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三、これからは自由だ



 気づいた時には車の外に出ていた。


 自分でも気づかずに、シートベルトを外し、ドアを開け、立ち上がって、後部座席にあったボストンバッグを手に、外に出ていた。


 脱出できた。


 そう思った。気温は暑いままだが、清々しい想いに駆られた。

 まるで自分が何にも囚われることのない、完璧な、自由の男になれたかのように。


 強烈な日差しが身体に突き刺る。

 サングラスだけではきつい。日よけに黒のナイキのキャップを被った。


 自由になれた。

 そう感じた。

 何も聞こえてこない。


 今まで、俺は何のために社会に縛られ、人の顔色を窺いながら働き、苦しみながら、生きてきたんだろ。


 もう、そんな人生を送ることに何の意味も持たないじゃないか。

 

 藪押は何の躊躇いも見せず、車から離れていた。

 これからは俺の好きなように生きてやる。


 藪押は、前に進むのではなく、来た道を引き返した。


 煙草女とまた目が合った。


 今度はキョトンとした目つきだ。思考停止。そんな感じだ。


 藪押がその車を通り過ぎ、逆方向へと歩いていくので、ようやく女も我に返る。


「ちょっと、あんた、何考えてるの」


 藪押が十メートル程後にした所で、女の声が追ってきた。


 藪押は一旦立ち止まり、そして、ゆっくりとその女の車に向かって歩いていく。顔を俯かせ、ずんずんと歩いていく。


 そして、運転席の窓に、手をついた。

「何だ?」


 女がキョトンとした。


 藪押の思いもよらぬこの行動に、女はしばらくすると怯えにも似た表情を浮かべるようになった。


「ちょ、ちょっと、あんた、どういうつもりよ? こんな所で車を停めて、何処に行こうとしてるの?

 これじゃ車が通れないし、あなたのせいで、ここが更に大渋滞になるじゃない」

 喋り出した女は、苛立たしさに任せ、畳み掛けてきた。


 藪押は、女の目を見た。


 女が首を傾げた。


「もう、何もかもが嫌になったんだ」


 藪押は静かに言った。


「それに、さっきから車だって一歩も動かないじゃないか。諦めるんだな。どちらにしろ、もう会社は遅刻だろ、違うか?」


「な、何、どういう意味? 意味分からないわ。何もかもが嫌になってるのは、あなただけじゃないから。皆だって一緒よ。ほんと、何考えてんのよ、まったく。もう、規律を乱さないで」


 藪押は、いきなり女の髪の毛を掴んだ。


「何が規律だ。お前はそうやって煙草を口にし、一体、何本の吸いさしを、道路に向かって放ったんだ。そんな女がよくも言えたものだな」


 女は目の色を、怯えの色に変え、そして、黙り込んだ。

 もし、これ以上、何か言い返せば、危害を受ける、そう思ったからだろう。


 だが、周りからは罵声が飛んで来る。


「お前、どういうつもりだ!」


「早く車に戻れよ!」


「おい、何にしてんだ!」


 クラクションが藪押の背中に襲い掛かる。


「うるせぇ!」

 藪押が大声で吠えた。


 そして、また女に向き直り、髪の毛を掴んだ。


「やめて! もう怖い」

 女が叫んだ。


 藪押は、女の髪の毛をひっかみ、ぐいっとこちら側に引き寄せた。

「いいか、お前はこの先、何処の馬の骨とも知らぬ男と結婚し、そして、自分の遺伝子をこのクソで埋められた世の中に残すんじゃないのか?」


 女は口を、ぽか~んと開けたまま、一種放心状態のまま藪押を見ていた。

 相手の行動に理解できず、自分がどうしていいのかさえ分からないようだった。


「妊娠している女が喫煙するのは胎児虐待だぞ。

 煙草の煙りに含まれる一酸化炭素が胎児の血中に移行して、胎児を酸欠状態に陥れる。

 まるで胎児の首を絞めて窒息させるのと同じことなんだ。わかるか?」


「はぁ?」


「実際妊婦が喫煙すると同時に胎児の心拍数は確実に下がることが確認されている。

 その結果、胎児の発育が障害されることによって、出生時の身長の低下、あるいは体重の減少が心配される。そんな統計も出ているんだぞ。

 さらにだ。妊婦の健康にも害は及ぶ。分かるか? 子宮筋収縮を誘発するため自然流産や死産、早産の危険性が高くもなってくるんだ。

 だから今のうちに禁煙に取り組むことをお勧めするよ。

それに、今の貴様の顔を見ていると、可愛らしい顔でもない。まるで、そうだなー。

 線路に、巨大な石が放置されていて、それに足場を捕られ、前に進めず、立ち往生している、そう、大量の煙りを吐き出すだけの蒸機機関車のようだな。

 見苦しい顔だ、お前の顔というものは」


「もうやめて。怖いから。あんたが何を考えているのか、全く理解できない。なんで、こんな所で、こんな状況で、見もしいらないあんたなんかに、こんなことを言われなきゃならないの?」


 女が泣きそうな顔をした。

 

 藪押は、やがて女の髪の毛を解放してやり、背中を見せた。


 そして、歩き出した。

 

 クラウンを乗り捨てた藪押は、何事もなかったようにして、来た道を引き返していく。


 鳴り響くクラクション、罵声に、悲鳴にも似た子供の泣き声が、 

藪押の背中を追いかけてきた。


 だが、ネクタイを外したワイシャツに、黒色のキャップを目深に被り、サングラスで、強烈な日差しから身を守っている、藪押には、それらの音が、彼の耳に入ってくることはなかった。


 自由になれた、そう実感する。


 こんな風に感じたことは何年振りだろう。


 藪押は、高らかに笑い声を上げ、この渋滞に背中を見せ、上を向いて歩き出していた。


 口笛を吹いて。


「こんなことならば、もっと早くから、こうするべきだったんだ」





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