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六、逃げたら、ダメだ



 藪押は、下に蹲ったままの態勢で言う。


「何だ、その構えは。また、俺とヤルつもりか。馬鹿な女だ」


 藪押は笑っていた。そして、顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。


 さっきまでの泣き顔が消え、今では口元に笑みを浮かべているではないか。恐ろしい男だ。一体、この男は何面の顔を持っているのだろうか。この顔に幾度となく騙されてきた。もう二度と見たくもない顔だ。


「お前に何が出来るというんだ。俺を誰だと思っている」


 すると藪押は、物凄い形相で、走り出した。


 彩加は、その形相を目の当たりにし、腰が怯む。

 昔のトラウマが甦ってくる。


 いきなりの右が飛んできた。


 腰が完全に引けていた。恐ろしかった。先程までの勇気が姿を消し、代わりに怯えが姿を現す。


 それでも彩加はガードを固め、何とか止めたが、藪押のパワーは凄かった。ガードをこじ開けられ、また鼻面を殴られた。


 先程まで止まっていた鼻血がまた噴き出した。


 駄目だ。逃げたら。駄目なんだ。


 でも、パワーでは負ける。

 もっと素早い動きで。相手を翻弄しなくちゃ。


 彩加は自分の脳裏にあるトラウマを、頭を振って追いやった。

 勇気を出し、歯を食い縛って、左ジャブ、右ストレートを出した。


 ワンツーが炸裂した。藪押の顔面にヒットし、彼の唇を切った。


 だが、彼は唾を吐いて、何事もなかったように、ゆっくりと首を一度振り、また向かってくる。


 腰が入っていないからなのか、小手先のパンチだったからか、薮押には、まったく利いてはいないようだった。


「何なんだ。そのパンチは。俺を誰だと思っているんだ」


 藪押は上から叩くように、彩加の後頭部を叩きつけた。


 まるで子ども扱いだった。

 これじゃ、昔と変わらないじゃない。私は一生、この人の暴力に恐れ、生きていかなくちゃならないの?


 嫌だ。そんな人生だけは嫌だ。


 彩加は思い切り、右足で、藪押の股間を蹴り上げていた。

 

 藪押は悶絶し、股間に手をやり、倒れ込んだ。


「う・・・・・。貴様、こんなことをして、どうなるか、分かっているのか」

 藪押は苦しみながら、もがいていた。


 チャンスだ。


 当分は、この男は起き上がれない。今の内だ。彩加は、テーブルの下に落ちていたナイフを掴むと、握り絞めていた。


 薮押は顔を上げ、媚びいるように彩加を見ていた。


「う、嘘だろ。彩加がそんなことするわけないよね。危ないよ。早くしまってくれよ。そんなもの。

 彩加は、俺の気持ちを確かめたいだけだよね。確かめなくてもいいよ。疑い深いんだな。俺は、ちゃんと彩加のことを愛しているんだから」




 森川は、信じられなかった。薮押のその豹変した姿よりも、彩加の逞しさに。


 自分が動かなければならないことも忘れ、あの弱々しく見えた女性がここまでやるとは・・・・・。と感心しながらこの状況を見ていた。


 彩加の美しい顔が、今では獣のような危険な目に変わり、彼女は、荒い呼吸を繰り返していた。


 そして、その呼吸を止め、意を決したかのように行動に移っていた。


 ナイフで、藪押の左膝を突き刺していた。


「うぎゃァッッッ!」


  藪押の悲鳴が轟いた。


 等々やったのだ。その声を聞いた森川は、藪押に向かっていった。


 そして、森川は飛んだ。今動かなければ、俺は駄目になってしまう。西嶋が亡くなり、残った刑事がこの様では・・・・・・。


 まるでラグビー選手のようにタックルをかますように、藪押にぶつかっていった。


 藪押の腰を捉えた。


 藪押は腰から落ち、一丁の拳銃を手からスベリ落してしまった。


 その拳銃は、明の目の前に転がっていった。


「明君! その拳銃を拾ってくれ」


 森川は叫んでいた。頼む。そして、心の中でも強く念じた。


 明は、はっとして、その畳の上に転がる拳銃を見た。


 そして、森川は、藪押の右手にある拳銃を掴み、力を籠め、奪い取った。


 明は我に返り、自分の目の前にある拳銃を拾い、両手でがっしりと抱えるようにして握り絞めた。


 森川は、柔道の受け身のように転がり、そして、素早く立ち上がって、拳銃を構えた。


 藪押は身動きも取らず、こちらを、まるで赦しをこうような目を向けている。


 森川は、躊躇などしなかった。この男は、何面もの顔を持っているのだ。その同情を誘う、惨めそうな目に、負けたら駄目だ。


 西嶋さんの顔が浮かんだ。あの厳しい顔、だが時として暖かくて、優しい顔が。


 森川は、両手が小刻みに震えていたが、西嶋の顔を思い浮かべ、しっかりと拳銃を握りしめていた。


 森川は、ゆっくりと標準を絞り、そして、トリガーを引いた。


 パーンという、破裂音と共に藪押の額から血が噴き出した。


 藪押は、後ろに吹っ飛んでいった。

 そして、壁に後頭部を打ち付けた。


 血飛沫が飛び、薄汚れた白い壁を、その真っ赤な血が染めていく。


 藪押は、目を見開いたまま、その壁に凭れ掛かっていた。


 額に穴が開き、唇からは訳の分からない液体を垂らしていたが、それでも眼だけは見開いていた。


 怪物だ。この男はまさに怪物だった。命を落としても、怪物だった。


 おぞましいその顔を目にしたが、それでも終わりを感じることができた。


  森川は、ほっとすると全身の力が抜け、もはや立ち上ることもできなかった。


 しばらくすると、ゆっくりと前に力なく、倒れていった。もう、動けなかった。




 静かだった。何の音もしない。いや、鼓膜が破れたのかもしれない。ぼわ~ん、ぼわ~んと音は小さいながらもしているようだったが、上手く聞き取れない。


 やがて聞きなれた音、けたたましいこの音、誰もが視線を寄越すその音が近づいてくるのが分かった。


 彩加がやってきた。一瞬、麗娜かと思った。髪の毛も短く、雰囲気が似ていたからだ。


 きっと麗娜も、もう少し年を重ねると、こんな女性になるのかもしれない。


「大丈夫ですか?」


 ようやく声は小さいながらも聞き取ることができるようになってきた。


「歩けますか?」


「一人では・・・・・無理っぽいです」

 情けないと思った。

 

 人質に助けられるようでは・・・・・・。


「私に寄りかかって下さい」


 森川は躊躇った。


「パトカーが来ました」

 彩加は、森川に肩を貸した。

「この場から出ましょ。もうあの人の顔を見ていたくはないんです」


「わかりました」

 森川は、彩加の肩につかまり、歩いた。


「明、行くわよ」

 彩加は、明の手を引いて歩き出した。


 外は騒然としていた。大勢の警官がやってきた。応援の警察が陽炎旅館に大挙してやってきたのだ。


 三人は陽炎旅館を後にする。森川、彩加、そして、明が出てくる。


「中には誰がいるのですか?」

 若い警官が走り寄ってきてから、訊いた。


「西嶋さんが・・・・・・」


 言葉にはならなかった。大粒の涙が流れていた。そして、外に出てきた所で、森川は、腰から崩れてしまった。


「どうして、ここだと思った?」

 森川が掠れる(かすれる)ような声で訊いた。


「午後十時。順堂寺駅の駅員から一報が入ったのです。陽炎旅館の方から銃声らしき音が二、三発聞こえてきた、と」


「もっと、早く、きてくれよ・・・・・・」

 本当に、情けない男だ、そんなことを思いながら、意識が薄れていった。


「森川さん」


 彩加の心配する声も、森川の耳には入ってこなかった。そのまま気を失ってしまったのだ。










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