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六、ブラックアウト


「もうやめて、こんなの。おかしいわよ」


 彩加は、訴えかけるように言った。


「あなたはいつもお酒を飲むと人が変わり、時には暴れ、暴力を振るった。そして、翌日、何事もなかったような顔をして、笑顔で会社に行く。

 そんな行動が私は怖かったの。それと、あなたという人間性が、私には理解できなかった」


  ようやく藪押の動きも止まった。


「私は、あなたに何度殴られたことか。だから仕事にいけなかったのよ。それに実家にも帰ることができなかった。

 顔に痣を作った娘を、親が見たら、どうなる? だから、この痣が直ったら、実家に行こう、と思っても、またあなたに殴られる。その繰り返しだった。

 あなたに、そんな私の気持ちが分かる? 分からないわよね。だって酒を呑んだら、いつだって記憶が飛ぶんですもの。あなたは、酒を呑んだらいけない、という認識がないのよ。

 いつも泣きながら、酒を呑み始め、そして、人格が変わっていくんですものね」


 藪押の両肩が震えていた。


「そうゆうことを何て言うか分かる? ブラックアウトっていうのよ。酩酊して記憶が消えてしまう。訊いたことない?

 酒を飲んだ際、ある時点からの後の記憶が消えてしまうことをいうの。血中アルコール濃度が0.15%程度を超えると起こりやすくなる病気らしいわ。所謂一時的記憶喪失。

 脳の中にある記憶を司る海馬との関わりが深くて、本人には記憶がないのに、周囲から見ると普通に行動していると思われている」


 項垂れた藪押。それは、まるで小学校で、廊下に立たされて、先生にこんこんと説教され、怒られている子供のようでもあった。


「または、一過性全健忘ともいう。これは丸一日程度の記憶がなくなる疾患と症状が類以している。

 あなたはこれかもしれないわね。ブラックアウトは海馬の障害が原因ではないかと推測されているの。

 それで、アルコールの脳内濃度が一定以上になると海馬の神経細胞がその働きを失うことになり、そして、記憶を脳の中で形成できなくなる。多くの人は、部分的ブラックアウトで済んでいるけどね。 

 どういうことかというと、記憶の断片と断片をつなぐ詳細が一部欠損しているだけで、自分が何杯飲んだところまでは覚えていても、誰が勘定を払ったのかは覚えていない。そんなちょっとした記憶の欠落。

 でもね、あなたのように完全なブラックアウトは、数時間に及ぶ出来事をそっくり忘れてしまっている深刻な記憶喪失を意味するのよ。

 それを人格障害ともいうわね。酒が入ると攻撃的になり、暴力を振るう。まさにあなたは後者だわ。

 だから、あなたは病院に行かなければならない。一度ちゃんとした所で診てもらわなければ、人格崩壊に繋がるわよ」

 

 シーンと静まり返ったこの部屋。彩加の呼吸音だけがしているだけだった。


 明も完全に動きが止まってしまった。


 藪押も口を噤み、しばらくは何も言えなかった。


「お、お、お前は、いつだって、俺のやることに文句をつけ、そうやって俺の気分を害するんだ・・・・・・。

 いつもだよ。俺がせっかくお前らのために、何かをしようとすると、決まって否定するんだ。ちゃんと明に訊いたのか、明が本当にやりたいこと、やりたくないことを」


 藪押は、言い訳をする子供のように、苦しみながら口を開いていた。


「俺はな、そうやって理論で、相手を言い負かそうとする奴が嫌いだったんだ。なぜ、もっと人の意見を聞こうとしない。なぜ、もっと人の考えていることを尊重しようとしないんだ。

 そうやって物事を一くくりで纏めてしまうのはよしてくれ。自分が正しいと思っているから、全く人の話を聞こうとしないんだろ。それは違うぞ。

 だから俺達の話はいつまでたっても前へ進むこともなく、平行線でしかないんだ。もっと俺達は話し合うべきなんだ。

 子供だっているんだから。分からないか。彩加、昔はもっと優しかったじゃないか。話だって聞いてくれたじゃないか。だから、あの時のように、話し合おう。お願いだ。話し合えば分かり合うこともできる」


「もう分かって。あなたとは、いくら話し合っても分かり合えないんだから。無駄なだけよ。私たちは、もう、終わったの。終わったのよ !」


 やがて、薮押は、いきなり彩加を追いかけた。周りにあったものを薙ぎ倒し、音を立て、追い立てる。


 彼女は危険を感じ、逃げる。逃げ惑うように。


「来ないで!」


 それに気づいた坂戸が慌てて、勇気を振り絞って、藪押を止めようと近づくが、藪押も、それに気づき、すぐさま坂戸を殴りつける。まさに猛り狂う猛獣、そのものだった。


 情けなかった。まるでマンガのように後方へふっとんでいき、腰から砕けていった。


 まるでボクサーが、タイミングのいいカウンターを出すように、坂戸は、藪押に一発でやられてしまったのだ。

 

 それは、ものの見事に顎に決まり、坂戸が倒れ、また意識を失くしてしうのに時間はかからなかった。


 そして邪魔者を蹴散らした藪押は、彩加に追いつき、彼女の髪の毛を掴んだ。


 藪押は、彩加の髪の毛を引っ張り、それから振り回した。彩加を、力任せに、勢いをつけて壁にぶち当てる。


 ドーン! という派手な音とともに彩加が壁に叩きつけられた。


「お前ら、一体何をしてるんだ? 自分のやっていることが分からない、とでもいうのか?

 俺たちは家族なんだぞ。だから一家団欒として、笑い合おうぜ。そうすれば、また昔に戻れるんだから。なぜそんな簡単なことに気づかないんだ」


 藪押は、彩加と明だけを見て、


 ウオォォォォォッ!


 叫び声を上げた。 


 もう、彼は人間ではない。人間では、なくなってしまったのだ。





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