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三、傷の手当て


 しばらくは膠着状態(こうちゃくじょうたい)が続いていた。


誰も動かず、誰もが息を潜めていた。


このまま時間を進めてしまえば、とんでもないことになる、と分かってはいたが、どうすることもできない。


「お前、名前は何て言うんだ?」

 そんな時、藪押が、指をさして訊いた。


「北署の西嶋だ」


「西嶋さんか。悪いが、女房の傷の手当てをしてくれないか」 


 今では、藪押は、ウイスキーを飲み始めており、落ち着いた雰囲気に戻っていた。感情の起伏が激しい。


「分かった」


「陸も手伝ってくれ」


「ちょっと待ってくれ」

藪押は制した。

「俺はお前に頼んだのであって、彼には頼んでいない。一人だけでやってくれないか。

俺の指示通りに動かなければ、ここにいる誰かか命をなくしたり、怪我を負うことになりかねない。それでもいいのか」


 西嶋は、森川を見て、それから頷いた。


 しかたなく西嶋は一人で、彩加に近づき、ナイフで刺された箇所を見た。


彼女は、必死にその右肩の傷に歯を食い縛って一言も喋らずに耐えていた。

何と強い女なのであろうか。感心させられる。


「消毒は必要ない。しっかりと洗浄をするんだ。汚れや異物がなければ、基本的には消毒は必要ないんだ。

陸、水道水でいい、持ってきてくれないか。今から細菌感染の防止に努める。

それからガーゼだ。車の中にあったはずだ。持ってきてくれ。傷口に当て、止血する。

傷は、見たところ深くはないようだ。組織や血管を損傷していることもないだろう」


森川は、西嶋を見た後、藪押を見た。


「すぐに戻ってくるから。何もしない。何だったら皆でいくか?」

西嶋が淡々とした口調で、藪押に言った。


藪押はしばらく考えていた。


「分かった。その変わり、携帯をここに置いていけ」


「応援を呼ばせないためにか?」


 藪押は肯いた。


「いいだろう。陸、スマホを置いていけ」


 森川は携帯を取り出し、西嶋に渡した。


「これでいいか?」

 西嶋は、藪押に訊いた。


 藪押は頷いた。



 外に出た森川は、急いで、車に向かった。


陽炎旅館の近くに停めている白のクラウン。


木が覆いかぶさった所に停めてきたのもあり、目立たない。


最初は目立っては困ると考えてこの場に停めたのだ。でも、今はそんなこと関係なかった。


 車の中には拳銃などない。当たり前だ。この中に置いてあれば、それこそ大問題だ。拳銃は携帯するものだ。


森川は、他に何か武器になるものはないか・・・・・・。

 ナイフ、ドライバーやハンマーでもいい。

そう思いながら、探してはみたが、小さくて犯人に見つからないもの、そんなものはなかった。


森川は救急箱を持って、来た道を引き返すことにした。時間を使うことを許されない。早く戻らなければ。


 本当は、西嶋は俺に武器になるようなものを持ってくることを、期待していたのではなかろうか。


なのに、俺は何のアイディアも浮かばない。せっかく藪押の目の届かない所にいる、というのに、だ。


そんな自分に歯がゆいのを感じた。まだまだなのかもしれない。


俺は、いまだ独り立ちができていない。もっと西嶋の力になれたのなら、そう思った。


 車から出て、草村を歩き、少し歩いた所で、森川は躓いた。


「何だ、これは」


 森川は、しゃがみ込み、躓いた原因であろう小石を拾い上げた。


「もしかしたら、こんなものでも、何かの足しにはなるかもな」

 森川は軽い気持ちで、ズボンのポケットの中に、その掌に隠れる程の小石を入れた。


 そして、陽炎旅館に戻る。


 だが、この時は、まだこれから始まる惨劇を知る由もなく、彼は、言われたとおりにまた、廃墟の陽炎旅館に向かって、歩き始めていた。





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