖を登りきると、うるさいハエでも追い払うようにクリーム色のポシェットから小銭をだした。少年に与えた。少年は小銭を手にする。事務所の裏手のほうに小走りに消えていった。

土岐は慶子の姿が事務所の方角に消えると、ゆっくり後を追って事務所の角に隠れた。事務所の方をこっそりと伺う。薄汚れたワイシャツの男が一人茫然と股を大きく広げて椅子に座っていた。

男はまつわり付く幼児を手の甲で事務所の外に追い払った。

「これから、農業試験場に行きたいんだが」

と長谷川が男の眼を見据える。行き先だけを伝えた。

「これから行くと、帰りは真夜中になる」

と男は口を尖らせる。慶子の足先から頭の上の帽子へ目線を移動させる。それを二往復させた。

男の高飛車な言いようから直感的に、

(ハイヤーを借り上げられるのは、そこだけだ)

と土岐は察知した。

「農業試験場へ行くバスは、どこから出ているのか?」

と長谷川は探りを入れるように尋ねる。

男は勝ち誇ったように、

「さっき、駅前から最終が出たばかりだ。途中で乗り換えれば行けないこともないが、終点で一泊して、二日がかりだ」

と不案内な旅行者から搾取しようとするその語尾に、

「うすのろまぬけ」

と付け加えたそうな用心深く抜け目のない侮蔑の顔付きをする。

「それじゃ仕方がない。ハイヤーをおねがいしたい」

とすぐ諦めて長谷川が下手に出る。

男は目を細めて顎を突き出した。

「いまから行くと、夜はゲリラが出るので、帰りが危険だ」

と料金を吊り上げる交渉に出てきた。

「今日と明日の二日間借り上げると、いくらになるか?」

と長谷川が訊く。

男は長い指を四本立てた。

「オゥケィ?」

と交渉を受け付ける様子がない。粗末な机をがたつかせて立ち上がった。

長谷川は慶子の顔を見ながら肩をすくめた。

「少し待ってください」

と人差し指を顔の前に立てる。男は事務所の奥に消えた。

二三分すると表口にあばたに塗装の剥げ落ちた黒い国産車が横付けにされた。

土岐は建物の角から奥の方に後ずさりした。そこから車のドアやバンパーの周りに白蟻が食い散らかしたような黄土色の錆があるのが見えた。

男が車の中から手招きしていた。

長谷川が後部座席の把手を引いた。開かなかった。引いた把手を強く引っ張る。軋みながらドアが少し垂れ下がって開いた。閉めるときには少し持ち上げ気味に引く必要があった。少し遊びがある。ぴったりとは閉まらない。

長谷川はガチャガチャやりながら、

「このドアはだいじょうぶか?走行途中で開かないか?」

と料金引き下げの材料にすることを念頭において訊く。

男から、

「だいじょうぶだ。いままでそういう事故は一度もない」

という答えが返ってきた。

長谷川が押しても開かなかった。半ドアのままになっている。

右の窓には硝子がなかった。左の窓には硝子はあった。半分閉まった状態。ぴくりとも動かなかった。

「雨が降ったらどうするんだ。濡れ鼠じゃないか」

と傍らの慶子に話しかけた。

男に聞こえるように舌打ちをした。

「雨が降ったら座席の左に寄ればいい」

と男は平然と言う。

長谷川が再びドアをあける。

後部座席は黒いビニール張りで縦皺に沿った裂け目が二本、黒いビニールテープで修繕されていた。ビニールテープの端が少し捲れ上がりシートの中のスカスカのスポンジがはみだしていた。スプリングは弾力性を失い痛々しいほど疲労し切っていた。

その様子を慶子は車外から心配そうに見ている。車のポンコツぶりを長谷川は嘆息混じりに点検している。そうしながら長谷川が何を考えているのか慶子にはわかっているようだ。

「そろそろ上りの列車がくる頃だと思うのでお見送りしなくて申し訳ありませんが、早く行かないと到着が夜遅くなるので、これで失礼します。切符はラウンド・トリップですか?」

「いいえ。あなたが付いてくるようにって言ってたから、一緒に行くつもりだったから」

と慶子は子供のようなことをいう。

「農業試験場へ?まさか」

と長谷川は深くは追求しない。車を待たせて、出札口に向かう。

土岐は建物の角から二人を伺った。

長谷川は切符を買い、慶子に渡している。

「ありがとう」

と慶子は手のひらのおもちゃのような切符に眼を落とす。

「いやあ、こちらこそありがとう。楽しい列車の旅でした。これからきっといいことがありますよ」

と長谷川が告げる。

慶子は黒い大きな瞳を潤ませる。ポシェットからレースのハンカチを取り出して拭っている。

「それでは、お気を付けて。帰りの列車の中でわたしがどうなろうとも、お気になさらないでね」

と微笑みながら言う。それには、長谷川も苦笑せざるを得なかった。車に乗り込む前に、右手で彼女の帽子をとる。左手で彼女を抱き寄せる。衝動的に接吻したように見えた。そうしたかったという思いも感じられた。そうしなければならないという義務のようなものも感じられた。慶子の抵抗は微塵もなかった。強く抱きしめ返すということもなかった。穏やかな抱擁が数十秒続いた。

先刻の少年が通りの向こうに佇んでいた。小さな手で拍手するのが聞こえた。

「ご主人のことですが、確かにいろいろと平均的な人と異なる個性を持っている人ですが、あれほど優秀な人はわが社にもいません。たぶん、あなたが不満に思っていることを差し引いても余りあるほど有能な人です。頭の中は眼に見えないので、言ったこととか、やったことでしか人を判断することは出来ないんですが、あの人は言ったことや、やったことだけでは知ることが出来ないほど頭のいい人です。その部分こそ、彼の愛するに値するところじゃないかと思います。所詮、高偏差値の人間と低偏差値の人間がお互いに理解し合うことは出来ないんだと考えるしかないんじゃないでしょうか」と言い残して長谷川は車に向かう。車に乗り込む前に、事務所の角に隠れていた土岐と眼があった。長谷川は指先を車の前方に向けて突き出した。このさきで、土岐を拾うという意味らしい。

長谷川は後部座席でショルダーバッグを脇息代わりに脇に据える。車は虚勢を張るようにアクセルいっぱいに急発進した。慶子に別れの手を振るいとまもなかった。長谷川は思わず仰け反る。後頭部がリアウインドウにしたかに打ち据えられた。長谷川が急いで振り返ってリアウインドウから慶子を覗う。白い埃の中で寂しそうに小さく手を振っていた。

しばらくして、慶子は改札口から駅舎の中に消えた。


殺伐行程と放蕩標榜(土曜日午後)


土岐は事務所の角から通りに出た。車が走って行った方角を眺めた。土埃の中で停車しているのが確認できた。わき目も振らず、追いかけた。駅前から遠ざかると途端に道路から舗装が消えた。息が切れた。歩きながら車に追いつく。後部座席のドアが開く。長谷川が首を出した。倒れ込むように車に乗り込んだ。ドアを閉める。すぐ走りだした。スプリングが萎えてへたりこんでいる座席から道路の凹凸が尾てい骨に直に伝わって来た。

凹みに突っ込むたびに車はジャンプした。腰が宙に浮く。頭頂が天井の薄い鉄板に打ち据えられた。

道路は車が擦れ違うのがやっとの幅員。がらくたのような潅木とゴロゴロしている岩の間隙を激流を下るゴムボートのように蛇行していた。場末のジェットコースターのようだ。右にハンドルを切ると体は左に、首は右に倒れた。左に切ると右と左に倒れた。

次第に、上体を支えていた腹筋に疲れを覚えてきた。

「今日中に着けばいいんだ。ゆっくり行ってくれ」

と長谷川が運転手に告げた。スピードは落ちなかった。

「スピードを落とせ!もっとゆっくり走れ!」

と長谷川がストレートに大声で命じても従う気がない。

「陽が落ちると、武装ゲリラが出没するから」

と運転手は取り付く島がない。さらにスピードを上げた。

「ゲリラは、君たち一般庶民の味方ではないのか?」

と長谷川が穏やかな口調で訊いた。

「やつらはそう言ってはいるが、それは政権を取った後の話だ」

と積年の憎悪を込めた口ぶりた。運転手はそう吐き捨てる。

「今の状況だと政権を取れるかどうか怪しいし、政権を取ったあとも、内部抗争でどうなるかわかったものではない」

と口にすることさえも不愉快そうにあしざまに補足説明する。

「政権を取ろうとするやつらは二千年も前からそうやって民衆を騙し、圧迫してきたんだ。先進国の連中も同じだ」

と畳み掛ける。

最初の出会いから運転手が見せていた反抗的な素振りの理由の一端がわかるような気がした。

口調の昂揚とともに、アクセルの踏み込みも強くなった。

姿勢を保つ筋肉に疲労を覚えてきた。仕方なく車の動きに体を任せた。不意に笑いがこみ上げて来た。押し殺していると腹筋に痛みが走った。脂汗が額に滲んだ。エアコンは装備されていなかった。暑さを感じるゆとりもなかった。

長谷川はメールを打とうとしている。あまりの手ぶれで到底メールの打てる状態ではなかった。圏外のサインが点滅していた。

「ジャナイデスカ夫人へのメールか?」

と聞く土岐の声が振動で震えている。

「そうだ」

「あいかわらずだな」

「なにが?」

「女たらしさ」

「たらしているわけではない。これも業務の一部だ」

「趣味と実益を兼ねてか」

「まあな」

土岐が所在無く窓外に目をやる。鍬を肩にした農夫の傍らをトップスピードで追い越した。振り返ると車の剣幕に憤然としている。路肩に退避した。土埃のヴェールの中で眼を剥きだしている。

その土埃が車内に舞い込んだ。汗の滲んだ二の腕に薄っすらと付着し始めていた。

運転手は相変わらずハンドルにしがみついている。夢の中の追っ手から逃れるように、ひたすらアクセルを踏み続ける。スピードをだし続けた。しかし、運転手の気迫はあえなくカラ回りしている。スピードメータの針は五十マイルも超えていなかった。

土岐が訊く。

「一等書記官は感づいているのか?」

「ヘンサチ夫人のことか?」

「そう、加藤夫人と君の関係」

「どうかな。うすうす気づいているかも知れない」

「銀行マンのほうはどうだ?」

「ジャナイデスカ夫人のことか?」

「そう牛田夫人と君の関係」

「どうかな。あいつは勘が鈍いから気づいてないかも知れない」

「夫人同士はどうなんだ?」

「夫人同士って?」

「彼女らは、君が二股かけていることを知っているのか?」

「知らないだろう。彼女らは勘が鋭いから疑ってるかも知れないが」

二十頭ほどの羊の群れに遭遇した。

運転手はけたたましく警笛を鳴らし続けた。

羊たちは悠然と闊歩し道を譲る気配がなかった。

羊飼いの痩せこけた青年が胡散臭そうに運転手を睨みつける。先頭の羊を路肩に寄せた。

運転手は車を路肩の外に半分乗りだした。廃棄物のような潅木をなぎ倒す。羊の群れを追い越した。

車の底を潅木の枝が引っ掻く夾雑音が聞こえた。

道路の中央に牛が悠然と寝そべっているときも同ように路肩を迂回した。牛の群れが道路を横断しているときはさすがに急ブレーキで停車せざるを得なかった。

体がつんのめり脇のショルダーバッグがシートから落ちた。

運転手は苛立たしそうに両手の指先でハンドルをリズミカルに叩いた。

牛追いの若者は薄ら笑いを浮かべる。腰布を蹴だして通り過ぎた。

運転手は舌打ちをする。失われた時を挽回するように再び憤然と車を疾駆させた。

土岐が口を開く。

「どうすんだ、このまま、この関係を続けていくのか?」

「まあ、成行きに任せる」

「そんなことしていたら、いずれ身を滅ぼすぞ」

「そのときは、そのときだ。駐在員生活はいずれ終わる。おれが先かも知れないし、ヘンサチやジャナイデスカもいずれいなくなる」

「I kill youは脅しじゃないかも知れないな」

「だから、おまえに依頼した」

「尻拭いをしてくれということか」

「そういうことになるのかも知れない」

「日本にも女がいたんだろ?」

「佐知子のことか」

「そうだ。事務所の家政婦にも手を出しただろ」

「ゴンゲイガウのことか?」

「そんなような名前だったな」

「どうということはない。ただの遊びだ」

「だけど、外国人だぞ。文化が違う。君は遊びだと思っていても、あっちはそう思っていないかも知れない」

「そうかも知れないが、もう結婚した」

「結婚相手がゴンゲイガウから君のことを聞いて復讐するということはありえないのか」

「彼女が結婚する前のことだ。結婚してからは、手を出していない」

「慶子さんと優子さんは結婚しているじゃないか」

「彼女らは日本人だ」

殺伐とした生ごみ集積場のような風景が倦むことなく続いている。絡み合う潅木、剥きだしの岩、伸び放題の雑草、底知れぬ沼地、澱んだ小川、いずれも人の手が入っていない荒地。列車の中から見たのと同じような埃っぽい荒野と大小の岩石が点在する荒れ放題の草原が間近にどこまでも続いた。うんざりとするような蒸し暑い風景が車窓をどんよりと流れた。

急ハンドルに身構えながらも土岐はうたたねをした。前部座席の背に額を打ち付けた。ぼんやり眼が覚めた。

二時間ほど走った。陽がようやく傾き始めた。遠くの裸の山巓に時々太陽が隠れた。山陰に入ると逆に日向の灼熱を思いだした。

エンジンは終始苦しそうに唸り声を上げていた。時折、限界だと告げるような不協和音が聞こえた。エンジンの叫喚のようにも聞こえた。

車体の振動が激しくなった。小さなマウンドを駆け上がるたびに車は放り投げられたように宙を飛んだ。着地の衝撃で車体が分解しそうな不安を覚えた。

運転手は手摺代わりにハンドルをしっかりと握り締めていた。後部座席にすがりつける吊革はなかった。

やがてゆるやかな上り坂に差し掛かった。登坂が始まると急にスピードが落ちた。

運転手は痩せこけた驢馬を鞭打つようにアクセルを踏み込む。自転車のペダルを漕ぐように上体を前後に揺らす。屈み込むたびに車を叱咤する掛け声をだした。

スピードが落ちると腹筋の緊張が解けた。土岐は息をつけた。

長谷川が軽いいびきを立てている。

不意にまどろみが土岐の意識を襲った。車体の軋みとエンジンの喘ぎが遠のいたり近付いたりする。

運転手の唸り声がかすれかけた途端、車はもんどりを打って峠を転がり始めた。瞬時に眠気が霧消した。

運転手が口笛を吹き始めた。

長谷川が眼を覚ました。

「聞いたことのあるメロディーだ。たぶん、映画音楽に違いない。この国の映画はどれもミュージカルもどきで何の脈絡もなく突然主人公が歌いだし、ヒロインとともに踊りだす」

睡魔が去って再びむせ返るような退屈極まりないドライブが続いた。思考力のなえた土岐の眼が助手席の下に握り拳ほどの穴を発見した。その下を地面が凄まじい速度で流れていた。

苦行のような乗車に耐えかねて、干からびた喉をこじ開けた。

土岐は、

「農業試験場へは、あとどのくらいで到着するの?」

と救済を求めるように長谷川に訊いた。

長谷川は運転手に聞く。

運転手は素っ気なく、

「この先の丘をすこし越えたところだ。あともう少し」

と乾いた声でぽつりと答えた。

その丘はあっという間に越えた。しかしすぐには到着しなかった。

東の空にはすでに夕闇の緞帳が降りかかっていた。濃紺に暗くなりかけた書割のような碧空に星々が明るさを得つつあった。

ヘッドライトの光の束が次第に明るさを増していった。

土岐は曲げっぱなしの膝にだるさを覚えた。尾てい骨が擦り切れたような痛みを持った。そうしただるさと痛みと相前後して空腹と尿意を覚えた。

しだいに膀胱の膨満感は神経と感覚のすべてを支配し始めた。

「まだ着かないのか」

と土岐は呟く。膀胱の軽くうずくような痛みが車の振動の中で悪夢のように交錯した。

やがて闇が車をすっぽりとおおい始めた。猖獗を極めた酷暑も日没とともに減衰して行った。群青色の空も暗褐色にやせた山も焦茶色の荒野も黒い帳の中に溶け込む。そして消えた。見えるのはヘッドライトの届く路上だけになった。生温い潜水艦の潜望鏡から地上をこっそり盗み見ているようだ。あせた山吹色の路面がインパネの計器類の下に猛然と吸い込まれて行く。

突然、ヘッドライトの前方を黒くうごめく塊が横切った。闇に目を凝らす。集落に差し掛かった。低い平屋建ての家屋が道の両側に薄っすらと闇の中の墨絵のように並んでいた。一軒だけ裸電球の燈る飲食店がある。その薄暗い店の前に黒山の人だかりが見えた。

一瞬ゲリラではないかと思って土岐の背筋から血の気が引いた。

@I kill you@のフレーズが脳裏をかすめた。

集落の全員が車を振り返った。残りの家屋には窓からこぼれてくる照明がひとつもない。すべて暗闇の中に潜んでいた。

「農業試験場の所長には昨日電話してある。夕方過ぎに到着するんで、一泊させてくれと頼んである」

と長谷川が不意に話し出した。

「おまえはどうするんだ?」

「おれは事務所で雑用が待っているんで、とんぼ返りだ。そうしないと最終列車に間に合わない。そうだ、明日の切符を渡しておこう」

そう言いながら、長谷川が切手のような切符を土岐に手渡した。

「それで、僕はなにをするんだ?」

「前にも言ったが、農業派遣員に授賞式に出るように説得してくれ。一晩あれば、なんとかなるだろう」

「それだけか?」

「それだけだ。折角外務大臣がはるばる来て受賞式に参列するというのに派遣員ごときが、都合が悪いというのはけしからんというヘンサチのお怒りだ。どうしても来られないというのなら、その理由を聞き出してくれ。おれが聞いたときは、『農繁期なんで、一日も留守にできない』と言っていたが多分嘘だろう。まあ、理由が分かれば、手の打ちようもある」

「その派遣員は、なんていったっけ?」

「小川伺朗だ。それから、故障しているトラクターの件は、聞いてもどうせ分からないだろうから、答えられないだろうし、まあ、メモでもして適当に聞いといてくれ」

不意に土岐の股間に雷のような痙攣が走った。のたうつ膀胱の限界が近付いていた。

前方のダッシュボードの計器類の蠕動を見つめながら、

「もういいかげんに着くのかな」

という希望的な思いを土岐は漏らした。

集落を通過した。

ほどなく忽然とヘッドライトの両脇に白茶けたコンクリートの門柱が現れた。

低い木生羊歯の生垣の間を縫って玄関のポーチに滑り込んだ。

「じゃあ、おれはここで失礼する。場長に会うと時間を取られるんで、このまま駅に戻る」

と長谷川が携帯電話を差し出した。

「この携帯を持って行ってくれ。おまえ用のを借りておくのを忘れた。緊急の場合はそれを使ってくれ。こっちからかけることは多分ないとは思うが、もっていてくれれば安心だ」

「連絡先は、登録してあるのか?」

「ああ。この車を明日の昼ごろまでにこっちに差し向ける。カネは明日の分もいま先に払っておくから、この車で駅まで来てくれ」

急ブレーキに土岐は思わず失禁しそうになった。

長谷川が運転手と交渉する。カネを払おうとすると運転手は首筋を掻いた。

「支払いは明日にしてくれないか。今夜もらっても、そっくりゲリラに盗られてしまったら、それまでだから」

と確認するように説明する。

長谷川は二つ折りの財布を引っ込めた。

「おまえの見ている前で払いたかったんだが、そうしないと、明日、この運転手がおれからは受け取っていないと嘘ついて、おまえに請求する可能性がある」

と土岐の眼を見ながら長谷川が言う。

「駅に着いたら払おう。明日の分も一緒に」

と長谷川が運転手に言うと、

「あしたは何時ごろに、出発するのか?」

と農業試験場の玄関を覗き込むようにして運転手が訊いてくる。

「首都に帰るので、その列車に間に合う時間に出発したい」

と長谷川が要望を簡潔に述べた。

運転手は半身になって振り向いた。

「それなら遅くともここを一時に出なければならない」

と暗算をするような眼で言う。

ハイヤーからの降り際に、

「今夜はあのホテルで寝るのか?」

と土岐は長谷川に聞いた。

「ああ、そうだ。ヒジノローマのへんに木賃宿はないからな」

と長谷川は無愛想に頷いた。

「明日の一時に、この玄関に迎えに来てくれ」

と土岐は運転手に頼む。車外に出た。ラジエター・グリルに蕎麦粉のような土埃がこんもりと付着しているのが見えた。下半身が少しふらついた。上体はまだ車の振動の余韻に波打つように揺れていた。膝を伸ばし尻をさする。トイレに駆け込むことを考えた。

「それじゃ、行くぞ」

と長谷川が窓から首を出した。


憧憬のサウイフモノ(土曜日夜)


車が高温の排気を悪臭とともに吐きだしながら草臥れたように走り去る。玄関に裸電球が燈る。痩躯の男が出てきた。短い髪と一重瞼にこの建物と同様にどこかで見たような錯覚を覚えた。

「遠路はるばる、長旅、お疲れ様でした」

と男は温和に近付いてきた。愛想笑いを見せているようにも感じた。もともとそういう顔付きなのかも知れない。

「そのバッグ、重いでしょう。代わりに、お持ちしましょう」

と土岐のショルダーバッグを代わりに持とうと手を差だした。

「いえ、これ、軽いものですから、いいです」

と土岐は慇懃に断った。

「そうですか、じゃあこちらへ。長谷川さんから聞きましたが土岐さんですね。小川伺朗といいます」

と男は少し腰を落とすような格好で手の平を真後ろにむけて先に玄関の中に入っていった。

天井の低い狭い廊下が続いていた。

土岐は立ち止まって名刺を差し出した。

「土岐です。今晩よろしくお願いします」

眼が慣れてくるととてつもなく薄暗いことに気づいた。トイレを探したが見当たらなかった。

男は名刺を受け取ってから一度立ち止まる。顎をいったん下げてから振り返る。土岐が付いてくるのを確認する。再び先に歩いて行った。

廊下の突きあたりに建付けの悪いドアがある。そこを押し開く。ドアのきしむ音の向こうにイカ墨のように真っ暗な中庭があった。パティオのような庭の中央に寂しげな、しかしよく見ると羽のある虫達が屯して飛び交う集虫灯がぽつんと立っていた。そのあたりだけ密林のように見えた。眼を凝らした。足元が覚束なかった。

男は中庭のアプローチを足早に進む。突き当りの部屋のドアのシリンダー錠に鍵を差し込んだ。男がドアを開ける。部屋の電気を灯す。

土岐は部屋の入口にたどりついた。疲れた頭には排尿のことしかなかった。

「夕食は七時でいいですか?もっと早くもできますが」

と派遣員は入口の右脇にある天井の扇風機のスイッチを入れた。

「ええ、七時で結構です。ありがとうございます」

と土岐は股間を極度に緊張させた。手短に済まなそうに答えた。

「七時に呼びに来ますから、それまでゆっくりしてください」

と派遣員は言い残す。ドアをおもむろに閉める。中庭の漆黒に消えた。

ゲストルームは、床がコンクリートであることを除けば、安ホテルの下宿に造りがよく似ていた。部屋の隅にビニールカーテンをL字に引いただけのシャワーとトイレがあった。

ショルダーバッグをベッドに投げつけた。トイレに飛び込んだ。黄ばんだ陶器製の便器に複数の罅が走っていた。放尿の最中、ジャナイデスカの底抜けの哄笑と歌唱がなんの脈絡もなく脳裏をよぎった。

シングルベッドは小さめだった。部屋の中央に据えられていた。その真上で浅黄色の扇風機がカラカラと乾いた音を立てている。気だるそうに回転していた。生温い風がふわふわと天井から降りて来た。

ドアの上の小窓を開けようとした。やめた。無数の蚊や蛾や羽蟻が硝子に蝟集している。へばりついていた。

裸になってHの蛇口を捻った。シャワーを浴びた。水量が少ない。最後までお湯は出なかった。シャワーを止める。扇風機の回転音以外には何の音も聞こえなくなった。

窓硝子は宵闇のコールタールで塗りつぶされている。中庭の集虫灯も輪郭のぼやけた丸い蛾のように見える。今朝までの首都での生活が遠い国のように思えた。

汗で汚れた下着で滴を拭い取る。そのままベッドに仰むけになった。木枠とスプリングが激しく軋む音が部屋に響いた。ベッドのバネの円い硬さが背中に食い込んだ。背筋と腰と膝の筋肉痛がシャワーで希釈され足先から頭頂まで浸透していった。後頭部に重く柔らかな疲労が蟠っていた。左右のこめかみが柔らかな護謨で挟みつけられているようだった。身動きができなかった。目を閉じてぼーっとしていた。不意に、

「食事の用意ができました。お待ちどうさま」

と声をかけるのをためらうようなノックがあった。

土岐は慌てて跳ね起きた。

「はい、いますぐ伺います」

と答えた。急いで下着を身に着けた。

派遣員はドアを半分開けた。ズボンを履き終えるまで外で待っていた。

食堂は玄関の左手にあった。六人がけのテーブルが中央にあるだけだ。調度品の類は何もなかった。ゲストルームと同ように壁も床も剥きだしのコンクリートだった。隣の部屋が厨房になっているようだった。派遣員はそこからローカルビールとコップを二個持って出てきた。肉厚で重い薄緑の半透明の硝子コップにビールを注いだ。

「ようこそいらっしゃいました。土岐さん、でしたね」

と同国人の長旅をねぎらう。乾杯を柔和に求めてきた。

「週末のせっかくのお休みのところ押しかけてきまして」

とそれに呼応する。急遽訪問の非礼を衷心より詫びた。

「ここは週日も週末もないんです。自分自身、曜日の感覚がなくなってしまって、毎日が週日で、毎日が週末です」

と派遣員はさほど冷たくないビールの一杯目を飲み干した。

「ほんとうは、もっと早くくる予定だったんですが、途中機関車の故障で、一時間ほど列車が止まっちゃって」

と夜分おそく遅れて来たことの弁明をした。すると、派遣員は、

「この国ではよくあることです。むしろ遅れるのがあたり前で、時刻表通りだと彼らはかえって戸惑うんです。電化すれば、そういうこともなくなるだろうとは思いますけど」

と咎める気持ちなどまったくないと言いたげにフォローする。

それからしばらくの間、空港近代化プロジェクトに関するさし障りのない話題になった。

彼は遠くを眺めるように、

「この国は滑走路が短いから、大型旅客機が離発着出来ないんですよね。フィージビリティスタディは無償援助でしたけれど、本体工事そのものは借款になるんでしょう?」

と空港近代化事業の資金計画に関する情報の確認を求めてきた。

「長谷川によるとフィージビリティスタディの無償援助は撒き餌で。まあ本体の方は低利の政府借款で、利子補給分が開発援助ということになろうかと。いずれにしても貧乏人と商売をするときは延払信用が、つまり、ローンが鉄則で。というようなことを言ってました」

と教科書的な説明をした。土岐がかつてこの国に財務分析のスペシャリストとしてやってきたときに聞かされた国際コンサルタントの言説の受け売りだ。

「旧式の高額商品を売りつけて、こんな無邪気な貧しい国をまた食い物にするんですか?疑うことを知らない無垢な人々を相手に、賢い頭脳をこんなことに使って欲しくないものです」

とやや不満気だ。派遣員は二つのコップにビールを注ぎ足した。

「この国だけじゃなくて我が国の納税者も食い物にします。でも納税者にとってはGDPの一パーセント以下で、しかも国外の話だから。国内の財政投融資とは比較にならない。ここの一等書記官の加藤さんの話によれば、偏差値の低い国民には納税の義務はあるが、その税金を使う権利はない。税金を使う権利を持っているのは、偏差値の高い官僚だそうです」

と追従めいたことを土岐は言った。

「去年だったか、長谷川さんの事務所の所長さんはこんなことを言ってましたね。『肉体労働にも報酬があるように頭脳労働にも報酬がある。商社の頭脳労働は裁定取引にある。紀伊国屋文左衛門が蜜柑で大儲けしたことは悪い事だろうか。彼は江戸庶民に無理強いをして蜜柑を高く売った訳ではない。その価格で買いたいと思う人だけが買ったのだ。買いたくない人は一人も買っていない。貨幣の価値と蜜柑の価値を比べて、蜜柑の価値の方が低いと思った人は当然買わなかった。買った人は例外なく、蜜柑の価値の方を高く評価したはずだ。だから、商売は世のため人のため以外の何物でもない』と」

 偏差値を引き合いにだしたことが派遣員の不興を買ったのか、話もビールもとんと弾まなかった。土岐は口直しに話題を変えた。

「耕運機のアフタサービスは明日の午前中でいいですか?」

と派遣員の返答をあらかじめ予想しながら了承を求めた。

「もちろんです。こんな夜じゃなにも見えないでしょう。それに暑い中、長距離移動でさぞお疲れでしょうし」

と意外そうな顔色をする。訪問の本当の目的は派遣員も知っているはずだ。話をいつ切り出すか、タイミングを見計っていた。腹の探り合いのような気まずいやり取りが続いた。

「耕運機の部品は例によって生産してないんでしょう?自動車でも家庭用電気製品でもそうですけど欧米人は最後まで使いきりますね。物造りの考え方が違うのは、木の文化と石の文化の違いですかね」

と派遣員は文化論を持ちだした。黙って聞いていることにした。

「障子にしても畳にしても屋根葺きにしても、古くなったものは捨てて、新しい物と交換するのが前提で、モデルチェンジを繰り返す自動車や家電も、そののりなんじゃないんですか?この国は欧州列強の植民地だったから、一部分が壊れたからといってすべて交換するという発想はありません。おたくが乗ってきたタクシー、あっ、あれはハイヤーでしたっけ、まあ、どっちにしても、あの車にしても十年以上前に国民車として造られたもので、シャーシ以外はすべて修理の跡があるでしょう?」

と派遣員はビールを口にふくみ、

「それは別に貧乏だから物を大切にするというのではなくて、そういう文化だから。でも、こういう文化だからGDPが少ないとも言えます。戦争でもして、それほど物騒なことでなくても、無駄遣いをして、造った端から叩き壊せばGDPは大きくなるけれど、そうしたら仕事に追われて、この国の人々のように、家族と多くの時間を共有し、語らい、ゆったりと、心穏やかに人生を送ることはできないでしょう。国民性なんでしょうかね」

と派遣員はビールを一気に呑む。口笛を吹くように強く息を吐いた。

「つかぬことを伺いますが、長谷川さんと土岐さんはどういう関係なんですか?名刺には、『土岐調査事務所』とあったと思うんですが」

「説明が遅くなりました。長谷川とは大学時代の同級生で。一二年のクラスが同じで。長谷川は三年のとき転学部して文学部でフランス文学のゼミにはいって、それからは疎遠になって、キャンパスで会うと、挨拶をする程度になりましたが、それまでは、国際関係会というサークルに所属していて、二人で一緒に飲み歩いたものです」

「それだけの関係で、今回ここに、こられたんですか?」

「大学を卒業してからも、接触はなかったんですが、数年前にわたしが、調査事務所を立ち上げまして、そのとき、広告宣伝を兼ねて、大学時代の名簿を見ながら旧友すべてに挨拶状を出したんです」

「わざわざ日本から呼び寄せなくっても、と、思うんですけどね」

「なんか、来週外務大臣が来るんでその準備に忙しいらしくって、それに、わたしが数年ほど前に、この国に来たことがあるから、という理由で呼び寄せたようです」

「そのときは、何をしに来られたんですか?」

「首都の国有鉄道の電化計画のフィージビリティスタディです」

「ああ、聞いたことがあります。国鉄省の若手官僚の活躍で、その計画は潰れたらしいですね。担当はなんだったんですか?」

「財務分析です」

「ひょっとして国鉄省の財務部のストゥーパを御存じでは?」

「知っています。わたしのカウンターパートでした」

「じゃあ、亡くなられたことも御存知ですか?」

「いえ」

と言ったなり、土岐は絶句した。ストゥーパは土岐がこの国でただ一人、心を通わせた人物だった。

「どういう理由で亡くなったんですか?」

「自殺です。国鉄省の前の大木の枝で首を吊ったそうです。アメリカ留学の経験のあるエリートだったらしいんですが、国鉄電化計画に反対したことで、降格されて、窓際に追いやられたそうです。この国では自殺は滅多にないんで、ましてやエリート官僚となると、それで、ぼくのようなものでも耳にするほど話題になりました」

と派遣員はカラのコップをテーブルの上に置く。手のひらを三分刈りの頭の上に置く。その頭を軽く叩くとだしぬけに、

「ビゲンノラ!ディッシュ!」

と叫んだ。派遣員の目線がカラになったグラスにあった。何を疾呼したのか、土岐には皆目理解できなかった。

暫くして、厨房に通じるドアを蹴飛ばして、浅黒い一三、四の少女が上目遣いに入ってきた。右手に鶏の蒸し焼き、左手にゴレンシの漬物と野菜炒めの皿を持っていた。艶やかな漆黒の長い睫と切れ長の眼で、白目の乳白さが印象的だ。痩せぎすで、九十ポンドもなさそうな体躯。五フィートぐらいの背丈。裸足の踝や手首が華奢な体型と比べて、不釣合いなほど大きく見える。

「農業試験場長の娘です。ビゲンノラといいます」

と派遣員が含み笑いで紹介した。

少女はテーブルに皿を置いて、

「お会いできてうれしい」

と伏し目がちに型通りの挨拶をした。褐色の肌と象牙色の歯の対蹠が鮮やかだ。

少女が恥ずかしそうに厨房へ去った。

「かわいい女の子ですね」

と土岐はあたり障りのないことを口にだした。ヘンサチの用件を今切り出すべきか、明日にするべきか迷っていた。

派遣員は隣の台所から二本目のビールを持ってくる。手酌で呑み始めた。派遣員の方からすすんで受賞の話を言い出す気配はまったくなかった。

「試験場長から、あの子を妻にもらわないかと頼まれているんです。ただしイスラムに改宗して。改宗といっても自分は、というか実家は浄土真宗だけど、実質的には無宗教だから、イスラムに入信して」

と派遣員は自嘲気味に目元だけで笑う。鶏の片足を毟り取った。

「それが、この試験場に三年もいる理由なんですか?」

「まさか。年が倍も違うのに。ほんとにいい子だけど。それに、この話は政治的な臭いがするんです。試験場長はやり手でして。ぼくにとっては理想の女房に飼育する楽しみがあるけれど、彼女にとっては恐らく迷惑な話でしょう」

と派遣員は高い頬骨の下に浅い皺を寄せる。軽やかに笑った。

「大使館には、この結婚話ですけど、三年いる理由をもし聞かれたら、そうかも知れないし、そうではないかも知れないし、そうだとしても、それだけではないかも知れない、と伝えておいてください」

と要を得ない曖昧な伝言を述べる。それにつづけて、

「ほんとのことをいうとよくわからないんです、自分でも。思っていることは、どうしても言葉で表現できないんです。頭の中で感じていることと言葉が一対一で対応しているとは、どうしても思えないんです。言えば言うほど言いたいことから遠ざかって、嘘の上塗りをしているような気がして」

と派遣員は控え目に鶏の足に齧り付いた。

そこに少女がナイフとフォークを一本ずつ持って入ってきた。テーブルの上に差しだした。

「あなたは、この男の人と結婚したいと思っているの?」

と土岐が拙い英語で訊く。

少女は急にほの紅い笑みを浮かべる。派遣員の方を見た。

「こんなおじさん、いやだよね」

と言う派遣員の言葉を理解できない。少女ははにかんだ瞳を動かす。派遣員にその意味を眼で訊いた。

派遣員はそれに答える。

「でもこの子は結婚してもいいと言うんです。なぜいいのか理由は言わないんです。父親が勧めるからいいのか、ほんとにぼくが好きだからいいのか、それとも別にわけがあるのか。それとも、言葉は必要ないのか。この国では十四、五の女の子が親の言いつけで婚約することはよくあることなんですけど」

と派遣員は素手で自分の皿に野菜炒めを大皿の四分の一ほど取った。

「急ぐことではないし、自分も急がないし、この子も急がないようだし、早いほうがいいと言っているのは父親の試験場長だけだから」

と派遣員は野菜炒めを取るようにと大皿を土岐の方に動かして勧める。

そこに眉の太い、胸から下の胃のあたりから、下腹部全体が弧を描くように突き出た初老の男が廊下側のドアから入ってきた。

派遣員は即座に立ち上がった。その男を紹介した。

「こちら農業試験場長で、この女の子の父親です」

と儀礼的に言った。手を翻す。土岐の方に手のひらをむけた。

「あの耕運機の修理に、首都からはるばるやって来てくれた商社マンの友達で、調査事務所の所長さんです」

と紹介した。

場長は初対面の目付きで挨拶をした。

土岐は長谷川との関係を説明するのが面倒に思えた。初対面の挨拶だけを返した。

場長は椰子蟹のような肉厚の毛むくじゃらの手を差しだした。

「今まで村の寄り合いがあったので遅くなった。謝る」

と土岐に握手を求めてきた。

場長の英語は現地訛りが強い。その上早口だ。良く聞き取れなかった。身振りや手振りや表情や断片的に聞き取れる英単語から推測しなければならなかった。

少女が甲斐甲斐しく父親のグラスとビールを持ってきた。

場長は鷹揚に受け取る。手酌で立て続けに二杯飲み干した。

土岐が、

「酒を自ら進んで飲むということはイスラムではないのか、それともビールは酒の部類ではないのか?」

といぶかった。

場長は土岐のカラのグラスを見つめた。

「お前も遠慮しないで、どんどん呑め」

と野太い声で言う。待っていても注いでくれるわけではない。三人で手酌で一本のビールを代わる代わる注いで呑んだ。

場長は口の中にキュービックアイスを含んでいるような植民地英語でのべつ幕なしに喋り続けた。

土岐はほとんど聞き流していた。 

場長は、

「ゲストを手厚く歓迎するのは、この国の文化だ。受けた恩は必ず返す。徹底的なギブアンドテイクはこの国の美しい慣習だ」

と自国の文化を独善的に絶賛する。

「貴国からの派遣員の農業指導を非常に高く評価している」

と水車小屋の太い杵のように休むことなく話し続けた。

「耕運機は部品が一つだけ壊れて一年前から動いていない」

という話があった。それからは注意深く聞くことにした。

「半年前、ついでがあったので首都まで出向いて、現地政府に部品の輸入を申請したが、どうしても外貨割り当てがもらえなかった」と不平をもらす。しきりに同意を求めてきた。土岐は首肯した。

「僅かな金額なのに。この試験場は政治力がないから」

と場長は憤慨する。土岐を責めるような目付きをする。

「いつだったか、ミスター・ハセガワの事務所の所長にも頼んだんだが、『その部品は我が国のメーカーではもう生産していない』とか言って、どうすれば耕運機を動かすことができるのか、ということについて、納得のいく回答が得られなかった」

と浩嘆する。

土岐は場長の言うことがわかっても、わからなくても、適当に相槌を打って聞いていた。

いい加減に聞いていることを察知したのか、やがて場長は褒賞の話に触れてきた。

「この派遣員の褒章の話は知っているか?」

と黄味がかった怒気を帯びた目を大きく剥きだして訊いてきた。

「もちろん知っている。じつは今日はその話でも来た」

と土岐は硬い椅子に座り直した。背筋を伸ばし身を乗りだして答えた。

「お前はどう思うか?」

とさらに場長がにじり寄り問い詰めるようにして訊く。

「くれると言うのだから貰っておけばどうか」

と土岐は、強く答えた。

「しかし、本人は要らないと言う。何を考えているのか」

と場長は丸っこい肩を大きく落として落胆する。

「本人次第だが、本人がくれと言ったわけではないので、いらなければ、もらわなくてもいいのでは」

と土岐は曖昧な意見も述べた。話しながら要を得ていないことに気づいた。

場長は、

「何を言っている」

というような不快な眼をした。

「しかし、貰ってくれれば、娘の婿として箔が付くし」

と傍らの派遣員に血走ったような大きな目をぎょろりとむける。

「おまけに、農業試験場の予算も増えるかも知れないし」

と未練ありげに付け加えた。

それから不意に会話が途切れた。その間、派遣員は黙々とビールを舐めるように呑み続けていた。

場長は終始口を尖らせていた。

土岐は気まずい雰囲気を察知した。取り繕うように先刻の話題を補足することにした。

「小川さんが受賞に応じれば一等書記官の加藤さんの次の任地は欧米になるかも知れない。加藤さんはここにくる前は欧米を希望していた。また国際空港近代化プロジェクトの一括契約が取れれば、事務所長の川野さんは取締役として本社に残れるかも知れない。開発銀行の駐在員の牛田さんは初めての仕事らしい仕事にありつけるかも知れない。牛田さんはすることがなくて、毎日時間をもてあましている。事務員のショスタロカヤは本社での国際空港近代化プロジェクトの打合せで海外出張させてもらえるかも知れない。海外旅行はショスタロカヤの長年の夢だった。掃除婦のゴンゲイガウや料理人のキスケンシュノショは給料を上げてもらえるかも知れない」

と土岐は派遣員に圧力が掛かるように、口から出る言葉に任せた。所長が取締役になれるかも知れないという虚偽も含めて、いい加減な見通しを縷々開陳した。最後に心がすこしとがめた。

「でも、たとえ彼が授賞に応じたとしても、いま言ったことのすべてが、そうなるとは限らないかも知れない」

と言い添えた。それからビールを少し口に含み、派遣員の顔色を窺った。

派遣員はずっとテーブルの上に目を伏せていた。頬がだいぶ赤くなっていた。両切りのローカルシガレットを手にしていた。ゆっくりと煙草を口に運ぶ。その口を窄め、目を細めながら溜息を吐くように煙を吹きだした。

「一等書記官の加藤さんはきっと優秀な人なんでしょうね。このあいだ電話を貰ったんですが話が難しくてよくわからなかったんです。もっとも自分の頭が悪いからだろうけど。まあ学校の成績は良くなかったから。とくに国語が駄目で。作文や感想文はいつも下の方でした。自分の思ったことを素直に書くようにと先生に言われたけどどう書けばいいのか今でもわからないんです。遠足に行って何が楽しかったか。映画を見て何に感動したか。そういう課題を出されても何が楽しかったか、何に感動したか、よくわからないとしか書けなかった」

と思い出しながら煙草の煙で輪を作り、

「それでも書けというので仕方なく、よくわからない理由が自分でもよくわからないと書いたら、その先生はこめかみに切れそうな青筋を立てて、『わたしをおちょくっているのか。教員をなめるなよ』と本気で怒りだしたんです。また、中学校の国語の先生は、『お宅のお子さんは、ひょっとしたら言語障害じゃないか』と母に言ったそうです。うまく表現できないというのは国語だけじゃなくて、たとえば高校に進学するとき自分の学力から偏差値の低い農業高校を志望したんですが、そのとき進路指導担当の先生が放課後、進路指導室に自分を呼びだして、『なぜ、この農業高校を志望するのか、その理由は?』と訊いたんです」

と煙草の灰を空いた皿に叩き落とし、

「答えようがなかったもんで、とりあえず、『その農業高校に入学して、一生懸命勉強したいからです』と答えると、その先生は、急に烈火のごとく怒りだして、『だから、それは、なぜなんだ、と聞いているんだよ!』と廊下に聞こえるほどの大声で問い詰めるんです。とうとう最後まで答えられなかったもんで、先生が志望理由の欄に、〈国内農業は危機的状況にあるので家業の農業を継ぐため〉と書くように指導してくれたこともありました。たしかに、家の裏山には猫の額ほどの畑はありましたが、うちで食べる分だけで、父親は十年前から持っていた田んぼを売った近くのセメント工場に勤めていました」

 派遣員は少し酔ってきていたようだった。時々、呂律が回らなくなっていた。

場長はつまらなそうな目付きをしている。鶏の蒸し焼きと野菜炒めを素手で食べていた。

派遣員は話を続けた。

「先週末だったか、このあいだの電話で、一等書記官の加藤さんが、『三年目からカネを出さなくなったことへの恨みなのか』とわけのわからないことを言ってました。他にもいろいろ言ってて、彼が苛立っているのが段々わかってきたもんで、『そう言われてみれば、そうかも知れないです』とどう答えていいかわからなかったので、適当に答えたら、『それでは、カネさえ出せば、授賞式に来てもらえるのか』と理詰めで、退路を断つような訊かれかたをしたので、『実際におカネを貰っていないので、なんともわかりません』と返事をしたらキレたようです。受話器を叩きつけるような音がして電話が切れたんです」

と空いた皿の上でタバコの火をねじり消し、

「想像力の問題なのかもしれません。起こってもいないことについて訊かれても答えようがないんです。だから代数はちんぷんかんぷんでした。xやyじゃなくって太郎や花子ならまだわかるんですがxを時間、yを速度とするなんていうともうお手上げです。時間なんか眼に見えないし、触れられもしない。時計は見えるけど時刻だし、速度なんか、ものすごく速いとか、ただ速いとか、ただ遅いとか、ものすごく遅いぐらいしかわからない。何を言っているんですかね。自分でも何を言いたいのかよくわからない。言えば言うほど言いたいことから遠ざかって嘘になるような気がします。だから黙るしかないんです」

 いつの間にか蛙と虫の声が喧しくなっていた。時折、夜鳥の囀りも聞こえてきた。

場長は分厚い瞼の下の大きな目の茶色の虹彩を剥きだしにした。食べたり呑んだりしている。派遣員の表情を追っていた。

派遣員が黙り込む。天井の扇風機の音が殺風景な食堂に響いた。土岐は無意識のうちにその回転音に合わせて人差し指と中指でテ

ーブルを叩いていた。回転数を数えていた。

部屋中に扇風機の羽根の淡い翳が回転していた。

場長は皿の縁に口をあてがう。料理をほとんど平らげる。鶏の足の軟骨をしゃぶり始めた。

「お前たちはふたりで、何をひそひそ話しているのか」

と訊いてきた。

土岐は知っている英語の語彙で表現できる部分だけを掻い摘んで英訳した。

場長は、

「支離滅裂だ」

と言いたげに判然としない面持ちで娘が運んできたライスにカレーとヨーグルトをかけた。手の平でひと口サイズに握って食べ始めた。 

天井から下がっている白熱灯が扇風機の緩慢な風に揺れている。それに合わせてテーブルの上の様々な静物のぼやけた影が揺れ動いていた。蛾が一匹、電燈の周りを飛んでいた。鳳ほどの影が床と壁を落ち着きなく右往左往している。

場長はカレーとヨーグルトで汚れた右手をこねる。ボウルの水で器用に洗っていた。たまさか眼が合うと、

「授賞式に行くように彼を説得してくれないか。どうだ?」

と思いだしたように切望する。そう言われても土岐はなお派遣員の顔色をうかがって、脱力して、力なく首を横に振らざるを得なかった。

「彼は、ただ行きたくないと言っているのだから。理由は彼自身にもわかっていない。言葉でうまく説明できない。だから、どうにもこうにも、説得のしようがない」

と場長の寛大な理解を求めた。

場長は仕方がないと言いたげだ。下唇を突きだす。肩をすくめる。両手を広げた。席を立った。

「明日の払暁、礼拝があるので先に休ませてもらいたい」

と音を立てて椅子をうしろに引く。土岐に退席の許しを請う。

「あなたがたは、ごゆっくり」

と場長は言い残す。娘に何か目配せをして食堂を出て行った。

土岐は先刻から何となく息苦しさを覚えていた。派遣員の煙草の煙で空気が濁ってきたせいかも知れない。鶏も野菜炒めもスパイシーでまずくはなかった。昼食ぬきにもかかわらず疲労のせいか食欲はあまりなかった。とくに艶がなくぱさぱさの長粒ライスは食べる気がしなかった。

派遣員はゆっくりとライスを右手で食べている。左手でビールを呑む。煙草を吸ったりしていた。

場長が去ると少女は父親が使用していた食器を片付けた。それが終わると椅子に腰掛ける。派遣員の表情を見つめ始めた。彼に対して土岐が何かを言うと、そのときだけ土岐を振り向く。不審そうな顔つきをする。派遣員の言葉は理解できなくても、彼の心情はわかっているようだった。テーブルの上で細い指を組む。思い詰めたような潤んだ眼差しで彼を凝視していた。彼が笑うと微笑み、彼が考え込むと首をかしげた。彼の表情から彼の心持ちを懸命に読み取ろうとしているように見えた。

会話が途切れた。扇風機の回転音が聞こえた。部屋の空気はどんよりと澱んでいた。夜が更けてきていた。窓外の闇が濃くなる。大地の熱気がゆるやかに夜気に解き放たれつつあった。

蛾や蚊を入れないために部屋を閉め切っていた。人いきれで空気が重くなっていた。外気と繋がる網戸が二枚あった。空気の流れは感受できなかった。重厚な空気のマスクが口の周りにたむろしていた。いま吐きだした呼気をそのまま吸い込んでいるような気がした。夕食前にシャワーで洗い流した首筋や胸元に粘り気のある安物の接着剤のような汗が再び滲んできていた。

派遣員は下唇を突きだした。吐きだした息で幾度となく短い前髪を吹き上げていた。時々、思いだしたように日焼けした首筋に掛けた黄ばんだタオルで顔や喉の汗を拭っていた。

タオルの端の繊維がほつれている。綿糸が一本、不安定に揺れていた。

「外に出ませんか?もう涼しくなっているでしょう」

と派遣員はグラスに半分ほど残っていたビールをひと呑みにした。

土岐もそれに呼応する。瓶に少し残っていたビールをグラスに注ぎカラにした。カラ瓶を少女の前に置いた。

「おわったよ。片付けて」

と派遣員は彼女に後片付けを促した。

彼女は喉の奥が見えるほど大きな欠伸をした。立ち上がった。食器を重ねあげる。背伸びをする。テーブルを雑巾で拭き始めた。

彼女を食堂に残し、ふたりで通路に出た。

「地元の農業指導員を養成する教室を見てみますか?」

と派遣員は通路を隔ててむかいにある教室の中に入っていった。

薄暗い蛍光灯の明かりの下に二人がけの机が十数台あった。小さな黒板には、稲妻のような無数の罅割れが走っていた。教卓の脇の小さな二段の本棚には背表紙の擦り切れた本が各段にそれぞれ二十冊程度、相互にしなだれて並んでいた。

「生徒は全国からくるんですが、受講料は無料ですが、交通費と食費は自前なので、滞在期間はせいぜい一ヶ月ほどで、文盲に近い受講生もいるんです。でもかれらにとって地域の代表に選ばれることは名誉で、しかも知らない土地へ旅行ができることは、楽しみのようです。地方の地主の子弟が多いのが現状です。なかには村民の期待を集めた小作の代表のような賢い生徒もいるんですが、肥料の配合を教えてもそれを購入するカネのない連中が多いんです。みんなで交通費と食費を負担するのが精一杯なんでしょう」

と拳で黒板を軽くたたき、

「村長が地方政府に肥料購入の補助金を申請するようですが、賄賂を払えないので、なかなか貰えないみたいです。地主の子弟は小金持ちだから、賄賂も払えるし、自前で購入することもできるんですが、土壌や水質が地方によってまったく違うので、かりに教えたとおりにやったとしても、必ずしも、うまくいくとは、限らないようです」

と派遣員は講義口調で懇々と解説した。黒板の上方のコンクリートの壁に二十ポほどのワープロ印字で、

〈雨ニモマケズ風ニモマケズ〉

の詩が掲示されているのに気づいた。土岐が理由を訊いてみると、

「この国の農業指導員のあるべき姿を書いたつもりです。我が国の農業高校の教員には彼の信奉者が多いんです。自分も教えられてこの詩が好きになりました。ここに貼ったのは、『サウイフモノニ ワタシハナリタイ』ということを忘れないためです。これに興味を持った受講生がいたので、何が書いてあるのか説明したことがありました。『サウイフモノニ ワタシハマダナッテイナイ』というのが、詩の趣旨だと解説したら、彼らは異口同音に、『暑いから、雪は降らないが、みんな、暑さに負けていない』『慾はなく、決して瞋らず、いつも静かに笑っている人は、どこの村の中にでも、掃いて捨てるほど、何人でもいる』『一日に玄米を四合も食べている農民は、ほとんどいない』『何事にも自分を勘定に入れないのは、この国では、常識だ』『ほとんどの農民は、例外なく、小さな小屋に住んでいる』『誰だって、病気の子供があれば看病してやり、疲れた母があれば農作業を手伝い、死にそうな人があれば見舞いに行き、喧嘩や諍いがあれば、誰にも頼まれなくても仲裁をする』『日照りや冷害のときは、誰だって悲しくておろおろする』『他人にほめられようとして生きている人は一人もいないし、みんな他人に苦にされないようにして生きている』という訳で詩の意味を彼らには理解してもらえませんでした」

と軽く笑うように息を吐きながら、

「『サウイフモノニ ワタシタチハナッテイル』『ワタシタチハ サウイフモノデアル』というのが彼らひとりひとりの詩の感想でした。最後に、『そんなあたり前の詩が、なんで農業指導員のあるべき姿、生きる指針、理想像になるのか、まったくわからない』と言うので、もう詩の解説はやめました。かれらにそういわれて、いつも剥がそうと思っているんですが、未練があってなかなか剥がせないんです。受講生は農繁期で村に帰っているので剥がすなら今かも」

その教室をあとにした。玄関からふたりで建物の外に出た。

夜気は部屋の空気よりも薄く軽やかに感じられた。蛙の長閑な鳴き声は遠くの夜の底から、虫の声は近くの浅い闇の奥から聞こえてきた。玄関のポーチから食堂の脇に続く廻廊に手造りの小さな木のテーブルと丸椅子が二脚置いてあった。食堂の窓からこぼれてくる明かりが途切れる辺りに派遣員は椅子を運んだ。

土岐は誘われるままに腰掛けた。自動車の座席で植えつけられた尾てい骨の痛みがよみがえってきた。

地面は少し軟弱だった。椅子の脚が数センチめり込んだ。最初傾いていた椅子が脚が不均等に地面にめり込んだ。水平になった。

派遣員は深い溜息をつきながら夜空を仰いでいた。横顔の輪郭だけが見えた。瞳の中の微細な光が遠い漁火のように蠢いていた。

食堂の明かりは足元で頼りなげに消えかけていた。前方は見渡す限りの漆黒の闇だった。フィラメントが徐々に明るさを増す豆電球のように、夜空の星々が少しずつ明るく見え始めてきた。地平線に近い一等星は徐々に眼に突き刺さってきた。

こうした星空は首都では拝めなかった。ポンコツ寸前の自動車やバイクたちが無頓着に撒き散らす夥しい排気ガスのせいに違いない。

 不意に遺伝子に組み込まれているような懐かしいという思いが込み上げてきた。涙腺に心地よい痛みを感じた。

しだいに星々の輪郭がわなわなと歪んできた。さらさらの涙が滲み溢れた。星々が変形と癒着を繰り返した。鼻腔の奥に痺れるような熱い感覚が広がっていった。体がふわりと浮き上がるような気がした。首が倒れかかる独楽のようにふらふらと円錐形に揺れた。眼の焦点が合わなくなった。泪がひとしずく、右頬を伝って顎の淵から喉元にくるりと転落した。

開襟シャツの袖で眼中の滴と右頬を拭き取った。再び星空を仰ぐ。顎の下に手を差し伸べられて首だけ吸い込まれて行きそうな気がした。星々は一つ一つ独立に輝いている。明るい星、小さな星、天空の黒い模造紙に滲んでいる星雲。いずれも気高い。犇めき合っている。互いに干渉しあわない。自尊の光を煌然と放っている。

遥か遠くのほうから、派遣員の清澄な声がした。隣を見ると、斑な無精ひげを蓄えた尖った顎を突きだしている。彼も星空を見上げていた。

「一つだけわかっていることがあるんです。ここにいたい理由は、この星屑の空です。たまらなく好きなんです。晴れ上がった夜はいつもこうして見上げるんです。至福のとき、恍惚のとき、愉悦のときとでも言うんでしょうか。こうして夜空に抱かれ、融け込むようにして死んで行くことが夢です。首都にはこの星空がない。それが行きたくない理由の一つかも知れない」

ととつとつと語りながら、

「もう一つ思いだしました。昼間、農作業を終えて、草の上に寝転んで昼寝する。草いきれが体を包んで、ときおり、そよ風が小川の冷気をかすめ取って、頬を打つ。そんなときもこのまま死ねたらと思う。ついでにもう一つ。夕方、汗を洗い流すついでに、近くの川の流れのゆるやかな澱みで、泳ぐんです。泳ぎ疲れるとそのまま寝てしまう。浅瀬に流れ着くと、水の流れが体全体を嘗め回して、耳元で囁く。体が水に溶け、意識だけが川に浮かんでいる状態。こんなときもこのまま死ねたらと思う。こういう思いに頻繁に駆られるようになったのは、ここにきて初めてなんです。だからいつまでもここに居たいと思うんです」

と言うと派遣員はいつまでも黙り続けた。寝ているのかと時々傍らを見たが眼は開いていた。

不意に、

「ゴンゲイガウさんはお元気ですか?」

と派遣員が聞いてきた。突然の脈絡のない質問だった。

思わず聞き返そうとした。土岐は長谷川の事務所で挨拶をしただけだ。ゴンゲイガウをよく知らない。

派遣員は土岐の返答を期待していないようだった。

「この国に来た日の夜、たまたま長谷川さんの会社の事務所でパーティーがあって、所長さんに招かれたんです。そのとき、彼女に一目ぼれしちゃって、コックの方に、『彼女は独身か?』って聞いたら、ほんとうか、嘘か、冗談かわかりませんが、『俺の女だ』って言うんで、すぐあきらめたんですが。彼女みたいなのが好みなんです」

と語る派遣員の表情を読み取ろうとした。薄暗くて、派遣員の言う意味を理解することは出来なかった。

「彼女は去年結婚したそうです」

と土岐は長谷川から聞いた話を簡単に伝えた。

「そう言えば、そのとき、長谷川さんはおられなかった」

「出張でどこかに行っていたんですかね」

「開発銀行の行員の奥さんもお元気ですか?」

「牛田夫人ですか。ちょっとお会いしただけですけどお元気そうで」

「牛田さんというんですか。彼女とっても親切で、チャーミングでパーティーのあった翌日の晩、自宅に招待してくれて、ご馳走してもらいました。でもご主人もそうだったけど、酒癖が悪くて、ご主人が飲みつぶれた後、食堂で泣かれて、抱きつかれて閉口しました。彼女、なにか悩みがあったみたいですね」

 それを聞いて不快な想いが土岐の胸の底のほうから緩やかにこみ上げてきた。自分の女でもないのにジャナイデスカ夫人は自分に気があると思っていたからかも知れない。彼女は頭のよくない男は嫌いではなかったのか。彼女に対するイメージが揺らいできた。そんな権利が自分のどこにあるのか説明できない。その衝撃は余震のようにしばらく続いた。

「一等書記官の奥さん、あの方は綺麗な人ですね。お元気ですか?」

「あなたがこの国に来たときにはいなかったんじゃないですか」

「いえ、ビザの延長の件で大使館に相談に行ったとき、たまたま廊下で出会って、一等書記官の加藤さんに紹介されたんです」

「彼女にもちらっとお会いしただけですが、お元気みたいですよ」

と土岐は話を合わせた。

「まあ、わたしとはまったく縁もゆかりもない人たちですが、こういう国にくると出会ってしまうんですね」

 それからまた、沈黙が続いた。派遣員が慶子をきれいだと感じたということは、そう感じさせる表情が慶子にあったということだ。所詮、慶子は数少ない同国人の中から長谷川のような手近な間男を調達したということなのかも知れない。本国で会っていれば、慶子は長谷川を歯牙にもかけなかったに違いない。

漫然と星空を見上げていて、首が徐々にだるくなってきた。

「疲れているので、お先に失礼します。おやすみなさい」

と土岐は就寝の挨拶をした。

雑草の夜露を踏みしめた。闇の中を手探りで自室に戻った。そのままベッドに倒れ込んだ。すぐには寝付かれなかった。ビールを呑みすぎたせいか、星空を見たせいか、少し気が高ぶっていた。快い疲労に体がベッドに沈み込んだ。うとうとしかけたとき、尿意にせかされてトイレに立った。

蚊の羽音、扇風機の回る音、ベッドの軋みが気になって輾展とした。ショルダーバッグの中の耕運機のファイルが気になった。どうしても読む気にはなれなかった。B5のノートパソコンを開けて、メールを読もうかと思った。無線LANが有効なのか、LANケーブルが使えるのか確認しなければならない。とてつもなく面倒なことのように思えた。

ベッドにあおむけに横たわる。ドアの上のガラス窓から夜空が見えた。脈絡もなく不浄なうたかたのように前頭葉に浮かぶさまざまな情念がなんとなく気障りだった。大学を卒業して大学院に進学して以来、得体のしれない漠然とした焦燥感や名指しがたい違和感がその正体だった。それが、

「サウイフモノニ ワタシモナリタイ」

と呟くと霧深い東雲の山麓に曙光が差し込むときのように、にわかに雲散霧消した。

思い立ってショルダーバックから携帯電話を取り出した。着信の表示があった。長谷川だった。腕時計を見るとまだ十時前だ。折り返し電話をかけた。呼びだし音が十回程して長谷川が出てきた。

「ハロー」

と言っているらしい。よく聞こえない。

「土岐です」

と大声で答えると、

「おう、どうだ、そっちは」

という卑猥なだみ声が戻ってきた。そのだみ声の傍らで女の嬌声がしたような気がした。

「思わしくない」

と正直に答えた。

「そうか、こっちは大丈夫だから、帰りは月曜日でもいいよ」

「念のため、そっちの携帯メールアドレスを教えてくれないか」

「じゃあ空メールを送信しておく。まあ頑張って。それじゃお休み」と言う声に紛れて、矢張り女の声がした。ひょっとしたらゴンゲイガウか慶子かも知れないという思いがした。ありえないとは思うが、先刻の優子の話が脳裏にあって、背中に蝿取紙をくっつけられたようないやな予感がした。

「お休み」

と言いかけた。既に切れていた。

ついでに着信メールを見る。ジャナイデスカ夫人からはいっていた。のぞき見るつもりはなかった。読んでしまった。


@加藤夫人に電話をかけたらいなくて、彼女どこだか知らない?@


 着信時刻は午後四時三分になっていた。土岐と長谷川がハイヤーに乗っていた時刻だ。慶子は列車の中だ。土岐はハイヤーの中で着信音を聞いていない。設定を確認するとマナーモードになっていた。優子から電話があっても慶子は発信者名を見て出なかったに違いない。出れば長谷川と一緒だったことを隠さなければならない。土岐はついでに二件目のメールも見た。着信は、午後七時三十分だった。


@やっとつかまった。彼女どこに行ってたのか、どうして電話に出なかったのか聞いても言わないのよ。なんでかしら。知らない?@


優子のメールの文字が、先刻の派遣員の話のせいで、すこし淫乱に見えてきた。

いつのまにか、携帯電話を握り締めたまま着替えもせずに眠入ってしまった。


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