土岐明調査報告書
熱帯からの調査依頼 (プロローグ)
土岐明の大学時代の同級生だった長谷川誠から調査依頼の国際電話があった。先週末のこと。いきなり、
「来週の週末、あいてるか?」
という。
「いまんとこ、予定はない」
と土岐が答えると、
「それじゃ、LCCチケット送るから、仕事を受けてほしい」
と断らないことを前提としているよう。
「ちょっと待ってくれ、どんな仕事?」
「大した仕事じゃないんだが詳しくはこっちに来てから説明する」
「そう言われても仕事の内容によっちゃ、準備する必要もあるから」
「簡単な仕事だ。とくに、準備する必要もない。ある人間が、賞をあげると言うのに、いらないと言っている真意を探り、授賞式に出席させるのが一つ。もう一つは、I kill youというメールでおれを脅迫してきた人間をつきとめてもらいたい」
と音質の悪い国際電話は切れた。
格安のエアチケットは、後日、eメールに添付されて送信されてきた。ファイルをプリントアウトして空港のカウンターに提示してくれという内容。
次の木曜日の早朝、格安航空会社のチェックインカウンターでフライトスケジュールを受け取った。
トランジットが2回。
現地到着予定は現地時間の深夜。
20時間程のフライトで疲労困憊して現地の国際空港に到着した。空港案内所に長谷川から呼び出しの電話があり、
「ホテルまでタクシーで来てくれ」
とのこと。
告げられたホテル名を頼りに、薄暗いホテルに到着した。フロントでチェックインをすませる。メッセージがあって、
〈明日の朝食を8時ごろ、一階のカフェテリアで一緒にしたい〉
と書いてあった。
放縦商社マンの耐え難い饒舌(金曜日早朝)
朝早くケロシン売りの牛車の鈴の音で寝不足のまま土岐は叩き起こされた。
旅行用の折りたたみの目覚まし時計をみる。ディジタルの表示は6時。もういちど眠ろうとした。部屋の中には寝苦しいほどの曙光の熱気がすでに充満していた。摂氏三十度はこえている。エアコンをオンにしないと、眠れそうにない。起きあがってスイッチをいれてしまうと寝不足のまま目がさめてしまいそうな気がした。
額や首筋に脂汗がとぐろをまいていた。眠気と不快さが交互に立ち現れるベッドの上で、錆びついたスプリングを軋ませながらそのまま7時までゴロゴロしていた。目覚まし時計が鳴る少し前にエアコンのスイッチをいれた。
水量の少ないシャワーを浴びた。浴び終わるころにやっと温い湯が少しでてきた。シャワーの水滴をバスローブで適当に拭きとった。短パンをはく。Tシャツに首を通した。
二階の自室から一階ロビーのカフェテリアに降りていった。
〈closed〉
の札がエントランスの中央に出した白いプラスティックの椅子の上に置かれていた。
見渡したところ長谷川はまだ来ていない。
よれたモップを二本抱えたボーイがよれよれの白い制服に身を包んで足早に通りかかった。
「カフェテリアは、まだ開かないのか?」
と大きめの声で中学生程度の英語で足止めをするようにして訊いた。
「Five more minutes, Sir」
とボーイは乳白色の指をめいっぱいに広げた。
昨夜の疲れが残っていた。5分でも横になっていたかった。エントランスホール脇の狭い階段を昇って二階の自室に戻った。十八インチの液晶テレビをつける。鼻にかかった気だるいコーランが夜明けのモスクの映像とともに流れる。静止画面にモスク内の薄い水色の柱とアラベスクに飾られたミフラーブ。その向こうの朝焼けの空が薄い靄越しに映っていた。コーランの声音に滅入ってきた。
ボーとしていると七時のニュースが始まった。ヘッドラインだけ見た。興味を惹くものがなかった。スイッチを切った。
ホテルの部屋の鏡は上半身がすっぽりおさまる大きさ。姿見ほどは大きくない。鏡の中の顔は醜悪だ。アホ面を馬鹿正直に映し出す鏡を叩き割りたい衝動に駆られる。思いとどまる。
8時少し過ぎてから再び一階ロビーに降りた。カフェテリアに入ると先刻のボーイがオーダーを取りにきた。注文を言う前に、
「目玉焼きのベーコン添えに、トースト、ですか?」
と少し顎を突きだす。目を細める。得意げに訊いてくる。
ボーイの言うとおりにした。
「サニーサイドアップとカリカリベーコン」
と言い終える前にボーイはオーダーシートに書きこんでいた。
長谷川が寝癖のついた頭髪と寝ぼけ眼でやってきた。
「しばらく。ごぶさた。十五年ぶりか。少し太ったね」
と長谷川は少し前かがみになって声を潜めた。
「あのボーイ、気をつけた方がいいよ。先週末出勤途中で携帯電話、部屋に忘れてきたの思いだして自室まで戻ったんだ。そのときあのボーイが部屋から出てくるのを廊下の端で目撃した。近づいて『ひとの部屋で何していたんだ』とつとめて穏やかに詰問すると、『掃除です。だんな』ととぼけた眼でよどみなく答えた。『掃除はルームメイドの仕事だ』とすこし語調を強めて問い詰めると『彼女に頼まれたんで』と白々しい嘘をつきやがった」
と壁際のボーイに目をやり、
「部屋にはカネ目の物品は皆無なんで被害はなかったけど。あのボーイはおれがマネージャーに告げ口することを恐れてる。失業率三十%超えてるこの国じゃ、ボーイの代わりはいくらでもいる。告げ口されたら職を失う。口封じに目撃者のおれを抹殺したいと思う動機はありそうだ。しかし、あのボーイがおれのメールアドレスを知っているとは思えないが」
「何の話だ?」
と土岐。唐突に話を切り出す長谷川の癖は学生時代と変わらない。
「脅迫のメールを貰ったんだ。差出人不明。メールを見たとき、この国の着任前に、物盗りに入ったホテル従業員と遭遇した邦人がナイフで惨殺された事件を思いだしたんだ」
土岐は右耳で聞きながらあたりを見回した。
カフェテリアの窓際に安価な造りのテーブルが三つ。中央にやや大きめのテーブルが四つあった。
土岐と長谷川は窓際の端のテーブルに座っていた。他に客はいなかった。
土岐が思い出したように言う。
「依頼のメールにあった脅迫メールというのはそのことか?」
「そうだ。携帯で受け取ったんだ」
「事情が良くわからないんで何でもいいから、情報を提供してくれ」
「ああ、わかってる」
と長谷川は頭髪をかきむしる。
土岐は顔をそむけて、
「プライベートも隠しだてするなよ。調査に協力してくれないと、満足な調査ができない。もっとも君は昔からあけっぴろげな性格だから、安心はしているが」
窓外の脇道にスコール除けの半透明のプラスティックの屋根がある。その木製の支柱にヒスイカズラの淡い緑の茎が巻鬚で絡みついている。薄い紫の花が密集して咲いている。茎の太さと不釣合いなほど花弁の塊が大きい。
土岐は花弁に見とれていた。
白い陶磁器の大皿が二枚運ばれてきた。目玉焼きの黄身がはちきれそうにこんもりと盛り上がっている。毒々しいほど黄色い。ベーコンはカリカリで縁が黒く炭化している。トーストは真っ黒な焦げ目がすじ状にまばらに走る。縁はあまり焼けていない。
「A cup of tea」
と土岐が言いかけた。長谷川が制した。
「事務所の食堂の棚に、去年大量に買い込んだ贈答用の極上の紅茶の茶葉がある。ここの紅茶はまずい」
とベーコンをかじりながら、長谷川が話し出した。
「いつもは事務所には八時少し過ぎに散歩を兼ねて徒歩で行くんだ。始業の二時間前だ。誰も来てない。早く目が覚めたときはそうだ。このホテルにいてもすることないし。だいたいホテルにはパソコンがない。先月、新しいパソコンを最新のソフトと一緒に事務所に入れたんで古いパソコンが一台余った。ホテルに持ち込もうかと思ったが停電が多いんでやめた」
と肩をすくめて、
「事務所には出力は小さいが、バックアップ用のディーゼル発電機がある。それにホテルじゃインターネットを電話回線で接続しなきゃならない。通常の電話ですら満足に機能していないんで、良好なパフォーマンスは望めない」
とベーコンにナイフを入れて、
「この国のテレコミュニケーションシステムの後進性にはわが社の責任もある。この国の電気通信システムへの日本の援助は五次にわたる。その初期のプロジェクトからうちの会社はかかわってきた」
とベーコンをほおばって、
「援助対象となるシステムの仕様は常に日本で陳腐化されたものに設定されてた。廃棄寸前のシステムだから安上がりだ。それに導入の継続性が期待できる。日本の電気通信システムが進歩すれば、いずれそれに代替される。そのとき廃棄される古いシステムが公的援助の対象となる。システムが進歩と陳腐化を繰り返す限り、この国との取引は永遠に継続される」
と鼻の穴を膨らませて、
「援助の対象となるのは、導入に決定権を持つこの国の政治家が在住する首都圏だけだ。地方都市との接続はこの国の自前となる。首都圏のシステムは日本の仕様だから黙っていてもうちの会社に受注が舞い込んでくる。援助をしてもそれが呼び水となり十二分以上にペイする。利用者としては最新のシステムが全国同時に導入されないんで国内のネットワークに齟齬をきたす。国際ネットワークに直接接続できない不便さがある」
と土岐を見つめて、
「こうした援助は巨額の利益を生む。この国に支社を持つのはうちの会社だけだから日本との取引は独占状態にある。だから粗利率は目いっぱいに設定できる。援助がらみや政府の予算がらみの場合、競争入札がないんで援助額の上限や政府予算額の上限がそのまま売り上げになる。仕入の輸入額がそのまま売上原価になる。売上に等しい予算と売上原価である仕入の差が粗利となる。官公庁むけの業務用ソフトを納入したときは粗利率は九十パーセントにもなった」
「まあ、商社なんて、そんなもんなんだろうな」
と土岐は同調するように言った。
「ということは、この国の取引関係のある企業とか個人は君のアドレスを知っているよな」
「まあな。おれの名刺に書いてあるからな」
「名刺のメールアドレスは、パソコンだろ?」
「そうだ。携帯のアドレスは公表してない」
「君はさっき、携帯電話で脅迫のメールを受け取ったと言ったが、だとすると、脅迫者は、君の携帯のメールアドレスを知っている者に限定されるということか?」
「脅迫メールはパソコンのアドレスから転送されてきたものだ」
「とすると、メールの容疑者は、君のパソコンのアドレスを知っている者ということだな」
長谷川は土岐の言うことに興味を持たない。自分のことを話すのに夢中だ。
「早朝の誰もいない事務所で嘆息混じりで黒褐色の紅茶を啜りながら、パソコンのメールをあける。アドレスは個人用と事務所用の二つあるんだ。どっちも携帯電話に転送されるように設定してある。もちろん重たいメールは転送されてこない」
とリターンキーをたたくふりをして、
「事務所用のアドレスは所長も知ってるが彼がメールを開けることは滅多にない。本社からの定期便、懸賞サイト、ピンクメール、アンケートメール、セールスメール、その他様々なメルマガ、迷惑メールを自動削除しても、受信トレイに全部で三百通あまりある。件名だけ見ながら、せっせと片っ端から消して行く」
と削除キーを押すふりをして、
「同じ件名や同じ送信者の迷惑メールはルールを設定して自動削除する。本社の情報システム課じゃ、全てのメールのログをチェックしていると仄聞したが、どの程度のレベルでチェックしているのか分らない。業務と無関係な危ないメールも数多くあるが、これまで不正使用を指摘されたことはない」
と目を大きく見開いて、
「とにかく、迷惑メールを機械的に片っ端から消して行く。英文と和文が半々だ。英文は大半がウイルスがらみで、件名にRe:という記載のあるものが多い。残りの英文メールは強壮剤や猥褻サイトの広告メールだ。和文は仕事がらみのものが散在しているんで注意しながら削除する。重要だがすぐ読む必要のないものは保存フォルダに移動させる。受信トレイを空にしてひと仕事終えたことにする。これだけで毎朝、小一時間かかる」
と言いながらニヤリとして、
「件名が個人用のアドレスに〈ノマノマへ〉という水野佐知子からのメールはじっくり読むことにしている。なぜかほっとする瞬間だ」
「その女は君の彼女か?」
と土岐が聞くと、長谷川は嬉しそうに眼を細める。
「まあ、そんなようなもんだ。機会があれば紹介するよ」
「そのノマノマというのは、君のハンドルネームか?」
「そんなようなもんだが彼女と知り合ったとき、ひたすらノマノマという言葉を繰り返す奇妙な歌がはやっていたんだ。それで、彼女が勝手におれのことをノマノマと呼び出した」
と小声で歌いながら、
「まあそんなことはどうでもいい。彼女のは面白いメールだぞ。この間のメールはこんな文面だった。『お元気?お母さんの目、悪くなっているみたい。眼医者さんに連れて行こうとしてもなかなかうんと言わない。自分のことなのに。この年代の人はどうしてお医者さん嫌いなのかしら。そのくせ目が良く見えないって大げさに嘆いて。どうも他人からの同情が欲しいみたい。白内障の手術なんて簡単だからすぐよくなるのに。そう言ったら手術はいやだって。簡単に直ったら他人の同情がなくなるから、それをおそれているのかしら?とにかく難しい人。あなたはこういうお母さんとよく、三十年以上もやってこられたわね。と言っても、二年前に海外勤務だって、ていよく逃げだしちゃったけど。お願い、貴方の方から眼医者さんに行くように諭して頂戴。メールはやってないみたいだから、電話でね』とこんな調子だ」
と声音を使いながら、
「佐知子とはこの国に赴任する直前まで半同棲していたんだ。海外転勤を契機にうやむやのうちに別れたような形になってる。不実な恋人が放置したごみ同然の荷物をその母親の家に届けてから、アパートが近所ということもあって母と頻繁に会うようになったようだ。あかの他人だが、どういうわけか気が合うらしい」
と鼻先で笑いながら、
「メールの内容は母がらみのものが多い。母はどうも佐知子を許婚のように思ってて、息子のおれへの伝言を彼女によく頼む。年に一度、正月に母に電話すると、佐知子のことを話題にする。一人暮らしで寂しい年金暮らしだから、からっきし話の合わない若い女の訪問でも嬉しいのかも知れない。それはそれでありがたいことだが、こちらから頼んでそうして欲しいと言っているわけではない」
と少し眉間にしわを寄せ、
「だからというわけではないが佐知子には返信メールをほとんど送信しない。何をどう書いていいのか分からない。そのことを佐知子はいつも『愛情がない』となじる。しかし返信メールをあまり送信しないことが愛情のないことだともおれには思えない。相手の立場でものを考える習性がないだけのことだ。そういう習性のないことを『愛情がない』と言うのであれば、それはそうなのかも知れない」
と言いながらトーストにバターをぬり、
「佐知子のことは、いつも心の中にわだかまっている。腹の底にトグロを巻いているような状態で、なんとなく気がかりにはなっているが、大蛇のように暴れだすこともない。I kill youの送信者は、佐知子かもしれない。そういう文言を送信する動機は十分にある」
とすこし目を曇らせて、
「彼女は結婚を期待していたはずだ。このまま彼女と結婚しなければ、彼女をいいように弄んだことになる。母との交流だって、こちらに恩を着せる目的であるに違いない。しかし動機はあるとしても、それによって得る利益は鬱憤晴らし程度のものだ。フリーメールアドレスを作ってわざわざ送信する手間に見合っているとは思えない。冗談にしてはウイットもセンスもまったくない」
長谷川の話は滔々と続く。落語好きで演劇のサークルにも所属していたせいか、語りに感情が籠っていて臨場感がある。調査する土岐の立場からすると、それはそれで有難い情報提供ではあるが枝葉が余りにも多い。しかも、主観的だ。土岐は長谷川の言うことを一々、有用な情報とそうでない無駄話に分類し、その上で客観情報に翻訳しなければならない。不快さが募る。
「おまえを呼ぶことになったのは日本の外務大臣訪問関連のメールが本社から送信されてきたからだ。大まかな日程が書いてあった。来週の月曜の夕方到着する。一泊して火曜の夕方離陸する。一泊二日で時間と場所と会う要人がリストアップされてた。この国の大統領への表敬訪問と首相と外務大臣との会談は当然として、邦人とはわずか三十分程度の懇談会だ。主だった邦人をかき集めても十数名にしかならない。この地で邦人に会ったところで、本国でたいした票にも金にもならないということだろう」
と天井に目線を上げながら、
「二日目の昼食後、芸術家協会の人々と懇談するというセッティングが妙に思えた。わずかばかりの滞在時間中に、なぜ金にも政治にもならない芸術家連中と懇談しなければならないのか。世界的な芸術家などこの国にはいないはずだ。しばらく考えて、外務大臣就任以前の週刊誌の記事を思いだした。確か素人離れしたリトグラフが趣味で、画商の間では政治家であることを抜きにして一号いくらという一定の値段が付いているそうだ」
と長谷川の冗長な話が続く。
土岐はキーワードだけ記憶にとどめて聞き流していた。いらいらしていた。重要なことだけを言ってもらいたい。土岐は耐えた。
長谷川の話は続く。
「外務大臣の食事はだいたいホテルか大使館。招待客の少ない食事は大使館だが、人数が十名を超えるとホテルになる。ホテルはこの国の古色蒼然たる国会議事堂近くの近未来的な超一流ホテルだ。贅沢なロビーの吹き抜けが二十数メートルにも及ぶ。吹き抜けを囲むようにして客室が並んでる」
と目線を窓の外に運び、
「そのホテルはおれの自宅のこの安宿ホテルからもそれほど遠くない。おまえが以前、この国に来たとき逗留したのはそのホテルじゃないかな。自室のベランダからあたりの景色とは不釣合いなその一流ホテルの二十階から上の上層階を見ることができる」
と土岐の目の中をのぞき、
「で、添付ファイルに交換公文で借款と無償援助の付きそうなプロジェクト一覧があった。水力発電所拡張事業、肥料工場改修事業、造船所機能改善事業、電気通信網拡充事業、農業技術協力事業、水資源開発事業。そのほか、所長が手がけていた首都空港の近代化計画もリストアップされてた。近代化計画のフィージビリティスタディは去年終わっている」
と思い出すように目線を泳がせながら、
「モノがソフトで金額自体も十万ドル程度だったから、わが社の口銭は僅かだった。このプロジェクトに援助資金が貼り付き、ブツが流れれば、口銭は数億ドルのオーダーになる。所員一人あたりの口銭が一億ドルを超えれば社長賞ものだ。所長の取締役への道も開かれる可能性もあった」
ついに土岐は長谷川の冗漫な話に耐えられなくなった。
「なあ、要点だけはなしてくれないか」
長谷川はむっとしたように口をとがらせる。
「おれは、事案の背景を話している」
「それは、分からんでもないが、今回のミッションと関係のあることだけにしぼってくれないか」
長谷川はすこし頬をふくらませる。
「まあ、そうせかせるな。情報をお前と共有したい。おれは気づいていないがおれのはなしで、お前の気付くことがあるかもしれない」
と長谷川に悪びれる様子がない。
ふたたび、長谷川の話が続く。
「しかし、外務大臣の訪問が遅れた。交換公文で援助が確定したとしても滑走路、航空管制、燃料補給、特殊車両、修理基地、通信システムなど、物件ごとに日本国内の業者を貼り付けなきゃならない。業者の選定は現地事務所では手に負えないんで本社の方でやるはずだ。巨額プロジェクトだから動き出すのはたぶん来年以降だろうな」
と数回うなずいて、
「所長は今年で定年だ。本社社屋を手放し、人減らしのリストラの嵐が吹き荒れている本社に彼が取締役就任の見返りに持参するはずだった凱旋の手土産がない。逆に本社は、定年後も嘱託として現職に留まらないかと彼に打診して来た。給与はいまの半分以下だ。半分以下の給与で、空港近代化プロジェクトの道筋をつけさせれば安いもんだ。定年を境に所長の業務を嘱託にアウトソーシングして、コストを削減しようとする本社の戦略は、営利団体として筋が通ってる。定年退職し、関連子会社の取締役に就任し、家族のために帰国するか、あるいは給与は安いが嘱託として手がけた仕事を完遂させるか。所長は右顧左眄してる」
土岐は朝食をすでに平らげていた。しかし、長谷川の話は終わらなかった。学生時代もお喋りではあった。商社の営業経験を重ねて饒舌さに磨きがかかった。
「いまのところ、おれが精神的に一番かかわりの深いのは所長だと思う。所長はどう思っているか分からないが、おれの方は、所長との軋轢を一番強く感じてる。所長がどういう人物かは、これから事務所で紹介するんで、おまえの目で見てくれ」
と土岐に同意を得ながら、
「その所長が社長賞を貰ったのは三年前のことだ。その二、三年前にアングラの墓苑ビジネスで大儲けしたのが発端だ。手口はこうだ。先ず、経営コンサルタントという肩書きで都心一等地の寺の住職に接近し、甘言を弄してたらしこむ。接待漬けにし、ギャンブルや女遊びを覚えさせる。次第にギャンブルのレートをつり上げ、女のレベルをグレードアップさせる。ギャンブルや女遊びに熱中して来たら、自由に出来るカネをたんまり入手する方法を伝授する」
と札束を懐に入れるしぐさをして、
「最初に、お盆や祥月命日に墓参りに来た檀家のリストを作らせる。次に、墓参りに来なかった檀家に法事に関するアンケートを郵送する。アンケートの返事のなかった檀家には電話連絡する。電話が使用されていないか、使用しているのが別人かどうかを確認させる。電話で連絡が取れなかった場合や転居先不明で郵便物が返送されてきた場合は、その墓を取り壊す」
と言いながらこぶしでテーブルを軽くたたき、
「住職の罪の意識を軽くするために骨壷を手厚く弔い、共同墓地に格納させる。空いた墓地は更地にして新規物件として売りに出す。広告宣伝には特定の寺の名前や場所は明示せず、会社は一年ごとに設立と解散を繰り返す。寺の税務業務も請け負う。檀家総代となって、日常的な経営コンサルティングも行う。仕入原価一本三百円の卒塔婆は三千円で」
と右手で筆で梵字を書くふりをして、
「百円の線香は千円で、五百円の花束は桶をつけて五千円で、売上総利益率九十パーセントで販売させる。墓石のマージンは近所の石屋の手前もあるんで三割程度。お布施は施主の所得水準に応じて、仕出し弁当と一緒に三種類の価格表を作成する」
と表を作るしぐさをして、
「墓地の売り上げだけは簿外とし、一切所得計上せず、住職と現金で折半する。住職には固定資産や高額の耐久消費財等に使わないように足の着かないカネの使い方を懇切丁寧に伝授する。こうして作った巨額の裏金を駆使して北アフリカのイスラム軍事政権の酒や女に対する免疫のない駐在武官をズブズブの接待漬けにした」
とコップの水を飲みながら、
「巨大石油化学プラント建設の契約を成立させて社長賞を取った。その総額は本社の石油化学部門の年間売上げに匹敵した。にも拘らずこの国のような僻地に飛ばされたのは脱税の時効を待つためだ。海外出張であれば本人の刑事責任は時効外だが、立件するために必要な関連書類は全て三年で廃棄される。墓苑ビジネスの国内の関連書類は去年から時効を迎えて、全て廃棄されたはずだ」
と卓上のナプキンを指先で数センチ先に投げて、
「ただし悪質と当局に判断された場合は時効は二年延長される。かりに延長されたとしても資料は三年で廃棄されてるんで証拠がなくなる。『三年の時効までは目立たない発展途上国の方がいいだろう』という直属の上司の配慮だった。しかし実際はいざという時の厄介払いでもあり、トカゲの尻尾切りでもあったんだ」
とナイフでベーコンを切り、
「その所長の口癖が耳鳴りのように耳の奥でガンガン共鳴する。『いわゆる有能な商社マンてぇのは、裏金造りが上手ぇんだ。真っ当な商社マンにゃ、倫理も道徳も良心もいらねぇよ。黴の生えた商人気質の青臭ぇ良心は、カネにゃならねぇ。警察にばれさえしなきゃ、本当に何をやってもいぃんだ。ドジ踏んで、当局に露顕した場合だけを犯罪といぅんだ。万が一官憲に発覚したら、徹底的にシラを切ってとぼけろ。真面目に税金を払うのは、馬鹿と間抜けと阿呆と頓馬だ。いくら脱税したところで、政府行政サービスはなくならねぇよ。道路もただで歩けるし、警察も無料で保護してくれる。税務署は税理士と宗教法人等の非営利法人にゃ甘ぇんだ。脅してでも安く買い叩き、騙してでも高く売り抜けろ。弱い奴や頭の悪い奴は、ケツの穴の毛まで徹底的に引っこ抜き、喰い物にしろ。要するにハイリスク・ハイクライム・ハイリターンだ』というのが所長の口癖だ」
と延々と所長の口ぶりをまねて、
「堅忍不抜の持論だ。『NGOの慈善事業じゃねぇんだから行住坐臥、裁定取引の対象を捜せ。そう心掛けていねぇと想定外の儲けは獲れやしねぇ。餓鬼の駄賃じゃ仕様がねぇ。適正利潤だけになったら商社もおしめぇだ』と彼は、物件ごとの利鞘の幅の大きさに執拗にこだわる。『情報を駆使し、価格差の懸隔を求めて、尋常でねぇ巨額の利益を創り出す。それが商社マンの金科玉条であり使命だ』と彼はスパルタ教育を矜持とする教官のように終始力説している。『日常茶飯の業務は大儲け仕事の繋ぎでしかねぇ。それで満足ならば煙草屋か駄菓子屋の店番でもしてりゃいぃんだ』とおれにはっぱをかける」
聞きながら土岐は、
「もういい」
と言わんばかりに幾度もうなずく。それでも長谷川の話はやまない。
「所長のような商社マンは骨董の部類に属するタイプだ。情報と資金融通とリスク負担で商社が稼ぐ時代は終焉したというのが本社の中堅幹部たちの一致した見解だ。実際旧態依然たる経営を行っていた大手や中堅の商社が何社か倒産したり吸収合併されたりしてる」
土岐は長谷川の長広舌にうんざりしていた。不快さが募ってくる。聞いているふりをしてうなずいていた。大半は聞き流していた。
「その所長が、I kill youの送信者と君は言いたいのか?」
「証拠はないが、心証的にそうじゃないかと思ってる」
「心証的と言うのはどういうこと?」
「どうもね、相性が良くないんだよな。所長の目から、おれはとんでもない怠け者に見えるらしい。確かに所長の若いころと比べればそうかも知れない。『もっとサービス残業しろ』とか、『朝駆け、夜討ちで営業をかけろ』とか、四六時中はっぱをかけられてる。しかし、営業努力したとこで売れないものは売れないし、売れるものは普通に営業してても売れる。相手が、『月1個買いたい』と言うのを無理に、2個売り付けたところで、前倒しで、翌月1個売れなくなるだけのことだ」
とナイフとフォークを置いて両手を広げ、
「所長が若かったころの、高度成長経済と環境が全く違うのを認識してないんだ」
と長谷川のおしゃべりは止みそうにない。
長谷川にとっておしゃべりは快感だが、聞かされる土岐は不快だ。
土岐はいら立ちのあまり、急に立ちあがった。
「そろそろ、会社に行かなくていいの?」
長谷川も腕時計を見ながら立ちあがった。
土岐が長谷川とホテルを一緒に出たのは朝の九時過ぎだった。
長谷川の現地事務所までホテルからタクシーに乗った。
「どう、昨日よく眠れた?」
と長谷川が車窓の外に目線を流しながら土岐にけだるく聞く。
「いやあ、トランジットの連続でまいったよ」
と土岐は欠伸を噛み殺しながら言う。
「まあ、格安航空券だからね。でも、今回は仕事を受けてくれて、ほんと、助かった」
「まだ詳しいことは聞いていないし、契約書も交わしていないんで」
「そんなこと言うなよ。もうここにきてるじゃないか。実質的には契約を結んだも同じだ」
土岐もそう思う。長谷川に対してはそう言ってみたかっただけだ。
「仕事の内容だけど、二つあって、一つは事務所についてから言うよ。もうひとつは、さっき話したような個人的な依頼で、経費は二つ一緒で願えればありがたい」
「公私混同の臭いがするが、まあ、とりあえず、聞いておくよ」
長谷川は固いシートのタクシーに揺られている。またつまらなそうに語りだした。
「朝食のときにも話したけど、先月のことなんだけど、事務所にいく途中で携帯電話のメール着信音が聞こえたんだ。ポケットから取りだして歩きながら読んだら@I kill you@というメッセージだった。その意味がわかると、一瞬、胸にナイフの突き刺さる思いがした。送信者のアドレスはインターネットのフリーメールだった。〈ikillyou@freemail.com〉というアドレスだ。まったく知らないアドレスだった。いたずらか?まるで心あたりがなかった。おれのアドレスをどうやって知ったのか?」
と人差し指の関節で窓をコツコツと叩き、
「普段からインターネットのアンケートでもパソコンの個人アドレスや携帯電話のメールアドレスは記入しないように気をつけてる。どこかで、誰かの恨みでも買ったのか?パソコンから転送されてきたメールだが、おれのアドレスを知ってる者が送信者であれば限られてくる。しかし、その者が第三者にネットの掲示板かなんかで教えたとすれば犯人の割りだしようがない」
と首を左右に振りながら、
「そもそもおれを特定して送信してきたのか、それとも不幸のメールのようなものなのか。単なる迷惑メールか?本当に殺すつもりであれば、警告などしないだろうし、脅しか、警告か?脅しか警告であるとしても心あたりがない。こちらがまったく気づかないうちに誰かにとてつもなく不愉快な思いをさせたのかも知れない。記憶をあれこれたどってみたが思いつかない」
「もういちど確認するけど、いずれにしても、その送信者は君の携帯電話のアドレスにパソコンのフリーメールアドレスから、I kill youと送信したということだな。とすれば、君の携帯電話のアドレスを知っている者ということになるな」
「いや、パソコンに送信されたメールが携帯に転送されてきたんだ。前にも言ったと思うが、そういうふうに、おれは設定している」
と長谷川は言いながら幾度もうなずく。
途中で、対向する三輪タクシーが窓の外に出していた土岐の袖をかすめて疾駆して行った。その瞬間、ひやりと血の気が失せる思いがした。土岐は長谷川が語るメールの送信者のことで頭の中がいっぱいだった。
「その後、メールはあったの?」
「ときどきだけど。でも、気になってしょうがないんだ」
「君を恨んでる人間は多いかも知れないな」
「おまえもそうか?」
と長谷川が土岐の目をいたずらっぽく見る。
土岐は長谷川の無邪気な表情を眼の端でちらりと見た。
「今はどうか知らないが、君は女のこととなると、ほかのことが眼中から消える。学生時代、約束をすっぽかされたこともあるし、無視されたこともある」
「そんなことあったのか」
「だろ?君はまったく気づいていないんだ。いつもそうだった」
橋頭保アンテナ現地事務所(金曜日午前)
タクシーを降りて事務所に着いた。固定電話の間延びした呼び出し音が鳴っていた。チョコレートのような肌をした男が玄関の近くで、すばやく受話器をとった。
「テレホンコール」
とドアから入って来たばかりの長谷川に褐色の縁どりのある仄白い手のひらを振る。
「わかった」
と長谷川が人差し指を立てて合図を送る。その黒い男は白い歯とピンクの歯茎をむき出しにして意味ありげに、にこりと笑う。
長谷川は誰からかと訊こうとしたがやめた。出てみればわかることだという態度で受話器を受け取る。
短い電話だった。
電話が終わった後、長谷川は自分の机の隣の椅子に土岐に座るように右手で鷹揚に合図した。
「この机、使ってくれ」
と椅子をひいて、
「で、いまの電話はヘンサチからだ。本名は加藤威雄という。だが、おれはそう呼んだことは一度もない。面とむかうときは一等書記官という職名で声を掛けてる。ヘンサチの無愛想で尊大な物腰はどうも好きになれないんだよな。大使館の廊下ですれ違うときも向こうから先に挨拶することは皆無だ。こちっちが気づかないと声も掛けずにすれ違いそうになる。こちっちが好意を持っていないことは彼にもわかっているだろう。こちっちに対する不快感がどれほどであるかは忖度しがたい。ひょっとしたら抹殺したいほどであるのかも知れない。人の心ははかりしれない」
と土岐の同意を求めるように目線を合わせようとして、
「で、いまのは、ヘンサチの居丈高でくぐもった声で、『所長代理さんに、ちょっと、話があるんだが』という電話だった。ヘンサチもおれを本名の長谷川誠で呼びかけることはほとんどない。だいたい、役職名で、『所長代理』と呼びかける。改まった場では、いかにも仕方なく、『長谷川君』と呼ぶが、言うほうも言われるほうも妙に居心地の悪い照れくささを感じるんだな」
と軽く鼻息をもらし、
「ここの受話器は雑音がひどい。間断のない潮騒のようなんだ。ヘンサチのいらつかせる音声は、途切れ途切れにしか聞こえてこなかったが、話しをしながら、『ランチでも一緒にどう?』という誘いだった。聞こえてくる音声の虫食いパズルを適当に解くと、そんなような用件だった。いつものように、どうせ支払いはこちっち持ちになる。やつのたかるような声音に、『昼飯をたらふくおごってくれ』という言外の含みが強く感じられたけどね」
と憎々しげに口をへの字に曲げて、
「ヘンサチが言うには『雑用に忙殺されてブランチ食べそこねて正午過ぎるとレストラン混むでしょ。十一時半ごろどう?』と言うんで『十一時半ごろですね?いいですよ』と好きなように、ご随意にしてくれというような口調で答えたら『レストランはホンコンでいい?』と畳み掛けるように指定してきた。やつの語勢に即答を求めているような気配を感じた。ほとんどなにも考えずに『ホンコンでかまいません』と承諾しかけた。電話はすでに切れてた。受話器を置く音が聞き取れなかった。電話を切るときになんの挨拶もないのはいつものことだ。そういうやつなんだ、ヘンサチってやつは」
と長谷川の饒舌によどみがない。
長谷川の饒舌には、聞き手を自分と同じ思いに誘導しようとする意図が強く感じられる。学生時代もそうだった。とにかく長谷川はよくしゃべる。目的は自分の考えを押し付けること。聞き手に同調してもらうことだ。
土岐は椅子に腰かけて、長谷川の黄緑の受話器の左脇にある置時計に目をやった。
〈会社創立百周年・株式上場五十周年記念〉
という金色の文字が際立っている。長針の淡い影は十近くを指している。
「ヘンサチの話はたぶん、おまえに依頼するもう一つの仕事の話だと思う。一緒に昼食を食べながら、詳しい話を聞いてくれ」
土岐は無表情で黙って承諾した。長谷川は電話を取り次いだ黒い男を土岐に紹介した。ショスタロカヤという名前。仕事は雑用全般。机に戻った長谷川に土岐はおもむろに契約書を見せた。
「形式だけだけどサインしてくれ。会社の経費でおとすなら契約書がないとまずいだろう」
長谷川はざっと目を通して、2通にサインした。
土岐は一通を受け取りながら、
「でも、まだよくわからない。君の言う依頼というのは、どう考えても中途半端な仕事だ」
と成田を発つときから抱いていた疑念を吐いた。
「詳しいことは、中華レストランでヘンサチが説明するはずだ。それほど簡単な仕事ではないかも知れないぞ」
と長谷川は説明を先送りにした。そこに黄色い肌の初老の男が入って来た。長谷川は椅子から立ちあがった。土岐をその男に紹介した。
「あ、所長、この男が先日話した土岐です」
土岐は立ち上がって前に進み、名刺をさし出した。
「東京からやって来た土岐と申します」
と名刺を交換した。
「所長の川野です」
と事務所で一番大きな机の椅子にどっかと腰かけた。四脚の回転椅子を軋ませる。反転させ長谷川に言った。
「加藤さんから連絡あったかな」
「いまさっき、例の件は昼飯を食べながら伺うことになってます」
と長谷川は川野に電話の内容を説明しついでに外出の了承を求めた。
「どうぞ、どうぞ、承諾無用」
と川野はパイプの刻み煙草にオイルライターで炎を吸い込んだ。
土岐は交換した名刺に目を落とした。
川野は土岐にあまり興味がないようだ。土岐の名刺を机の上に投げ置いてぼんやりしている。土岐については長谷川が既に説明済みなのかも知れない。
川野はたるんだ頬を凹ませながら煙を吸引している。ゴルフ焼けしている。顔中老人性のしみだらけだ。吸う度に刻み煙草の熾火がふくらんで、しぼむ。生気のないドングリ眼を寄せて真っ赤な火種を凝視する。北側の窓に顔をむけた。一等書記官の加藤への伝言を考えているようにも見受けられた。黙ってたゆたうパイプの紫煙に目を泳がせている。
「土岐さんのお仕事は、今回のような調査が中心なんですか?」
「いえ、依頼人次第で、はっきりした業務内容はないんです。便利屋みたいなもんです」
「へえー、そんなんで生計が成り立つんですか?」
「まあ、調査事務所とはいっても、一人だけですから。事務所も自宅ですし、法律事務所の嘱託もやっていて。かつかつですが、フリーターみたいに、なんとかやってます」
日陰の窓の上にあるエアコンから湿っぽい冷気がゆるやかに溢れていた。送風扇の振動が陽の当たる窓の白いブラインドを小刻みに蠕動させている。川野の鬢のそり返った胡麻塩の毛髪がモーター音に同調して繊細に震えていた。
土岐の首筋に冷たい空気の柔らかな塊がかすかに感じられた。
長谷川はパソコンで、メールを読んでいる。
川野の分厚い口元を注視した。土岐は契約書を折り畳んで胸ポケットにしまった。所在なげに黒いボールペンをメトロノームのようにして、その尻で左の親指の爪を叩いた。
川野は土岐の手元を一瞥して煙を吐きながら窓外に眼をやった。
「よろしく頼みます。詳細は大使館の加藤さんが話すようですから」
陽のあたらない北向きの窓から裏庭の根つきの悪い芝生が見える。暗い緑の不揃いなささくれが二インチほどまばらに伸びていた。その先のコンクリートの通路の縁に一フィートほどのサンタンカの
数葉の肉厚の緑が、ほぼ等間隔に七つ並んでいる。葉の中央に五つか六つの黄色い花弁の混ざった臙脂の花がぱっくりと開いている。
その花のうしろを隣の屋敷の家政婦が丸っこい肩を落として通りの方に歩いていた。彼女の浅黒い首筋が低い塀越しの天日に雲母を散りばめたように輝いている。川野のたるんだ瞼の皺の奥の澱んだ目がその家政婦の動きをぼんやりと追っていた。
「所長さんはパソコンでメールを送受信されないと聞きまたが」
と土岐は唐突に探りを入れた。
「ゆっくりならやりますよ。けど、わしがやるより長谷川君に任せた方がはるかに速い」
「プライベートなメールはどうしているんですか?」
「日本にいれば、家族とメールのやり取りをしないでもないけど、いまは、単身赴任だし、家族にとっちゃ、家を広く使えて嬉しいんじゃないですかね」
と自虐的に土岐の笑いを誘おうとする。
土岐はそれに気付いたが笑わなかった。長谷川は土岐に、
「ちょっと待ていてくれ」
というような仕草でパソコンのメールを読みながら一通一通処理している。
土岐は詮索するでもなく川野の黒檀の机の上に目を置いた。eメールのプリントアウトが数枚。その隣に橙の文書ファイル。檜皮色のジグザグの罅割れのある貝殻。褐色の木のペーパーナイフ。白地に数字だけのデスクカレンダー。薄いピンクの会社のロゴ入りメモ用紙。川野童司のネーム入りの茶のボールペン。濃紺のサイン用の極太の万年筆。押す部分の塗料が剥げ掛かった黒いパンチ。艶のある群青色のホチキス。携帯電話の卓上フォルダ。鶯色のスケルトンのデスクトップパソコン。零れたコーヒーで薄汚れたコルクのコースター。鼠色のファックスつき電話器。紅いチェックの小さな布切れが巻かれたこけしつき耳掻き。それらが雑然と置かれていた。
暫くして川野が長谷川に言う。
「多分だなぁ、先刻の一等書記官からの電話だけど」
とパイプの煙を分厚い口の端から思い出した様に噴き出した。
「来週ここにくる外務大臣の件だと推察するがぁ。取り敢えず、今日の昼飯の領収書は保管しておくように」
と指示した。言われなくても、どのような領収書であってもとりあえず取っておくのは商社マンの習性だ。そう言いたげに長谷川は、「はい、そういたします」
と従順そうに小声で答えた。
一筋の暗い煙が川野の頬の深い縦皺に沿って昇って行く。一本だけ長く伸びている眉毛に潜り込むようにして絡んだ。
「ところでだなぁ、所長代理さんよ。閑話休題」
と川野は何かを話すことが義務でもあるかのように土岐をちらりと見て話題を変える。
「外務大臣が帰国したら早々におれは本社からの嘱託の依頼を断る心算だが、あんたはどうする?」
と土気色の眉間に深い縦皺を作る。長谷川の決断を催促するように訊いてくる。
「海外駐在で三年経てば、規程で転勤願いを提出できる。この国は、出世街道から除外されてるから、早く転勤した方が、将来的に有利だよ。繰言のようだけど。いずれにしても、もう時間がないから、早急に旗幟鮮明にしないと」
と川野は慈しみ深く諭すように言う。幾度も聞いた事ばかりだというような、うんざりしたような顔つきで長谷川は、
「ええまあ。たぶん。そのうちなんとか」
と曖昧な返事をした。川野が、
「幾度も転勤願いの提出を促す理由が良くわからない」
と言いたげに長谷川は首を振る。本当に長谷川の身になって言ってくれているとは言葉の抑揚から土岐にも思えない。豪放磊落のような性格にも見受けられる。冷酷無比に人を殺すような人物に見えなくもない。
土岐は尿意を感じていた。
貧乏ゆすりをしている土岐に、長谷川が誘いの手を伸べた。
「そうだ、土岐。トイレに行くか?場所教えとくよ」
土岐は長谷川にしたがった。
トイレは事務室の北側の裏庭が見渡せる日陰にあった。陶製の白い小便器と洋式便座が一つずつ。アンモニアの強烈な悪臭が土岐の鼻腔を急襲した。黄ばんだ小便器を土岐が使用した。
長谷川は洋式便器の亀裂が走る便座を上げた。
放尿の音を立てながら、土岐が聞いた。
「あの川野所長が殺人予告のメールを送信する動機はあるか?」
しばらくして長谷川が慎重な口調で答えた。
「考えられることは現在進行中の巨額プロジェクトを一人で遣り繰りすることだろう。所長はもうすぐ定年だ。本社から嘱託として巨額プロジェクトの推進を打診されてる。しかし所長はこのプロジェクトを取締役に昇格して担当したいと思ってる。嘱託と取締役とでは月収が五倍ほども違う。接待交際費はそれ以上だ。本社は所長が嘱託を固辞したら、引継ぎを所長代理のおれにやらせようと考えているにちがいない。所長代理が抹殺されれば本社は巨額プロジェクトの経緯を熟知している人材として所長に頼らざるをえなくなる。そこで、所長は本社と有利な交渉ができる」
「しかし、だからといって部下を脅迫するか?」
という土岐の問いに長谷川は答えない。
「この国の警察力は、わが国の二百年ほど以前の水準だ。目撃者や明白な証拠さえ残さなければ、逮捕されることもないし、かりに逮捕されても、賄賂次第で有罪になることは滅多にない。テロ以外の殺人事件自体が少ない国ではあるが、検挙率は十パーセントにも満たない。二年前にもここで邦人旅行者の保険金殺人があったが、現地警察は事故死で処理していた。それを事件化したのは現地から一万キロも離れた日本の警察だった。それに、所長が社長賞をもらった案件を仲介した中近東の駐在武官が最近失脚した。そういう意味でも、会社は所長を必要としなくなった」
土岐と長谷川は事務室に戻った。薄暗い廊下で長谷川が言った。
「ヘンサチの話を聞いてからでないと、作業にとりかかれないと思うんで、昼食まで所長のお相手をしていてもらえるか?」
土岐は無言で承諾した。
川野は身内の話を切り出して来た。
「惣領の娘が来年大学受験でねぇ、下の豚児の高校受験と重なるんで、傍にいてやりてぇなぁ。連れ合い一人じゃねぇ」
と愛情深い父親を演じる。
「叔父と叔母が元気なうちに、親父の十三回忌に合わせて、一年早いんだけど、お袋の七回忌も一緒に済ませたいし」
と孝行息子としての話もする。長谷川が黙ってメールの返事を打ち込んでいる。話は長谷川の転勤願に戻った。同じ内容が言い方を変えて、繰り返された。土岐は長谷川の横顔を見る。
「それはいくども聴いたお話で、おっしゃりたいことは、よくわかっています。気にかけてくれることを誠に感謝します」
と長谷川が喉の奥で言っている。
その間、川野が視線を土岐にむける度に土岐は機械的に軽く頷いた。話が終わるのをじっと待った。興味がないという思いを目や口やボールペンを持つ指に託した。伝わりそうになかった。
「早く話を切り上げてくれ」
という思いを込めて、ボールペンの尻で親指の爪を強く叩き続けた。
川野の話が途切れた。未だ話し足りなそうだ。上唇が言葉を求めて不規則に震えている。パイプの先からよろめくように立ち上る紫煙や机の上のペーパーナイフを話題の穂を探すような目付きで眺めている。
川野が気づくように土岐は左手を大きくあげてアナログの腕時計を見た。眼の端で川野の態度を確認する。土岐がうんざりしていることに気づいていない。また、話し始めようとする気配がある。
メールの処理を終えた長谷川が我慢しきれなくなった。プリントアウトしたメールの束を川野の机の上にドサッと置いた。それから慌てて軽く会釈する。飛び上がるようにして土岐について来るようにと指先で合図する。
二人が退室しようとする背後から川野の声が追い駆けて来た。
「加藤さんによろしく。近いうちに、また呑もうと伝えてくれ」
と嗄れた声が土岐の背中に粘菌のようにへばりついた。得体の知れない苛立ちに、土岐は思わず円筒形の真鍮のドアノブに掛けた手を強く握り締めた。
長谷川は土岐の背中を押す。上体を弓なりに反らした。川野と目線があわない程度に少し振り返った。
「はい、そうお伝えしておきます」
と感情を押し殺して小声で答えた。川野に聞こえたかどうかわからない。
土岐はドアを閉める間際に部屋の奥に眼をやった。
川野はeメールのプリントアウトに見入っていた。右耳の上にパイプの紫煙が揺らめいていた。その奥の窓際でショスタロカヤがコピーを取っていた。複合複写機のドラムの回転音とエアコンのモーターの唸り声が事務所内に静かに響いていた。
外に出た。昼近くの高温多湿のむっとする外気が土岐に朝方の眠気を呼び覚ました。腕時計を見た。十一時十分過ぎ。
長谷川が遠方の国道を走る車を見ながら、
「三輪キャブでホンコンまでは十分程度だ。ヘンサチは待ち合わせには必ず遅れてくる。このまま行くと少し早い」
と舌打ちをした。
「コックに昼食不要を伝えなければならないことを思いだした」
と言いながら事務所の裏手に回る。土岐は黙ってついて行った。
長谷川は事務所のドアの脇の芝生の庭を右手に迂回して勝手口に入った。
空気が少しひんやりとする。
食堂を抜けた薄暗い台所でコックが項垂れた鶏の羽根を毟っていた。コンクリートの土間に座り込んであぐらをかいている。鼻歌を歌っている。長谷川が背後に立つと気恥ずかしそうに歌うのをやめた。
「上手に歌えないけど、この歌を知っているか?」
と不揃いな真黄色の前歯を剥きだしにして不愉快そうに笑う。なんとなく薄気味の悪さを感じる。言葉の障壁で、腹のうちが分らない。胸に一物ありそうな表情が気になる。
長谷川がそのコックに土岐を紹介した。
キスケンシュノショという。
「いつだったか、どこかのレストランのショーで、所長と一緒にその歌、聞いたことがあるけど、どういう内容なの?」
と長谷川がキスケンシュノショに話を合わせる。
「反政府ゲリラの歌だ。テロの歌でもある」
と羽根を毟られたばかりの裸の鶏を掲げてコックは得意げに言う。
「ある青年が反政府ゲリラに加わろうとする。そのとき恋人がやめてくれと引き止めようとする。問答歌なんだ。歌詞や曲は知っていても問答歌だということを知っている人はあまりいない。ここの事務所では俺だけ。ショスタロカヤもゴンゲイガウも知らない。最後に青年は恋人の名を叫び自爆テロで死ぬ。元歌は部族間の戦闘で死んだ戦士の勇気を称える歌で、古い歌だ」
と説明し終える。休めていた手を甲斐甲斐しく再び動かし始めた。
「これから外食するので、きょうのランチは、いらないから」
と長谷川はキスケンシュノショにぶっきらぼうに伝えた。
「わかったよ、長谷川さん」
とキスケンシュノショは乱杭歯を歯茎ごと剥きだしにした。首を斜め前後に振る。意味もなく、ニタニタしているのが気になった。
食堂に戻りながら、長谷川が説明する。
「コックとショスタロカヤは仲が悪い。年齢はコックの方が二十も上だが、人種と宗教と階級と貧富の四重の相異が不仲の原因だ。給与はショスタロカヤの方が高い。階級はキスケンシュノショの方が上だ。階級はこの国の憲法では存在しないことになっているが、数千年続いてきた階級制度が数十年で霧消するはずもない」
と土岐が訊いているのを確認しながら、
「宗教はコックが土着宗教で、運転手がムスリムだ。人種はキスケンシュノショがずんぐりむっくりの原住民族でゲンジュイ人だ。ショスタロカヤは千五百年前の侵略民族でブシュウン人だ。肌の色こそ黒いが目鼻立ちの整ったアーリア系だ」
「それが、今回のミッションとどういう関係があるんだ」
と土岐は聞かずにはいられなかった。
「まあきけ。どこかに、今回の件のヒントがあるかもしれない」
と軽く肘で土岐の横っ腹を小突きながら、
「多くの場合は村単位で同一民族、同一宗教、同一階級、同一所得水準の人々が生活しているが、この首都近辺では地方からの流入人口が多い。異なる類の住民が道路を一本隔ててパッチワークのように分布している。あまりにも小競り合いが日常茶飯なんで、新聞記事にすらならない。こうした紛争のモザイクを更に錯綜させてるのが、新興富裕層の台頭だ。彼らは主に繊維産業に従事している。中古のモーターや織機を購入し、家内工業から規模を徐々に大きくしている。商売の才能は、人種も宗教も階級も選ばない。多少の制約はあるものの、背に腹はかえられない取引では、そうした従来からの障壁も超えてしまう。その結果、商売優先の行動が裏切り行為と評価されて、仲間意識に亀裂が走る。おれのここでの仕事はその亀裂を増幅させてる」
とおしゃべりな長谷川の話は続く。
「取引相手の中にはおれのことを恨んでいる奴がいるかも知れない。そんな連中のなかにI kill youの送信者がいるとしたら、お手上げだ。たぶん突き止めることはできないだろう」
と自問自答するように、
「ところで、さっきのコックのキスケンシュノショの癖は意味もなくニヤニヤ笑うことだ。それが癖だとわかるまで何か知ってるんじゃないかと不気味に思えた。素行不良の身の上としては知られて困ることがあまりにも多いからな。それに彼は知っていても不思議ではない立場にある。それが癖だとわかってからは大分不気味さは失せたが、それでもこっちは現地語をまったく理解してないんで、掃除婦のゴンゲイガウとなにやらひそひそと立ち話しているとぞっとすることがある。それに彼は男女関係には潔癖だ。宗教の影響かも知れないが、掃除婦のゴンゲイガウとおれがじゃれあっていると鋭い目付きで睨み付けてくる。それが殺したいほどであるとしても彼がI kill youの送信者だとは思えない。パソコンの操作をしているところを一度も見たこともないし、携帯電話も持っていないからだ。しかし、家族にパソコンのできる人間がいて、メール送信を依頼したとすれば話は別だ」
台所から食堂に戻る。長テーブルの下に掃除婦がいた。
長谷川が土岐を紹介する。名前はゴンゲイガウ。ごみを拾っている。屈めた丸いグラマラスな体が重そうだ。伸び上がるとテーブルの上の雑巾に肉厚の手を置いた。指の根元に笑窪が見える。テーブルを拭いている。白い爪の先に力が入っていない。
「ノウランチ?」
と掃除婦はうれしそうに笑う。キスケンシュノショとのキッチンでのやりとりを聴いていたようだ。
土岐が話しかけようとすると慌てて目線を雑巾の上に落とした。頭の上で束ねた漆黒の長い髪が右肩に流れる。食堂の高窓から差し込む陽光が彼女の髪の上を滑り落ちる。エナメルのような黒い髪が乾いた雑巾とともに左右に揺れた。なだれ落ちた髪をかき上げて暗いガラス窓を見つめている。
土岐もガラス窓の向こうの日陰を伺う。漆黒の土しか見えない。長谷川もガラス窓の表面に視点を据えている。長谷川とゴンゲイ
ガウが土岐を間に挟んで暗いガラス窓に映るお互いの視線でコンタクトを取っている。
食堂を出るときゴンゲイガウが長谷川に熱い視線を送った。
食堂から裏庭に出た。表通りを歩く。
長谷川はタクシーを探している。タクシーが通りかからない。
長谷川は国道の方に歩き始めた。土岐はその後にしたがった。
事務所の敷地の外を十ヤードも歩くと熱気で息苦しくなった。
摂氏三十度は超えている。
暑く濃く密な空気が膨らみきって頭の上にのしかかってくる。道路に照り返った暑気が先週買ったばかりの半袖ワイシャツの繊維の隙間からしみこんできた。体表近くの毛細血管が次第に膨らむ。汗が滲んでくる。赤茶けた道路の脇のココヤシの陰に逃げ込んだ。風はない。斑模様の葉陰をすり抜けた日差しが首筋に火箸のように突き刺さった。
長谷川は立ち止まって通りを見渡している。表通りに人影はなかった。自動車もほとんど走っていない。時折、欧州車や米国車が埃を巻き上げる。小石を蹴散らして疾走して行く。最初にやってきた三輪タクシーには現地の客が乗っていた。ひげ面の乗客が両手で幌の鉄筋の骨組にしがみついていた。僅かな揺れでも左右のタイヤが片方だけ沈み込む。座席から振り落とされそうになっていた。車体が右に揺れると頭は左へ、左に揺れると頭は右へ飛びだした。
通り沿いにゆっくりと歩きながら、長谷川がまた告白を始めた。
「この事務所に着任して三ヶ月ほど過ぎたころ、ゴンケイガウに手をだしたことがあった。夕方近くで所長とショスタロカヤが大使館に所用で呼ばれてた。コックがさっさと早退したんで事務所には二人しかいなかった。彼女は用もないのに机の前にやってきて頼まれもしないのに机の上を整理したり掃除したり、こちらに媚びた目線を送りながら肉厚な褐色の体を摺り寄せてきた」
と何のてらいもなく、
「時折高慢ちきになったり世話女房風になったりする佐知子とすったもんだの末に単身で転勤してきて女体から半年近く遠ざかっていた。衝動的に彼女の太り肉の腰に手を回した。彼女の肉体は椅子に腰掛けているこちらの太腿の上に吸い寄せられるようにしな垂れ掛かって来た。そのまま抱擁し、接吻し、ペッティングまで行った。彼女の性器の強烈な腐ったチーズのような臭いに興醒めして最後の一線は越えることはなかった」
と目線を遠くにやりながら、
「いまではそれはそれでよかったと思ってる。その後も事務所内で二人だけになると互いに下着の中に手を伸ばし、ディープキスを交わすようになったが、一年ほどして彼女は現地の男と結婚した。残念という思いもあったが、一度じゃれあっているところをキスケンシュノショに目撃されているんで、ほっとした気分の方が勝っていた。それ以降、彼女と目線を交わすと、言いようもない複雑な感情に襲われるようになった。彼女が幸せかどうか気になる。一方で気にしてはいけないとも思う」
と言いながら顔を下に向け、
「ゴンゲイガウがI kill youの送信者であっても不思議ではない。こちらは悪いようにした覚えはない。彼女は棄てられたという思いが強いかも知れない。休日に駅の近くの動物園で遊んでやったりレストランで高級料理もひそかに食べさせてあげたりもした。しかし、それはこちらも楽しんだのだからお互い様だ。彼女が両親の勧めで結婚するときには、ちょっとした金額をお祝いにプレゼントした。口止め料の意味もあった。そうしたこちらの行為が彼女を苦しめたと考えられないこともない。だが彼女もコック同様パソコンを操作できるとは思えない。携帯電話も持っていない。彼女はいまでも昔あげた安物の指輪をはめてる。それをみると声をかけたくなる。しかしかけてはいけないとも思う」
長谷川の告白は続く。土岐がうんざりしているのに気付かない。
「先日、邦人会のパーティーがここの事務所で開催された。大使館、金融機関、企業家などの関係者が十数人集まった。ゴンゲイガウも飲み物やカナッペを厨房から運んできて、それなりに接待の役割を果たしてた。所長と大使が話しこんでいる脇をゴンゲイガウが重そうなトレイを掲げて通り過ぎようとしたとき所長の膝が折れ曲がり、テーブルの上にドリンクを並べ始めたゴンゲイガウの突き出たお尻の割れ目になめらかに滑り込んだのを目撃した」
と目を大きく見開き、
「軽い喪失感を覚えたが柔らかに得心するものもあった。所長がいつか彼女のことをトランジスタグラマーと評していたこともなんとなく気にはなっていた。そのときキスケンシュノショと目が合った。ウインクのような目配せをしたのでコックは所長とゴンゲイガウのことをとうに知っていたのかも知れない。いつものようにニタニタするだけだったが、その目配せは『お前嫉妬しているんだろう』という意味であったのかも知れない」
と得心するように、
「その掃除婦とコックはこの事務所にくる前に駅前の食料品マーケットに立ち寄っているはずだ。毎朝のことだ。そこで昼食の材料を買ってくる。冷蔵庫はあるが夜間、停電が頻発するんで生鮮食料品の貯蔵ができない。おれがキャンセルした昼食は彼女に与えられるはずだ。着任早々にそう決めたのは所長だった。コックは最初は反対したがパーティーや夕食の残り物はコックにやることにしたら、にんまりとして了承した。掃除婦とコックは事務所でパーティーなどの行事がないときは、だいたい、午後から所長の自宅にむかう。コックは所長の夕食を用意し、掃除婦は所長宅の掃除、洗濯と買い物を受け持つ」
と言いながら額の汗をぬぐい、
「実態としては所長の個人的なサービスに従事してるんで我が国では彼らの給与の一部は所長に対する現物支給とみなされるが、この国の税務当局はおおらかで、そういう細かいことは言わない。追徴課税を検討するどころか事務所が三人の現地人を雇用していることを高く評価してる。それにセクハラという概念がこの国にはないんで、早めに帰宅した所長が、自宅で掃除婦と何をしているかはだいたい想像できる。コックも所長宅の台所で夕食の準備をしながら、二人の情事をなんとなく嗅ぎ取っていたのかも知れない」
「所長は、君と掃除婦の関係を知っているのか?」
「さあ、しかしコックや掃除婦が匂わせた可能性はあるかも知れない。あの二人には、おれはおれなりに気を使っているつもりだが、かれらはそうは感じていないのかも」
腕時計を見ると十一時十五分を過ぎていた。
黄色いルーフと黒いサイドの国産の四輪タクシーを見送る。三分ほどでカラの三輪キャブがやってきた。道路の凹凸を増幅させて車体を上下左右に激しく揺らしている。長谷川が車道に一歩踏みだした。右手を挙げる。指を弾いた。パチンと湿った音がする。
タクシーは三ヤードほど前を通り過ぎて止まった。鋭い金属性のブレーキ音が鼓膜を刺す。
運転手が少し欠けたサイドミラーを覗き込んでいる。黒い漆を塗りつけたような髪の下からこちらをうかがっていた。
長谷川と一緒にタクシーに近づく。脇を簾のようなぼろぼろの開襟シャツを羽織った老人が通りかかった。骨ばった腰に黄ばんだ白布を捲いている。洗濯板のような鎖骨と肋骨を浮き上がらせていた。傷だらけの木製のカラの荷車の柄を灰色のあごひげに絡めていた。息苦しそうに引きずりながら三輪タクシーを追い越そうとしていた。
運転手はハンドルに両手を乗せている。薄いあごを突きだしている。五百ヤード先の国道の方角を鼻先で眺めていた。
「十一時半まであと十分。ちょうどいい時間だ」
と長谷川が土岐に先に乗り込むように促す。
運転手は荷車を引く老人を胡散臭そうに眼で舐め回した。エンジンを二三度ふかして老人を威嚇する。
三輪自動車に土岐が片足を踏み入れる。車体は大きく傾いた。ついで長谷川が後部座席に座りかける。車はいきなり走りだした。
老人が牽引する荷車を蹴散らすように追い抜いた。
土岐は急発進の際に背中を硬いシートにしたたかに打ち付けた。のけぞった姿勢を直す。ギアがローからセカンドに素早くはいった。と思うまもなく、せわしなくトップギアにはいった。
運転手が行き先を訊いてきた。長谷川が、
「ホンコン」
と伝える。意味のわかっていないような酷く抑揚のない声をだした。
「ホンコン?」
とふてくされた態度で、
「そんな近場か」
と言いたげに投げやりに聞き返してきた。
「チャイニーズ・レストラン」
と長谷川が大声で言い直した。あわてて右の人差し指を前に突きだして、
「メーター!」
と声高に叫んだ。運転手は青黒い頬をこずるそうに痙攣させた。
「ホヮット?」
ととぼけたように訊き返してきた。
長谷川はゆっくりと大声でもう一度、
「バイ・メーター!」
と繰り返した。運転手は空車表示のレバーを左横に倒した。引き攣っている首筋と下頬が不服そうだ。
「さっきから、もう100ヤードは走っているぜ、旦那」
とぼやく。バックミラーでこちらの表情を探ってきた。
長谷川は黄身がかった不快な視線を睨み返した。すぐ無視した。
片側二車線の国道が見えてきた。
「ホンコンへは国道の一本手前の路地を右折するのが最短なんだ」と長谷川が土岐に解説する。
路地は舗装されていない蛇行した狭隘な道だ。スコールがあるとすぐ水溜りのできるような凹凸のある生活道路だ。長谷川は、
「そこを曲がれ」
と指示する。タクシーは信号のないT字路の交差点で海岸沿いの埃っぽい国道へ右折した。都心のフォート地区にむけて北上した。
土岐の足元で小径の車輪が唸っていた。かなりのスピード感だ。四十マイルの制限速度は優に超えている。
エンジン音が薄汚い痩身の老婆の喘ぎに聞こえた。
胸から喉にかけて攀じ登ってくる不快な上気が顎の下で切り裂かれる。千切れる。次から次へと後方に飛んで行く。
生唾を飲み込むと一瞬息ができなくなった。
土岐は長谷川に話しかけようとしたがやめた。エンジン音がうるさい。振動が激しくて舌を噛みそうだった。
波打ち際から海上の重く湿った熱気の塊が間歇的に波のうねりに運ばれて吹き付けてきた。むせ返るような潮の香りが路面に広がる砂埃と一緒に追いかけてくる。
汗に潮の湿気が粘りつく。薄鼠色の砂埃が肌に蛭のように吸着してくる。喉もとから胸もとにかけて不快なざらつきが堆積してきた。ぬめる顎の下と首の周りを人差し指でこする。そのざらつきがぽろぽろと皮膚から剥がれ落ちた。
長谷川が何かをガイドしている。土岐には聞き取れない。
軟化したアスファルトは、練り餡が透けて見える大福餅のように
埃にまみれて白茶けていた。
時化のように波打つ路面には、いたるところにラグビーボールほどの陥没があった。三輪自動車はスラローム競技のようにその陥没を避ける。大きく蛇行しながら疾駆する。
土岐は幌を支える赤錆びた鋼棒を右手で握り締めた。急ハンドルを切るたびにその手に力が入った。手を離せば間違いなく振り落とされる。安全ベルトがない。身の安全を自ら守らなければならないスリルは遊園地感覚だ。
路面の細かな凹凸が逐一、足の裏に伝わってきた。アスファルトのマウンドに乗り上げるたびに体がふわりと浮き上がる。次の瞬間にストンと落下する。ハンドルを左右に切るたびに狭い二人掛けの後部座席のビニールシートの上を滑るように右往左往した。土岐と長谷川の腰が幾度も密着した。土岐は不快感しか覚えない。不意に笑いがこみ上げてきた。可笑しさに腹筋を奪われて危うく振り落とされそうになった。
フォート地区に差し掛かった交差点の赤信号で停車した。バックミラーで運転手が恨めしそうにこちらに憎悪の視線をむけている。
(I kill you)
と凄みそうな剣幕だ。
再び走り出す。左手の海側の広大な空き地を長谷川が指さした。
「あれは競馬場の跡地だ。十年前の左派政権の誕生以来、使用されてない。博打のない社会というお題目を実現するのも結構だが、おかげで財政収入が減少した。清濁あわせのむ姿勢が政治には必要だ。男女関係もそうだ」
「君は、自分の性癖を正当化しようというのか?」
「いや程度の問題だが、ものごとには裏と表がある。表が好きで裏が嫌いだという人間が、表が嫌いで裏が好きだという人間を一方的に非難するのはどうかな、と思うだけだ」
芝生の上に砂がこんもりと積もっている。まだらな砂浜になっている。国道との境界になっている歩道も斑模様に砂を被っている。浅い塹壕のような水路の溝が砂に埋もれている。人が歩いていなければそこが歩道とはわからない。
長谷川が今度は右手を指差す。
「あれが国会議事堂だ。百年前の植民地時代の総督府をそのまま後生大事に使ってる。財政欠陥で大修繕もしてないんで閉会中は忽然と人跡の途絶えた廃墟のようになってる」
やがて左手の海岸線に巨大な造船所が見えてきた。道が良くなった。長谷川の声がはっきり聞こえてきた。
「あのシップヤードは我が国の借款で建造されたんだ。当然わが社と開発銀行が一枚かんでる。沿海で近海魚を獲る程度の漁船を造船するのに、これほど巨大なドックは必要ない。しかし必要がないのは運輸船舶省が監督する漁民達で建造を手がける側には十分な利益を上げるためには、この程度の規模が最低限だ」
と目線をドックに張り付けたまま首をひねり、
「出張してきた邦人の人件費がコストをプッシュアップしてる。所長の月給にしてもショスタロカヤの二十倍程度になる。ドックだけじゃ船は造れない。メンテナンスも含め継続的に輸入しなければならない機材や用役のマージンで所長や所長代理の高給が維持される。今年も輸入代行業務でたらふく儲けさせてもらってる」
と顔を前方に戻し、
「売る側の人間として言うのは憚るが援助絡みのどのプロジェクトも金額ほどにはこの国には貢献してない。むしろ我が国の関連業者に対する貢献の方が大きい。この国はなけなしのカネを巨額プロジェクトの返済に充ててる。この国の国民が誇る造船所の威容がみすぼらしく哀れに見えてくる。ドックの底からI kill youと本来の機能を十分果たすことのできない造船所が恨みを込めて語りかけてくるような気がする」
国道は海岸線なりにゆるやかに右に曲がる。首都中心街の南の縁に入った。路面が突然滑らかになった。
日よけの幌を支える鋼棒を強く握り締めていた手を少し緩めた。体中の筋肉の緊張が俄かに解けた。思わずため息が出た。
「商売して儲けるなら金持ちを相手にしろと、経営の教授に大学で教わったけどな」
と土岐が大声で言う。
「その通りだ。わが社はこの国の民は相手にしてない。相手にしてるのは国と国営企業だ」
市街地に入ると交通量と信号機が多くなる。信号機や横断歩道のないところでも、人や荷車や自転車やバイクや家畜や犬猫がアトランダムに往来する。障碍物が次から次へとゾンビのように湧き出てくる。道路全面が常時スクランブル状態だ。
頻繁に急ブレーキがかかる。接触しそうになると運転手はそのたびに罵声を浴びせる。同じような罵声と刺々しい目線が白濁した唾液とともに跳ね返ってくる。
長谷川が突然怒鳴るように言う。
「信号は北欧の無償援助だ。導入された信号文化はこの国ではまだ受容されてない。駅前の歩道橋はわが国の無償援助で建造されたが誰も渡らない。以前同様みんな横断歩道のない車道を平然とすり抜ける。交通事故死を減らす目的で建造されたが誰も歩道橋を渡らないんで、むしろ交通事故死は増加してる。外務省の目論見では現地政府がその利便性を認識して歩道橋建設の発注が増えるということだったが、そうならなかった。地元の連中はこの歩道橋をニッポンバシと呼んでいるが、おれにはニッポンバカとしか聞こえてこない」
ターミナルの駅前の雑踏を通過する。
錆だらけの自転車のベルの音、ドアや窓硝子のない車やバイクの警笛、牛、山羊、驢馬、鶏や家鴨の鳴き声、人々の叫び声、駅舎のアナウンスがむせ返るような排気の中を熱膨張して飛び交っている。黒色の肌からの汗、陽光を含んだ藁、家畜の干からびた糞尿、犇めき合う露店の香辛料、太刀でカットされたドリアン、垂れ流され極彩色で漂うガソリン、煤けた排気ガス、太陽に焼かれたコールタールの臭いが喧騒と混ざり合い、灼熱の坩堝の中で渦巻いている。
三輪タクシーの速度が雑踏で落ちた。急に空気が澱み始めた。騒音と悪臭が一斉に堰を切ったように幌の中に侵入してくる。幌の上に叩きつけられた天日が頭上で音と臭いの汚物を煮えたぎらせている。思わず軽い眩暈と吐き気に襲われた。
駅前を通り過ぎると、ゆるやかな上り坂が伸びやかに続く。スピードが出なくなった。アスファルトの照り返しが外気と一緒に借金取りのように追い駆けてくる。
脳漿が煮沸された。頭皮が膨張してきた。体中の毛穴から一斉に汗が滲み始める。下着が粘り気のある汗で背中と尻に糊付けされている。太腿の汗はグリースになった。わずかな揺れでも下半身がぬるぬると滑る。顎の汗が喉元に滑り落ちる。途中の雫と合流して胸元に女の細い指のように垂れ落ちる。
頭の中が黄白色になった。灼熱の外気が顔全体を覆う。顔面を圧迫し続けた。相変らず長谷川の太ももの汗ばんだ感触を不快に感じていた。
なだらかな上り坂が終わった。地元の紅茶の看板があった。男の顔と女の顔とその間にある紅茶の缶。下の方に破れかけた選挙ポスター。紅茶がなければ隣の映画館の看板と同じ画風。
その看板を長谷川がまぶしそうに指さす。
「有名な映画俳優なんだよ。よく見かける映画俳優の似顔絵だ」
ゆるやかな下り坂になった。
悲鳴のようなエンジン音が、車軸の回転に追いつかない。
熱い強風が首の周りのべとつく不快感にぶつかる。こすり取ってゆく。いくぶん息が楽になった。
空を見上げる。白い太陽の輪郭が熔けて乳白の大気に滲んでいた。ホテルのモーニングサービスの目玉焼きのようだ。
少し傾いたコンクリートの丸い門柱の上にホンコンという枠が赤、地が青、文字が黄のけばけばしい看板が見えてきた。
長谷川が鍍金の剥がれたタクシーのメーターを覗き込む。
傍らを白いドイツ車が追い越して門柱の中に消えた。
三輪タクシーは門柱の前で止まった。
長谷川は薄汚れた紙幣を二枚だした。
「釣りはとっとけ」
と言い添えた。運転手は紙幣を手のひらに乗せたまま、不満げに首をかしげた。首筋の脂汗がきらめいている。皺だらけで、手垢のしみこんだ紙片が微風にそよいだ。運転手はあわてて親指で紙幣を抑えた。凝縮された脂汗の悪臭が漂う。
紙幣の国鳥の印刷が手垢で不鮮明になっている。多色刷りのはずだが、黒インクの網掛け一色刷りに見える。
メーター料金を確認した。素早く暗算してみる。釣銭は料金の五パーセントに少し足りない。
長谷川は一瞬逡巡して、
「充分だ」
と言い掛けた。言うのが面倒になったようでポケットの小銭をすべて渡した。後足で蹴るようにして、タクシーを降りた。レストランに向かって歩きながら長谷川が残った紙幣を土岐に見せた。
「この国の紙幣については前任者から多くのことを教えてもらった。先進国では中央銀行が紙幣を回収し検札機にかけて汚れて一定の基準を満たさなくなったものをシュレッダーで裁断する。紙幣に対する国民の信認を維持するためだ。この国ではそれをやらない。紙幣の隅で釣銭を鉛筆書きで計算しても角が擦り切れても手垢で汚れ切っても破れかけてセロファンテープが貼り付けられても放置され流通し続ける」
と紙幣に鼻を近づけ、顔をしかめ、
「薄汚れた紙幣をシュレッダーにかけない理由は紙幣の用紙と印刷を旧宗主国に発注しているからだ。紙幣増刷には外貨が要る。多少汚れてももったいなくて処分できない。かくしてこれが中央銀行券かと見まがうような紙幣が堂々と流通する。だから自動支払い機も普及しない。とくに流通速度の速い小額紙幣は鼻摘まみものだ。汚物以外の何物でもない。綺麗な高額紙幣は結婚するときの結納金や持参金として退蔵され市中から駆逐される。グレシャムの法則をこの国ではリアルタイムで観察できる」
と紙幣をポケットにねじ込み、
「自前で自国通貨の用紙を製造し、印刷する技術すらない。それほどにこの国は痛々しいほど貧しいのだと前任者は嘆息をもらしてた。またこの国の人は財布を持たない。ごっそり掏り取られるからだ。前任者が言うには、財布は小さな金庫のようなものだ。金庫を持ち歩くバカがいるか?そこに手持ちのカネのすべてがあるので掏ってくださいとスリにわざわざ教唆しているようなもんだということだ。説教じみた注意もあった。カネは分散して持たなければいけない。左右のポケットや胸や尻のポケット。両手をひとのポケットに突っ込んでくるスリはいないから、掏り取られても全額にはならない。また財布にしても札束にしても公衆の面前で広げてはいけない。公衆の面前で多額のカネを見せることは、この国では喜捨を意味する。人が群がり、喧嘩腰で奪い取ってゆく。知らなかったでは済まされない。とる方もとられる方も不幸だとさ。注意してくれ」
偏差値至上主義の驕慢(金曜日昼食)
ホンコンの玄関の石段に足をかけていた東洋人が横長の目を細めて長谷川に小さく手を挙げた。国防色のサファリジャケットをラフに着こんでいる。イタリア製の革靴を履いている。
長谷川が彼に近づこうとした。門柱の影から痩せこけた少女が飛びだしてきた。裾の綻びた埃にまみれた布を纏っている。
土岐の往く手を遮る。手のひらを上にむけて突きだした。手相に垢が溜まっている。運命線と生命線がくっきりと浮かび上がっている。少女の斜め後ろに顔中に深い皺のある老婆がしゃがみ込んでいた。赤みがかった斜視だ。こちらを窺っている。体型も身に付けている物も少女によく似ている。老婆のように見えるが少女の母親なのかも知れない。少女は右に避けようとするとごわごわに固まった髪を振り乱して右に出た。上目遣いの白濁した瞳に、汗と埃に塗れた前髪がべっとりと垂れている。
不快な体臭が土岐の鼻を鋭角に突いた。彼女を左に避けて擦り抜けようとする。老婆がしわがれた声で何かを鋭く叫んだ。
(I kill you)
と言ったような気がした。
少女は裸足の足を止めた。差しだしていた手をだらりと下ろす。恨めしそうな目だけを老婆にむけた。首筋にべったりと垢が張り付いていた。
先刻の東洋人は長細い目でヘラヘラ笑っている。その目の先の入り口の小さな黒板に白いチョークで、
〈ここでお待ちください〉
という手書きの文字があった。そこに近づくと、彼はくるりとジャケットの背をむけた。薄暗い店内に踏み込んで行った。
黄ばんだ白衣のウエイターがべたついたリーゼントをぎらつかせている。彼を先導していた。長谷川がその後に続く。長谷川の後に土岐が続いた。追い付いた長谷川が土岐を紹介した。
「こちら土岐さん。この国に詳しいので、東京から呼び寄せました」
土岐は早速名刺を出した。土岐が貰った加藤という名刺から、長谷川がその男を、
「ヘンサチ」
と呼んでいたことを思い出した。
「我利我利亡者じゃあるまいし、コインぐらい、あげたらどう?」
と加藤は大股で歩く。前を向いたまま高圧的に言う。
「残念ながら、ヒューマニストじゃないもんで」
と長谷川は下卑た言いかたをする。
「それじゃあ、ただの吝嗇スクルージか?君はこの国ではミニスタークラスの大変なリッチマンなんだから」
と加藤は歩度を緩めない。ちらりと流し目で肩越しに振り返る。
「小銭をタクシーの運ちゃんに全部やっちゃって」
と長谷川は言い訳をする。不愉快そうに口をゆがめる。ただ面倒なだけだ。加藤に説明するのがひどく億劫なようだ。余計なことは言いたくない。言えば言うほど不快になるように見えた。
レストランには先客が三人いた。現地人でアーリア系の端正な顔立ちの若い女が一人混じっていた。薄いチキンスープに少し焦げ目のある平焼きパンをひたして食べている。こちらを一瞥して平焼きパンを千切る。両肘をテーブルについている。肩をすくめている。両手を大きく広げている。賑やかに話をしている。首を左右にせわしなく振っていた。
ウエイターは彼らの隣のテーブルで立ち止まる。加藤の椅子を引いた。加藤はそこに腰掛ける。土岐に前の席を勧めた。座ると加藤の後ろにアーチ型の厨房の入り口が見えた。
もう一人の姿勢のいいウエイターが背筋を伸ばして大きなトレイを持って出入りしていた。加藤は不意に
「ここ、よそう。裏庭のヴェランダの方にしよう」
と立ち上がった。小賢しげな顔を苦々しく歪めた。
「こんなところじゃ、落ち着いて話も出来やしない」
と裏庭に面したベランダのテーブルに移動した。
ベランダには丸テーブルが三つ。室内には角テーブルが六つ。ベランダには照明はない。テーブルの中央に融けて流れた瘤のいくつもある乳白色の太い蝋燭があった。
入り口の脇の駐車場やベランダから見える裏庭がひどく眩しく見えた。自然光に近い分、室内よりもベランダの方が明るく感じられた。
室内を凝視する。庭の白い大理石の噴水に目をやると眼球の奥が痛くなった。
噴水の水は出ていない。噴水口が半分、ガジュマルで覆われていた。小さな池の白い大理石の底に干乾びた葉が反り返って微風に揺れている。ムカデカズラの細い緑の葉の間に白熱の日差しが生ぬるい風とともに踊っていた。
三人とも席に着く。
ウエイターが先刻のテーブルの上から手書きのメニューを持ってきた。ベージュのB3二つ折りの厚手の画用紙。左右の下の隅が手垢で擦り切れている。
加藤が広げる。メニューの上の角が土岐の鼻先にきた。汗の臭いがかすかにした。
加藤はローカルビールを注文した。
長谷川が場つなぎに話し出した。
「着任早々うっかり、ホテルの水道水を飲んだことがあったんです。その晩、腹部が激痛に襲われ、一晩中、悶々として、出国時に持参してきた常備薬を飲んだけど、まったく効かなくって、このまま死ぬんじゃないかと思ったことがあります。『なんと情けない死に方か』と悲嘆に暮れたまま、脂汗とともに朝を迎えて。それからは水分はローカルビールで補給することにしました」
と下腹部を右手の平で抑えながら、
「半年ばかりでアルコール依存症になって一日中ビールを手放せなくなって一年したら胃潰瘍になって血を吐いたあとビールを受け付けなくなったんでアルコール依存症が治りました。半年ほど断酒してたら胃潰瘍が治って、それからは週に二、三回のペースで呑むようになって透明な中瓶に入った黄色いローカルビールを見るとそうした三年前の着任当初の一連の記憶が瞬時によみがえるんですよ」
その話にどう応えていいのか、土岐には分らない。
加藤も何の反応もせずに黙っている。
ウエイターがビールの注文を書き込む。ボールペンの尻を真黄色の歯で噛んでいる。料理のオーダーを素っ頓狂な顔で待っている。
「まずビール。すぐもってこい」
と加藤が居丈高に命じた。それから長谷川に顔をむけた。
「オーダーは、いつものでいいかな?」
と否という返事をまったく予想していない口調。使用人か下僕に対するかのようだ。おしきせがましく訊いてくる。土岐の方はまったく無視している。
「ええ、いつものでいいです」
と長谷川はなげやりに答える。
加藤は厨房の入り口に目をやる。ビールを持って出てきたウエイターを指招きした。
分厚い薄緑の不揃いなコップが三つ、テーブルの上にコトン、コトン、コトンと置かれる。ビールの栓は抜かれていた。
加藤は透明のビール瓶の口を見るなり怒鳴った。
「栓の開いていないのを持ってこい!わかったか!」
とクレームをつける。ウエイターはしぶしぶビールを持ち去った。
「奴等、平気で注ぎ足しする。こっちは見通してるんだ。安心して飲めるのは、栓の開いていないビールだけだ」
と弁明する。そこにウエイターが栓抜きとビール瓶をもってきた。
加藤は取り上げるようにして受け取る。勢いよく王冠を抜き飛ばした。瓶の口にコルクが少しこびり付いていた。そこから大粒の泡が蜘蛛の子のように一斉に溢れ出た。
「ぬるいな!客をなめるなよ!」
と加藤はビール瓶を持ち上げる。ウエイターを睨みつけた。
「もっと冷たいのを持って来い!」
と注文をつけた。
ウエイターは体を硬直させる。躊躇していた。
加藤はコップを目の高さに持ち上げる。土埃で黄緑がかっている庭を透かして見る。
「汚れてるな!ちゃんと洗ってるのか」
と説教口調。いまいましそうに怒気を込めて言う。
「かえろ」
とウエイターにコップを投げつけるように横柄に手渡した。
「君たちのは大丈夫?言うべきことは言った方がいいよ」
と長谷川のコップを指差した。分厚い硝子の中に細かな気泡がいくつか閉じ込められている。土岐は点検する仕草だけして、
「だいじょうぶです。なんともないようです」
といい加減に答えた。ウエイターが去った後で、よく見ると縁に白っぽい指紋がいくつか付着していた。加藤に気づかれないように黄ばんだナプキンでそっとぬぐった。
ウエイターは小走りで再びビールを持ってきた。猿が背後から投を食らったような表情。加藤の前に差しだした。
「オウケイ、サー?」
と質す。加藤はビール瓶を握り締め感触を確かめた。
「OK」
とうなずく。ウエイターは気の抜けたような笑みを見せる。ゆっくりとビールを注いだ。前ポケットから尻が歯形で変形している黒いボールペンと細長い注文用紙を取りだした。
「シュリンプスープ、スプリングロール、フライドライス、フライドヌードル。どう?八宝菜いる?」
と加藤が長谷川に聞く。
「それでだけで充分でしょう。この店は一品一品のボリュームが、はなはだしく多いから」
「よし以上だ」
と加藤が改めて注文した。ウエイターに復唱させた。
「命じたらリピートさせ、コンファーム。失敗したらやり直し。これがこの国の人間とうまくやって行くやり方だ。我々とは偏差値が二十から三十違うことを頭に入れておかないと。奴等は決してやればできるのにやらないという怠け者ではない。わからない振りをしている程、ずる賢くもない」
とビールをぐいぐい呑む。加藤は鼻の下に泡を蓄えて捲くし立てた。不意に右手首のスイス製ブランド腕時計に目を落とした。
「もうすぐ十二時だ。十五分からズフルが始まる」
「ズフルってなんですか?」
と長谷川は幇間のように加藤の博識をくすぐる。
「君、そんなことも知らないで、ここで商社マンやってんの?」
と神経を逆なでするような口調。鼻先で小馬鹿にする。
土岐はなんとなく険悪な雰囲気を感じた。
「すいません、不勉強で。ボキャブラリーに入れときます」
と長谷川はひたすら低姿勢だ。加藤の該博を持ちあげる。
「日の出前がファジル、昼過ぎがズフル、日没前がアスル、日没後がマグリブ、夜がイシャー。頭をとってファズアマイ」
「なんですか?それ?」
と長谷川は察しはついているようだが知らない振りを貫く。
「何ですかってイスラムの礼拝だよ」
と加藤は口をポカンと開ける。呆れ返ったように言う。
「へーそうですか、知りませんでした。造詣の深いことで」
と長谷川は知らない振りを悟られないように感服を偽装している。
「まあ、それはどうでもいいけれど。同じイスラムでもこの国のイスラムは砂漠のイスラムと違って、弛んでいる。モスクに行けば別だが、大使館の現地雇いの連中なんか、勤務中にメッカにむかって礼拝するのを見たことがない。おまけに酒は呑むし」
「そういえば、うちの事務所の連中もそうですね」
と長谷川はショスタロカヤかゴンゲイガウの顔を思い浮かべているようだ。時宜を外さないように相槌を打った。二人のやりとりは一触即発の漫才のように見える。
「ところで、さっき、エントランスゲートの所にいた婆さんと小娘の母子連れらしいベガーだが」
と加藤は上唇にホイップクリームのように付いた泡を吹き飛ばした。
「実は、あの婆さんはベガーの仁義を通したんだよ」
と彼は自分で納得しながら、想い起こすように幾度も頷く。
「わざわざ財布を出させ、ベッグするのは、ベガーの仁義に反する。何のサービスも提供していないのだからペーパーマネーを貰ってもいけない。貰っていいのはコインだけ。あの婆さんは君がチェンジのコインを全部三輪タクシードライバーにやるのをウオッチしていた。だから小娘に、『やめろ!』と怒鳴った。行儀作法を教えたんだ」
と長谷川の胸のあたりに人差指を向けて、
「だいたい、タクシーで、ここに来た客は、チェンジを、チップとして、ドライバーにやるのが普通だから、レストランから出てきた客から小銭を貰うのが筋だ。このレストランはビルがレジだから、チップはテーブルに置き、チェンジはレジで受け取る手筈だ」
と加藤はビール瓶の口を土岐の鼻先にむけた。
土岐は慌ててビールを少し口に含む。コップを差しだした。加藤に酌をするのを怠っていた。ビールを注いでくれという催促だ。
室内の白い漆喰の天井で黒い三葉の扇風機が二台回っていた。カラカラと乾いた音を立てている。天井から伸びた支柱が羽根の回転とともに小さな円を描いていた。
先刻から振幅の大きさが気になった。今にも回転しながら線香花火の火玉のようにドスンと首が落ちてきそうで気に掛かった。
長谷川が土岐の不安そうな表情に気づいた。
「この扇風機見てると風の通り道になっている内陸部の山すそに押し売るようにして設置した発電用の風車のこと連想するんだよね」
加藤はその話にのってこない。長谷川の話を無視して、
「御社の本社の方から電子メールが入っていると思うが」
と加藤は来訪する外務大臣の話を切りだしてきた。
「大臣がやってくる表向きの目的は去年この国の外務大臣が訪問したことに対する返礼。本音は隣国に立ち寄ってこの国を素通り出来ないということ。くるとなれば交換公文を作成しなければならない。フレンドシップやトレードやインベストメントの促進は謳い文句。本当の目的はアシスタンス。援助案件の拾いだしでは君にも協力願った。あとはスケジュール。合いたい人、合わせたい人、合いたいと言ってくる人、行きたい所、行かせたい所、そして時間の調整。大使館員なんて、ていのいい雑用係で便利屋でガイド。私は、こんなことの為に、わざわざ外務省に入ったんじゃない!本当に」
と加藤は飲み干したコップをテーブルの上に叩きつけた。その音に驚いた先客がなにごとかとこちらに視線をむけてきた。鈍い音がテーブルの足を伝ってコンクリートの床に響いた。
加藤の能弁が堰を切る。
「この国の内務官僚は、先週、私の留守中に、二等書記官に、『貴国の外務大臣に、戦没者慰霊碑に参拝してもらいたい』と言ってきた。慰霊碑は、我が国の無償援助で建立された。戦没者は高々百人に満たない。その中には植民地支配を一世紀に亘って続けた旧宗主国の人間も含まれている。奴等の狙いは、我が国が旧敵国で加害者であることを外交的に明らかにし、いつまでも風化させないことにある。贖罪を乞われると拒否できないという我が国のメンタリティに付け込む。それによって、更に、巨額の援助を、引き出そうとする」
と何かを抜き取るようなしぐさをして、
「カネが絡むと、奴等の偏差値は、突然ジャンプアップする。組織的に物を造るという、経済的なアビリティでは劣るが、個々人はネゴシエーションには舌を捲くほど長けている。『あなたのお国は、二十世紀の世界経済のミラクルだ』などと、片手で誉めそやし、反対の手で援助をゆする」
と右手の親指と人差し指で輪を作り、
「我が国の外相も、この国の大臣と一対一で対等にやり合ったら、勝ち目はない。赤子のようにいいように言いくるめられる。『和なるを以って貴しとす』が私の座右の銘だなどと、我が国の大臣が自慢しだしたら、『待ってました、能天気痴呆陣笠ドブ板丸投げ大臣』とばかり、無理難題を押し付け、巨額の要求を並べ立てる。『ノー、ノー』と慌てふためいて、改めて本音で応対すれば、『それじゃあ、和は保てない。力のある大金持ちが、譲歩し、折れてくるのは外交では当然のことではないか』と居直る」
と刀を抜き取るしぐさをして、
「そこでおっとり刀で登場するのが我等外交官だ。『そんなことをしたら戦前の旧宗主国との従属関係が新たに構築される。それでは対等の外交関係はとても保てない』と切り返す。外交は口先。舌先三寸で国の厚生に多大の貢献をなす。相手のコントラディクションを突き、時には、語気を荒げ、テーブルを叩く。コストベネフィットで査定すれば国益に対するコントリビューションは官庁随一だ」
と加藤は自慢げに大言を吐き、自嘲気味に笑った。長谷川は、
「いつものことだが加藤の傲慢さには虫唾が走る」
と言いたげに口を歪める。
(小馬鹿にされたときは殺してやろうかと思うこともあるのではないか)
と土岐は忖度する。
(悔しさに夜半寝付けずに胃がきりきりと痛むときもあるのではないか)
とも推察する。しかし、大使館は長谷川の会社にとっては最大のクライアントだから、あからさまに不快感を表すことも口に出すこともできない。会社勤めの辛いところだ。
そのことを加藤も薄々気づいているのかも知れない。
土岐にとって加藤の精神構造はまったく理解できない。何かの拍子に油断して不図見せる長谷川の不満げな表情を快く思っていないかも知れない。加藤にとっても長谷川の会社は最大のベンダーだから不快であってもこうして付き合わなければならない。加藤はそのことを堪えられないほど不愉快と思っているのかも知れない。
だからといって@I kill you@とメールで打つことはないだろう。でもそれはあくまでも土岐の見立てだ。人の心は所詮わからない。
そこにシュリンプスープがやってきた。そこで長谷川は加藤のカラのコップにビールをゆっくりと注ぐ。加藤はビールの泡が嫌いなようだ。泡立たないようにコップをビール瓶の口に傾けた。
ウエイターがスープを銘々の小カップに取り分ける。
加藤はそれを斜めに見ながら、不意に声を潜めた。
「実はヒジノローマに行って貰いたいんだが」
と用件を切りだしてきた。
長谷川は思わず、鸚鵡返しに、地名を繰り返した。
「ヒジノローマ?」
と都市名は知っているようだが頓狂に問い質した。
「いわくつきの、農業試験場のあるところ」
と加藤は鷲鼻の右の丸薬大の毛の生えたほくろをさする。
そのほくろを土岐は、
「はなくそ」
と声を出さずに呼んだ。
長谷川は土岐と加藤を交互に見ながら話し始めた。
「三年近く前、首都のフォート地区の港からポンコツトラックに耕運機を乗せて、着任早々にヒジノローマへ行ったことがあります。耐用年数をとうにすぎていたピックアップトラックは板ばねがほとんど効いていなかったんで、舗装されてない道路の凸凹がじかに尾てい骨から頭のてっぺんにびんびん伝わってきて、内臓がひっくり返ったまま安手の首振り人形のようになって、岩だらけの殺伐とした荒れ野をトラックで一日中走り続けたんです」
と上体を揺らしながら、
「その間、疲れすぎちゃって、運転手と口をきく気にならなかったんです。イエスとノー以外は、ほとんど話さなかった。あとで所長から聞いた話なんですけど、運送屋のトラックの運チャンは、『英語のろくに話せない珍しい商社マン』と思ったらしい。納品先ででっぷりとした農業試験場長から邦人を紹介されました。小川伺朗という名前だったと記憶してます。彼が我が国からの技術協力で派遣された人物であることはあとで知ったんですが、その派遣員については印象が薄く、どういう人物であったかよく思い出せないんです。一泊したらどうかというのを固辞してとんぼ返りし、戻ってきたのは翌早朝でした」
と長谷川が話し終えるのを待ちきれないように加藤の高踏的なブリーフィングが始まった。
「その農業試験場に我が国の財団法人、外務省の数少ない外郭団体の一つだけど、そこから派遣されたその農業技術指導者がいる。君、三年前に会ったことがあるんだよね。小川伺朗とかいう奴だ。その派遣員に、この国の内務省が、突如褒章をやると言いだしてきた。『収穫量のきわめて多い、水稲の普及に多大なる貢献をした』という名目だ。外務大臣滞在中に仰々しいセレモニーをやる。今後とも低利の政府借款と無償援助を引き出すための下心見え見えの安上がりの捏造イベントだ」
と鼻先を突き出しながら、
「ところが、この水呑み派遣員が、何を血迷ったのか、何を勘違いしたのか、『たまたま農繁期で、手を放せないので、来られない』とぬかしてきた。へっ、馬鹿めが。そこで内務省の役人がこの派遣員の説得を我が大使館に、要請してきた。大臣がくる直前でてんてこ舞いの館員が派遣員の説得に行くことはとても出来ない。だから今度の土日を掛けて説得しに行って来て貰いたい」
と有無をも言わせない押しの強い口調で言う。加藤の話は続く。
「実は、先週末、当該派遣員の対策を検討して、『やつが首都に来ない場合は、やつの在留資格を剥奪しよう』と画策したんだ。脅しに使おうという魂胆だった。派遣員が所属する外郭団体の専務理事に国際電話をかけて圧力をかけようと目論んだ。専務理事は大使のかつての上司筋で、退職前に本省の廊下ですれ違った程度の面識だそうだが、いまや隠然たる権限を持っているのは在職中の大使の方だ。この専務理事には着任前に一度挨拶に行ったことがあるんだ」
と人差し指を立てながら、
「前任者の話では農業関係の援助では世話になっているとのことだった。専務理事は小柄で痩せぎすで頭のてっぺんの毛が束になって突っ立っている啄木鳥のようなおばさん顔の初老の男だ。その財団法人は貿易センタービルの十四階にあった。十三階がなかったので中継階の十二階でエレベータを乗り換えるときにちょっとまごついた。午前中十一時ごろ事務局に着くと愛想の悪い化粧下手な受付嬢が黒縁眼鏡のずんぐりむっくりの事務局長に引き合わせてくれた」
と駐車場の方に目線を送りながら、
「嵌め殺しの窓際の革張りの応接セットでむかい合うと、その事務局長はクオーツの壁時計を見ながら、『十時にハイヤーが自宅に迎えに行っているので交通渋滞に巻き込まれていなければ、もうそろそろ着くころです。ハイ』と揉み手をした。よくみると手垢をこすっていた。右手の親指の腹で左手の親指から順に小指まで丹念にこすりあげていた。適度な量になると丸薬状にして応接セットの厚手のガラスの灰皿に弾き落としていた」
と右手の親指と人差し指の腹をこすり合わせて、
「それから専務理事の日常業務を羨ましさと苦々しさの入り混じった表情で説明してくれた。専務理事は十一時すぎに到着し、朝刊六紙を読む。自宅では取っていないそうだ。着任前は五紙だったが、着任後スポーツ紙が一紙増えた。それから近場の同期生や外務省に電話して昼食を誘う。一人だと交際費で処理できないからだ。本人は、『これも情報収集業務の一環だ』と言っているそうだ。付帯設備のサロンを使うことが多いらしい。常駐のコックはそのために十時ごろに出勤する。昼食を終えて自室に帰ってくるのは二時ごろ。それから夕方までインターネット三昧」
と皿の上で両手でタッチタイピングをしながら、
「インターネットの懸賞で海外旅行の当たったことがあるそうだ。当てるコツは職業欄に、〈外務省〉と太字でクリアにこれ見よがしに書き込むことだそうだ。『ついでだから、現地大使館を表敬訪問してきます』としゃあしゃと臆面もなくぬかして懸賞で当たった航空券を夫人に使用させ、自分の渡航費を事務局に捻出させた。渡航先がトルコだったので、経費を理由付けるのに困ったそうだ。事務局長が、『この財団法人の設立趣意書では、アジア諸国との経済・文化交流の促進とあるので、トルコはちょっと』と承服できないと言うと、『あなた、何言ってるんですか、トルコは小アジアじゃないですか』とぬかしたそうだ。事務局長はお土産に貰ったカッパドキアの絵葉書を破り捨てたそうだ」
と両手で破るマネをして、
「専務理事の帰宅は四時過ぎ。規程上は五時までの勤務のはずだが、五時を過ぎるとラッシュに引っかかるからという理由で切り上げる。『どうせ仕事がないから、皆さんのお邪魔にならないように、おさきに失礼。皆さんも適当に切り上げてお帰り下さい』とハイヤーを電話で呼びつけさせる」
と右手でこぶしを作って耳に当て、
「しいて仕事があるとすれば、補助金を外務省から取ってくることだ。その補助金は専務理事の俸給と彼に関する放蕩の諸経費でほぼ消える。国際電話で問い合わせたら、その専務理事の話では、『派遣員はすでにこの財団法人に所属していない。公式の派遣期間は一年だが、その期限は一昨年で切れている。この男の場合、現地の要望と本人の希望から更に一年延長された。その延長期間も去年切れている。規程上、二年を超えて派遣員の人件費を予算に計上できない。それで、彼の派遣員としての身分は昨年失効した。一旦退職し、現在の身分は嘱託だ。こちらから依頼する仕事があれば、それなりの報酬は支払われるが、何もなければ原則無給。今は一銭も支払っていない』ということだ」
と言いながら象牙の箸を置き、
「本国では僅かな退職金でも、ここでは十年分の生活費に相当するんで派遣員は現地宿舎をあてがわれ、手弁当で非公式に職務を継続している。海外現地ボランティアということだ。こっちはビザの延長では、東奔西走させられた。派遣員の両親に説得させることも考えた。両親の説得の文面を代筆起草し、ヒジノローマの農業試験場宛のエアメール封筒まで用意した。しかし特命全権大使から反対が出た。『両親が本省に問い合わせたら、まずいのでは』という意見だ」
と箸を持ちなおし、
「マスコミか野党が嗅ぎ付けて週刊誌ネタにでもなったら予算委員会で叩かれることは間違いない。そうでなくても特命全権大使と大使館員全員の汚点となる。減点主義の官庁に仕える官僚としては危ない橋は渡らない方が得策だ。結局、この代筆案はエアメールを出す直前で廃案となった。見るに見かねてコマーシャルアタッシェも、普段は何もすることがないんで、派遣員に直接電話してみたそうだ。『今月いっぱいは、とにかく農業試験場を離れられない』の一点張りだったそうだ。本人が来なければ授賞式はなんの意味もない。一世代前のオープンワイヤー回線の長距離電話で、雑音が多く、幾度も途中で切れたりして、要を得なかったらしい」
と加藤の怒りの口吻は依然としておさまらない。
「この国にいれば、百姓でも、先生様だ。農業高校出だから、偏差はせいぜい四十だ。自腹を切ってまでして、なんでヒジノローマのような僻地に、三年もいなければならないのか。この国の内務大臣が会いたいと言ってるんだぞ!」
と加藤は苛立たしそうに象牙色のプラスティックの箸を握り締めた。
「奴の人生にとって、何の意味があるのか。頭がどうかしているんじゃないか。もっとも、まともな人間は派遣員にはいないけど。まったく偏差値の低い奴等の考えていることは本当に理解できない。我々に関わって欲しくないもんだ」
と加藤は憤然と箸に怒気を込める。折れんばかりに叩きつけた。
「やつはたいした給料も貰らっていなかったはずだ。だいたい海外派遣されると本国の出世ラインから外される。この国は、とくにそうだ。だから、まともな人間は、こんな小国には、絶対来ないはずだ。私は例外だが」
と加藤は憤懣とともにシュリンプスープを啜る。
溶き卵が一筋、彼の顎に垂れた。そこに蠅が止まった。先刻から飛び回っていた三匹のうちの一匹だ。彼が追い払うとテーブルの上を旋回していた仲間と合流した。シュリンプスープの丼の縁で代わる代わる休憩する。
土岐は定期的に丼の縁の蠅を左手で追い払った。
残りの三品が運ばれてきた。いずれも同じような彩りだ。よく見るとフライドライスの中にフライドヌードルが少し混ざっていた。
「先に焼きそばを炒めて、同じ鍋で炒飯を作ったんだな」
と加藤は呆れたように苦笑する。ヌードルをつるつる滑るプラスティックの箸で掬い上げた。
「どれもこれも、馬鹿の一つ覚えで、オイスターソースの味付けだ」と加藤は麺越しに鋭い視線で長谷川の表情を窺う。
「それで、どう?行ける?」
と加藤は打診してくる。断られることをまったく予想していない口ぶり。大使館がらみの売り上げが多いとすれば当然かも知れない。
「行きます。ただ、土日は、先約がありますので、土岐君に代理で行ってもらいます」
と長谷川。即座に長谷川が受諾しなかったのを加藤は意外に思ったらしい。まさかというような顔つきをした。瞳孔が点になっている。
「先日それとなく所長さんにはお願いはしていたけど、正式には、今日の明日で、申し訳ないが。兎に角、有難い。それじゃ、土岐さん宜しく」
と加藤はいぶかしげに土岐の目を覗き込む。白くしなやかな右手を差しだした。土岐は空いている左手をだしかけた。慌てて箸を置いて右手を出す。加藤はなよやかに握り締めてきた。ひんやりとした羽二重餅のような感触が土岐の右手を包んだ。
しばらく黙然と三人は食べることに専念した。ひとしきり箸でせわしなく炒麺や炒飯を啄ばんだ。
加藤は一服した。突然左手で丸テーブルをしたたかに叩いた。
「全く、この国の重要性が、わかっていないんだ!」
と血相が変わるほど歯軋りする。目を鈍角の三角形にした。
「これだから、農業高校出のどん百姓は困る。一日ぐらい、田圃を留守にすることが、何だってんだ!うす馬鹿めが!」
と毒づく。小さく溜息をつく。ナプキンで口の端を拭った。
「奴がこの国に来たのは、給料を貰って外国に来られるという、ケチな料簡と好奇心からだ。経済協力なんていう高尚で高邁な発想は微塵も、かけらもあるはずがない」
と決め付けた。それから少し気まずい沈黙があった。
「そうかも」
と長谷川が気のない相槌を打った。加藤は少し激昂した。
「絶対そうに違いない。国際政治も、国際経済も、何もわかっちゃいないんだ。まあ、高卒じゃ、無理もないが」
といきり立った。残っていたビールを一気に飲み干した。加藤の口の端から一滴のビールが垂れ落ちた。
「我々外交官が日夜、国益の為に国際政治や国際経済に、どれほど心を砕いているか。奴にわかろうはずもない。偏差値七十以上と、四十以下のギャップには、想像を絶する隔絶がある。異人種、或いは、異星人同士と言ってもいい。見てくれが同じだから、文科省でも気づかない人が多いが。それが実に恐ろしい。本当に、恐ろしい」
と自説を展開した。それから、がらりと大きく口調を変えた。
「あの辺は、反政府ゲリラの最南端だから、一応警戒した方がいい。土岐さんに万一のことがあったら大変だ」
と意外にも気遣う素振りを見せる。
「もっとも君は、どう見ても外国人だから、いきなり銃口をむけられ、射殺されることはないとは思うが。そう言えば去年どっかのバザーで長谷川君が買ってきたような民族衣装は絶対に着て行かない方がいい。出来ればこのサファリジャケットのような物か、欧米のブランド物の半袖半ズボンがいいんじゃないか。ここの連中はアウラットがあるから半ズボンは穿かない」
と加藤は言い足した。土岐は、
〈アウラット〉
の意味が不明だった。面倒で聞く気にならなかった。それよりも不首尾に終わった場合の不安に強く駆られた。
「口べたなもんで、あんまり期待してほしくないです」
と土岐はとりあえず予防線を張ってみた。すると加藤は、
「とにかく本当の理由を聞きだしてほしい。頼む。『いま農繁期だから手が放せないもので』というのは口実に決まってんだ。理由さえわかれば対策の打ちようもある。カネか女か地位か。何とでもなる」
と本音を漏らした。前置きの長さに土岐は辟易とした。
知らない間に、客がかなり増えていた。
隣のテーブルに金髪碧眼の二人連れが着いた。
「大使館のパーティーで見かけたことのある連中だ」
と長谷川が土岐の耳元で囁いた。それに気づいた加藤が振り返って軽く会釈した。同じような素っ気ない会釈が返ってきた。
「北欧の尻の青い書生が。EUの盲腸が」
と加藤は声を潜める。見下したような舌打ちする。
「どうだ?こっちを馬鹿にしたような目で見てるだろう?」
と加藤は自分の背後の北欧の大使館員に話題を変えた。
「奴等、ことあるごとに我が国のODAをこき下ろす。『タイドローンは悪だ。アンタイドローンは効率的だ』と青臭いことをのたまう。援助は誰のカネだと思ってるんだ。自国民の税金じゃないか。自国民の血税を同じ自国民の業者に還元して何が悪い。それが官僚の責務じゃないか。大体奴等の国とは援助の金額が一桁違う。我が国では援助関連産業は公共事業と同じで、立派な産業になっているんだ」
と不満気だ。
「それに対する連中の反論は、教科書的で、たしか、『紐付きであるために、援助が有効に利用されていない』というような主旨でしたね。紐付きでなければ援助は制約がないんで、もっとも有効な方法で使用されるとか言ってましたね」
と長谷川が腰を引くような姿勢で加藤に恐る恐る確認すると、
「その議論が成立するのは、被援助国側に有効に使用する能力がある場合に限られる。この国の奴等は何をどう使っていいのかすらわからない。自由に使わせれば、大統領の巨大な銅像を造りかねない。有効に使えないというのが発展途上国の発展途上たるゆえんだ」
と頭ごなしに唾棄する。
「我が国の援助方針が一貫して『現地政府を抱き込んだ見せ掛けのディマンドベース』というのも諸外国の批判の論点になってますね」
と長谷川が、加藤の顔色を窺いながら問い質す。すると、加藤は、
「我が国の援助方針は、我が国の納税者と被援助国たる発展途上国の国民大衆の利害を齟齬なく一致させるものだ」
と主張する。
長谷川は土岐の方をちらちら見ながら言う。
「でも、大使館とこれまで、二人三脚でやってきた援助プロジェクトには本国業者の在庫一掃の性格を持つものがかなりありましたね。たとえば語学教育プロジェクトとしてLLシステム機器とカッセトテープデッキを百台ほど国立大学に無償援助したでしょ。あのカセットデッキは我が国では、廃棄処分が決定し、メーカーの倉庫に一時的に偶然眠っていたものなんですよ。援助品目として何かないかと本社に打診したら定価の一掛けで調達できるリストにあれが載っていた。そこで国立大学の外国語教育担当の教授と教育省の担当官僚を高級レストランに呼びだして接待しました。あのとき、加藤さんの前任者もおられたと思いますよ」
と加藤に同意を求めながら、
「山海の珍味をたらふく食わせて、高級酒をさんざん飲ませて、帰りにはお車代付きでお土産を持たせたんです。後日こちらで用意した援助要請書類にサインさせた。我が国の接待攻勢はこの国でも有効です。必要書類のすべてはこちらで作成しました。最後に教育相のサインだけ貰って、前任者が大使館経由で本省に送付して一件落着でした。総額は僅かではあるものの定価の九割が口銭となりました。ついでにLLシステム機器も抱き合わせて、金額はこちらのほうが高かったが、利幅は少なかったんです」
と長谷川は思い出すようにうなずきながら、
「一年ぐらいたって、故障が相次いで、廃棄寸前だったカッセトテープデッキは高温多湿に脆弱でした。利用頻度が高かったことと垢と汗だらけのどろどろの手で操作したことも故障の原因だったと思うんです。修理できる人材もなく、部品はすでに生産されていない。故障した機器はLLシステムとともに、そのまま放置されて、その頃、本国から経済協力評価調査団がやって来て、調査員の大使館の扱いの等級は我が国の野党代議士と同じランクだったんです。接待は我が現地事務所の役割で、大使館員もお相伴にあずかって、一緒に接待される側に回ってくれました。調査員はカムフラージュのため一応利害関係のない二流大学の教員だったんですが」
と侮蔑するような目つきで、
「団長は外務省の外郭団体の職員で調査費用はすべて外務省持ちだったようです。LLシステム機器とカセットテープデッキが調査リストに載っていました。国立大学の外国語教育担当の教授と事前に打合せをして、調査団にアテンドしてLL教室にむかうと教室の前に学生の行列ができていました。薄暗い廊下にしゃがみ込んでいる者もいて、教室の中はヘッドフォンをした学生で満員だったんです。一斉に白目を剥きだして口をポカンと開けてこちらを見てました」
と口を開けて見せて、
「インストラクター・ブースは無人で、ヒアリングの勉強をしているようには見えなかったんですが、海外旅行気分の三文教授が学生の一人のヘッドフォンを取り上げて耳に当てようとしたんで、『いま授業中ですから、すいません、邪魔しないように』と体を張って制しました。この行為は後に、所長から高く評価されました。後日、当該語学教授に仔細を聞いたら『調査団の印象がよければ新機種が無償導入される』と無垢な学生たちに吹聴したそうです。視察のあと、学部長室でこの教授が調査団に対して新機種導入の要望を伝えたときはさすがに周章狼狽しました」
と目線をきょときょとさせ、
「数ヵ月後に外務省に提出された〈我が国の経済協力に関する評価調査報告書〉のコピーがメール添付の極秘文書ファイルで送られてきました。『無償援助のカセットテープデッキとLLシステム機器は、LL教室の外に学生の行列ができるほど有効に利用されている』という外務省の筋書き通りの、間の抜けた、媚び諂うような御用学者の衒いのない文章が臆面もなく綴られていました。ソフトのほとんど全てがテープからCDに変わったこともあって、去年、国立大学はCDプレーヤーを導入することになったんです。予算が少ないんで国際入札となったんですが前回同様、定価の一掛け商品のオファーを本社にだし、競争相手の入札価格を事前に教育省から入手し、定価の二掛けで応札したら落札に成功しました」
と得意げにあごを上げ、
「口銭は少ないが教育省のパイプを繋いでおくことが重要だったんです。いずれDⅤDが主流となるからCDデッキもカセットテープデッキと同じ運命をたどると思います。現地事務所の仕事は現地のカネの臭いのする情報を逐一、本社に上げることなんです。世界中に散らばる数百人の現地事務所員を本社の連中が『アンテナ』と便利屋かスパイであるかのように愛着を込めて呼んで『橋頭堡』と現地駐在員事務所を最前線基地のように呼ぶゆえんです」
と長谷川が自嘲気味に延々と話した。
土岐は先刻から加藤のサファリジャケットの胸ポケットから垂れているクリップ付きのストラップがぶらぶらと揺れているのが気になっていた。数秒会話が途絶えた。加藤に聞いてみた。
「その、胸のストラップは携帯電話のですか?」
加藤は、
(これ?)
と意外なことを聞くというような顔をする。
「眼ざわりなんだけどね、女房が、『付けろ』ってうるさいんだよ」
「携帯電話からメールは良くするんですか?」
この質問の意図を長谷川は理解したようだ。ちらりと土岐の横顔を見た。加藤は長谷川の視線の意味は分っていない。
「メールは携帯からはほとんどしない。もっぱら、パソコンでやる。携帯からメールをするのは、女房あてぐらいで。それが、なにか?」
「いえべつに」
と土岐が不自然な受け答えをする。
加藤が手首のスイス製ブランドのアナログ時計を見た。そろそろ帰ろうということらしい。
炒麺も炒飯も食い散らかしたままだ。皿を舐めるほどには美味い料理ではなかった。
席を立つと入れ替わりに二人連れの現地人が入ってきた。テーブルの残飯に落とされた彼らの視線が気になった。何か言いた気だ。
加藤は立ち上がりながら勘定書を手に取ろうとした。
「今日はいいよ、私のほうがお願いするんだから」
と支払う素振りを見せる。
「まあまあ」
と長谷川が勘定書を手元に取り寄せる。加藤は抵抗しない。
「所長代理さん、小銭ないでしょ?」
と彼はチップをテーブルの上に投げ捨てるように置いた。
薄暗い室内から先刻のウエイターが注意深くこちらの様子を窺っていた。あわててチップを取りにきた。加藤はつま楊枝を要求した。そのまま肩で風を切るようにして店を出て行った。
長谷川がレジで支払を済ませた。レシートをポケットに捻じ込んで外に出る。
ドイツ車の傍らに加藤が立っていた。眩しそうに顔を歪めている。
「事務所で落としてやるよ。お二人さん」
と後部座席のドアを開ける。加藤は運転席に乗り込んだ。
後部座席に乗り込もうとすると、先刻の少女が立ち塞がった。腰は引けている。両手を広げて乗せない構えだ。そのとき運転席のパワーウインドウが降りた。加藤が小銭を差しだした。エンジンを掛けながら前方を見ている。
少女は彼の小銭を引っ手繰るようにして受け取る。老婆のもとに走り寄った。
「私もヒューマニストじゃないが小銭はやることにしてる」
とパワーウインドウを上げる。加藤はアクセルをふかした。
長谷川は、
「性格的にオールオアナッシングなもんで。すべてやるか、びた一文やらないか、の二者択一なんです。微調整の効かない不器用で不細工で不自由な性格なんです」
と謙譲の構えを崩さないように吶々と心情を説明した。
「ふん、よくわからんね」
とぽつりと言ったきり加藤は口をつぐんだ。シートベルトの警報音がしたが彼は無視して走りだした。
事務所までは十分ほどのはずだった。土岐が瞬きをしている間に着いていた。ビールを呑んだこと、満腹になったこと、時差ボケ、少し寝不足気味だったこと、エアコンがよく効いていたことで土岐はうたたねをしていた。十分間が完全に消えていた。
長谷川も軽いいびきをかいていた。
「お待ちどう。着いたよ」
と言う加藤の声で土岐の眼が覚めた。ぼんやりしながら車外に出た。頭の奥の方に鈍い疲労が感じられた。途端に蒸し風呂のような熱気に囲まれた。
「ここで失礼するので所長さんによろしく。それから女房が所長代理さんによろしくと言っていた。なにがよろしくか分らんがそう言えば分ると言っていた。土岐さん、ヒジノローマの件よろしく」
という加藤の別れの挨拶に返答もできない程土岐は茫然としていた。
「詳しいことは追ってまた後で電話するから」
と言い残した。加藤はこちらの別れの挨拶を待ち受けることもなく、脱兎のごとく土埃がはびこるフォート地区方向へ走り去った。
土岐と長谷川は多年草の生い茂る前庭を通る。正面玄関から事務所に戻った。川野所長は相も変わらずパイプをふかしていた。
長谷川は加藤の依頼を報告した。
「空港近代化プロジェクトの件、よろしくとのことでした」
と虚言を申し添える。
川野は喜色を満面にうかべた。
「このプロジェクトが動き出そうと先送りになろうと棚上げになろうと、具体化するころには川野は帰国している」
という長谷川の話だった。
長谷川が接待交際費の伝票を作成した。川野は即座にサインしてくれた。本社では経理が諸経費を管理している。ここでは川野が管理している。
「諸経費は月末に纏めてチェックで貰うことになっているんだ。その都度、合計額を所長に請求するんだが添付伝票を確認することもなく、すぐに小切手を切ってくれる。性格同様、いい加減だ。しかし物価水準を考えると、この国で豪遊しても金額的には知れている」と長谷川は、やりとりを興味深げに傍観していた土岐に囁いた。
川野は転勤願の件を蒸し返した。転勤願いの話は方便だ。川野は長谷川を転勤させたがっている。そんな執拗な物言いだ。
長谷川はそれに答える。
「この国は好きでもないし嫌いでもないんで。本社にどうしても帰りたいとも思わないしとくに赴任したい国があるわけでもないし空港近代化プロジェクトには多少の興味と未練はあるんですが所長が帰国されれば所長代理のわたしがプロジェクトの中心になれることは間違いないとは思うんですが巨額売り上げを本社は高く評価してくれると思いますが帰国すればわたしのように二流大学の文学部卒の学歴でも昇進する可能性もあるような気がしますがここにいれば月給以上の接待交際費を使い豪遊もできる。しかし遊べる場所も遊べることも限られてるんで。この国には多少飽きてきてはいるんですが転勤するかしないかどちらでもいいことなので」
と話している途中で川野は居眠りを始めた。
土岐も何となく眠気を感じる。長谷川の眼もとろんとしている。
土岐は忘れないうちに言うことにした。
「レストランで、大学に語学教材を売り込んだ話をしてたでしょ」
「ああ、日本語学科だ」
「そこの先生たちは君のメールアドレスを知っているだろう」
「ああ。かれらに限らず、取引関係のあった連中には、メールアドレスを教えている。教えなくてもメールを送信しているから、おれのアドレスは知っているはずだ」
と面倒臭そうに答える。それが何か?という顔付きをしている。
「そういう連中からI kill youの脅迫が来た可能性はないか?」
という土岐の問いに、長谷川は大きく首を横に振る。
「あり得ないと思う。顧客にはそれなりのベネフィットを提供している。ここの国の人間の場合は、接待交際費で飲食とお土産とお車代だ。まあ、邦人も同じようなもんだが、歓楽街での接待が加わる」
「君は、そういう供応で、相手は満足していると思っているだろうが、そうではないかも知れない。語学の先生は、そういうことを不快に思っているかも知れない」
「接待されることがそんなに不快か?」
「接待そのものじゃない。君の言い草や物腰だ」
「媚へつらい方のことか」
「と言うか、君は気づいていないかも知れないが、君の話し方には、人を不快にさせるものがあるんだ」
「そう思うのは、おまえだけじゃないのか」
と長谷川は土岐に批判されて気色ばんだ。
「さっきの中華レストランで、一等書記官の博識を褒めただろう」
「イスラムの礼拝のことか?」
「そうだ」
「それがどうした」
「一等書記官を小馬鹿にしたような褒め方だった」
「そう思うのはおまえだけだろう」
「いや、加藤さんは不快な顔をしていた」
「そうか?」
「学生時代もそうだったけど君には人の心を慮るという思考回路が欠落しているんだよ。女の子と話していても、欲望むき出しだった」
「まさか、おまえのいる前で、女の子に、『やらせてくれ』なんて、言ったことないぞ」
「君は、はっきり言わなければ、相手に分らないと思っているのかも知れないが、心の中は、ちょっとした仕草や言葉の抑揚で分るものなんだ。もちろん、個人差はあるが、君はその能力が極端に劣っている。しかも、腹の中は傲慢だから、だれでも、君と話をしていると不愉快になるはずだ」
「おまえも不愉快か?」
と長谷川は不安そうな表情を見せた。
「少なくとも、愉快ではない。僕は、君の友人だからこうしてはっきり言うが、普通の対人関係では誰も言わないだろう。腹の底で思っていることが、表情や言葉尻で相手を不愉快にしたとしても、それは犯罪ではない。ただ、相手は会いたくないと思うだけのことだ。I kill youは氷山の一角かも知れない。そういうメールを送信したいと思っている人間は他にもいるかも知れない」
「おまえも、そう思っているか?」
「僕は君と深く接触していないから、いまのところそうではないが」
と土岐が言うと長谷川は沈黙した。
昼下がりの猛烈な睡魔から土岐が解放された二時ごろ、加藤から長谷川に補遺の電話があった。派遣員と連絡が取れたようだ。長谷川が耳にあてた受話器から加藤の声が漏れてきた。
「三年位前に納品してもらったサイドクラッチ付きの耕運機の具合が悪いんで、商社の人とその件で是非お会いしたいと農業試験場の場長が、さも脈がありそうな口振りで言ってる。それから、ヒジノローマ関係の諸経費は全額、大使館の予備費から捻出するんで明細がわかるように領収書を添付して来週請求して欲しい」
と思い出したように、
「それから土曜日に行ってその日のうちに派遣員を説得できなければ、ご苦労でも、申し訳ないが日曜日も粘ってきて貰いたい。前にも言ったけど、授賞式はいちおう来週の火曜日の夕方を予定してる」
と加藤は事務的に伝えてきた。
「一応事務処理上、パートタイマーという形式にするので、必ず二日間のトラベルインシュランスを買って欲しい」
とも言っている。
「多分、今晩外務大臣を隣国まで出迎えに行くことになると思うけど。なにせ一泊二日の強行日程だ。万事遺漏なく運ぶために、事前に詰めなければならないことが多い。他に何かない?」
と加藤は一方的に澱みなくしゃべり続けた。最後にそう尋ねてきた。
「いえ、とくにべつにありません」
と意図的に気の進まない口吻で長谷川は答えた。感情を押し殺しているように聞こえる。
「何か気づいたら出かける前にこちらから電話します」
と付言した。長谷川は受話器を置いた。椅子から立ち上がって、灰色のスティールキャビネットを開ける。何かを探し始めた。
土岐が長谷川の背後からキャビネットを覗き込むと、
「三年ほど前に納品した九馬力の耕運機のファイルを探してるんだ。ファイルは所長が保管していたと思うが。パンフレット一式で、性能、最大出力、始動方式、変速段数、寸法、耕幅、燃料タンクの大きさ、装備重量の記載と操作マニュアルがあるだけで、アフタケアに耐えられるようなしろものじゃないんだけど。パーツの一覧表も諸元表もなかったはずだ。どうせ例によって旧式だから、部品が駄目になったとしても取り寄せることはできない。汎用部品があったとしても単品の注文であれば馬鹿馬鹿しいほど高価になる。修理をしようにも修理できる人間はここにはいない」
と長谷川は、どうしたものかと思案している。不意に、
「車よっか、列車で行った方が、いいかも知れねぇなぁ」
と川野が居眠りから覚めて独り言のように呟いた。
「そうですね。ハイヤーで行くよりは楽でしょうね」
と言って、長谷川は早速ターミナル駅に電話で問い合わせた。
大きな飴玉をしゃぶっているような英語が受話器に返ってきた。
「ヒジノローマ方面へ行く列車は週日も週末も1日3本で午前9時発と正午発と午後3時発。各駅で急行はない」
と叫んでいる。長谷川の耳と受話器の隙間から漏れ聞こえてくる。
「所要時間は四時間ほどだから、夕方までに農業試験場に到着するように午前中の列車で行くことにした方がいいな」
と長谷川が受話器を置き、土岐に説明する。振り向いて川野に言う。
「土岐と一緒にヒジノローマに行って、わたしはとんぼ返りで戻ってきます。明朝はこちらに寄らずに、直接駅に直行しますので、事務所宛のeメールの処理、お願いできますか?」
「日本商工会のゴルフコンペが入ってるけどしゃぁないか。出掛けにざぁっと見ておこう。ゴルフも業務といやぁ業務だが。まあ多少遅れてもどうってぇことねえだろう。現地駐在員事務所にゃ土日はなしか。月月火水木金金だ」
と川野は熊のような両手を頭の後ろで組む。白い鼻毛を剥きだしにして大欠伸をする。下顎の左右の奥歯の金冠が鈍く光って見えた。
「eメールは、ご自宅では見ないんですか?」
と土岐は薄々感づいていたが、わざと不思議そうに訊く。
「自宅で、ここのメールを開けるのは至極面倒なんだよ。御丁寧にも本社の情報システム課のオタクでマニアックな連中が、何重ものセキュリティバリアをガチガチに掛けやがってさ」
と川野はキーボードを両手の人差し指だけで叩いている。タッチタイピングのできない川野がキーボードにむかって左右の人差し指を上海蟹のように構え、自宅のパソコンの前で悪戦格闘しているさまを土岐は想像して哀れに想えた。可笑しくなった。
「ディジタルディバイドがやっと解除されたころ定年とは」
と言いかけて長谷川はやめた。土岐と眼があった。
「おまえが笑っていたのはこのことか」
と長谷川の眼が土岐に言っている。
土岐はうすら笑いをしている自分に気付いた。
「言っても所詮、詮無いことだ。なにせタッチタイピングを差別語のブラインドタッチと言っていたほどだから」
と長谷川はひとり言のように言う。
「ところでその農業試験場の派遣員てぇのは、いくつぐらいの人?」
と川野がパイプを片手に思いついたように訊いてきた。
「確かではありませんが、三十少し前ぐらいだと思いますが」
と長谷川が答えた。
川野は何の脈絡もなく、自分の学生時代の話を始めた。
「俺も若ぇ頃は、経済のシュバイツアーになろぅてんで経済発展論をゼミで勉強したもんだ。経済の医者になるってぇのがその頃の儚い夢だった。青雲の志ってぇ奴だ。本当は外務省と国連が第一志望だったが、語学が駄目でよ。英検も二級がやっとで、TOEFLも五百五十を超えるのがやっとで。するってぇと後進国と関われそうな職種は商社だと短絡した。だが大学でやった経済援助と仕事でやった援助はえれぇ違ぇだったな。正に正反対、対蹠的だ」
と天井を見つめて、
「経済援助は援助する国の為にやるもの。儲かるのも援助する方だ。援助された国は益々貧しくなるってぇ構図だ。気づいた時はもう遅かった。仕事に追われ、出世に追われ、生活に追われ、女房に追われ、子供に追われ、部下に追われ、住宅ローンに追われ、そして、この体たらく。後は定年を待つだけ。一体、大学で必死こいて学んだ経済発展理論は何だったんだ?学生時代に俺を振りやがった女に『燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや』と傲岸不遜にも虚勢を張ったもんだ。嗚呼その志今いずこ。俺の商社マン人生は一体何だったんだ?遂に尻切れ蜻蛉の貴種流離譚、髀肉の嘆をかこって終わるのか?」
と焦点の定まらない眼で天井を見上げている。
土岐には理解のできない言葉がいくつもあった。ひと呼吸あって、
「ところで、あんたの大学での専攻は何だったっけ」
と話題を長谷川に振ってきた。長谷川は、
「自分の?」
と言いたげに人差し指の先を自分の鼻先に向けた。
「フランス文学です。卒論はアルベール・カミュでした。テーマは〈アルベール・カミュの挫折と栄光〉」
とあまり触れられたくない話題のようだ。控えめに答えた。
「本社の人事の連中は、一体何考えてんのかねぇ。ここはバリバリガチガチの英語圏じゃないの?そう言やぁ、ここの内定が出る前に、東証一部上場の仏具店に決まってたんだって?」
と川野がからかうように言う。
「ええ、履歴書の学歴欄に、仏文科と記入したら、滑り止めの仏具店の店主の方で勝手に、仏教文学科と間違えてくれたんです」
と長谷川が答える。
川野は金歯と鼻毛をまる見せにして大笑した。
「商社を志望した理由は、社用で海外生活できることです」
とついでに長谷川は吐露したが、こちらの話題には川野は興味を示さなかった。やがて、三時近くになった。昼食時にホンコンで加藤が言った、
〈アウラット〉
の意味が土岐は気になっていた。長谷川にインターネットで調べてもらった。
@アウラットとは肉体で見せていけない所のこと。男より女が厳しく女の体は手首から先と顔以外は恥部とされているのでチャドルという衣装で隠さなければならない@
とあった。それを読みあげながら、
「モスク近辺は別だけど、チャドルの女性はあんまり見かけないな。この国の人は勧められれば酒も飲むし、環境の厳しい砂漠地帯のイスラムとは大分様子がちがう」
と長谷川が言う。そこで思い出したように、
「駅前の旅行代理店で旅行保険を掛けて、議事堂の隣の国民銀行で現金を引き出さなければならないな」
と長谷川は立ちあがった。
あっ軽いみなし公務員の徘徊(金曜日午後)
長谷川が川野に外出許可を願い出たところに見計らったように邦人がふらりと訪ねてきた。土岐は名刺を交換した。その邦人の所属は開発銀行で、
〈牛田恵一〉
という。
「コンニチワさんで~すゥ。皆さ~ん、お元気してますか?」
と疲れを知らないピザ屋の出前のアンチャンようにショスタロカヤに軽快に近づく。長谷川が小声で土岐に囁いた。
「ショスタロカヤは彼のことを、『ジャナ』と呼んでいる」
「ジャナ?」
と土岐も小声で応えた。
「われわれが、『ジャナイデスカ』と呼んでいるからだ。でも、地元の人間にはとても人気があるようだ」
牛田は所長にダンサーのような身軽な身のこなしで丁重な目礼。
「所長さん、軽く、おテニスでもいかがですかァ?」
と底抜けに明るく、寸毫の屈託もなく快活に誘う。
「ありがとさん。俺はやめとくよ。ゴルフなら別だけど」
と川野はにべもない。歯牙にもかけない。続けて、
「こんな時間にぃ、まだ三時でしょ。開発銀行さんのお仕事は無いのぉ?小人閑居して不善を為すってぇか?」
と川野は牛田の口調を真似て皮肉っぽく訊く。
牛田はハンバーガー屋のお兄さんのよう。泰然自若としてにこにこ笑っている。知的障害者ではないかと思わせる。
「ちょっと、テニスを付き合ってくれ」
と長谷川が土岐に言う。
「ラケットもウエアも持ってきてないぞ」
と土岐は不服を込めて言う。土岐は業務を始めたい。一向にその環境が与えられない。
(テニスをするゆとりがあるのなら、わざわざ日本から呼び寄せる必要はなかったのではないのか?)
依頼しておきながら大した仕事がないことも過去に幾度かあった。今回は何千キロも旅をしている。長谷川はそうした土岐の憤懣に気づいていない。
「審判をお願いしたいんだ」
「それも依頼の一部か?」
「女性が二人いるんで、観察してもらいたい」
ジャナイデスが所長のデスクから戻ってきた。
「じゃあ、いきましょうか?土岐さんもどうぞ」
と言う明るいジャナイデスカの声に引き込まれるように、そのまま三人で外に出た。
玄関のポーチで、ジャナイデスカがいきなり唾を吐いた。真っ赤な泡が干からびかけた芝生にぽたりと落ちた。広がって、スターフルーツの切り口のような形になった。
「ビンロウか。汚いね」
と長谷川が校門で待ち構える高等学校の風紀委員のように嗜めた。
「けっしてェ、うまいもんじゃないんですがァ、節煙しているとォ、とっても、とっても、口さびしいじゃないですかァ」
と土岐に擦り寄って同意を求めてきた。
土岐が目をそらす。
ジャナイデスカは長谷川の右腕に両手で抱きついた。
暑苦しそうに長谷川は顔を顰めて振り払った。
ジャナイデスカのフランス車は、影絵のような木陰の中にすっぽりと納まって停まっていた。
土岐が中を覗く。
丸顔の女性がどぎまぎしたような表情で助手席に座っていた。
「これ、家内の優子です」
とジャナイデスカは土岐に紹介した。
優子は、その造作が少女マンガに描かれているような感じ。眼が大きく、まつ毛が長かった。
土岐が助手席の優子に、
「こんにちは」
と挨拶する。
優子はよそよそしく、少し頭を下げて会釈を返してきた。続けて、
「暑いですね」
と土岐が声を掛けても、優子は、
「ええ」
と言うだけ。愛想がなかった。眼に見えないバリアを体中に張り巡らしている。主人の視線を意識してなのか、たまたまそういう気分なのか。
優子の産毛の密集したうなじを見る。後部座席に滑り込む。
ジャナイデスカがアクセルを踏み込んだ。
その瞬間、優子の流し眼が後部座席の長谷川を捉えた。
土岐は優子の後ろ、長谷川はジャナイデスカの後ろに座っている。優子の表情は土岐には見えない。頭の角度からルームミラーに視線が向けられている。優子の視線のルームミラーの入射角から反射角を辿って行く。長谷川の視線に辿りつく。
土岐が長谷川の顔を見る。長谷川は慌てて眼をそらし、
「テニスコートは海岸沿いの植民地時代に建設されたホテルの中にあるんだ。当時の総督の名前がそのままホテルの名称になっている」と澄まし顔。
途中、国民銀行に立ち寄った。
土岐は長谷川に誘導されて日本円を皺だらけで擦り切れて印刷が多少不鮮明になった現地の札に両替した。
長谷川は会社の口座から現地通貨を引きだした。その後、駅前の埃だらけの看板を掲げている旅行代理店で土岐の旅行保険を買った。ジャナイデスカの車に戻る途中で、長谷川が話し出した。
「去年、国民銀行にキャッシュディスペンサーを売り込みに行ったことがあったんだ。少し説明すると、担当者はすぐに断ってきた。理由は、第一に、機械が行員の年収の五十年分もして高額すぎるということ。第二に、札の半分以上が汚くて、機械に投入できないだろうということ。第三に、カード社会がこの国では浸透していないということだった。そもそも、預金口座それ自体を大半の国民は持っていないというんだ。つまり、一般国民は銀行に預金するほどゆとりのある現金すら持ち合わせていないと言うのだ。給与振込も公務員と一部の大企業の社員だけだ」
土岐は聞き流していた。
寄り道をしたことを長谷川がジャナイデスカに詫びながら車に戻る。
青空の中に墨汁を滴らせたようなスコール雲が湧き出てきていた。
「これ、毎夕のことなんだ」
と長谷川。
少し薄暗くなった。ぽつんときたらいきなり沛然と降ってきた。
ジャナイデスカがワイパーを最速にしても前方が見えない。
仕方なく車は路肩に止まる。スコールが弱まるのを待った。
「すごい雨ね。地球温暖化の影響かしら」
とやっと優子が世間話めいたことを口にした。
「京都プロトコルはとっくに発効しているはずなのに」
と土岐が優子が知っていそうもないことを言う。
優子は頑なに後部座席に視線をむけようとしない。
優子はジャナイデスカには幾度となく、
「それなあに?」
と聞いている。口癖のようだ。
二三分すると驟雨のようになった。さらに一二分するとぴたっとやんだ。雲が切れてきた。分厚い緞帳が開く。みるみる明るくなった。
四時前にテニスコートに着いた。駐車場に洒落たイタリア車が先着していた。
先頭にジャナイデスカ、次に優子、その後ろに長谷川、最後尾に土岐の順でクラブハウスに向かう。歩きながら、大きく振った長谷川の左手が幾度も優子の腰のあたりに触れた。
男三人でクラブハウスの中の男子用のプライベートロッカー・ルームに入った。長谷川のロッカーを開けると脱ぎ捨てたテニスウェアーが放り込まれていた。豆腐の饐えたような強烈な臭いがした。他に着る物がない。長谷川はそのまま身に着ける。
「くちゃい。くちゃい。アンシンジラブルゥ~」
と先に入っていたジャナイデスカが大げさに鼻を摘まんだ。
長谷川がラケットとボール缶を抱えてロッカールームを出ようとした。白人が二人、シャワールームから出てきた。
「先週、ふたりで対戦して、ダブルスでラヴゲームで惨めに負けてるんだ。これまでダブルスでは一度も勝ったことがない。パートナーのせいだ。だけど、こないだの日曜日に、赤毛の方のアメリカ人とやって、おれはシングルスで辛勝している。そのとき、アメリカ人に、『もう、ワンセットやろう』と食い下がられたが、素っ気なく断った。負けず嫌いなヤンキーで、かなり悔しがっていたから、I kill youと冗談めいてメールを送信してもおかしくはない。だけど、彼にメールアドレスを教えていないはずだ」
「ハバ・ナイス・ウィケン」
とジャナイデスカがアメリカ人に愛敬たっぷりににこやかに声を掛けた。
「You, too」
と黄色人種を見下したような常套句が返ってきた。
「二人ともこの国の優遇税制を利用して、ヘッジファンドのペーパーカンパニーの管理をしているんだ。詳しいことは言わないんで推察するしかないが、いつも暇そうだから、ファンドマネージャーじゃないらしい。タックスヘイブンのただの管理人らしい。郵便物の管理でもしてるんじゃないかな」
と長谷川が二人に聞こえるように話す。
二人はにこにこしている。日本語は全く分からないようだ。
テニスコートの雨はほとんど乾いていた。数箇所、ジグゾーパズルのピースが抜け落ちたような小さな水溜りがあるだけ。
金網の外に十歳ぐらいの少年がいた。コートの金網の入り口で待ち構えていた。
「旦那、テニスボールを買わないか?」
と長谷川に売りに来た。
三個あるうちの一つを握り締めてみると湿っぽい。プレッシャーボールで、空気がだいぶ抜けている。
「いらない。こんなものにカネが払えるか」
と長谷川が投げ返そうとした。そのボールをジャナイデスカがインターセプトする。小額紙幣をだして全部買い取った。
「よせよ、そんなの使えないよ。無駄ガネじゃないか」
と長谷川が説教する。
「いまァ、ここでェ、買っておかないとォ、あとでェ、金網のそとにでたボールをとられちゃうじゃないですかァ」
とジャナイデスカは買ったばかりのボールを通路を挟んで隣にある無人のプールサイドに打ち込んだ。
もう一人の少年が入り口と反対側の金網の外にいた。背丈近く生い茂っている雑草の中から首だけだしている。金網にしがみついて、顰め面で土岐を眩しそうに見ている。
「ボールが出たら、いつも買い取っているでしょ」
と思いだしたように、長谷川が詰問するような口調でジャナイデスカに言った。
「いやァあれは手間賃で~す。買ってるわけじゃないですゥ」
とジャナイデスカは少年に親しげに大きく手を振った。
「かれらどうもォ、山のほうから毒蛇をつかまえてきてェ、このへんにィ、はなしがいに、しているらしいですよォ」
とビニールケースからラケットを取りだした。
「ありそうな話だ」
と長谷川は苦笑する。優子が出てくるのを待ちながら、長谷川が話し出した。
「ゴルフ場にもゴルフボールを売りにくる少年たちがいるんだ。ブッシュや深いラフに打ち込むと五、六人の少年が競い合ってボールを奪い合う。買い取ってやると、お追従口で、Super shotと叫んでベストポジションに蹴りだしてくれたり白々しくChampion’s shotと叫んでフェアウエーに投げ入れてくれる。鳥や獣と同じ扱いだからペナルティーなしだ。コンペをやると中には少年を一日雇うプレーヤーもいる。わざとブッシュに打ち込んで、ベストポジションに出してもらう。スーパーショットの連続だ。逆に、ロストボールの購入を拒み続けると、フェアウエーをキープしていても先回りして踏みつけられて目玉にされたり、池やバンカーに蹴り込まれたり、ブッシュの中で牛の糞や蛇のとぐろにはめ込まれたりすることもある」
とゴルフボールを蹴るマネをして、
「そんなときはアンプレアブルの一打罰だ。所長はいつも左右両サイドに一人ずつ雇う。スコアが九十を切るわけだ。そういうゴルフに面白味を感じないんで、接待の場合は別だがプライベートの誘いは極力断ることにしている。そのせいで、『商社マンの風上にも置けない付き合いの悪い奴』という風評が邦人社会に定着したようで、どうしてもパーティーのメンバーが足りないとき以外は誘いが掛からなくなった。でもゴルフ自体は嫌いじゃないんで、最近はもっぱら、樫の木が入り口にある郊外の打ちっ放しのゴルフ練習場で週末に打つことにしてる」
と素振りをして、
「ゴルフのメンバーから外れたことで、十九番ホールの麻雀の誘いも来なくなった。でも、これは幸いだった。麻雀は負けても勝っても不愉快だから。負ければカネを取られるのが不愉快だし、勝てば勝ったで対戦相手が自らのつきのなさを呪い、カネをだし渋ぶり盗人のように悪態をつかれるのが不愉快だ」
クラブハウスから優子がもう一人の婦人と談笑しながら揃って出てきた。
背の低い優子が半歩後ろを歩いている。
二人がコートに入ってくるまでジャナイデスカはタオル生地のヘアバンドで長髪を押さえ込み、ラケット面のガットで左手の平を叩きながら待っていた。
「あれが加藤夫人の慶子さんだ」
と長谷川が土岐の右の耳元で囁く。土岐を紹介した。
慶子は色白の長身で、細面で切れ長の眼をしていた。
土岐が少し頭を下げて、上げる。慶子の目線が土岐の右耳を掠めていた。焦点はその少し後ろにある。
土岐が右目の端で、慶子の目線の焦点を伺う。長谷川の思い詰めたような眼があった。
慶子とジャナイデスカがペアを組んで練習を始めた。
「昔、ジャナイデスカ夫婦がペアを組んで敗北のあと大喧嘩して、それ以来この夫婦はミックス・ダブルスのペアを組んだことがない。マージャンやブリッジと同じようにテニスのダブルス・ゲームでも取り繕われていた本性や人格や性格や人間関係が剥きだしになる」
と長谷川は土岐の傍らで耳打ちする。それから、申し訳なさそうに、
「悪いけど、審判をやってもらえるか?いつも、セルフジャッジでやってるんだけど、必ず、インかアウトでもめるんだ。ジャナイデスカと優子さんはペアを組んでも、もめるし、対戦相手になったら、なったでまたもめるんだ」
四人が手にした練習ボールが全部アウトになった。
ジャナイデスカがラケットを回転させた。
「Which?」
と叫び長谷川が、
「Rough」
と答えて土岐の
「Love all play」
でゲームが始まった。
チャンスボールが慶子に行く。慶子は判で押したように、センターに緩くバックスピンの掛かったスライスボールで返球してくる。優子と長谷川はそのボールを追って拾いに行く。何回かに一度は勢い余って優子の弾力性のある肩に接触する。そのとき優子は必ず、ネットの向こうのジャナイデスカの表情を追う。するとジャナイデスカは条件反射のように眉根を吊り上げて不愉快そうな顔になる。同時に、それを予想していたかのように慶子は鈴を転がすように軽やかに笑い出す。
そこで、優子の耳元で長谷川が土岐に聞こえるように囁いた。
「ご主人、あなたのことほんとに愛しているみたいですね」
「主人のこと?やァだァ、ストーカーみたいなのよ」
「夫婦でストーカーはないでしょ」
「だってわたしがシャワー浴びているとこを覗き込んだり、触られると鳥肌が立つの」
と優子は、
「あっちに行って」
とばかりに、自分のラケットの先で長谷川の腰を押しこくる。それから、スコートを翻す。ラケットの柄を両手で握り締める。前衛に戻る。雁行陣を造った。
第一セットはゲームカウントがシックスオールでタイブレークになった。
長谷川は決着をつけることを避けて、
「引き分けにしましょう。ちょっと休憩」
と言って、ゲームを中断した。
ジャナイデスカと夫人たちはベンチに引き上げる。用意してきたドリンクを飲む。
長谷川は審判台の梯子に掛けていたタオルを取りに来る。土岐の足もとで長谷川が汗を拭きながら言う。
「『クライアントとゲームをするとき、どんなゲームでも勝ち過ぎてはいけない』という所長の言いつけがあるんで、ゲームはいつも接戦となるんだよ。勝ちそうになるとすべてのショットでエースをねらう。たいがい、ミスショットとなる。エースショットが決まって、勝ったとしても、『まぐれ、まぐれ』と謙遜するんだ。相手も負けたとしても後腐れがない。三人とも、『このメンバーはいつも接戦でいいゲームをする』と折に触れてそう感想を言う。誰もおれがゲームポイントを調整していることに気づいていないようだ」
スコールの後で湿度がかなり高かった。コートから立ち上るかげろうのような蒸気。再び照りだしてきた陽光。長谷川の玉の汗が止まらない。
土岐も屋外サウナのようだと思う。手のひらに汗が溜まる。審判台の手すりを握る手が幾度も滑った。
第二セットが始まった。一時間もたたないうちにジャナイデスカが顎をだした。調子も悪かった。ダブルフォルトが多い。ストロークはアウトする。ボレーは浮く。ドロップはネットした。
パートナーの慶子の呆れ返ったような、うんざりしたような大げさな表情が長谷川にむけられる。
審判をしながら土岐は、4人のプレーヤーのプレーを通じた人間関係を観察していた。
ジャナイデスカは喜怒哀楽のはっきりしたお調子者。心に裏も表もない。策略を一切講じることのない平板な性格。
優子は対戦相手のジャナイデスカに対してうんざりしたような軽蔑的な視線を投げかけている。眩しいのか、困惑しているのか、眉毛の線を常に上反りにさせている。興福寺の阿修羅像を連想した。
慶子は手足が長い。いかにも遊びとして、余裕を持ってプレーをしている。ミスをすると一々カリカリするジャナイデスカのプレー態度と比べると対蹠的だ。
ジャナイデスガがサーバーのとき、ネットにかかったボールを慶子はラケットの先で小突くようにゴロで返球する。マナーとしては褒められない。サーバーは体力を使う。返球はワンバウンドでサーバーの胸に届かせるのが常識だ。慶子のような返球では、サーバーはボールを受け取るとき、その都度、腰をかがませなければならない。そのつど、腰の筋肉を使う。サーバーの疲労が累積する。
これに対して優子は、長谷川がサーバーのとき、必ずネットに掛ったボールを拾い上げる。ワンバウンドで長谷川の胸に届くように、丁寧に返球していた。ジャナイデスカがその違いに気づいているようには見えなかった。
ジャナイデスカがセカンドセットを終えたところで、
「もうやめよう」
と言いだした。
「たかがテニスでもォ、これだけ悪いとめいってきますねェ。この辺で切り上げてプールでェ、泳いでいきませんかァ?今日は何かとてつもなく暑いですよ」
とジャナイデスカはラケットを放り投げた。
それを見て優子は軽蔑の眼差しでジャナイデスカを見た。
慶子も似たような目線をジャナイデスカにむけた。慶子の目元は笑っていた。同時に、優子にむけられた慶子の表情には、
「どうする?」
という問いかけがあった。
水の出の悪いシャワーよりはプールに浸かったほうが汗は取れることは皆知っていた。
三人ともジャナイデスカの提案に従った。
「水着を貸してやるよ」
と長谷川が言う。
土岐も一緒にロッカールームに行った。
ジャナイデスカは、さっさと着替えて、ロッカールームを出て行った。それを見届けて長谷川が話し出した。
「ジャナイデスカ夫人は、ジャナイデスカの居ない席では彼のことを、『恵一さん』とは呼ばずに、『恵みちゃん』と呼ぶんだ。いつか理由を聞いたことがあった。『だって、ロブばかりあげたり、スマッシュを打てるようなチャンスボールがあがっても、なよなよとドロップを落としたりして、プレースタイルがおばさんみたいなんだもの』と言っていた」
長谷川は笑いながら話す。おかしさに堪えられない。
土岐はロッカールームで、借りた水着に着替えた。一目散にプールに飛び込んだ。
プールサイドには白人の男女がふたり。ビーチチェアに仰むけになって白い肌を焼いていた。
ジャナイデスカはうまずたゆまず、身投げのような飛び込みとクロールを繰り返していた。
慶子はひまわりの花柄のビキニ、優子は赤い無地のビキニで、プールサイドに現れた。
長谷川は彼女らの水着の下の姿態を知っているのか、ちらりと見るだけで、水着姿をまともに見ることができない。
そういうことをジャナイデスカは知らぬげにバシャバシャと音を立てて泳いでいる。
慶子の水着姿に対して長谷川が何を感じているのか、優子は全く気にしていない。
優子の水着姿に対して長谷川がどう感じているのかを、慶子も全く気にしていない。
土岐は長谷川の夫人たちを見る視線に、猥褻な雰囲気を感じる。
夫人達が長谷川の猥雑な視線を気にしていないように見えるというのは、土岐が二人の会話や表情を見る限りにおいてということだ。しかし、女同士の異性の視線に対する鋭い直感を土岐が理解していないだけのことなのかも知れない。
彼女らの水着姿に興奮してきそうな体を鎮めるために、土岐は飛び込み板から水面を切るように飛び込んだ。潜水したまま反転した。上を見上げる。碧空にオレンジの雲が途切れ途切れに棚引いていた。
平泳ぎと背泳ぎに疲れる。プールの隅で仰むけになった。
水は生温い。
ジャナイデスカの飛び込む水音、優子の犬掻きのような平泳ぎの水音、慶子のゆったりとしたクロールで水面を叩く音だけが聞こえてきた。
長谷川はプールサイドでビーチチェアに腰かけている。
薄目を開ける。東の空が次第にくすんで行く。時々深呼吸する。体が浮かび上がる。そして沈む。飛沫の水音が近づく。そして遠ざかった。時折ゆるやかな波が体を横切った。薄い水の膜が顔面を定期的に通り過ぎた。思考が停止した。とりとめのないのっぺらぼうの想念が海馬を素通りして浮雲のように脳髄の奥に消えていった。
海岸線の波濤が耳鳴りのように聞こえてくる。国道を通る車の路面を疾駆するタイヤの軋み。警笛とともに近寄って、去ってゆくディーゼル機関車の地響き。プールサイドで交わされる散漫な英会話。ボーイがタイルをだらだらと水洗いするモップの撥ねる音。プールの縁に柔らかく打ち寄せる波の囁き。不意に戦ぐ夕風にココヤシの葉が擦れ合うざわめき。軽く閉じた瞼越しに辺りがあわただしく暮れなずんで行った。
「疲れた。そろそろあがっちゃいますか」
と邪気のないジャナイデスカの明るい声がした。
「あら、もう?」
という慶子の声が半分水の中に掻き消えた。
土岐が声の方を見る。橙色の夕陽の光背がジャナイデスカの後頭部にあった。もう一度、ゆっくりと背泳ぎをする。プールを出た。東の空を見る。黒い縁取りのある雲が濃紺の空に所在なげにたゆたっていた。
突然プールサイドに白熱灯が燈された。明るいのは照明だけ。背後の深く蒼い空が不意に遠ざかる。白熱灯から遠いプールサイドが急に薄暗くなった。生温い黄昏の中を潮風がゆるやかに流れていた。
土岐はプールから上がる。首を傾け片足でジャンプしながら耳の奥の雫を落とした。そのままテニスコートのロッカールームにむかおうとした。
「ドイツビールでもォ、一杯どうですかァ?」
とジャナイデスカが長谷川の向かいのピペルの垣根の前の籐椅子に腰掛けた。
それほど喉は渇いていなかった。土岐は付き合うことにした。
「私たちはお先に失礼」
と慶子が優子とともに、プールサイドから消えた。
土岐の視界の縁で、優子が軽く別れの会釈をしているのが見えた。
背筋に少し張りを感じていた。仰むけになりたかった。
ビールを注文しようとした。財布がロッカーの中であることに気づいた。取りに行くのも面倒臭い。
「おカネは?あるんですか?」
と土岐がジャナイデスカに訊く。
ジャナイデスカはスイムスーツのポケットを指差した。
「それでだいじょうぶ?おカネ足りる?」
と長谷川が心配する。
ジャナイデスカはあばら骨の浮き出た洗濯板のような胸を平手で叩いた。
「一杯だけなら、だいじょうぶですゥ。おごらせてください」
と手招きしてボーイを呼び寄せる。ドイツビールを三本注文した。
「チップはありますか?」
土岐はジャナイデスカに確認した。
「どうですかねェ、ちょいと足りないかなァ」
と腰を浮かせる。ポケットからコインを取りだした。
それを見て土岐は重い腰を上げた。ロッカールームに財布を取りに行った。着替えを済ました。海水パンツをビニール袋に詰め込んでプールサイドに戻った。
臙脂のプラスティックテーブルの上にコップとビール瓶が三つずつ置いてあった。
ロビーに立ち去るボーイの寂しそうな背中が見えた。
「チップ足りました?」
と土岐がジャナイデスカのポケットを見る。コインの膨らみが消えていた。
「いいんですよォ。あいつは顔みしりだから。つぎにたくさんやれば、ネッ。チップは必ずやらなければいけない、というものでも、ないじゃないですかァ」
とジャナイデスカはふざけて卑猥な仕草でビール瓶を喇叭呑みした。
「どうもォビールをおたがいにそそぎあうというのはァ我が国固有の文化みたいですねェ。アメリカにはァ大ビンはないしィ、ホームパーティーでだされるビールはァ小ビンかァ、カンビールじゃないですかァ。みんな小ビンかァ、カンを手に持ってェ、うろうろしているじゃないですかァ。途上国には大ビンもあるけどォみんな自分のグラスにしか注がないじゃないですかァ。なぜだかわかります?」
と土岐に聞いて来る。
土岐が左右に首を振ると、
「今年の正月、ホテルの邦人新年初顔合わせのパーティーで聞いたことのある話だな」
と長谷川。
土岐は少し疲労を覚えていた。
「なぜですか」
と聞くのも億劫だった。半分目を閉じたまま、もう一度首を横に振った。
「アメリカはァ、個人主義の国じゃないですかァ。ビールをどれだけのむかはァ、個人の勝手でしょッ。のむことを強要してはいけませ~ん。途上国ではビールはゼイタク品じゃないですかァ。もったいなくてェ、ひとにはやれないでじゃないですか」
天空のほぼ中央に白銀の綿雲が淋しげに漂っていた。南北に横たわっていた。入り日が海中に沈んでゆくのに同調して萎んで行く。そのひとひらの雲の西方はイエローピンクに染まる。東の空はダークブルーにさめてゆく。涼やかな微風が頬と前髪を間歇的に撫でて通り過ぎて行った。
籐椅子に深々と沈めた背中が少し火照っていた。首筋から腰にかけて心地よい疲れが筋肉を包んでいた。ドイツビールのアルコールが胃袋から血管を経巡る。全身の末梢細胞に染み渡ってゆく。喉の渇きを覚えた。グラスのビールはカラになっていた。
ビール瓶を持ち上げた。フロントに屯しているボーイにドア硝子越しに大きく振った。気がつかない。カラのビール瓶を持つ土岐の手をジャナイデスカが握ってきた。
「土岐さん、シーフード・レストランにいきませんかァ。先週はァ、長谷川さんとキングサイズのステーキだったしィ。どうですゥ?」とジャナイデスカが腹筋をトタン板のように波だたせた。筋張った腕で土岐の追加注文を力強く制す。長谷川の同意を求めている。
「クイーンサイズのプライムリブなら、また食べてもいいよ」
と長谷川。執着する様子はない。ジャナイデスカに同意した。
プールサイドを囲繞するピペルの影が背後の夜陰に熔解しつつあった。
ビール瓶の残量を見ようとした。こんもりとした宵闇が瓶の底を覆い隠していた。
長谷川が立ち上がってロッカールームの方に歩きだした。
土岐が長谷川に追随する。プールサイドを振り返る。二本の白熱灯が場違いなほど異様に明るく見えた。
ジャナイデスカが追いかけてきた。
ジャナイデスカの車の中で土岐は隣の長谷川に問うた。
「僕の業務はいつ始まるんだ?」
「もう始まっている」
と長谷川は後部座席からジャナイデスカの後頭部を指差した。
(ということは、ジャナイデスカもI kill youの容疑者の一人であることを意味する)
と土岐は解釈した。動機の見当がつかない。
「動機は?」
と土岐が言った言葉にジャナイデスカの耳がピクッと反応した。
「まあ、夕食をくいながら」
と長谷川は言葉を濁した。
下宿の安ホテルで、土岐と長谷川は一旦降ろしてもらった。
土岐は石鹸を使ってシャワーを浴びたかった。下着も取り替えたかった。七時にシーフード・レストランで再会する約束をしてジャナイデスカと別れた。ジャナイデスカも一旦借家に帰り、バスタブに浸かりたいと言って走り去った。
長谷川はやれやれというような表情で、部屋に戻りながら、
「おれの部屋にちょっとこないか」
と土岐を誘った。
長谷川の部屋は土岐の部屋の隣だ。
「この部屋とおまえの部屋は、スイートルームになっている。間のドアには鍵が掛っているが、いざというときには、蹴破れる。そういう意味では、何かあっても、お互い安心だ」
「相互警備保障というわけか。そのために、わざわざ隣の部屋を予約してくれたのか?」
「まあ、それもあるが、近い方がいいだろう?」
「まあな。壁の上の透かし彫りも、スイートルームの名残だ」
と長谷川は土岐の部屋と共有している壁を指差す。
土岐が見上げると、天井と繋がる壁に30センチほどの欄間のような透かし彫りがあった。
長谷川は応接セットのソファーに土岐を座らせる。センターテーブルに足を投げ出して話し出した。
「ジャナイデスカは夫人のためと称して借家に家政婦を雇ってるんだ。彼から借家と家政婦を勧められたが、東京で長い間マンション住まいをしていたんで煩わしく思えた。到着早々は国際空港近辺や大使館周辺の夥しい人と家畜と荷車と自転車の雑踏に圧倒された。国際運転免許証は持ってきてはいたが徒歩圏内の事務所の近くのこの安ホテルを下宿とすることにした。部屋代は借家と大差なかった。ただ邦人社会で回り持ちのホームパーティーを開かないですんだ」
土岐は、長谷川の部屋を見回した。
土岐の部屋と同じ備え付けの低いラワン材の箪笥、鏡付きの化粧台、丸椅子、一人掛けのソファー二脚、センターテーブルの小さな応接セット、狭くて軋むシングルベッド、奥行きの浅いワードローブ、二局だけ映る十八インチのテレビ、騒々しいエアコンがあった。
長谷川がTシャツを脱ぎながら言う。
「一度ジャナイデスカ夫人が見に来たことがあった。『簡素な部屋。すっきりしてごてごてしてなくていい』と感想を漏らしてた。ところが加藤夫人の方は逆の感想を言った。『殺風景な部屋。鍵ひとつで外出できる利便性はあるけれどこんなところによく二年も三年も住める』と呆れてた。その殺風景さが、おれにはアルベール・カミュが離婚後住んでいた小さな本棚以外何もない部屋を彷彿とさせる」
立ち上がった長谷川の後ろの壁にはスーベニアショップで二束三文で売られている古代神話を図案化したバティックが貼ってある。
「窓を開けると飛び込んでくるゴキブリや銀粉にまみれた蛾、夜中にベッドに這い上がってくる黒蟻の群れ、天井にへばり付いているヤモリ、羽音を立てて部屋の影から影へ舞い飛ぶ羽蟻のような蚊、シャワールームの縁を取り囲む汚水溝に棲み付いている蟋蟀や小型の蛇や鼠など、様々な生き物で鳥肌が立つほど賑やかだ。夜中、黒蟻の群れに襲われたとき、フランツ・カフカの、『変身』のグレゴール・ザムザを想いだした」
と両手の指でゴキブリの歩行をまねて、
「この部屋の窓は北東側にある。涼しくて過ごし易いかと思ったが、日中は土日も含めてほとんどいない。洗濯物が気持ち良く乾かないことに閉口した。なんとなく湿っぽかった。家政婦を雇わなかったんで、下着だけは自分で洗わなきゃならない。洗うとはいっても、シャワーを浴びるときに洗剤を染み込ませて足元に置いて、体を洗いながら踏みつけるだけだ。ワイシャツはホテルのランドリー。朝食もホテルのカフェテリア。帰ってきても誰もいないし、何もやることがないんで、毎日最後まで事務所でぶらぶらしてる。現地スタッフは勤勉なやつだと誤解してるようだ。夕食の誘いがないと本社から見本として送られてきたカップ麺やレトルト食品を倉庫から持ちだして食べることが多い。たまにこの下宿のホテルで、一口食べただけでいやになるほどまずい夕食を仕方なく食べることもある」
長谷川の話が止まない。土岐は先刻の質問を繰り返した。
「ジャナイデスカの動機はなんだ?」
「あいつは優子さんと俺の関係を疑っている」
「不倫ということか?」
「嫉妬深い奴で、彼女が口をきくだけで、関係を疑う」
「真実は聞かないでおこう」
と土岐はその部屋を出た。はやくシャワーを浴びたかった。
シャワーを軽く浴びる。土岐は部屋を出た。長谷川の部屋をノックすると、長谷川はすぐ現れた。
ホテルの部屋から屋外に出るにはカフェテリアの隣のレストランの脇を通らなければならない。
ディナータイムになっていた。マネージャーが草臥れてよれよれの赤いタキシードを着込んで通りかかる客を呼び込んでいる。
長谷川はいつもそうしているかのように、
「また、明日くるよ」
とマネージャーに声をかけてホテルの外に出た。
土岐はその後ろについて行く。
エントランスの車寄せの照明が届かなくなると街路は真っ暗。国道に出るまでは手探りで恐る恐る歩かなければならない。長谷川の背中を見失うと、月夜でも国道に寂しく燈る街灯とホテルの車寄せの照明の位置関係だけが頼りだ。
不意に現地人の眼が土岐の鼻先に現れた。眼の中のかすかな明かりがかろうじて識別できた。闇に融合している。眼前にくるまで気が付かなかった。夜道に慣れているのか、闇夜に慣れているのか、現地人は走るようにして歩いて行った。
長谷川とともに国道に出た。薄暗い街路灯の下で土岐は二三分佇んでいた。三輪タクシーは走っていなかった。
「片方のヘッドライトのないものやバッテリーの性能の悪いものが多いんで、日没後は三輪タクシーは都心部を除くとほとんど動き回っていないんだ」
と長谷川が解説する。
「それに日が落ちると出歩く人は極端に少なくなっている。貧しいせいだろうが、この国の国民には夜遊びの習慣がない」
と長谷川が、
「シーフード・レストランへはバスで行くことにしよう」
と言いだした。
土岐は長谷川について行く。近くのバス停に移動した。
薄暗い街灯の下で案内板を見る。都心にむかうバス路線は三系統あった。駅前を経由して海岸線を北上する系統、駅前から内陸部へ東下する系統、首都圏を循環する系統。
五六分待つとボンネットを騒がしく振動させながら空中分解しそうな国営バスがやってきた。
長谷川に続いて土岐が乗り込む。車内は真っ暗だ。ヘッドライトの眩しさから室内灯の消えている車内の闇に眼が慣れるまで手摺にしがみ付いていた。
暫くすると土岐を注視している暗い瞳だけがいくつか見えた。その下に首の輪郭がぼんやりと見える。振動が激しい。中腰になった。長谷川の後を追って手探りで後方の空いているシートにたどりついた。誰もいないことを確かめる。腰掛けてため息をついた。長谷川が腰を浮かしている。ポケットのコインを確認している。
車掌がすぐやってきた。
長谷川は時折通り過ぎる街路灯でコインを確かめる。均一料金を二人分支払った。
チケットが二枚手渡された。
長谷川は一枚を土岐に渡す。切手サイズほどの大きさだ。
土岐は礼を言った。その言葉で、一瞬、車掌が目をみはった。外国人であることに気づいたようだ。
窓硝子が一枚もなかった。放縦な外気が車内に吹き荒れていた。車掌の七分袖の口が窓外からの涼風にせわしなくはためいていた。夕方のスコールのせいか、日没のせいか、生温い風がほんのり涼しい風に変移していた。
エンジンブレーキをほとんど使わない乱暴な運転だった。クラッチ板がだいぶ磨り減っている。座席シートのスプリングにもシャーシの板バネにも弾力性がない。フレームだけの車窓を見ていると台車だけのスクラップに乗っている心地がした。
通過したバスストップも含めて四番目のバス停で、長谷川に促されて、徐行しているバスから土岐は飛び降りるように降車した。
シーフード・レストランは国道を隔ててバス停の反対側にあった。
バスを除くとオートバイも四輪タクシーも街路灯のある国道では無灯火で走っている。エンジン音に注意して国道を小走りに渡った。短い土手の滑りそうな坂を上る。坂を上りきると、
〈シーフード・レストラン〉
とエントランスのビルボードだけに、うらぶれた照明があった。硝子のない窓枠越しに見える店内は薄暗かった。営業中であることは、六等星のような蝋燭の灯りが不知火のようにテーブルの上に点在しているのでわかった。
目を凝らす。土岐は店の前の駐車場を見渡した。外車ばかりが五六台駐車していた。ジャナイデスカの洒落たフランス車は見当たらなかった。
「店の中に冷房はないんで外で待とう」
と長谷川。
パーキングロットには歳月に忘れ去られたような街路灯が中央に一本だけあった。車止めも駐車枠もない。自動車は街路灯を取り囲むように乱雑に駐車していた。
街路灯に寄りかかるようにポニーテールの十五六歳の女の子が佇んでいた。グリーンの浅いキャップを阿弥陀に被っている。同色の警察の制服を着ていた。胸のボタンがはちきれそう。時折、国道の車の流れを見やる。俯き加減に街路灯の周りを徘徊していた。