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第十ニ章  廃墟の旅館  一、暗闇の中で


 山の麓で車を停めた。そして、しばらく歩き、少し上がった所に五階建ての朽ち果てた廃墟が見えた。


 そこが陽炎旅館だ。人の気配が全くない。屋上には雑草が生え、多くの窓ガラスや障子が破られた、廃墟となっている所だ。


 玄関は開けっ放しになっていた。そこから二人は土足のまま入り、廊下を歩いた。坂戸は入口で入るか、入るまいか躊躇した。


 大量に絡み合ったくもの巣が、彼の足を止める。


 それに、下が柔らかく元は木で出来ていたのだろうが、腐食が進み、草が生えており、ボコボコとしていた。もはや人が住んでいる気配はなかった。


 薮押が顎をしゃくり、ついてこい、と苛立ちを見せる。仕方なく坂戸は廃墟の中に、恐る恐る足を踏み入れた。


 朽果てた廊下を歩くと、絨毯の下にある乾燥した板が劣化していた。床には積りに積もった埃が何重にも重なっており、何人もの足音が残っていた。

 この中に入り込んだ者がいるのだろう。肝試しとして、有名な場所でもある。

だだっ広いフロントを抜け、階段で二階に上がった。

 

 何ともいえない、据えた臭いが鼻を衝いてきた。布が腐ったような臭いに気分が悪くなってきた。


 薮押しが湿り気を含んだ重い扉を開くと、ギィィィッッ、という軋んだ音が静寂の中、轟いた。

 室内に目をやると、客室のような部屋だった。先ず薮押が腰を下ろした。畳が変色していて、どす黒くなっていた。


 坂戸は突っ立ったまま藪押を見ていた。


「座ったらどうだ」


「いえ、僕は大丈夫です」


「これから長い時間がかかるんだぞ。いつまでも立ってはいられないだろ。諦めんだな。服の汚れは、洗えば綺麗になるが、」

 藪押は胡坐をかいた。

「心の汚れや傷は、簡単にはとれない。今から、奴らをこの場に呼び、そして、話しをするんだ。だから、長くなるぞ」


「え?」


「え、じゃない。お前が、今から彩加に電話をして、この場に明と一緒に呼ぶんだよ」


 藪押は、ナイフを翳した。


 そして、その後、坂戸の足元に投げて、突き刺した。


「うわわわわっ。やめて下さい」


 坂戸は慌てて、後ずさりした。


 こんなにも暑いのに、冷や汗をかいていた。


 藪押がゆっくりと立ち上がり、その畳に突き刺さったナイフを抜き取る。


 この状況。いってみれば、まるでこの部屋の中に、猛獣を解き放たれたかのような、緊張を覚えた。


 坂戸は、そのプレッシャーに押しつぶされようとしていた。


「いいから、電話をして、この場に呼びよせるんだ」


「どうして、ここに呼ぶのですか?」


 坂戸は立ったまま、訊いた。汚いから座らないのではない。


 この状況下、ちょっとでも隙が生まれれば、逃げてやるつもりだった。


「この地下にウイスキーがあるんだ」


 藪押は、その問いには答えずに言った。


「持ってきてくれないか」


「何で、こんな所にウイスキーがあるんですか? それは昔からのものなんですか?」


「安心しろ、俺が買ってきたものだ」

 藪押は言った。

「一年前に、この廃墟を見つけたんだ。いや、昔から知ってはいたが、この場に来て、活用するようになったのが、一年前だ。

 誰も使用していないのを確認すると、俺はここに酒を運び込み、そして、ここで飲むことにした。ただ、それだけだ」


 藪押は静かに言った。


「地下は窓もなければ、涼しい。嫁と離婚してからは、人間嫌いになったし、何より、家の中に酒があるのを見つかると、明と会うことを許されないからな」


「それじゃ、今から酒を飲めないじゃないですか」


「ああ。その通りだよな。本当は飲めないよな。でも、見てみろ。俺の手がこんなにも、震えているんだよ」


 藪押はイライラと、忙しなく瞼を痙攣させていた。


「これだけのことをしてきたのだ。もう、正気ではいられない。分かるだろ? お前にも。だったら、早く持ってこい!」


 またナイフを、自分がいた傍の畳に突き刺してきた。


 ヒェェッ。呻き声を出していた。


「懐中電灯を持っていけ」


 藪押が木のテーブルの上にあった懐中電灯を渡した。


「ここは電気も来てないし、水道も通ってはいない」


 坂戸はそれを受け取り、光を灯してみた。


 改めて周辺に目を向けると、唖然とした。


 人の住める所でないからだ。この異様な臭いが分かった。腐食した絨毯や、所々に生えている雑草の数々。死んではいなかったのだ。


 人の目が行き届かない所で、この建物はひっそりと、息を潜め、そして、確実に違う形として生き延びていたのだ。


「それは俺が用意したものだ。行く途中、気をつけるんだぞ」

 坂戸は、藪押を見た。

「鼠の死骸、ヤモリや蝙蝠(こうもり)だって見たこともある。でも、安心しろ。トイレは昔の旅館だ。ドッスン便所だよ。充分使える。

 それに、トイレットペーパーは一回の便所の中にある。俺が用意したものだ。これから長期戦になる。心しておいてくれ」


 坂戸は、薮押の顔を何とも言えない表情で見ていた。


 これから始まろうとしている恐怖。


 一体、自分はどうなるのだろう。見知らぬ所に、連れ込まれ、そして、閉じ込められてしまったのだ。


 



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