五、狂気的な男
坂戸を殺し、西嶋をも殺した藪押は、まるで何事もなかったような顔で、ゆっくりと一人でウイスキーを呑んでいた。
それは、かなり危険な状態にも思えた。常人ではない。目が完全にいってしまっている。そんな男が右手には拳銃、左手では彩加の肩を抱いているのだから。
窓側には明が一人、シクシクと泣いていた。
小さな体だ。ショックだろう。父親の狂気を見てしまい、それを受け止めることなどできはしないだろう。
当たり前だ。目の前で二人の人間が殺されたのだから。しかもそれを実行したのが、自分の父親なのだ。
半ば放心状態のまま宙を見つめ、一人泣いていた。心と体が別物のように動いているようで、無意識のうちに体が悲しみを引きずっているようだった。きっと、自分で泣いていることを把握していないだろう。
何とかこの窮地から脱することはできないものか。 ん?
もう一丁は?
確かに、二丁の拳銃を藪押に渡したはずだ。
だが藪押は一丁しか手にしていない。それからナイフは? 森川は周辺に視線を投げかけてみた。
ナイフは入口の所に落ちていた。
そして、拳銃は・・・・・・。
客間から出て、廊下から五メートル程先に放り出されているのを確認した。
次に藪押を見た。彼は膝を立て、ウイスキーを飲んでいた。こちらには見向きもしない。
いいぞ。チャンスかもしれない。
森川は立ち上がり、西嶋から離れた。
「何処へいく?」
やはり見ていたのだ。完全には酔ってはいないようだった。
「いや、別に・・・・・・」
「それじゃ、じっとしていてくれないか」
「いや、ちょっと・・・・・・」
「何だ?」
「トイレに行きたいんだ」
「トイレね」
藪押はそう言って立ち上がった。
そして、客間から出ていき、廊下に出てから、一度、拳銃が落ちているところを通り過ぎた時。
森川は、少なからず喜んだ。気づいては、いなかった、と。
だが、藪押は、一旦立ち止まり、その後、引き替えした。背中に緊張が走った。
藪押は、等々しゃがみ込んで、その拳銃を拾い上げてしまった。
「こんな所に拳銃を落していたとはな」
その拳銃を右手でクルクルと廻しながら、また客間に戻ってきた。
そして、いきなり森川を殴りつけた。素早い動きに、驚かされた。
頬に激痛が走った。
「惜しかったな。お前の考えることくらいは、分かっているんだ。伊達に年を取っているわけでもない」
表現できない悔しさを感じた。屈辱だった。刑事は俺一人。どれだけこの窮地を脱しようと、考えたことか。
一瞬の隙を狙ったかに思えた森川のアイデイァ。
だが、それを、酒をたらふく呑んでいる、記憶も確かでない男に読まれていたのだ。
俺という男は、西嶋さんがいなければ、何もできない、ただの子供だったのだ。悔しかった。俺には、どうすることも出来ない・・・・・・。もはや、これまでかー。
そんな諦めのような感情が芽生え始めた頃だった。その時だった。
ジャックダニエルブラックの空瓶を握り絞めた彩加が、ゆっくりと仁王立ちしていた。完全に藪押の背後を取っていた。
あっと思うと同時に、彩加が藪押の後頭部をその空瓶で殴りつけた。
ゴーン!
乾いた鈍い音と共に、藪押が倒れ込み、片膝をついた。
そして、藪押は唸り声を上げ、蹲った。しばらくすると後頭部から血が流れてきた。藪押は、ゆっくりとその傷口に手をやる。その傷口から流れる血を眺めていた。
「貴様! 一体何をした。俺に何をした!」
信じられなかった。かなり強い衝撃音がしたが、藪押は立ち上がったのだ。そして、発狂した。
背後にいる彩加を睨みつけ、今まさに襲いかかろうとしている。危ない。危険だ。
正気ではないその藪押の獣じみた眼が異様に光っていた。
森川は走った。助けないと。観念している暇などない。守らないと、これ以上被害者を出してはいけない。俺は、俺は刑事なんだ。
バーン!
破裂音が轟いた。
森川は左肩を撃ち抜かれた。
頬を殴られた時とは比べようにないほどの激痛が左肩に走った。
立ち止まった。動きも止まった。左肩からは、夥しい血が流れている。
撃たれる。止めを刺される。そう思った時だった。
藪押が後ろを見、そして、心配そうな顔を彩加に向けた。
「彩加、どうしたんだ? そんな顔をして。それにその肩の傷は、一体どうしたんだい? 血が出てるじゃないか。可哀想な彩加・・・・・・。おおっ、本当に、可哀想な彩加」
藪押は近寄って、彩加を抱き締めようとした。
一瞬彩加は、唖然とした顔を、藪押に向けた。そして、本気で言ったのか、それとも演技をしてるのか、その考えを巡らせている。
「近寄らないで!」
彩加が毅然とした態度で、藪押を遠ざけるようにして、それから言った。
「あなたは、いつもそうよ。自分のやってしまったことを忘れ、それでなかったことにしてしまう」
「何のこと、誰のことを言っているんだ?」
「もう、あなたに説明しても無駄ね」
「そんな冷たいことを言わないでくれよ。ちゃんと説明してくれないと、分からないだろ。
昔みたいに、もっと、俺に親身になって教えてくれないと、分からないよ。何で彩加は、そんな風に冷たくなっちゃったんだ。え、え、どうしてなんだい」
「説明? 今まで、あなたに何回説明した。何回言っても駄目だったよね。この顔にしたのは、あなたよ。こんな風に、私の顔を化け物のようにしたのは、あなたなのよ」
「し、知らない。お、俺がど、どうしたら、どうやったら、愛しているお前の顔を、そんな風にしてしまうというんだ? 冗談だろ。冗談だって、言ってくれよ。
それに誰なんだ。そんな風に彩加の顔を醜くしてしまった奴は。教えてくれ。俺がそいつを殴り殺してやるから。
そこに倒れている男か。それとも壁際に凭れている男か。誰にヤラれたんだ。教えてくれ、教えてくれ、教えてくれないと、俺が、俺がどうしていいのか分からないんだよ!
頼む、頼む、頼むよ。お願いだ。何とかいってくれ。俺は、お前に、黙っていられることに、耐えられないんだから・・・・・・」
しばらくはその重く、息苦しさを含んだ空気がこの部屋に漂っていた。
薮押の体が小刻みに震えていた。
「あなたがやったのよ。私の顔を、こんな風にしたのは。また、惚けるのね。あなたはいつもそうだった」
彩加が静かに、その重い口を開いた。
「本当なんだ。本当に覚えていないんだから、説明のしようがないんだ。信じてくれ。だから・・・・・・」
「だから、何よ。人の顔を、身体をこんな風にして。もう嫌よ。耐えられないのよ。あなたのその病的な態度に」
「許してくれ。もし、俺がしてしまったことならば、謝るから、だから・・・・・・本当に、俺には記憶が、ないんだ。
昔みたいに、笑って許してくれないか。君は、あんなにも優しい心の持ち主だったじゃないか。
俺はどんなに仕事で辛いことや、苦しいことがあっても、君のその笑顔を見れば、全てを忘れることができたんだ。
だから、またあの時のように、優しく、笑ってくれないか。明だってその方がいいはずなんだ。
家族が揃って温かい夕食を共にし、笑いの絶えない家庭であることを・・・・・・。最初はそう望んでたじゃないか。だから、」
藪押は、両膝を床につけ、土下座をした。
「この通りだ。悪かった。分かってくれないか。もうしない。絶対にしないから。ほんとだよ。ほんとに、ほんとうなんだ。
だから、許してくれないか。彩加が許してくれなければ、俺はこの先、どうしたらいいんだ。
分からないんだ。俺には、頼るものがないんだからさ。お前しかいない。だから、お前が必用なんだ・・・・・・」
「何してるの?」
彩加は、低く、いやに冷めた声で言った。
「分かってくれ、俺は、お前を愛しているんだ」
「分かるわけないわよ! あなたのその病気に、いつまで付き合わさればいいの? もう、私は疲れたの。わかって」
彩加は藪押に背中を見せた。
「だから、ほっといて。もう、あなたの顔も見たくないし、そんなあなたの病気に付き合わされることに、うんざりなのよ」
「頼む。もうしないよ。本当だ。今後一切、お前に暴力を振るうことは絶対にない。誓うよ。だから、信じてくれ」
藪押は顔を上げ、すがるように彩加の膝に抱きついていた。
彩加は、藪押の目を見ることはなかった。あえて避けていたのだ。
「わ、わ、私は、あなたのことが怖かった。いつも暴力で、私を押さえ付けていたわよね。
だから、私はあなたの元を離れたていったの。だって、このままあなたの傍にいると、何をされるか分からないほどに、あなたの病気は進行していったから。
そして、私は、そんな自分の過去を忘れるため、強くなろうと思った。先ずは身体を鍛えたわ。息子の明を守るためにも、強くならなくては、と思ったし」
バキ!
鈍い音がした。突然。彩加が、すがりつく惨めなその男の顔を蹴り上げていた。
もう一度、戦うんだ。
「だから、今はあなたが思っている以上に、私は心が強くなれたし、強靭な身体を手に入れることもできた。もう、昔の私じゃない」
彩加は、重心を落し、半身になって構え、歯を食いしばった。まだ戦える、そう思った。
「私には、分かる。あなたが演技をしていることが。そうやって上辺だけの反省した態度で、赦してもらえるという幼稚な考え。
あなたのその考えに、虫ずが走るわ。何もかも曝け出せばいいわ。分かってるんだから」




