四、DV男
時刻は六時半を廻り、日が傾き始めていた。
日中の激しい日差しに火照った体は、いまだ熱を持っており、暑かったが、それでもほっとする気温になりつつはあった。
日本でも猛暑で有名な多治見の街も、ようやく終息しようかという時間に差し掛かってきた。
「刑事さん」
彩加は、はっきりとした口調で言った。
「坂戸から電話がありました」
西嶋は、彩加の顔を見た。
このような状況の中でも、しっかりと自分を持っていて、コントロール出来ている女性だ。感心した。
「どんな電話でしたか?」
西嶋は訊いた。
「彼とは一緒に住んでいるのですが」
彩加は意を決し、喋り出した。
「私が離婚をして、今の宝食パンに就職をしたのが二年前です。そこで同僚の坂戸海人と知り合い、一年前くらいからお付き合いをするようになりました。そして、二か月前から、この家で一緒に暮らすようになったのです」
「そうですか。それで?」
「私の方は、刑事さんから連絡をもらい、昼から帰って来れたのですが、彼の方は、仕事が忙しくて、帰れませんでした。
ですので、五時まで仕事をして、すぐに帰ってくる約束をしていたのですが・・・・・・」
語尾をぼかしながら彩加は言った。
「どうかしたのですか?」
緊張が走った。
「会社帰りに、藪押に捕まったようなのです」
意を決したように言った。
「藪押・・・・・・」
「ええ。藪押は、坂戸が私と付き合っていることを知っています。以前、私の知らない時にですが、藪押が、坂戸に会いに、会社まで来たことがあるのです。
それで、私が何しにきたの、って坂戸に訊くと、彼に、私との仲のことを追及された、と言っていました」
「なぜ、藪押は知っていたのですか?」
森川が訊いた。
「それは、月に一度、明と藪押が会っていることは話しましたよね」
彩加が言うと、西嶋と森川は頷いた。
「その時に、明の携帯に坂戸の写真が映っているのを見て、この男は誰だ、と訊かれたそうです。それで明が喋ってしまって・・・・・・」
「そうでしたか。それで、今の電話の内容は、どのような?」
「坂戸が、藪押に、会社の駐車場で、待ち伏せをされ、捕まってしまったようなんです。それで、車に乗り、現在は陽炎旅館に二人でいるとのことです」
彩加は初めて、ここで沈痛な趣になった。
「何で、こんなことに・・・・・・」
「陽炎旅館・・・・・・」
西嶋は、彩加の顔を見た。彼女の掌を見ると、流石に、震えているのが分かった。
「ええ。潤堂寺駅にある廃業した陽炎旅館です。そこで、暴行を受けているようなんです。
藪押はナイフを所持していて、とても危険な状況だと。それに陽炎旅館には、藪押が用意しているウイスキーがあって・・・・・・」
「ウイスキー?」
西嶋は首を傾げた。
「彼はアル中なんです。呑むと意識を失くしたり、時には、暴力的にもなります。だから、危険な状況なんですよ。刑事さん、どうしたらいいのか・・・・・・」
「別れた理由に、その原因もあるのですか?」
「他にもありますが、大いに・・・・・・」
彩加は言った。
「私や、明も手を上げられたことが何度もありました。それでも明くる日には、藪押は何事もなかったように振る舞うものですから、その豹変振りが本当に怖くて」
「当時は、殴られた時の痣や、傷は残ったのですよね?」
ここで森川が訊いた。
「ええ。でも、それを見せても、本人は絶対に認めようとはしないんですよ。大人のくせに転んだりして、みっともない、とか言って、前日に自分が殴ったことを全く認めないんです」
「認めない?」
森川は首を捻った。
「あなたに殴られたの、と言っても、何回言っても聞き耳を持たず、しまいには怒り出すんです。そうなると怖くて、それ以上は何も言えなかった」
「そうでしたか。そんなことがあったのですか・・・・・・」
森川が難しい顔をした。
「その陽炎旅館には、ナイフを持ったアル中がいて、それを坂戸さんに向け、彼を人質としているわけですね」
西嶋が訊いた。
「はい。そうゆうことです。そして、藪押からは、今から、中央線の潤堂寺駅にある陽炎旅館に来てくれ、と言われました。でも、明と二人だけで、というのが条件です」
「二人だけで・・・・・・。危険です」
森川は、腕組みをしながら言った。
「でも、坂戸が監禁されているんですよ」
彩加は訴えるように、森川を見た。
「西嶋さん」
森川が小声で、西嶋に耳打ちした。
「子供と元嫁を廃墟に呼び寄せ、一体何をするつもりなんでしょうか?」
「今まで、ずっと元に戻りたい、と思っていたことが、積もりに積もって爆発したんじゃないだろうか。
坂戸さんが彩加さんの実家に入り、このままでは盗られる、と思ったんじゃないのか。もう終わっていることも分からずに・・・・・・」
西嶋も、森川の耳元で囁いた。
「どうしますか?」
「中には人質もいる。だが、藪押は凶暴で、危険な状況だ」
西嶋は少しの間、黙って考えてみた。
「どうしますか?」
隣で森川がまた訊いた。
「いかないわけには、いかんだろ」
「そうですよね」
森川は言った。
「では、どうやって相手に、刑事が付いてきたことを隠すのか、ですよね」
「ああ、そうだ。細心の注意を払い、彼らの後を付いていく。そして、約束通り、二人には、陽炎旅館に行ってもらうことにしよう」
「我々はどうしますか?」
「先ずは、離れた所で戦況を見守りながら、待機だ」
西嶋は言った。
「彩加さんには、このICレコーダー4GBステック型ブラックRR―XP008―Kを使ってもらいます。
これを胸ポケットか若しくは見えない所の方がいいな。隠し持っておいて下さい。この機械は集音機能が付いております。
イヤホンからリアルタイムに聴こえる集音機として使用できるものです。ですからそれを聴きながら、私らは見守ることにします」
西嶋から受け取ったものは、長さが百二十六ミリのステック型のデザインだった。
「そして、なるべく明君とは離れないようにして下さいね。我々が突入した時に保護ができにくくなるから。
最悪、離れてしまうと、どちらかに危害を及ぼしてしまう危険もあります。それだけは避けたい」
「わかりました。明とは、離れません。では、これ、ジンーズのポケットの中に仕込んでおきます」
彩加がジンーズの前ポケットの中にICレコーダーを仕舞い込んだ。
「いいでしょう。では、くれぐれも無理はしないように」
「はい」
彩加の歯を食い縛る表情を見ると、決意というものなのか、これから大きなものへ、立ち向かう勇気のようなものを感じた。
「では行きますか」
ここにいる全ての者の緊張が高まった。
何事もないことを祈るのみ。そして、坂戸を無事保護すること。それが先決だ。
西嶋はそう心の中で念じていた。
どんな状況になろうとも、彼女たちを守らなくてはならない。




