土岐明調査報告書
あっ軽いみなし公務員の徘徊(金曜日午後)
長谷川が川野に外出許可を願い出たところに見計らったように邦人がふらりと訪ねてきた。土岐は名刺を交換した。その邦人の所属は開発銀行で、
〈牛田恵一〉
という。
「コンニチワさんで~すゥ。皆さ~ん、お元気してますか?」
と疲れを知らないピザ屋の出前のアンチャンようにショスタロカヤに軽快に近づく。長谷川が小声で土岐に囁いた。
「ショスタロカヤは彼のことを、『ジャナ』と呼んでいる」
「ジャナ?」
と土岐も小声で応えた。
「われわれが、『ジャナイデスカ』と呼んでいるからだ。でも、地元の人間にはとても人気があるようだ」
牛田は所長にダンサーのような身軽な身のこなしで丁重な目礼。
「所長さん、軽く、おテニスでもいかがですかァ?」
と底抜けに明るく、寸毫の屈託もなく快活に誘う。
「ありがとさん。俺はやめとくよ。ゴルフなら別だけど」
と川野はにべもない。歯牙にもかけない。続けて、
「こんな時間にぃ、まだ三時でしょ。開発銀行さんのお仕事は無いのぉ?小人閑居して不善を為すってぇか?」
と川野は牛田の口調を真似て皮肉っぽく訊く。
牛田はハンバーガー屋のお兄さんのよう。泰然自若としてにこにこ笑っている。知的障害者ではないかと思わせる。
「ちょっと、テニスを付き合ってくれ」
と長谷川が土岐に言う。
「ラケットもウエアも持ってきてないぞ」
と土岐は不服を込めて言う。土岐は業務を始めたい。一向にその環境が与えられない。
(テニスをするゆとりがあるのなら、わざわざ日本から呼び寄せる必要はなかったのではないのか?)
依頼しておきながら大した仕事がないことも過去に幾度かあった。今回は何千キロも旅をしている。長谷川はそうした土岐の憤懣に気づいていない。
「審判をお願いしたいんだ」
「それも依頼の一部か?」
「女性が二人いるんで、観察してもらいたい」
ジャナイデスが所長のデスクから戻ってきた。
「じゃあ、いきましょうか?土岐さんもどうぞ」
と言う明るいジャナイデスカの声に引き込まれるように、そのまま三人で外に出た。
玄関のポーチで、ジャナイデスカがいきなり唾を吐いた。真っ赤な泡が干からびかけた芝生にぽたりと落ちた。広がって、スターフルーツの切り口のような形になった。
「ビンロウか。汚いね」
と長谷川が校門で待ち構える高等学校の風紀委員のように嗜めた。
「けっしてェ、うまいもんじゃないんですがァ、節煙しているとォ、とっても、とっても、口さびしいじゃないですかァ」
と土岐に擦り寄って同意を求めてきた。
土岐が目をそらす。
ジャナイデスカは長谷川の右腕に両手で抱きついた。
暑苦しそうに長谷川は顔を顰めて振り払った。
ジャナイデスカのフランス車は、影絵のような木陰の中にすっぽりと納まって停まっていた。
土岐が中を覗く。
丸顔の女性がどぎまぎしたような表情で助手席に座っていた。
「これ、家内の優子です」
とジャナイデスカは土岐に紹介した。
優子は、その造作が少女マンガに描かれているような感じ。眼が大きく、まつ毛が長かった。
土岐が助手席の優子に、
「こんにちは」
と挨拶する。
優子はよそよそしく、少し頭を下げて会釈を返してきた。続けて、
「暑いですね」
と土岐が声を掛けても、優子は、
「ええ」
と言うだけ。愛想がなかった。眼に見えないバリアを体中に張り巡らしている。主人の視線を意識してなのか、たまたまそういう気分なのか。
優子の産毛の密集したうなじを見る。後部座席に滑り込む。
ジャナイデスカがアクセルを踏み込んだ。
その瞬間、優子の流し眼が後部座席の長谷川を捉えた。
土岐は優子の後ろ、長谷川はジャナイデスカの後ろに座っている。優子の表情は土岐には見えない。頭の角度からルームミラーに視線が向けられている。優子の視線のルームミラーの入射角から反射角を辿って行く。長谷川の視線に辿りつく。
土岐が長谷川の顔を見る。長谷川は慌てて眼をそらし、
「テニスコートは海岸沿いの植民地時代に建設されたホテルの中にあるんだ。当時の総督の名前がそのままホテルの名称になっている」と澄まし顔。
途中、国民銀行に立ち寄った。
土岐は長谷川に誘導されて日本円を皺だらけで擦り切れて印刷が多少不鮮明になった現地の札に両替した。
長谷川は会社の口座から現地通貨を引きだした。その後、駅前の埃だらけの看板を掲げている旅行代理店で土岐の旅行保険を買った。ジャナイデスカの車に戻る途中で、長谷川が話し出した。
「去年、国民銀行にキャッシュディスペンサーを売り込みに行ったことがあったんだ。少し説明すると、担当者はすぐに断ってきた。理由は、第一に、機械が行員の年収の五十年分もして高額すぎるということ。第二に、札の半分以上が汚くて、機械に投入できないだろうということ。第三に、カード社会がこの国では浸透していないということだった。そもそも、預金口座それ自体を大半の国民は持っていないというんだ。つまり、一般国民は銀行に預金するほどゆとりのある現金すら持ち合わせていないと言うのだ。給与振込も公務員と一部の大企業の社員だけだ」
土岐は聞き流していた。
寄り道をしたことを長谷川がジャナイデスカに詫びながら車に戻る。
青空の中に墨汁を滴らせたようなスコール雲が湧き出てきていた。
「これ、毎夕のことなんだ」
と長谷川。
少し薄暗くなった。ぽつんときたらいきなり沛然と降ってきた。
ジャナイデスカがワイパーを最速にしても前方が見えない。
仕方なく車は路肩に止まる。スコールが弱まるのを待った。
「すごい雨ね。地球温暖化の影響かしら」
とやっと優子が世間話めいたことを口にした。
「京都プロトコルはとっくに発効しているはずなのに」
と土岐が優子が知っていそうもないことを言う。
優子は頑なに後部座席に視線をむけようとしない。
優子はジャナイデスカには幾度となく、
「それなあに?」
と聞いている。口癖のようだ。
二三分すると驟雨のようになった。さらに一二分するとぴたっとやんだ。雲が切れてきた。分厚い緞帳が開く。みるみる明るくなった。
四時前にテニスコートに着いた。駐車場に洒落たイタリア車が先着していた。
先頭にジャナイデスカ、次に優子、その後ろに長谷川、最後尾に土岐の順でクラブハウスに向かう。歩きながら、大きく振った長谷川の左手が幾度も優子の腰のあたりに触れた。
男三人でクラブハウスの中の男子用のプライベートロッカー・ルームに入った。長谷川のロッカーを開けると脱ぎ捨てたテニスウェアーが放り込まれていた。豆腐の饐えたような強烈な臭いがした。他に着る物がない。長谷川はそのまま身に着ける。
「くちゃい。くちゃい。アンシンジラブルゥ~」
と先に入っていたジャナイデスカが大げさに鼻を摘まんだ。
長谷川がラケットとボール缶を抱えてロッカールームを出ようとした。白人が二人、シャワールームから出てきた。
「先週、ふたりで対戦して、ダブルスでラヴゲームで惨めに負けてるんだ。これまでダブルスでは一度も勝ったことがない。パートナーのせいだ。だけど、こないだの日曜日に、赤毛の方のアメリカ人とやって、おれはシングルスで辛勝している。そのとき、アメリカ人に、『もう、ワンセットやろう』と食い下がられたが、素っ気なく断った。負けず嫌いなヤンキーで、かなり悔しがっていたから、I kill youと冗談めいてメールを送信してもおかしくはない。だけど、彼にメールアドレスを教えていないはずだ」
「ハバ・ナイス・ウィケン」
とジャナイデスカがアメリカ人に愛敬たっぷりににこやかに声を掛けた。
「You, too」
と黄色人種を見下したような常套句が返ってきた。
「二人ともこの国の優遇税制を利用して、ヘッジファンドのペーパーカンパニーの管理をしているんだ。詳しいことは言わないんで推察するしかないが、いつも暇そうだから、ファンドマネージャーじゃないらしい。タックスヘイブンのただの管理人らしい。郵便物の管理でもしてるんじゃないかな」
と長谷川が二人に聞こえるように話す。
二人はにこにこしている。日本語は全く分からないようだ。
テニスコートの雨はほとんど乾いていた。数箇所、ジグゾーパズルのピースが抜け落ちたような小さな水溜りがあるだけ。
金網の外に十歳ぐらいの少年がいた。コートの金網の入り口で待ち構えていた。
「旦那、テニスボールを買わないか?」
と長谷川に売りに来た。
三個あるうちの一つを握り締めてみると湿っぽい。プレッシャーボールで、空気がだいぶ抜けている。
「いらない。こんなものにカネが払えるか」
と長谷川が投げ返そうとした。そのボールをジャナイデスカがインターセプトする。小額紙幣をだして全部買い取った。
「よせよ、そんなの使えないよ。無駄ガネじゃないか」
と長谷川が説教する。
「いまァ、ここでェ、買っておかないとォ、あとでェ、金網のそとにでたボールをとられちゃうじゃないですかァ」
とジャナイデスカは買ったばかりのボールを通路を挟んで隣にある無人のプールサイドに打ち込んだ。
もう一人の少年が入り口と反対側の金網の外にいた。背丈近く生い茂っている雑草の中から首だけだしている。金網にしがみついて、顰め面で土岐を眩しそうに見ている。
「ボールが出たら、いつも買い取っているでしょ」
と思いだしたように、長谷川が詰問するような口調でジャナイデスカに言った。
「いやァあれは手間賃で~す。買ってるわけじゃないですゥ」
とジャナイデスカは少年に親しげに大きく手を振った。
「かれらどうもォ、山のほうから毒蛇をつかまえてきてェ、このへんにィ、はなしがいに、しているらしいですよォ」
とビニールケースからラケットを取りだした。
「ありそうな話だ」
と長谷川は苦笑する。優子が出てくるのを待ちながら、長谷川が話し出した。
「ゴルフ場にもゴルフボールを売りにくる少年たちがいるんだ。ブッシュや深いラフに打ち込むと五、六人の少年が競い合ってボールを奪い合う。買い取ってやると、お追従口で、Super shotと叫んでベストポジションに蹴りだしてくれたり白々しくChampion’s shotと叫んでフェアウエーに投げ入れてくれる。鳥や獣と同じ扱いだからペナルティーなしだ。コンペをやると中には少年を一日雇うプレーヤーもいる。わざとブッシュに打ち込んで、ベストポジションに出してもらう。スーパーショットの連続だ。逆に、ロストボールの購入を拒み続けると、フェアウエーをキープしていても先回りして踏みつけられて目玉にされたり、池やバンカーに蹴り込まれたり、ブッシュの中で牛の糞や蛇のとぐろにはめ込まれたりすることもある」
とゴルフボールを蹴るマネをして、
「そんなときはアンプレアブルの一打罰だ。所長はいつも左右両サイドに一人ずつ雇う。スコアが九十を切るわけだ。そういうゴルフに面白味を感じないんで、接待の場合は別だがプライベートの誘いは極力断ることにしている。そのせいで、『商社マンの風上にも置けない付き合いの悪い奴』という風評が邦人社会に定着したようで、どうしてもパーティーのメンバーが足りないとき以外は誘いが掛からなくなった。でもゴルフ自体は嫌いじゃないんで、最近はもっぱら、樫の木が入り口にある郊外の打ちっ放しのゴルフ練習場で週末に打つことにしてる」
と素振りをして、
「ゴルフのメンバーから外れたことで、十九番ホールの麻雀の誘いも来なくなった。でも、これは幸いだった。麻雀は負けても勝っても不愉快だから。負ければカネを取られるのが不愉快だし、勝てば勝ったで対戦相手が自らのつきのなさを呪い、カネをだし渋ぶり盗人のように悪態をつかれるのが不愉快だ」
クラブハウスから優子がもう一人の婦人と談笑しながら揃って出てきた。
背の低い優子が半歩後ろを歩いている。
二人がコートに入ってくるまでジャナイデスカはタオル生地のヘアバンドで長髪を押さえ込み、ラケット面のガットで左手の平を叩きながら待っていた。
「あれが加藤夫人の慶子さんだ」
と長谷川が土岐の右の耳元で囁く。土岐を紹介した。
慶子は色白の長身で、細面で切れ長の眼をしていた。
土岐が少し頭を下げて、上げる。慶子の目線が土岐の右耳を掠めていた。焦点はその少し後ろにある。
土岐が右目の端で、慶子の目線の焦点を伺う。長谷川の思い詰めたような眼があった。
慶子とジャナイデスカがペアを組んで練習を始めた。
「昔、ジャナイデスカ夫婦がペアを組んで敗北のあと大喧嘩して、それ以来この夫婦はミックス・ダブルスのペアを組んだことがない。マージャンやブリッジと同じようにテニスのダブルス・ゲームでも取り繕われていた本性や人格や性格や人間関係が剥きだしになる」
と長谷川は土岐の傍らで耳打ちする。それから、申し訳なさそうに、
「悪いけど、審判をやってもらえるか?いつも、セルフジャッジでやってるんだけど、必ず、インかアウトでもめるんだ。ジャナイデスカと優子さんはペアを組んでも、もめるし、対戦相手になったら、なったでまたもめるんだ」
四人が手にした練習ボールが全部アウトになった。
ジャナイデスカがラケットを回転させた。
「Which?」
と叫び長谷川が、
「Rough」
と答えて土岐の
「Love all play」
でゲームが始まった。
チャンスボールが慶子に行く。慶子は判で押したように、センターに緩くバックスピンの掛かったスライスボールで返球してくる。優子と長谷川はそのボールを追って拾いに行く。何回かに一度は勢い余って優子の弾力性のある肩に接触する。そのとき優子は必ず、ネットの向こうのジャナイデスカの表情を追う。するとジャナイデスカは条件反射のように眉根を吊り上げて不愉快そうな顔になる。同時に、それを予想していたかのように慶子は鈴を転がすように軽やかに笑い出す。
そこで、優子の耳元で長谷川が土岐に聞こえるように囁いた。
「ご主人、あなたのことほんとに愛しているみたいですね」
「主人のこと?やァだァ、ストーカーみたいなのよ」
「夫婦でストーカーはないでしょ」
「だってわたしがシャワー浴びているとこを覗き込んだり、触られると鳥肌が立つの」
と優子は、
「あっちに行って」
とばかりに、自分のラケットの先で長谷川の腰を押しこくる。それから、スコートを翻す。ラケットの柄を両手で握り締める。前衛に戻る。雁行陣を造った。
第一セットはゲームカウントがシックスオールでタイブレークになった。
長谷川は決着をつけることを避けて、
「引き分けにしましょう。ちょっと休憩」
と言って、ゲームを中断した。
ジャナイデスカと夫人たちはベンチに引き上げる。用意してきたドリンクを飲む。
長谷川は審判台の梯子に掛けていたタオルを取りに来る。土岐の足もとで長谷川が汗を拭きながら言う。
「『クライアントとゲームをするとき、どんなゲームでも勝ち過ぎてはいけない』という所長の言いつけがあるんで、ゲームはいつも接戦となるんだよ。勝ちそうになるとすべてのショットでエースをねらう。たいがい、ミスショットとなる。エースショットが決まって、勝ったとしても、『まぐれ、まぐれ』と謙遜するんだ。相手も負けたとしても後腐れがない。三人とも、『このメンバーはいつも接戦でいいゲームをする』と折に触れてそう感想を言う。誰もおれがゲームポイントを調整していることに気づいていないようだ」
スコールの後で湿度がかなり高かった。コートから立ち上るかげろうのような蒸気。再び照りだしてきた陽光。長谷川の玉の汗が止まらない。
土岐も屋外サウナのようだと思う。手のひらに汗が溜まる。審判台の手すりを握る手が幾度も滑った。
第二セットが始まった。一時間もたたないうちにジャナイデスカが顎をだした。調子も悪かった。ダブルフォルトが多い。ストロークはアウトする。ボレーは浮く。ドロップはネットした。
パートナーの慶子の呆れ返ったような、うんざりしたような大げさな表情が長谷川にむけられる。
審判をしながら土岐は、4人のプレーヤーのプレーを通じた人間関係を観察していた。
ジャナイデスカは喜怒哀楽のはっきりしたお調子者。心に裏も表もない。策略を一切講じることのない平板な性格。
優子は対戦相手のジャナイデスカに対してうんざりしたような軽蔑的な視線を投げかけている。眩しいのか、困惑しているのか、眉毛の線を常に上反りにさせている。興福寺の阿修羅像を連想した。
慶子は手足が長い。いかにも遊びとして、余裕を持ってプレーをしている。ミスをすると一々カリカリするジャナイデスカのプレー態度と比べると対蹠的だ。
ジャナイデスガがサーバーのとき、ネットにかかったボールを慶子はラケットの先で小突くようにゴロで返球する。マナーとしては褒められない。サーバーは体力を使う。返球はワンバウンドでサーバーの胸に届かせるのが常識だ。慶子のような返球では、サーバーはボールを受け取るとき、その都度、腰をかがませなければならない。そのつど、腰の筋肉を使う。サーバーの疲労が累積する。
これに対して優子は、長谷川がサーバーのとき、必ずネットに掛ったボールを拾い上げる。ワンバウンドで長谷川の胸に届くように、丁寧に返球していた。ジャナイデスカがその違いに気づいているようには見えなかった。
ジャナイデスカがセカンドセットを終えたところで、
「もうやめよう」
と言いだした。
「たかがテニスでもォ、これだけ悪いとめいってきますねェ。この辺で切り上げてプールでェ、泳いでいきませんかァ?今日は何かとてつもなく暑いですよ」
とジャナイデスカはラケットを放り投げた。
それを見て優子は軽蔑の眼差しでジャナイデスカを見た。
慶子も似たような目線をジャナイデスカにむけた。慶子の目元は笑っていた。同時に、優子にむけられた慶子の表情には、
「どうする?」
という問いかけがあった。
水の出の悪いシャワーよりはプールに浸かったほうが汗は取れることは皆知っていた。
三人ともジャナイデスカの提案に従った。
「水着を貸してやるよ」
と長谷川が言う。
土岐も一緒にロッカールームに行った。
ジャナイデスカは、さっさと着替えて、ロッカールームを出て行った。それを見届けて長谷川が話し出した。
「ジャナイデスカ夫人は、ジャナイデスカの居ない席では彼のことを、『恵一さん』とは呼ばずに、『恵みちゃん』と呼ぶんだ。いつか理由を聞いたことがあった。『だって、ロブばかりあげたり、スマッシュを打てるようなチャンスボールがあがっても、なよなよとドロップを落としたりして、プレースタイルがおばさんみたいなんだもの』と言っていた」
長谷川は笑いながら話す。おかしさに堪えられない。
土岐はロッカールームで、借りた水着に着替えた。一目散にプールに飛び込んだ。
プールサイドには白人の男女がふたり。ビーチチェアに仰むけになって白い肌を焼いていた。
ジャナイデスカはうまずたゆまず、身投げのような飛び込みとクロールを繰り返していた。
慶子はひまわりの花柄のビキニ、優子は赤い無地のビキニで、プールサイドに現れた。
長谷川は彼女らの水着の下の姿態を知っているのか、ちらりと見るだけで、水着姿をまともに見ることができない。
そういうことをジャナイデスカは知らぬげにバシャバシャと音を立てて泳いでいる。
慶子の水着姿に対して長谷川が何を感じているのか、優子は全く気にしていない。
優子の水着姿に対して長谷川がどう感じているのかを、慶子も全く気にしていない。
土岐は長谷川の夫人たちを見る視線に、猥褻な雰囲気を感じる。
夫人達が長谷川の猥雑な視線を気にしていないように見えるというのは、土岐が二人の会話や表情を見る限りにおいてということだ。しかし、女同士の異性の視線に対する鋭い直感を土岐が理解していないだけのことなのかも知れない。
彼女らの水着姿に興奮してきそうな体を鎮めるために、土岐は飛び込み板から水面を切るように飛び込んだ。潜水したまま反転した。上を見上げる。碧空にオレンジの雲が途切れ途切れに棚引いていた。
平泳ぎと背泳ぎに疲れる。プールの隅で仰むけになった。
水は生温い。
ジャナイデスカの飛び込む水音、優子の犬掻きのような平泳ぎの水音、慶子のゆったりとしたクロールで水面を叩く音だけが聞こえてきた。
長谷川はプールサイドでビーチチェアに腰かけている。
薄目を開ける。東の空が次第にくすんで行く。時々深呼吸する。体が浮かび上がる。そして沈む。飛沫の水音が近づく。そして遠ざかった。時折ゆるやかな波が体を横切った。薄い水の膜が顔面を定期的に通り過ぎた。思考が停止した。とりとめのないのっぺらぼうの想念が海馬を素通りして浮雲のように脳髄の奥に消えていった。
海岸線の波濤が耳鳴りのように聞こえてくる。国道を通る車の路面を疾駆するタイヤの軋み。警笛とともに近寄って、去ってゆくディーゼル機関車の地響き。プールサイドで交わされる散漫な英会話。ボーイがタイルをだらだらと水洗いするモップの撥ねる音。プールの縁に柔らかく打ち寄せる波の囁き。不意に戦ぐ夕風にココヤシの葉が擦れ合うざわめき。軽く閉じた瞼越しに辺りがあわただしく暮れなずんで行った。
「疲れた。そろそろあがっちゃいますか」
と邪気のないジャナイデスカの明るい声がした。
「あら、もう?」
という慶子の声が半分水の中に掻き消えた。
土岐が声の方を見る。橙色の夕陽の光背がジャナイデスカの後頭部にあった。もう一度、ゆっくりと背泳ぎをする。プールを出た。東の空を見る。黒い縁取りのある雲が濃紺の空に所在なげにたゆたっていた。
突然プールサイドに白熱灯が燈された。明るいのは照明だけ。背後の深く蒼い空が不意に遠ざかる。白熱灯から遠いプールサイドが急に薄暗くなった。生温い黄昏の中を潮風がゆるやかに流れていた。
土岐はプールから上がる。首を傾け片足でジャンプしながら耳の奥の雫を落とした。そのままテニスコートのロッカールームにむかおうとした。
「ドイツビールでもォ、一杯どうですかァ?」
とジャナイデスカが長谷川の向かいのピペルの垣根の前の籐椅子に腰掛けた。
それほど喉は渇いていなかった。土岐は付き合うことにした。
「私たちはお先に失礼」
と慶子が優子とともに、プールサイドから消えた。
土岐の視界の縁で、優子が軽く別れの会釈をしているのが見えた。
背筋に少し張りを感じていた。仰むけになりたかった。
ビールを注文しようとした。財布がロッカーの中であることに気づいた。取りに行くのも面倒臭い。
「おカネは?あるんですか?」
と土岐がジャナイデスカに訊く。
ジャナイデスカはスイムスーツのポケットを指差した。
「それでだいじょうぶ?おカネ足りる?」
と長谷川が心配する。
ジャナイデスカはあばら骨の浮き出た洗濯板のような胸を平手で叩いた。
「一杯だけなら、だいじょうぶですゥ。おごらせてください」
と手招きしてボーイを呼び寄せる。ドイツビールを三本注文した。
「チップはありますか?」
土岐はジャナイデスカに確認した。
「どうですかねェ、ちょいと足りないかなァ」
と腰を浮かせる。ポケットからコインを取りだした。
それを見て土岐は重い腰を上げた。ロッカールームに財布を取りに行った。着替えを済ました。海水パンツをビニール袋に詰め込んでプールサイドに戻った。
臙脂のプラスティックテーブルの上にコップとビール瓶が三つずつ置いてあった。
ロビーに立ち去るボーイの寂しそうな背中が見えた。
「チップ足りました?」
と土岐がジャナイデスカのポケットを見る。コインの膨らみが消えていた。
「いいんですよォ。あいつは顔みしりだから。つぎにたくさんやれば、ネッ。チップは必ずやらなければいけない、というものでも、ないじゃないですかァ」
とジャナイデスカはふざけて卑猥な仕草でビール瓶を喇叭呑みした。
「どうもォビールをおたがいにそそぎあうというのはァ我が国固有の文化みたいですねェ。アメリカにはァ大ビンはないしィ、ホームパーティーでだされるビールはァ小ビンかァ、カンビールじゃないですかァ。みんな小ビンかァ、カンを手に持ってェ、うろうろしているじゃないですかァ。途上国には大ビンもあるけどォみんな自分のグラスにしか注がないじゃないですかァ。なぜだかわかります?」
と土岐に聞いて来る。
土岐が左右に首を振ると、
「今年の正月、ホテルの邦人新年初顔合わせのパーティーで聞いたことのある話だな」
と長谷川。
土岐は少し疲労を覚えていた。
「なぜですか」
と聞くのも億劫だった。半分目を閉じたまま、もう一度首を横に振った。
「アメリカはァ、個人主義の国じゃないですかァ。ビールをどれだけのむかはァ、個人の勝手でしょッ。のむことを強要してはいけませ~ん。途上国ではビールはゼイタク品じゃないですかァ。もったいなくてェ、ひとにはやれないでじゃないですか」
天空のほぼ中央に白銀の綿雲が淋しげに漂っていた。南北に横たわっていた。入り日が海中に沈んでゆくのに同調して萎んで行く。そのひとひらの雲の西方はイエローピンクに染まる。東の空はダークブルーにさめてゆく。涼やかな微風が頬と前髪を間歇的に撫でて通り過ぎて行った。
籐椅子に深々と沈めた背中が少し火照っていた。首筋から腰にかけて心地よい疲れが筋肉を包んでいた。ドイツビールのアルコールが胃袋から血管を経巡る。全身の末梢細胞に染み渡ってゆく。喉の渇きを覚えた。グラスのビールはカラになっていた。
ビール瓶を持ち上げた。フロントに屯しているボーイにドア硝子越しに大きく振った。気がつかない。カラのビール瓶を持つ土岐の手をジャナイデスカが握ってきた。
「土岐さん、シーフード・レストランにいきませんかァ。先週はァ、長谷川さんとキングサイズのステーキだったしィ。どうですゥ?」とジャナイデスカが腹筋をトタン板のように波だたせた。筋張った腕で土岐の追加注文を力強く制す。長谷川の同意を求めている。
「クイーンサイズのプライムリブなら、また食べてもいいよ」
と長谷川。執着する様子はない。ジャナイデスカに同意した。
プールサイドを囲繞するピペルの影が背後の夜陰に熔解しつつあった。
ビール瓶の残量を見ようとした。こんもりとした宵闇が瓶の底を覆い隠していた。
長谷川が立ち上がってロッカールームの方に歩きだした。
土岐が長谷川に追随する。プールサイドを振り返る。二本の白熱灯が場違いなほど異様に明るく見えた。
ジャナイデスカが追いかけてきた。
ジャナイデスカの車の中で土岐は隣の長谷川に問うた。
「僕の業務はいつ始まるんだ?」
「もう始まっている」
と長谷川は後部座席からジャナイデスカの後頭部を指差した。
(ということは、ジャナイデスカもI kill youの容疑者の一人であることを意味する)
と土岐は解釈した。動機の見当がつかない。
「動機は?」
と土岐が言った言葉にジャナイデスカの耳がピクッと反応した。
「まあ、夕食をくいながら」
と長谷川は言葉を濁した。
下宿の安ホテルで、土岐と長谷川は一旦降ろしてもらった。
土岐は石鹸を使ってシャワーを浴びたかった。下着も取り替えたかった。七時にシーフード・レストランで再会する約束をしてジャナイデスカと別れた。ジャナイデスカも一旦借家に帰り、バスタブに浸かりたいと言って走り去った。
長谷川はやれやれというような表情で、部屋に戻りながら、
「おれの部屋にちょっとこないか」
と土岐を誘った。
長谷川の部屋は土岐の部屋の隣だ。
「この部屋とおまえの部屋は、スイートルームになっている。間のドアには鍵が掛っているが、いざというときには、蹴破れる。そういう意味では、何かあっても、お互い安心だ」
「相互警備保障というわけか。そのために、わざわざ隣の部屋を予約してくれたのか?」
「まあ、それもあるが、近い方がいいだろう?」
「まあな。壁の上の透かし彫りも、スイートルームの名残だ」
と長谷川は土岐の部屋と共有している壁を指差す。
土岐が見上げると、天井と繋がる壁に30センチほどの欄間のような透かし彫りがあった。
長谷川は応接セットのソファーに土岐を座らせる。センターテーブルに足を投げ出して話し出した。
「ジャナイデスカは夫人のためと称して借家に家政婦を雇ってるんだ。彼から借家と家政婦を勧められたが、東京で長い間マンション住まいをしていたんで煩わしく思えた。到着早々は国際空港近辺や大使館周辺の夥しい人と家畜と荷車と自転車の雑踏に圧倒された。国際運転免許証は持ってきてはいたが徒歩圏内の事務所の近くのこの安ホテルを下宿とすることにした。部屋代は借家と大差なかった。ただ邦人社会で回り持ちのホームパーティーを開かないですんだ」
土岐は、長谷川の部屋を見回した。
土岐の部屋と同じ備え付けの低いラワン材の箪笥、鏡付きの化粧台、丸椅子、一人掛けのソファー二脚、センターテーブルの小さな応接セット、狭くて軋むシングルベッド、奥行きの浅いワードローブ、二局だけ映る十八インチのテレビ、騒々しいエアコンがあった。
長谷川がTシャツを脱ぎながら言う。
「一度ジャナイデスカ夫人が見に来たことがあった。『簡素な部屋。すっきりしてごてごてしてなくていい』と感想を漏らしてた。ところが加藤夫人の方は逆の感想を言った。『殺風景な部屋。鍵ひとつで外出できる利便性はあるけれどこんなところによく二年も三年も住める』と呆れてた。その殺風景さが、おれにはカミュが離婚後住んでいた小さな本棚以外何もない部屋を彷彿とさせる」
立ち上がった長谷川の後ろの壁にはスーベニアショップで二束三文で売られている古代神話を図案化したバティックが貼ってある。
「窓を開けると飛び込んでくるゴキブリや銀粉にまみれた蛾、夜中にベッドに這い上がってくる黒蟻の群れ、天井にへばり付いているヤモリ、羽音を立てて部屋の影から影へ舞い飛ぶ羽蟻のような蚊、シャワールームの縁を取り囲む汚水溝に棲み付いている蟋蟀や小型の蛇や鼠など、様々な生き物で鳥肌が立つほど賑やかだ。夜中、黒蟻の群れに襲われたとき、フランツ・カフカの、『変身』のグレゴール・ザムザを想いだした」
と両手の指でゴキブリの歩行をまねて、
「この部屋の窓は北東側にある。涼しくて過ごし易いかと思ったが、日中は土日も含めてほとんどいない。洗濯物が気持ち良く乾かないことに閉口した。なんとなく湿っぽかった。家政婦を雇わなかったんで、下着だけは自分で洗わなきゃならない。洗うとはいっても、シャワーを浴びるときに洗剤を染み込ませて足元に置いて、体を洗いながら踏みつけるだけだ。ワイシャツはホテルのランドリー。朝食もホテルのカフェテリア。帰ってきても誰もいないし、何もやることがないんで、毎日最後まで事務所でぶらぶらしてる。現地スタッフは勤勉なやつだと誤解してるようだ。夕食の誘いがないと本社から見本として送られてきたカップ麺やレトルト食品を倉庫から持ちだして食べることが多い。たまにこの下宿のホテルで、一口食べただけでいやになるほどまずい夕食を仕方なく食べることもある」
長谷川の話が止まない。土岐は先刻の質問を繰り返した。
「ジャナイデスカの動機はなんだ?」
「あいつは優子さんと俺の関係を疑っている」
「不倫ということか?」
「嫉妬深い奴で、彼女が口をきくだけで、関係を疑う」
「真実は聞かないでおこう」
と土岐はその部屋を出た。はやくシャワーを浴びたかった。
シャワーを軽く浴びる。土岐は部屋を出た。長谷川の部屋をノックすると、長谷川はすぐ現れた。
ホテルの部屋から屋外に出るにはカフェテリアの隣のレストランの脇を通らなければならない。
ディナータイムになっていた。マネージャーが草臥れてよれよれの赤いタキシードを着込んで通りかかる客を呼び込んでいる。
長谷川はいつもそうしているかのように、
「また、明日くるよ」
とマネージャーに声をかけてホテルの外に出た。
土岐はその後ろについて行く。
エントランスの車寄せの照明が届かなくなると街路は真っ暗。国道に出るまでは手探りで恐る恐る歩かなければならない。長谷川の背中を見失うと、月夜でも国道に寂しく燈る街灯とホテルの車寄せの照明の位置関係だけが頼りだ。
不意に現地人の眼が土岐の鼻先に現れた。眼の中のかすかな明かりがかろうじて識別できた。闇に融合している。眼前にくるまで気が付かなかった。夜道に慣れているのか、闇夜に慣れているのか、現地人は走るようにして歩いて行った。
長谷川とともに国道に出た。薄暗い街路灯の下で土岐は二三分佇んでいた。三輪タクシーは走っていなかった。
「片方のヘッドライトのないものやバッテリーの性能の悪いものが多いんで、日没後は三輪タクシーは都心部を除くとほとんど動き回っていないんだ」
と長谷川が解説する。
「それに日が落ちると出歩く人は極端に少なくなっている。貧しいせいだろうが、この国の国民には夜遊びの習慣がない」
と長谷川が、
「シーフード・レストランへはバスで行くことにしよう」
と言いだした。
土岐は長谷川について行く。近くのバス停に移動した。
薄暗い街灯の下で案内板を見る。都心にむかうバス路線は三系統あった。駅前を経由して海岸線を北上する系統、駅前から内陸部へ東下する系統、首都圏を循環する系統。
五六分待つとボンネットを騒がしく振動させながら空中分解しそうな国営バスがやってきた。
長谷川に続いて土岐が乗り込む。車内は真っ暗だ。ヘッドライトの眩しさから室内灯の消えている車内の闇に眼が慣れるまで手摺にしがみ付いていた。
暫くすると土岐を注視している暗い瞳だけがいくつか見えた。その下に首の輪郭がぼんやりと見える。振動が激しい。中腰になった。長谷川の後を追って手探りで後方の空いているシートにたどりついた。誰もいないことを確かめる。腰掛けてため息をついた。長谷川が腰を浮かしている。ポケットのコインを確認している。
車掌がすぐやってきた。
長谷川は時折通り過ぎる街路灯でコインを確かめる。均一料金を二人分支払った。
チケットが二枚手渡された。
長谷川は一枚を土岐に渡す。切手サイズほどの大きさだ。
土岐は礼を言った。その言葉で、一瞬、車掌が目をみはった。外国人であることに気づいたようだ。
窓硝子が一枚もなかった。放縦な外気が車内に吹き荒れていた。車掌の七分袖の口が窓外からの涼風にせわしなくはためいていた。夕方のスコールのせいか、日没のせいか、生温い風がほんのり涼しい風に変移していた。
エンジンブレーキをほとんど使わない乱暴な運転だった。クラッチ板がだいぶ磨り減っている。座席シートのスプリングにもシャーシの板バネにも弾力性がない。フレームだけの車窓を見ていると台車だけのスクラップに乗っている心地がした。
通過したバスストップも含めて四番目のバス停で、長谷川に促されて、徐行しているバスから土岐は飛び降りるように降車した。
シーフード・レストランは国道を隔ててバス停の反対側にあった。
バスを除くとオートバイも四輪タクシーも街路灯のある国道では無灯火で走っている。エンジン音に注意して国道を小走りに渡った。短い土手の滑りそうな坂を上る。坂を上りきると、
〈シーフード・レストラン〉
とエントランスのビルボードだけに、うらぶれた照明があった。硝子のない窓枠越しに見える店内は薄暗かった。営業中であることは、六等星のような蝋燭の灯りが不知火のようにテーブルの上に点在しているのでわかった。
目を凝らす。土岐は店の前の駐車場を見渡した。外車ばかりが五六台駐車していた。ジャナイデスカの洒落たフランス車は見当たらなかった。
「店の中に冷房はないんで外で待とう」
と長谷川。
パーキングロットには歳月に忘れ去られたような街路灯が中央に一本だけあった。車止めも駐車枠もない。自動車は街路灯を取り囲むように乱雑に駐車していた。
街路灯に寄りかかるようにポニーテールの十五六歳の女の子が佇んでいた。グリーンの浅いキャップを阿弥陀に被っている。同色の警察の制服を着ていた。胸のボタンがはちきれそう。時折、国道の車の流れを見やる。俯き加減に街路灯の周りを徘徊していた。
爛熟接待交際と惰性買春(金曜日夜)
ジャナイデスカの仏車が緩やかな坂を駆け上って来た。急ブレーキをかけて停車する。
少女がスキップしながら近寄った。足元を見ると裸足にビーチサンダルだ。胸ポケットからボールペン、腰ポケットから領収書を取りだした。
土岐が近寄って覗き込む。日付を書き込んでいた。金額は既に印刷されている。
少女の汗臭い体臭が土岐の鼻先をよぎった。真っ白な歯を見せている。少女はジャナイデスカに笑いかけた。領収書を切り離して突き出す。
ジャナイデスカが車から出た。尻ポケットから財布をだしている。怪訝そうな顔つきだ。小額紙幣を差しだした。
少女は領収書に用意していた釣銭を添えた。
ジャナイデスカは憮然とした面持ちで長谷川に語りかけた。
「こういうところでェ、なんで駐車料金とられるのかァ、わかりましぇ~ん。はじめてで~す、こんなのォ」
とぼやいた。
三人一緒にエントランスへ向かって歩いた。
「たぶん、失業対策じゃないか。治安が良くないから」
と長谷川がしょげているジャナイデスカを慰める。衣紋掛のようなジャナイデスカの肩に手を置いた。
「かも、ですねェ。こんなところにィ、自家用車でのりつけるのはァ、外国人だけだしィ、外国人からカネをまきあげることにィ、国民はだれも反対しないしィ。あの子もォ、警察の制服着てるけどォ、どうせアルバイトでェ、警察署長からケンリ買っているんじゃないですかァ」
とジャナイデスカは憤然と悄然の入り混じった尖った顎で少女の方をしゃくった。
「まあァ、この国には私有地はないじゃないですかァ。車がとまっていればァ、どこでも駐車料金をとれるというゥ、リクツですね。レストランのオーナーもォ、一枚かんでんじゃないですかァ。あァ~あ、フユカイだァ。プンプンプンプン」
とジャナイデスカの憤懣は長く尾を引く。なかなか治まらなかった。
「ところで、奥さんは?」
と長谷川が聞く。ジャナイデスカは言いたくなさそうに、
「ひとりで行って、だって」
と答えた。
店内は床の板目が見えないほど薄暗かった。客の着いているテーブルだけに太い蝋燭の炎が赤いグラスの中でベリーダンスのようにくねっていた。四人がけの丸テーブルが十卓ほど。そのうちの六卓に客がついていた。白皙の欧米人が十人足らず。黄色の東洋人が五六人。浅黒い現地人はひとりもいない。
「たんにィ、電力事情がわるいから、蝋燭にしているのにィ、それがァ、欧米人にうけるなんてェ、皮肉じゃないですかァ」
とジャナイデスカは嬉しそうに席に着いた。
翳のように土岐の後ろに付いてきたウエイターにスペシャルのロブスターとクラブを二つ注文した。
アルコールはハウスワインをデカンタでとることにした。
「そのあとはアラック、ハウスワインがカラになったら」
と長谷川が注文を言う。ウエイターは顔を顰める。人差し指を立てた。
「アラックは密造だから違法です。ここでは売っていません」
とやんわりと注文を受け付けない。どことなくぎごちない。
「君ィ、僕のことよォく知ってるよね。開発銀行に勤めているんだよ。個人ベースでも、接待ベースでもこの店を良く使ってやっているでしょ。単価の高いィ、いい客でしょ?忘れたのォ?」
とジャナイデスカは、陰伏的に強く地酒の提供を要求した。
「わかりました。それではみなさん、三人ともあちらの席にどうぞ」
とウエイターは拍子抜けするほど簡単に折れた。裏口に近い窓際のテーブルを指差した。
そのテーブルに移動した。
ウエイターは赤燐の擦り切れたマッチ箱を胸ポケットから取りだした。軸木を擦ってマッチに火をつける。蝋燭に点燈した。
「例によっていつものようにこの窓からかァ」
とジャナイデスカは腰掛ける。すぐきょろきょろと窓から首をだした。そこにある暗闇の中の鬱蒼たる密林を眺め回している。
土岐は、
@I kill you@
の主がその闇の奥に息を殺して潜んでいるような不気味な殺気を感じた。
「どうやってェ、バイニンとォ、連絡取ってんのかァ、よくわからないんですゥ。携帯電話もっているわけないしィ」
とジャナイデスカは販促記念品の首振り人形のように筋張った首を捻る。土岐はジャナイデスカに質問した。
「携帯電話と言えば、いまお持ちですか?」
ジャナイデスカは不意をつかれてきょとんとしている。
「ぼくの携帯電話?」
「ええ」
「ありますけど、なにか?」
とジャナイデスカは、ポケットに手を突っ込む。腰のあたりをもぞもぞさせている。
長谷川がにやりと笑う。
「いえ、お持ちならいいんです」
「どこかに、かけるんですか?」
とジャナイデスカが水色の携帯電話をテーブルの上に置いた。
「いや。メールはよくしますか?」
「この携帯で、ですか?」
「ええ」
「優子によくメールします。勤務時間中は、電話できないんで、連絡はもっぱら携帯のメールです。一日、十通ぐらいですかね」
「奥さんにですか?」
「ええ。同じ文面で、リピート機能使って」
「同じ文面で?」
「いまなしにしてる?ってえ文面です。彼女やることないんですよね。子供もいないし、家政婦はいるし、友達といっても慶子さんしかいないし。寂しがらせちゃ、いけないと思って。亭主の務めです」
とジャナイデスカはうれしそうに言う。
長谷川は聞いていられないという顔つきで、話を密造酒に戻した。
「そのウエイターも、多少はマージンを取るんでしょ?」
とジャナイデスカに、相槌を求める。
「そりゃァそうですゥ。法にふれるって、法を遵守するようなこと言って、一応ことわるのはァ、万一ばれたときのォ、共犯関係をつくるためじゃないですかァ。やつらしたたかですよ」
とうなずく。胸ポケットからメンソール煙草を取りだした。
「今日の3本目ェ。フフフフフッ。やめられないッ」
と唇に挟んで蝋燭の炎で煙草に着火させた。
小さめのワイングラスふたつと蓋のついたデカンタがやってきた。
「ハウスワインは赤かァ。白じゃないのかァ」
とジャナイデスカはデカンタの首を持つ。蓋を右手の親指で開ける。小さめのワイングラスに自分のグラスから先になみなみと注いだ。
「暗いからァ、アカというよりはァ、クロじゃないですかァ」
と高いキーであたりを憚らずはしゃぐように涼やかに笑った。
「カンパイ!」
と叫ぶ長谷川に合わせて土岐も、
「乾杯!」
とグラスを合わせた。最初にひと口だけ含んでみた。舌先で転がしてみる。ボディのない渋いだけの葡萄ジュースだった。
「ところで、なにに乾杯?」
と何がうれしいのか、落ち着きのないジャナイデスカに長谷川が改めて訊く。
「首都圏の国際空港近代化プロジェクトの独占契約にィ!」
とワインを呑みながら仕合わせそうに皺の多い目を細めた。
椰子蟹を唐辛子と香辛料で炒めた料理が届けられた。大皿にてんこ盛りで溢れそうだ。赤くゆでた蟹に紅い唐辛子がからめられている。とてつもない辛さだ。
土岐は舌が火傷した。暫く、走り回った犬のように舌を空気にさらして冷めるのを待った。
三人で舌に呼気を送りながら顔を見合わせて苦笑した。
「ハッピー、ハッピー、今日もハッピー。おいしいものってほんとにいいですねェ。ハヒフヘハッピーピーヒャララ」
とジャナイデスカは愉快そうに食べる。楽しそうに呑んだ。
「♪たぶん~おれたァ~ちのォ~あしィ~たもォ~こんなだろォ~♪たぶん~おれたァ~ちのォ~あしィ~たァ~もォ~こォ~ん~なァ~だァ~ろォ~♪ジャンジャカジャン」
とグラスを片手に持つ。大きく左右に振る。外連味もなくブレヒトの劇中歌を演歌っぽく、音程を狂わせて唸りだした。
デカンタがカラになった。ロブスターがやってきた。拳骨ほどの大きさのロブスターが三尾盛り付けてあった。皿からこぼれそうだった。
三人でウエイターの配膳を助けた。皿の配置を工夫した。皿を置くとテーブルがいっぱいになった。肘を突くスペースもなくなった。
ジャナイデスカはテーブルの上に置いた携帯電話をポケットに戻した。
皿の配置が決まった。ウエイターが窓の外を指差した。
漆黒の夜気に目を凝らす。十六七の少年が窓に近づいてきていた。手に白いラベルの剥がれかかった安物の赤ワインの小瓶を持っている。
「サァ、アラック」
と左手で瓶を差しだした。右の手のひらを同時に突きだした。指で値段を提示した。
ジャナイデスカはそれを半値に値切ろうとした。
少年は肩をすぼめた。店内や背後に視線を巡らせた。
ジャナイデスカは、値切った金額を少年の手のひらに置いた。
少年は紙幣をさっと握り締める。イリュージョンのように宵闇に消えた。
「言い値でかうヒトはァ、おバカさんで、おマヌケさんです」
とジャナイデスカは残りのワインを呑み干した。そのグラスに地酒を注いだ。
再び乾杯した。土岐はワインのように流し込むことはできなかった。四十度は超えていた。強烈な甘さと高いアルコール濃度に少しむせた。
長谷川はなめるように早いピッチで呑んだ。
「だいじょうぶ?車でしょ?帰り自宅まで運転できる?」
と長谷川が心配する。
ジャナイデスカは余計なお世話というような胡乱な目をした。
「酒気帯び運転はァ、いちどやるとやめられないんですゥ。酩酊感覚とォ、ひりつくようなスピード感。道路がぼこぼこに波うってェ、ヘッドライトがひらひら踊る。路肩に突っこんだりィ、対向車とぎりぎりですれちがったりィ、対向車線にはみだしたりィ。ひょっとしたら死んじゃうかも知れないスリルがァ、たまらないんですゥ。アクション映画さながらなんですゥ。とくに夜はァ、ふわふわと宙をまっているようでェ。朝目をさましてェ、ほとんど記憶がないことがよくあってェ。残っている記憶はァ、まるで雲のなかをさまよい歩いてきたような感じでェ。でも不思議じゃないですかァ。一歩まちがえちゃえばァ、死んでいたかァ、事故をおこしていたはずなのにィ、いつもブジなんですよォ」
とジャナイデスカは宙に視線を∞の字に泳がせる。
夢見るような眼で、
「人を轢いたら、やばいんじゃないの?」
と再度、長谷川が飲酒運転の危険性を注意した。
ジャナイデスカはとろんと据わった眼つきで、
「やすいもんですよ。ひと月分の給料でかたがつくんだから。遺族は片目で悲嘆にくれながらもォ、別の片目では嬉し涙がとまらない。なんたったってェ、かれらの5年分の収入になるんですからァ。5年分ですヨ。家が1軒買えちゃうんですヨ」
と飲酒をやめる気配がない。
「ここの人間を轢死させても、懲役刑にはならないんですか?」
と土岐も食い下がった。ジャナイデスカの飲酒を抑制しようとした。
「この国にィ、司法の独立なんてしゃれたものはないんですよォ。ボクは外国人だしィ、しかも我が国の経済援助を一手にあつかう開発銀行の行員ですヨ。懲役刑なんかにしてェ、援助が一挙に減っちゃったらどえらいこってすゥ。慰謝料なんかとォケタが3ケタもちがうんですからァ、3ケタもォ~」
と一向に気にしていない。
帰りに下宿の安ホテルで落としてもらおうと土岐は考えていた。断念した。
それを察したのか、
「そうか、あなたはいつもクルマじゃなかったんだァ」
とからむような喋り方で呂律の矛先を長谷川にむけてきた。
「クルマを運転しないのはァ、ヒトに運転させておいてェ、おサケをたらふくのみたいからなんじゃないんですかァ?」
とジャナイデスカのフランス車に長谷川が便乗しようとしていることを責めてきた。
「それもあるけど、加害者になるリスクを負うよりは被害者になるリスクを引き受けるほうがはるかに気が楽だから」
と長谷川は弁解した。
ジャナイデスカは腑に落ちないと言いたげに口を尖らせた。
「この国の連中はァ、徹底した運命論者です。努力するのも運命ェ、しないのも運命ェ、がんばるのも運命ェ、がんばらないのも運命ェ、勉強ができるのも運命ェ、できないのも運命ェ、運命を信じるのも運命ェ、すべてがアッラーの思し召し。死ぬのはどうせ運命なんだからァ、どうせ死ぬんならァ、補償金のもらえる交通事故死をォ、すなおに喜ぶんですゥ。死んだヒトはそれまでの運命です。遺族が喜べばそれでいいんじゃないんですかァ?それよりィ、ここのヒトのクルマにひかれたら悲劇です。補償金はせいぜい月給分です。葬式代もォ、でないんじゃないですかァ。アッラ~アクバル!」
と捲くし立てる。少し呂律が回らなくなっていた。同じような内容の話を二度、三度と繰り返す。
土岐はただ黙って聴いていた。多少反論めいたことを言うと、話がくどくなる。言いたいだけのことを言わせるとジャナイデスカはトイレに立った。
二人だけになると、
「どう思う?」
と長谷川が土岐に聞いてきた。
「どうって?」
「あのジャナイデスカさ。I kill youの犯人に見えるか?」
「出会って、まだ、半日しかたっていないからな。なんとも言えない。しかし、かみさんに一日に同じ文面のメールを十通も送信するのは異常だな」
「おれはあいつはアホとしか思えないんだが、おまえはどう見る?」
「自慢じゃないが、僕は人を見る目がない。人の腹を探るというのが不得意だ。しかし、アホを装っているとすれば、演技者だね」
「まあ、いい」
しばらくして、ジャナイデスカがスキップしながら戻ってきた。一休みして、話題を変えてきた。
「そういえば、あした、ヒジノローマにいくそうで」
ととろけたような眼を上げて土岐を見た。
すかさず長谷川が言った。
「うちの所長があんたに言うことはありえないんで、多分、ヘンサチがあんたに教えたんじゃないの」
「ヒジノローマのはなし?」
「そう」
「あたり!」
とジャナイデスカが大声で叫ぶ。
「というか元々この話はあんたに持ち込まれたんじゃないの?」
「ブー」
とジャナイデスカがバツ印を両手で示す。
それを見て、長谷川が土に説明する。
「彼とヘンサチがどれほど親密な関係にあるのか知らないけど、お互い公務員とみなし公務員だし、家族ぐるみの付き合いをしているし、出身高校が同じ公立だし、ヘンサチにしてみれば彼の方が頼みやすいはずだ。あるいは、反政府ゲリラに誘拐されたり、殺害される危険があるから、彼を避けたのかも知れない。おそらく、死ぬのは偏差値の低い民間人ならいいというのがヘンサチの料簡だ」
酩酊してきた土岐の頭蓋の中を様々な雑念がランダムウォークし始めた。
(やっぱり、I kill youのIはヘンサチだったのか?)
などという妄想が土岐の眼窩の裏あたりを徘徊した。
「これで空港近代プロジェクトの独占契約はまちがいないじゃないですかァ。交換公文にもられることはもうきまってるんだしィ。濡れ手にアワですねェ。ヒッヒッヒッヒッヒッ」
とジャナイデスカは地酒を土岐のワイングラスいっぱいに注ぎこんだ。溢れる寸前でアラックの小瓶をよろよろと引っ込めた。
瓶の口から濃い紫の滴が垂れた。
「まあ、商社はうちの事務所だけだから。この国の経済規模ならば、商社は一社が適正規模というところでしょう」
と長谷川はジャナイデスカが暗に言おうとしている大使館との癒着を誤魔化そうとしている。
ジャナイデスカは上の空で聞き流している。通じなかった。
「そうかも知れないですがァ邦人たったふたりでェ総額数十億ドルの巨大プロジェクトじゃないですかァ」
とジャナイデスカは一人あたりの口銭の巨額さを強調する。
「でも、ここまでこぎつけるのに前任者から六年もかかって。人間関係の維持にかなりの接待交際費を注ぎ込んだし、契約が取れたら取れたで、両国の官僚や政治家に多額のリベートを払わなければならないし。もちろん、大使館にも」
と長谷川は補足説明した。
ジャナイデスカも周知のことだろうと土岐は思った。
「あなたが契約をとるとォ、ボクの銀行もいそがしくなるけどォ、報酬は関係ないからァ。まあァ、仕事ができればァ、それがボクの実績にはなるけどォ。いまヒマだからいいかァ」
と言うジャナイデスカの真意を斟酌しかねた。
仕事をしたいのか、したくないのか、それともどうでもいいのか、土岐にはよくわからない。
地酒もロブスターもクラブもなくなっていた。
最後に、ここでの飲食が接待交際費の対象範囲に含まれていることを長谷川が遠まわしに言ったことが気に障ったのか、ジャナイデスカは拗ねたように、
「今夜の支払いはァ、ダッチトリートにしますゥ」
と言い張ってきかなかった。
誰の腹も痛めることなく事務所経費で落とせることはジャナイデスカも熟知しているはずだ。
「どうしても、と言うのなら、チップだけお願いするよ」
と長谷川が言ってもジャナイデスカは駄々っ子のように聞き入れなかった。長谷川は小声で土岐に囁いた。
「これが所長にばれると叱責の対象になる。ばれることはないとは思うが。着任以来、接待については所長は口やかましいんだ。『顧客や官僚とは不即不離、ズブズブの接待漬けにしろ』とか、『事務は当然の業務。万難排すべき最重要の仕事は接待だ』とか言うのが、当地赴任以来の所長の間断のない業務命令だ。『奴等に支払いをさせる隙を絶対見せちゃぁいけねぇ』とか、『奴等に一度でも支払わせたら貸し借りなしってぇ意識を持たせることになる。それまでの接待交際費が全て水泡に帰すんだ』とか言うのが耳に胼胝の出来る程聴いた所長の口癖だ。『支払いは御前達イコール民間業者ってぇことをルーチン化させれば、後は黙っていても口利きもルーチン化される』とか言う所長が口を酸っぱくさせて説いたこういう訓戒もある。『官僚達とは、はらわたを洗い浚い抉りだして、差しつ差されつ、ヌルヌルグチャグチャの抜差しならねぇ関係になれ』という日頃からの厳命のようなものもある」
と言いながらグラスのアラックを飲み干して、
「彼は開発銀行の生え抜きで、官庁からの出向じゃない。だからヘンサチとはちがって、官僚じゃない。しかし開発銀行は公的金融機関だから、彼の身分は公務員に準ずるんだ。だから彼もヌルヌルグチャグチャの接待の対象だ。こんな地の果てじゃ検察や会計検査院の眼も届かない。目を届かせたとしても検察や会計検査院にとっちゃ塵ほどの手柄にもならない。労多くして功殆ど、全くなしという国柄だ。事務所開設以来、一度も摘発の対象となったことがない。まさにこの国は贈収賄天国で接待桃源郷だ」
結局、割勘で支払を済ませて外に出た。領収書は長谷川が貰った。
ジャナイデスカはそのことを覚えていないと思わせるほど酔っぱらっていた。出口のステップを踏み外してよろめいた。
土岐が脇を支えた隙にジャナイデスカのポロシャツの胸ポケットに長谷川が高額紙幣を忍び込ませた。長谷川が土岐に囁いた。
「これで事務所が出したことになる。これはお車代を渡すときの手口だ。彼がどういう現金管理をしているか知らないが、帰宅した彼を介抱する優子夫人は財布の金とポケットの金を合計すれば、家を出たときの持ち金とあまり変わっていないことを確認するだろう」
駐車場の淡い街路灯の周りに海風が波のように戦いでいた。付きまとう潮騒の香りが稠密になった。八時をとっくに過ぎていた。先刻の肉付きのいい緑の少女はどこにも見当たらなかった。
「そういえばァ、このお店から帰るのはァ、いつも7時すぎだったかなァ。今夜はいつもよりもずいぶんと遅いんだァ」
とジャナイデスカは足をふらつかせている。どっかと自動車に乗り込んだ。
「奥さんがいれば運転してもらえたのに。どうして来なかったの?」
と長谷川が再び聞いてしまった。
「『イヤ』だってェ。理由はいわないんで。でも、おくっていきますよォ。エンリョしないでェいいですヨ」
というジャナイデスカの誘いを土岐は鄭重に固辞した。
しかし、酔ったせいか、
「そんなこといわないでェ。所長代理さん、ねェッ」
とジャナイデスカは執拗に誘う。
その理由は渋々乗り込んでからわかった。
「マッサージにいこうじゃないですかァ」
と運転席で諸手を上げる。足をばたつかせて言う。
「すこしィ、よいをさましたいしィ、ここからならァ、5分でいけるしィ。いいじゃないですかァ。帰ったってどうせ一人でしょ。どうせェ、せっせとマスかくだけでしょ」
と焦点の合わない眼をヘッドライトに浮かび上がる白い路面にこらしている。
オートマチック車がすでに動き始めた。
もう行くつもりだ。土岐は応諾の返事はしなかった。
土岐は明日のヒジノローマ往きのこともあり、なんとなく気が進まなかった。
しかし、助手席に座った長谷川は、
「これは暗黙の接待の要求だ。知っていながら彼を一人で行かせるわけにはいかない。所長の分厚い唇を借りれば『接待の要求は貸しを作る為の千載一遇のチャンスだ』ということになる。こちらから持ちかける接待とは意味がまったく違う。向こうから餌に食いついてきたことを意味する。所長は着任当初、おいしい餌についての情報をばら撒き要求させるように仕むけ、こうした接待をかなりエンジョイし一晩にいくつか掛け持ちしたことを公然と自慢していた」と土岐に語りかけた。
土岐は不安になった。
「どこにいくんだ?」
「まあ、つきあってくれ。アミューズメント・センターだ」
と言ったなり、長谷川は詳しいことは説明しない。
土岐はゲームセンターのようなものを想像した。
ハンドルに抱きつくような運転だった。隣の長谷川が片手をハンドルに添えている。ジャナイデスカの首がゆるやかに左右に揺れていた。時々おくびを吐く。しゃっくりをする。意味のない薄ら笑いをへらへら浮かべる。断続的にアクセルを踏んでいた。フットブレーキと急加速が繰り返された。しらふであればとても助手席に座っていられないような運転だった。
自動車は国道を少し南下する。高級住宅街のはずれの海沿いの土手につんのめった。頭から突っ込むようにして停車した。バンパーが多少傷んだような気がした。
「しめ、しめ。まだ、だ~れも客はきていないじゃないですかァ。ラッピ~、ラッピ~、ラッピッピ~のラリルレロ~」
とジャナイデスカは朗らかにほくそえむ。
ジャナイデスカに従う。白けた重い気分を引摺りながら土岐は車を出た。
国道を隔てて反対側に赤茶けた煉瓦造りの二階建てのビルがあった。両隣はかなり大きな屋敷の庭になっている。低い垣根があった。辺りの家屋から漏れてくる電光はなかった。忘れ去られたようにその建物の二階にだけ鄙びた照明が亡霊のように浮かんでいた。
〈アミューズメント・センター〉
と筆記体で書かれた看板をかろうじて見て取ることができた。
一階は間口五ヤードほどの自動車とオートバイの修理工場で、
〈Auto〉
と書かれた文字の下に工具の絵のある錆びだらけのシャッターが降ろされていた。右隅に二階に昇る階段の入口があった。木製のドアは内側に半分開け放たれたまま。異次元への入り口のような印象。
「♪ル~ンル~ンラ~ンラ~ンルゥ~ルゥ~ラァ~ラァ~♪」
と先にジャナイデスカが鼻唄混じりで昇って行った。
裸電球が入口と階段を昇りきったところに点いていた。狭いブロックの階段の縁が何箇所も欠けていた。足元が暗い。つまづきそうになった。
ジャナイデスカは手摺につかまる。そっくり返った。二三度千鳥足を滑らせた。
階段を昇りきる。細い廊下の右側のドアが少し開いた。髪の毛の擦り切れて縮れ上がった男が顔をだした。
「ハーイ!グッイブニング!」
とジャナイデスカは陽気に屈託のない甲高い声をかけた。
「イェッサァ」
と追従笑いを隠さない男は分厚い唇でそれに応じた。
男が丸い濁った眼で三人を眺め回している。部屋を出ようとした。ドアの隙間から二三才の男の子が衣服の乱れたまま一緒に出ようとして顔をだした。
「へえ~っ、どっちの子かなァ~?ぼくチン」
とジャナイデスカはわざと驚いたような声をだした。
男は子供の額に手を置く。その部屋に押し戻す。左側の部屋のドアを押し開ける。三人を招じ入れた。
安ホテルのシングルベットルームほどの部屋に談笑する女が三人いた。とってつけたような歪んだ窓の際の椅子に腰掛けている。紙巻煙草をふかしている。低い嬌声をあげていた。
陰々滅々たる部屋の照明は小さな丸テーブルの上に茶褐色の笠のスタンドがあるだけ。紫煙も女たちの表情もよく見えなかった。
ジャナイデスカは男と交渉を始めた。
男は浅黒い木彫りの仮面を被っているようだ。終始無愛想だった。ジャナイデスカの英語が聞き取りづらいのか、最後まで怪訝そうに顔を顰めていた。言い終えて、
「オ~ケ~?マスタ~」
とジャナイデスカが握手を求める。
男はその手を放置して、
「オゥケィ」
と座っている女たちに右手の指を三本立てて合図した。
「ボクはおブスのォ、年増チャンのほうにしますからァ」
とジャナイデスカは右側の小太りで白いショートパンツの女にウインクした。人差し指を卑猥に曲げて招き寄せた。
「おブスの年増チャンは、テクニックがあるんですヨォ」
とふたりで睦まじげに左奥の部屋に消えた。
男は残りの二人の青いショートパンツの女の前にやにわに立ち塞がった。
「ペィ・ファースト!」
と長谷川に右手を差しだした。
長谷川は言われるままの金額を財布から抜き取って渡した。国立銀行で引きだしたばかりの紙幣の半分ほどが消えた。男に財布の中を覗き込まれているのが少し気になっている。
二人の女が床を軋ませながら廊下に出た。
土岐は長谷川のあとに続いた。
女は廊下の奥の右側の部屋のドアノブに手を掛ける。振り向いた。後ろの女が手招きする。
部屋の中は廊下よりも薄暗い。天井の裸電球が赤いセロファンで遮光されていた。部屋の中央に手術台のような狭くて短いマッサージ台が二台並んでいる。その真ん中に遮光カーテン。半分ほど引かれていた。歪んだ硝子張りのシャワールームは右奥。ドアの脇にスプリングの傷んだ茶のソファー。傍らの小さなサイドテーブルの上に黄ばんだバスタオル。使い古したボディオイルの瓶。床はコンクリートの打ちっ放しだ。
土岐はポケットの財布をズボンの上から確かめた。部屋の壁を見回した。何も掛かっていない。窓もない。天井と同じ白いペンキが塗られている。地の煉瓦の凹凸が不揃いな淡い陰影になっていた。
長谷川がポロシャツを脱ぎながら言う。
「このアミューズメント・センターの存在は前任者から事務的に聞いていた。二年前の職務引継ぎのときのことだ。『余分なチップを女に払わないように。それが相場になって邦人社会が甚大な迷惑を被るから。また、くれぐれも個人的な感情に溺れないように。彼女らは邦人社会の希少な共有物だから、独占することはタブー。病気にも要注意』というような忠告を万事開けっ広げな前任者から口頭で受けた。『叔母さんと姉妹でやっていて、姉は三十ぐらい、妹は二十五ぐらい。テクニックは姉のほうがある。面食いなら妹のほうだが。両方試してみたけれどどっちもどっちかな。好き好きだ』と言っていた」
とトランクス一枚になって、
「女好きではあるが女を買うことに抵抗があったんでこの二年間一度も来たことがなかった。四年前、アフリカに社用で行ったとき、トランジットで一泊した国があった。その夜、現地事務所の先輩の案内で女を買いに行ったことはあった。水族館の水槽の中のコロシアムの客席のようなところに五十人ぐらいの女たちが三段になって腰を下ろし、番号札を胸につけて落ち着かない様子であたりをきょろきょろ見回しながら座ってた。邦人的な風貌の女を選んだが、抱く気にはなれなかった。支払ったカネと性行為とが等価交換されることに違和感があったからだ。今夜のふたりが前任者が話してた姉妹かどうかはわからない」
土岐は改めて二人の女を見比べた。年齢差があるようには見えた。二人とも暗がりの中で見る角度によって二十五ぐらいにも見えた。三十ぐらいにも見えた。終始つまらなそうに顔を伏せている。目線を合わせることはなかった。
「おれは、こっちの女でいいかな」
と長谷川が若く見える方の女を指で手招きした。
土岐は黙っていた。その女が部屋の中央の遮光カーテンを隅まで引いた。
年上に見える女が、カーテンの内側に入って来た。無表情に、
「シャワーを浴びて」
と土岐に促した。
土岐は綿パンと開襟シャツをソファーの上に脱ぎ捨てた。出掛けにシャワーを浴びてきたが、体全体が薄い汗のべとつく膜ですでに覆われていた。頭髪は避け、顔から下にシャワーを浴びた。さっと流して出ようとした。女が近寄ってきた。背中に黒板消しのような石鹸を押し当てる。こすりつけてきた。
「夕方、浴びてきたばかりだ」
と濡れた背中をくねらせる。土岐は至極迷惑そうに言った。
「背中は洗っていない。べとべと」
と女が軽く背中を叩く。
肩甲骨から下に石鹸がしたたかに塗りつけられた。狭いシャワールームの中で百八十度回転して備え付けの柄のついたブラシで背中を洗い流した。
酔いが回ってきたせいか、赤い光のせいか、土岐には女の肌が白っぽく見えた。Tシャツから出た二の腕やショートパンツから伸びた足は木目細かい。水滴を弾くほど艶やかな皮膚に覆われていた。
アウラットのせいで、この国ではテレビでも雑誌でも街なかでもおんなの剥きだしの腕や足を見ることはない。見るだけで刺激的だ。
シャワールームから出る。女はマッサージ台の上に洗いざらしの毛羽立ったバスタオルを二枚敷いた。黄ばんで裾が擦り切れている。繊維がほつれている。
「うつ伏せに寝て」
と指図する。
マッサージ台から顎をだす。うつ伏せになる。両腕と爪先は台の外に出た。
背中に生温いオイルが撒かれた。女はそれを首筋に伸ばす。腰に押し広げる。両脇をさする。両手のひらは首筋から両肩へ、両肩から背中へ、背中から両脇へ、両脇から腰へ、撫でつけるように移動して行く。
時々、くすぐったさを感じた。背筋にわだかまっている筋肉の張りの上を、揉みほぐすことなく、手のひらが上から下へ、下から上へ、力なく儀礼的に通過して行く。オイルが背中全面にすり込まれる。親指の腹が背筋の両脇を緩く圧す。ゆっくりと上と下へローリングする。血流が背中いっぱいに波打ってくる。
意識の遠くでいびきが響いた。一瞬、眠ったようだ。マッサージは腰から下に移っていた。大腿筋の凝りが解きほぐされた。皮膚を撫でるような力ない指圧が足首まで下りて行った。
女が、
「仰むけになって」
と土岐の右肩を軽く突っついた。
寝返りを打とうとする。マッサージ台から落ちそうになった。右から左へ小刻みに寝返りを打つ。落下しないように少しずつ体をずらした。仰むけになる。バスタオルの皺が背中を指圧した。所在のない両腕を腹の上で組む。組んだ指を無理やり解かれた。両腕は台の外に垂らす。
女の冷ややかで硬い下腹部が左肩に触れた。胸の中央にオイルが垂れ流された。女の上半身が間近にあった。赤い電球が女の頭の後ろに隠れていた。表情はよく見えない。胸のオイルのひと溜まりが鎖骨から両肩へ押し広げられる。女のTシャツの中の乳房が硬く重そうに揺れた。右肩をさすろうと屈み込む。口許から吐息が漏れる。鼻先をかすめた。煙草とチキンの丸焼きに使う香辛料の混ざった強烈な臭い。硬く大きめの乳首が胸に流れたオイルの跡をなぞる。マッサージは下腹部に移行する。手のひらにオイルをつけ直す。陰毛を避ける。鼠蹊部から膝頭へ一気に下る。脛に二三度オイルを擦り込んで終わった。裸のまま放置された。
「終わり」
と女は気だるそうに告げる。崩折れるようにソファーに腰掛けた。煙草を咥える。マッチですばやく火をつけた。
硫黄の臭いが鼻をかすめる。深い溜息とともに紫煙が吐かれる。裸電球の薄赤い光の界隈を漂った。
裸のまま女の容子を見るともなしに漫然と眺めていた。
「吸う?」
と女は疲れ切ったように煙草の暗い火をこちらにむけた。
「いらない」
と土岐は上半身だけ起き上がる。マッサージ台の上に腰掛けた。
カーテンを隔てた隣のマッサージ台で、長谷川が吶々とした英語で何かを説諭している。
土岐が残り時間を訊く。女は小さな腕時計の文字盤を赤い光源にむけた。
「あと30分」
と答えた。裸のまま、腕を組んで部屋の中を見回している。桃色のマニキュアの指先から一筋の煙が揺らめく。糸を引くように女の頭の上に昇る。壁伝いにゆるやかに棚引いていた。ふと、さきほどの少年のあどけない顔が頭をよぎった。
「あの男の子は誰の子?」
とやるせなげな所作しか見せない女に訊こうとした。
「長谷川の相手をしているもうひとりの女と姉妹なのか」
とも訊こうとした。やめた。
(どうでもいいことだ)
しばらく腕を組んだまま床を見つめていた。
口笛を吹くような隣の女の吐息がカーテン越しに時折聞こえてきた。沈黙が五分ぐらいあった。
薄暗い部屋の中を漫然と幾度も見回した。
女が煙草を白い陶器の灰皿で揉み消した。小さな丸テーブルの足がカタカタと音を立てた。女がこちらを見た。はからずも明日ヒジノローマに行くことが口から出た。女の眼に赤い小さな光が燈った。面長で深い二重瞼をしていた。濃い眉と長い睫が烏羽色に濡れている。
「ヒジノローマに行ったことがある?」
と訊く。女は即答しない。間を置いて物憂げに答えた。
「一度だけ」
と首を傾ける。どういう趣旨の質問かと訊きたげだ。
土岐はシーフード・レストランで、ジャナイデスカの身代わりとしてヒジノローマに行かされるという話を長谷川がしていたのが気になっていた。
「武装した反政府ゲリラはよく出るの?」
と訊く。
「そういう話を聞いたことがある」
と女は頬に掛かった髪を掻き揚げる。ほの暗い天井に目を泳がせる。
「最近また死者が出たらしい」
と女はリエゾンのない聞き取りやすい英語で話しだした。
「彼らは焦っている。人種的に、宗教的に差別されていると思い込んでいる。人種差別はある場合もあるし、ない場合もある。あると言えばあるし、ないと言えばない。宗教差別はある。神様が違うんだから、どうしようもないでしょう」
「こんな東洋人に危険はない?」
と聞く。女は品定めをするように土岐の眼をじっと見つめた。
「昼間なら、たぶん、だいじょうぶ」
と猫のような愛嬌のない素振りでつまならそうに目をしばたたく。
「白人じゃないから、注意しないと、でも注意しても、暗がりや遠くからだと外国人には見えないかも知れない」
ととってつけたような、木で鼻を括ったような忠告をする。
「じゃひょっとしたら今夜が人生最後の日になるかも知れない」
と土岐は女の表情の動きを追った。
女は眼を伏せる。煙たそうに小さなテーブルの上の灰皿でフィルターだけになった吸殻を揉み消す。また煙草を取りだす。マッチで火を点けた。硫黄と木の焦げた臭いが鼻を突いた。女は煙そうに眉根を寄せた。
酔いも眠気もすっかり醒めていた。女の喫煙が終わるまで、訊かれもしないのに国籍や職業や前任者から聞いたことなどを勝手にだらだらと話し続けた。話し終えたところで、
「もし、あなたがよければ、やりたい」
と土岐は女の顔を注視し続けた。
女は白い灰皿で吸い差しの煙草を激しく揉み消した。煙草が折れた。火が完全に消えないまま煙が立ち昇り続けた。女は両手のひらで頬を挟みこむ。両肘を小さなテーブルの上に置き考え込んでいる。
「あなたが、いやならいい」
と土岐は言い足す。女は一度立ち上がりかける。再びソファーに腰を沈めた。腕を組む。顔を伏せる。暗いコンクリートの床に眼を落とした。
女の返事を待つ間、マッサージ台を離れた。ズボンのポケットから腕時計を取りだした。赤い電球でアナログの針を読む。あと二十分ぐらいしかない。
女は膝頭を合わせている。微動もしないで座っていた。
土岐は再びマッサージ台の上で仰むけになった。天井を見上げる。赤いセロファンの隙間から裸電球の卑猥な光が漏れている。天井の一点だけが雲間の月のように明るくなっていた。部屋の隅に澱む暗い闇と赤いセロファンを透過する電球の光がみだりがましく入り混じっていた。
女は意を決したように潤んだような眼を大きく見開いた。
「オゥケィ」
と眉を吊り上げる。溜息を吐く。立ち上がった。
「恥ずかしいから」
とカーテンの部屋のこちら側の電気を消した。
闇しか見えなくなった。しばらくするとカーテンの端の隙間から部屋の隣側の明かりが漏れているのがわかった。カーテンの近くの天井と床がぼんやりと闇の中に死霊のように浮かんでいた。眼を凝らして女を見ようとした。何も見えない。目の奥が痛くなる。女の皮膚と繊維が擦れ合う衣擦れがかすかに聞こえた。闇の中を丸みを帯びた黒っぽい柔らかな塊がうごめいている。小さなスイッチの音がした。サイドテーブルの蝋燭の形をした赤い豆電球に灯りがついた。女の裸の輪郭がおぼろげに浮かび上がった。柔らかな重みが上半身に重ね合わされた。護謨鞠のような弾力性のある体重がすべてのし掛かかってきた。
土岐は息苦しくなった。体をずらそうにもマッサージ台から落ちる。身動きができない。一瞬デジャービュが捉えた。次の瞬間、学生時代のカーセックスの思い出に想到していた。女の感触を過去に関係のあった女達と比べていた。弾力性のある肌の感触は最初に知った女子学生に近かった。手足が長くすらりとした体型は二人目の女に似ていた。
木目細やかな肌が静電気を帯びている。吸い付いてきた。女の手が陰茎をまさぐる。鷲掴みに握り締める。しごいてから添えるように下半身にくわえこんだ。滑らかで冷ややかな皮膚がゆるやかに蠕動し始めた。両肩をつかんでいた女の指先に力が込められた。女の爪が肩の皮膚に浅く食い込んだ。
マッサージ台が小刻みな振動音をだした。次第に女の息遣いが激しくなった。女のしなやかな髪が半開きにしていた口の中で舌に触れた。
土岐はシャンプーの味のする髪を舌の先で少量の唾液とともに押しだした。軽く吐きだした。それから、
「口付けしてもいい?」
と遠慮がちに訊いた。目が闇に慣れたきた。女の表情がはっきり読み取れる。
女は眠たげな顔で首だけ起こした。
「なぜそんなことを訊くの?」
と反問する。
「したければ勝手にしろ」
という意味なのか、
「この業界では禁忌だということを知らないのか」
という意味なのか、理解できなかった。躊躇していると、女の腰の動きがぴたりと止まった。黒い瞳が間近で急に大きくなった。
女は下半身をずらす。逡巡することなくマッサージ台から降りた。そのままシャワーを浴びた。シャワーの鎌首を持つ。下半身だけを丁寧に洗う。シャワールームを出る。バスタオルで雫をぬぐう。後ろ向きに下着をつけた。Tシャツを首に通す。カーテンのこちら側の部屋の明かりをつけた。
赤い照明が目に突き刺さる。ひどく明るく見えた。
女は咎めるような目つきをした。
「早くシャワーを浴びて」
と路地裏の泥濘にまみれた子供をせかせるように言う。
「時間がないからいい。ホテルに戻ってから浴びる」
と面倒くさげに答える。女は甚だしく驚いたように、
「洗わなくていいの?」
と真顔で詰問してきた。
それにはあえて答えない。無言のまま、射精後の虚しくも忸怩たる心持でそそくさと服を身に着けた。
「早くしないと超過料金を請求される」
とせかす女にチップを渡した。
女はそれを手にしたまま暫く見つめていた。
土岐は薄くなった財布を畳む。ポケットに突っ込んだ。部屋を出て行こうとする。女はやっと礼を言ってきた。
規定の時間内に終了した。部屋のカーテンの向こうに長谷川の気配はなかった。階段を一段置きに駆け下りる。海側の土手にゆっくりと走って行った。
長谷川が社外で煙草を吸っていた。
ジャナイデスカは腕を組んで車の中で眠りこけていた。
煙草の火が窓ガラスの縁で暗闇の中を赤く揺れていた。長谷川がドアを開けて助手席に着く。メンソールの匂いが鼻腔をかすめた。
長谷川はジャナイデスカの骨張った肩を揺すった。
「大丈夫?運転できる?」
ジャナイデスカはおおいかぶさっていたハンドルの上で首を左右させる。顎でクラクションを鳴らした。眼が首都の終着駅裏のひなびた魚市場の川魚のように死んでいた。
「ブアイソなおんなでしょォ?どうでしたァ~」
と断定するような口調で感想を求めてきた。言い終えたときよだれがジャナイデスカの口の右隅から糸を引くように垂れ落ちた。ハンドルをかすめて、フロアに延びて落ちて行った。
土岐は疲れていた。
長谷川も、疲労困憊した口調で、
「まあね。無愛想といえば、無愛想だ」
と適当に答える。
「それじゃ、運転できないでしょう。代わりましょうか」
と後部座席から土岐が声をかけた。一旦外に出てから運転席のドアを開ける。ジャナイデスカは眉と眼と鼻と唇をだらしなく歪める。ニタニタと笑った。
「ほんじゃすいません。無免許運転でお願いしますゥ」
「いえ、国際運転免許証は持参しています」
と土岐が答える。
ジャナイデスカは土足でシートの上を後部座席に移った。
助手席の長谷川は迷惑そうな顔で、
「おれが運転するよ。無免許だけどな」
とジャナイデスカと席を交替した。
土岐は助手席に回り込んだ。
「おまえ道知らないだろ。この国の道路にはセンターラインがないから、対向車があると危なくってしょうがない」
と長谷川が言う。
ジャナイデスカは後部座席に倒れ込む。窓硝子に頬を押し付けてそのままの姿勢でしゃっくりとげっぷを繰り返した。
「ゲップリー・シャックリー、てね。そんな俳優いなかったっけ」
長谷川がセルモーターを動かし始める。ジャナイデスカは、
「インターネットのワイセツ画像のみすぎかなァ。それともやりすぎかなァ。おんなのインブをみてもさっぱりコーフンしないんですよォ。こういうケイケンってありますかァ」
と落胆したような溜息をつく。
車が動き出す。
ジャナイデスカは、
「どうもノーカスイタイのピントがあわないんです。おんなの陰唇がァ松の木の肌かァ、ひびわれた岩肌のようにみえるんです。それは、ただそこにィあるだけのもの。なんの意味もない、無機質なァ、たんなる物質。まゆげのしたに眼があるというようなァ、必然性。またぐらに陰唇があるのは、トーゼンという感覚。意外性もォ、おどろきもォ、感激もォ、な~んもない。娼婦だからそう感じるのかァ。わからない。ダップン、ホウニョウ、ホウヒ、オウト、ラクルイ、ミミアカ、ハナクソ、メヤニ。ハイセツはどれもカイカンだけどォ、シャセイのたのしみがなくなったらァ、なにをイキガイにすればいいのかァ?あきちゃったんですかねェ。まだ30をすぎたばかりないのに。シンコクです」
と気落ちしたように呟く。窓外の闇夜が更に深くなった。
「こんやはァ、いちもつを洗わないことにしました。エイズにはならないとおもうけどォ、カンジダていどにはなるかも。症状がでるかも知れないという不安をたのしみにする。症状から解放されるカイカンをあじわえる。ジギャク的かなァ」
と国道からジャナイデスカの住む高級住宅街への道に長谷川はハンドルを切った。
ジャナイデスカの沈み込んだ声は別人を思わせた。
そのトーンは永続しなかった。
「ほかにィ、悩みはな~んもないんすよォ。悩みがないのが悩みで。悩みがないとカイカンもコウコツも、ピリカラの香辛料のない料理みたいでェ。マッチポンプじゃないけど、しかたなく自分で火ィつけて自分で消してみる。お酒をおいしく飲むためにお塩をなめる。テキ~ラ!ウッ!」
とぶつぶつ言う。最後に自ら合いの手を入れるように叫んだ。そのうち即興で調子はずれなメロディーを適当につけて歌いだした。
「♪なやみのないのがァなァやァみィだァなやみのないのがァなァやァみィだァ~♪」
土岐の酔いはすっかり醒めていた。
暗闇の中のヘッドライトの輪の中に白っぽい邸宅が浮かび上がってきた。
ジャナイデスカはポケットからガレージのリモコンをだす。後部座席から小さなボタンを押しながら前方に突き出した。
ガレージのシャッターがゆっくりと巻き上がり始めた。それと同時に、ガレージの左脇の門灯が闇の液体に漂う水中花のようにボウーっと点灯した。ガレージに車を納め始めた。背後に玄関の照明を浴びたふくよかな影が心配そうに出てきた。優子だ。
ガレージに車を納める。エンジンを切って助手席を見る。ジャナイデスカはわざとらしく寝込んでいた。
「着きましたよ。お宅ですよ」
と土岐が声を掛けた。軽いいびきをたてている。わざとらしく聞こえる。本当に寝ているのかも知れない。少し、肩を叩いてみた。起きない。仕方なく、助手席から降りる。後部座席に回りこむ。ドアを開けた。
ドアにもたれ掛かっていたジャナイデスカは、開けると同時に車の外に倒れ込んだ。頭から地面に落ちそうになった。あわてて彼の上半身を支えた。ほとんど意識がない。濡れたマットレスのような、ぐにゃぐにゃの体を、後部座席から引きずりだした。立たせようとした。正体を失っていた。そこに、優子が現れた。
「すみません。またですか?お酒を呑むとだらしなくって」
と運転席から出てきた長谷川に詫びる。
優子は土岐からジャナイデスカの体を受け取ろうとした。だしてきた両手に力がまったく入っていなかった。
仕方なく土岐は、長谷川の助けを待つ。ジャナイデスカの重心の定まらない体を背負う。ガレージから出た。優子は脇から亭主を支えるようについてきた。不潔な汚物にいやいや軽く触れているだけのように見えた。
家の中にジャナイデスカを引き摺り込む。
長谷川が彼女に指示を求めた。
「寝室に連れて行きますか?」
「ええ、お願いします」
土岐は長谷川と一緒にジャナイデスカの脇を片方ずつかかえた。次第にジャナイデスカの濡れ布団のような体が重く苦しく感じられてきた。平屋建てで寝室が一階にあるのが幸いだ。
入って右がリビング、その奥が寝室だった。
寝室に入る。ジャナイデスカをダブルベッドの上に仰むけに転がした。少しスプリングで弾む。ジャナイデスカの体はベッドの中に沈んだ。同時に天井の円形の照明が半分点灯された。
優子は即座にジャナイデスカのズボンのベルトを緩める。ポロシャツの胸のボタンをはずした。そこで気づいたように、
「すいません、リビングで少し待っててもらえますか?」
と土岐と長谷川に哀願するように囁いた。
「いやあ、もう帰ります。遅いですから」
と長谷川が固辞する。
「だって、足がないでしょ」
と言われて土岐は長谷川と共にリビングに移動する。
長谷川が言う。
「そう言われてみればそうだ。国道まで出れば、タクシーはあるかも知れないが、夜遊びして深夜にタクシーを利用する文化がこの国にはないんで、タクシーを拾える可能性は極めて低い。言われるとおり、待つことにしよう」
リビングのイタリア製のクリーム色のソファーに並んで腰掛けた。見慣れない部屋の中を眺める。不意にけたたましいいびきが聞こえてきた。
三十二インチの液晶カラーテレビの上のカッセトテープとDVDを指差して、長谷川が言う。
「あの本数が前回訪問したときよりも増えてるようだ」
寝室とリビングの間のドアが優子の後ろ手で閉じられる。
いびきの響きは遠くなった。
「すいません。お送りします」
そう促されて優子と再びガレージにむかう。長谷川は助手席に、土岐は後部座席に乗り込んだ。
それから急ブレーキと急ハンドルの運転が始まった。
「わたし、ずっと、ペーパードライバーだったんです。運転するのはこの国に来て初めて。だから、運転するのが怖くて」
「代わりましょうか?」
と長谷川が気味の悪いほど優しく言う。
「いえ大丈夫です。慣れないといけないでしょ。毎朝主人と事務所までドライブするんですけど主人は私の運転では絶対に同乗しないんですよ。君の運転は怖くて危ないって言うんですよ。そのくせ銀行に朝行くときは助手席にわたしを乗せて夕方はわたしに車で迎えに来させるんですよ。わたしひとりなら事故に遭ってもいいということなんでしょうか?」
「そんなことはないでしょう」
と同情を求める優子に迎合する。窓外に目を泳がせながらなだめるように長谷川はつぶやいた。
街路灯がない。どこを走っているのか皆目見当がつかない。車線も引かれていない。カーブを曲がった後、突然対向車のヘッドライトと正対することがある。住宅街は歩道もない。垣根や塀もない。どこまでが車道か見極めがつかない。
優子は時々歩道に乗り上げる。曲がり角を間違える。覚束ない運転を繰り返した。
「車が走っていないのは、安心なんですけど、対向車がいないと、この先の道がどうなっているのか予測がつかなくて怖いんです」
それもそうだろうと土岐も思う。スピードをだして走ったら突然崖から転落することもありそうだ。
深夜の漆黒の闇の中をマニュアルだったらエンストしそうなスローな初心者運転が続いた。
優子はハンドルにしがみつく。前のめりになって前方を注視している。
ホテルの薄ぼんやりとした建物が見えてきた。車寄せに無事、車が滑り込んだ。フロントの照明は半分落とされている。急停止のブレーキ音が闇を切り裂いても誰も出てくる気配がない。
「お邪魔していいかしら。明日出張で忙しいことを知っていますが」
ジャナイデスカがヒジノローマ行きを言ったらしい。話題の少ない社会だから、そんなことでも会話の種になる。
一瞬、長谷川は返答を戸惑った。反射的に、
「ええ、どうぞ。でもカフェテリアは開いていないと思いますが。ヒジノローマに行くのはわたしではなくて土岐君なんですよ」
「そう。だったら長谷川さんの部屋でいいです」
長谷川は薄暗いフロントでベルを鳴らす。客室係を呼びだした。
「明朝の七時にミスター・トキにモーニングコール、八時にタクシーを呼んで」
と頼んだ。土岐は、ひどく喉の渇きを覚えていた。
「ローカルビールを部屋に持ってきてくれ」
と言いつけた。そう土岐が言ったあと、背後の優子に、長谷川は、「何飲みますか?」
ととってつけたように尋ねた。
「カンパリソーダをお願いします」
と優子は恥ずかしそうに答えた。
そのときになって、やっと土岐は優子の服装をじっくり見た。Tシャツとバミューダパンツで、Tシャツにはどこかのビーチのイラストがプリントされていた。パイナップル色のバミューダパンツからは、白く柔らかそうな太腿が頼りなげにのぞいていた。それとは対蹠的に胸のイラストは居丈高に突き出ていた。小さな顔と小さな足に挟まれたふくよかな胸が、なんとなく人工的でアンバランスに見えた。
土岐はカンパリソーダを待っている長谷川と優子をフロントに残して自室に入る。部屋の照明を全て点けた。と言っても、ドアの隣の壁際の小さな照明と、クローゼットの隣の背の高いスタンドとベッドの枕元の小さな照明しかない。椅子は二脚だけ。間に丸い小さなテーブルがあるだけだ。
隣の部屋に長谷川と優子が入ってくる気配がした。
「どうぞ」
と長谷川の声がする。
優子を椅子に座らせた。それからベッドのスプリングが激しく軋む音がする。
長谷川はベッドの上に倒れこむように座り込んだ。
土岐は急に酔いと疲れが出てきたように感じた。着替えもせずにそのままベッドに仰むけに倒れ込んで目を閉じた。
しばらくしてドアをノックする音がした。開けるとボーイが薄暗い廊下の背景に溶け込んでいる。ビールとカンパリソーダをトレイに乗せて立っていた。土岐は尻のポケットの財布から小銭をだした。ビールだけ受け取った。ドアを足で軽く蹴って締めた。
ボーイが隣の部屋をノックする。
長谷川がトレイを受け取った。テーブルの上に置いた。
優子が座っていた椅子を引く音がする。優子は立ち上がった。
土岐は部屋の電気を消した。隣室と繋がっているドアの鍵穴をのぞいた。鍵穴からは隣室のクローゼットしか見えない。
土岐は隣室との壁際に置かれている箪笥の上に上った。立ち上がると頭が天井に着く。天井から1フィートほどの幅のラーマヤーナの透かし彫りがある。そこから長谷川のベッドが俯瞰できた。
土岐の眼下で優子が感極まった面持ちで長谷川に抱きついている。ボーイが去るのを待っている。
そのまま、長谷川は優子の勢いに身を任せる。ベッドの上に抱き合ったまま倒れこんだ。
土岐は先刻のアミューズメント・センターでの感触を思い出した。
二人は少し斜めにずれた。優子の少し空気の抜けたゴムマリのような重そうな胸が二人の唇に距離をつくっている。
長谷川は胸部を圧迫されて、息苦しくなる。優子の脇を掬って横向きになった。
優子の鼻先が長谷川の唇に触れた。そのまま、優子は長谷川の喉もとで話し始めた。
「あんなに軽薄で馬鹿な人だとは想像もつかなかったわ。リビングのビデオ見ました?」
「ずいぶん増えているようだけど」
と言う長谷川の声は抑制が効いている。
隣室の土岐を意識している話し方だ。
「あれみんな彼が自分の母親に頼んで航空便で本国から取り寄せたんですよ。バラエティやどたばたのお笑いばかり。ドキュメンタリーや歴史ものやニュース解説なんか一本もないのよ。テープを見ながら一人で一晩中笑い転げているの。ばかみたい。一人ごと言ったり、テレビのタレントに話しかけたり、小学生みたい」
と笑いながら泣き、
「わたしの家系はみんな医者で、父も祖父も叔父もみんな開業医で、医学部出身なの。母方は普通の商家だけど、それでも母は一流の女子大を出ているの。家の中じゃわたしが一番勉強ができなくて、ずっと、頭の悪さに劣等感を持っていたの。彼と結婚したとき、大学も超一流ではないけれど、そこそこだったし、勤務先も政府系金融機関で、超エリートではないけれど、そこそこだったし、結局わたしは世間知らずだったのね。こんな馬鹿が世の中にいるなんて知らなかったの」
「彼はそれほどの馬鹿だとは思わないけど。普通でしょ。少なくとも偏差値は六十近い大学を出ているから平均よりはかなり上の学力があるはずでしょ。偏差値五十が平均だから」
「それがどうも怪しいの。彼の出た大学は入試が、マークシート方式で、しかも選択肢が四つしかないんで、確率的に偏差値五十以下の学生が毎年何人か合格するんですって」
「それほどとは思わないけど」
「それに彼の親戚から聞いた話だけど大学入試直前に予備校主催の特訓をホテルで缶詰になって受けて、そのときの問題がいくつか本番の試験で出て、それで合格したんですって」
「まさか、嘘でしょ。一流大学ならそういうリスクを冒しても十分ペイするけれど彼の大学は一流ではない。一流であろうとなかろうと刑法上は刑罰は同じだから、合わない話だ」
優子は長谷川が彼女の意見を全面的に受け入れないことに少し苛立ちを覚えている。馬乗りになる。そのまま上体を倒した。
「だから言ったでしょ。わたしが世間知らずだって。身内に彼みたいに低脳な人は一人もいなかったから、男の人はみんなわたしよりは頭がいいものだとばかり思い込んでいたの。わたしより頭の悪い人は彼が初めてなんで、どう接したらいいか、いまでもわからないの。あなたや一等書記官の加藤さんがわたしにとっては普通の人なの。尊敬できない人に、夜な夜な体を求められるのは、いやでいやでたまらないの」
「そうは言っても夫婦なんだから、適当に折り合いをつけるしか」と長谷川が言いかける。優子はその先を言わせたくない。唇を押し付けた。唇を合わせながら、優子は小刻みに嗚咽を漏らしている。優子の唾液が糸を引いて一瞬きらめく。やがて、優子の泪が、長谷川の頬の周りに滴り落ちてきた。
「どうしたらいい?もう妊娠しているし、いつも酔っ払っていたから彼みたいに頭の悪い子ができたら。貴方の子供だったらいいのに」
答えようのない語りかけが、沈黙を恐れているかのように止むことなく続く。
ジャナイデスカの子をはらんだという告白に長谷川が安堵している。首だけ起こして、
「ひょっとして、自分の子供ではないか?」
と長谷川が優子に聞こうとした。やめたように見えた。長谷川は、優子が夫の子供を妊娠していると言っている理由を確認して、
「ほんとは、あなたの子よ」
と告白されて、藪蛇にでもなったら抜き差しならない大事件になるとでも考えているのではないか。
優子はそうならないように、嘘をついているのかも知れない。それに、長谷川は学生時代、関係のあった女性に一度も妊娠させたことがなかった。卒業パーティーで会ったとき、
「確認したことはないが無精子症だと勝手に診断している」
と長谷川は漏らしたことがある。
土岐の回想に優子の呟きがオーバーラップする。
「それにとっても下品で下劣で。もう、わたし我慢できない。この間もホームセンターへバスルームで使う椅子を買いに行ったんだけど、彼ったら探しながら、『スケベ椅子はどこだろう』って言うのよ。人品の卑しさは偏差値と比例しているみたい」
と優子は声をだして泣きだした。
長谷川は隣室の土岐に聞こえるとまずいと思った。優子の唇を押し当てて黙らせた。
優子は鼻水で呼吸が苦しくなる。仕方なく泣き止んだ。
長谷川が優子をなだめるように言う。
「そう言えば、所長がこんなことを言ってたんだよね。『クライアントの夫人は重要だ。クライアントが落とせない時は夫人を落とせ。夫人を通じてクライアントの弱みを握れ。クライアントの子供も重要だ。夫人を落とし、子供をあやす。これも商社マンの仕事の内だ。君は加藤夫人にとっても、ジャナイデスカ夫人にとっても、丁度良い年頃だ。君は自分で気づいていないかも知れないが、女好きする性格なんだ。他に手頃な若い男は居ないんだから、頑張れよ』って。僕はどうも、所長の操り人形になってしまったようだ」
優子を抱きながら、所長のだみ声が長谷川の耳に絡む。薄汚い禿げ頭が網膜にちらついている。
長谷川の右手が優子の髪の毛を猫のようになでている。長谷川の瞳が不安気に揺れ動いている。さまざまな想念が回り灯篭のように回転している。
「もうそろそろ帰らないと。トイレで起きて、眼が覚めていると、大変でしょ?」
「そうね、あの人、異様に嫉妬深いから。あなたとミックスの試合に出場するとき、必ず偵察にくるって知ってた?」
「へぇー知らなかった。挨拶に来ないから、見に来ていないものだとばかり思ってた」
「ううん、これ加藤夫人に教えてもらったんだけど、いつも遠巻きに見にくるんですって。わたしがパートナーに対してどういう態度を取るのか観察しているみたい」
「そう。じゃ、なおさら早く帰らないと。君は彼に心から愛されているんだよ」
別れるときの優子は重たげだった。長谷川に身を任せ、完全に筋肉を弛緩させている。
長谷川がベッドから抱き上げて立たせようとする。浄瑠璃人形のようにしなだれかかってくる。体中の筋肉で抵抗する。体重が二倍もあるようで、長谷川が手を焼いている。
「映画や小説のような男女の恋愛関係はないような気がするんです。どんなに愛していた人でも、汚れた下着をみたら興醒めでしょ。食事中に旦那がティッシュペーパーを箸で取ったり、箸で皿を引き寄せるのがたまらないと言う奥さんもいるし、不平不満はいろいろでしょ。言いだしたらきりがない。自分はこだわるけれど、他人から見ればどうということのないこともある。ようは自分の感性を絶対化すると、周囲のことは不満だらけになる。生まれてくるお子さんのためにも、妥協しないと。多分、誰と結婚したって、それなりに気に入らないことはあるんじゃないかな。彼は陽気でいつも底抜けに明るい。あんなに快活な人はいない。あんなに明るい人は」
「あっ軽いのよ。わたし、マダム・ボバリーみたい。砒素を食事に少しずつ混ぜて、あの人を毒殺してしまうかも」
と言う優子の肩に手を回す。抱きかかえるようにして、長谷川はドアノブを回した。廊下は薄暗い。
「そういう物騒な話は聞かなかったことにします」
と優子を部屋から追い出す。
ドアを閉める音に合わせて、土岐は箪笥から降りた。
廊下を歩く長谷川の声がする。
「お子さんが生まれたら、きっといいことがありますよ」
「貴方はそんなことばかり言って、商社マンの鑑ね。おやすみなさい。また、携帯電話のほうにメールを入れます」
と言い残して優子が去って行く。
土岐はその後姿を追いかけて、
@I kill you@
のメールのことを聞いてみようかと思った。思いとどまった。優子を尾行する気力は多少残っていた。マッサージパーラーで欲情を処理しておいたのは今思えば幸いだった。そうでなければ、天井近くの透かし彫りから長谷川と優子の濡れ場を冷静にのぞき見できなかったかも知れない。