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ニ、 あいつが来る

 

「はい」

 ごめんね、と同僚にいい、立ち上がった。


「俺だ」

 実家の多治見市で、一緒に住む父親だ。


「何、お父さん。今仕事よ」

 彩加は、そのまま詰め所から出てきて、スマホを持ち替えた。


 親から仕事中に電話がかかってくることはまずない。何か特別なことがあったのだろう。


「休憩時間だろ。それまで待っていてんだ。本当ならもっと早くかけたかったんだが」


「どうかしたの?」

 声を潜めて訊いた。嫌な予感がした。


「ああ。ちと、めんどうなことが起きた。お前、テレビを見てないのか?」


「ええ。だって、ずっと会社だったから」


「この辺りで事件が起きたんだ。知らないのか?」


「事件?」

 ザワザワとする胸騒ぎを覚えた。


「そうだ。その事件のことだが、お前に関係するだろうと思われる事件だ」


 少しの間、頭の中を整理した。一体・・・・・・。


「どういうことよ」

 思わず口に出していた。


「少し前に警察から連絡があったんだー」


 彩加は、顔を蒼白にし、電話を切った。

 すぐその足で、隣で働く坂戸を探しにいった。

 

 いつもランニングしているのもあり、歩く速度も速い。坂戸が担当する機械の前に行き、話し掛ける。


「海人 ― 」

 

 機械の音で、彩加の声が消えているようだ。


 坂戸は耳栓をしているので、余計に聞こえない。


 昼休み中というのに、クソ真面目とうのか、生産が遅れているようで、機械を廻していたのだ。


 彩加は、彼の袖を引っ張った。


「海人、ちょっと面倒なことが起きた」


「どうしたの?」


 いつもと違い、顔の引き攣った彩加の様子を見て、すぐさま機械を停め、それから耳栓を外した。


 音が消えた。


 静かになった。


「今、実家の方に警察から電話があったって、お父さんが言うのよ」


「警察から?」


 海人は、背筋を伸ばし、真剣に話しを訊いた。端正な顔が少しだけ歪んだ。


「そう。だから私、今すぐに帰るわ。ちょっと班長にいってくるから」

 彩加は、帽子を取りながら言った。


「あなたも定時で終わったら、うちに来て」


「一体どうしたの?」


「元夫が、事件を引き起こし、逃亡しているの ー」


「事件? どんな?」

 坂戸の瞳孔が開いた。


「勝川のコンビニで傷害事件を引き起こしたそうよ。それで刑事が私に話しを訊きたいって。

 それに、何でも、元夫が私に会いにくる可能性があるかもしれない、と言っていたそうなのよ・・・・・・。

 それが気になるから、私、急いで帰るわ。明のことも心配だし」


「傷害事件?」

 坂戸は目をまん丸く、大きく見開き、驚きの表情を浮かべた。


 彩加は、そんな坂戸を見た。


「それに、な、な、何で今更、彩加のところに来るんだよ」

 坂戸は、動揺を隠せない。


「それは分からないわ。ただ、そもそもの発端は、彼、渋滞で車の動かない大曽根交差点で、車を突然放置して、歩いて勝川に向かったそうなのよ」


「大曽根から、勝川? 確か、彼の職場はその反対の南の高岳だっただろ? だから、会社には向かっていない、って、そうようことなのかい?」


「ええ。車の進行方向は南だから、最初は会社に向かってたのよ。でも、突然車を放置し、逆方向に進路を変えた。

 それに勝川からさらに北に移動して、春日井に向かっているそうなの。

 だからこの進路、この進路はまさしく私の実家の多治見に向けられている。そうじゃない。

 あの人は、あのままでは終わらない人なの。私、前々から言ってたよね。私は、こうなることが分かっていた。だから・・・・・・。

 警察の言うとおり、まさしく、そうよ。藪押が私の家に向かっているんだわ・・・・・・そして、」


「そして? 何?」

 坂戸は、彩加の腕を取り、目を見つめた。


「わ、わからないわよ。そんなこと私に訊かないで」

 彩加は、坂戸から顔を反らした。そして、声が高くなっていき、それは震え出した。


「ご、ごめん。いいから落ち着けって。今、君が思っていることが、必ずしも実行に移されるわけではない。そうと決まった訳じゃないだろ。考えすぎだって」


 こんな動揺した彼女を、初めて見たような気がする。


「そうと決まったわけじゃない? 何が決まった、というのよ?」


「いや、だから、藪押さんだってちゃんと常識を弁えた大人だ。きっと何かの間違いだよ。心配ないって」


「あなたはいつも、そうやって争いごとや揉め事から回避しようとする。警察が動いているのよ。私の家に電話がかかって来たのよ。

 これが落ち着いていられる? あなた、もしかして他人事だと思ってんでしょ? 信じられないわ、こんな状況を見て」


「落ち着けって」

 坂戸は必死で、彩加を宥めた。

「それより、明君には連絡したのか?」


「ええ。学校に連絡して、今日は早退することをお願いしてきた。それから、今日、丁度お父さんが会社休みだったから、学校に迎えにいってもらったの」


「うん。それでいい」


「ねぇ、五時と言わず、あなたもすぐに帰ってきてよ、早く帰ってきて」


「今、からは、帰れないよ。この仕事を終わらせないことには。生産計画を大幅に遅らせてしまうことになる・・・・・・」


「生産計画と私、一体どっちが大事なの? あなたはいつだって人の顔ばかり気にするのよ。今が緊急事態なのに、おかしくない?」


「冷静になれって。今日は定時ですぐに帰るから、お父さんだっているし、警察が来てくれるんだろ」


「あなた、まるで他人事ね。もういい」

 

 突然彩加は踵を返し、歩き去っていった。


 坂戸は、その後ろ姿を追いかけてみたが、後ろにあるプレスに後ろ髪を引かれ、しばらくは彩加の背中を見ていることしかできなかった。


「俺に、どうしろっていうんだよ・・・・・・」

 坂戸は独り言を呟いていた。


 昔から誰かに指示を出されなければ、動くことのできない男であった。そして、大きなものに巻かれ、その輪を乱すことのない生き方しかできない男だった。

 今回のようにイレギュラーに対処することのできない堅物なのだ。とうより日常さえこなしていれば、物事は普通に廻っていく、という考え方の持ち主でもある。


 坂戸は、いつも彩加の背中にくっついてきた。それは大きくて、頼りがいのある背中だった。


 だから男なのに、いつも彼女の指示に従ってきたのだ。


 だって彼女は、頭が良くて、回転も速く、なによりも強い女である。でも、今の彼女は少しだけおどおどとしていたし、弱い女に見えた。確かに怯えていた。


 本当は、こんな時くらい、力になってやりたい、そう思ったが、今回も逃げてしまった。

 

「でも、まさかな。そんなこと・・・・・・。考え過ぎだよ」


 その不安は、まるで静かな湖に、一石が投じられたかのように、じわりじわりとさざ波が起きるようでもあった。





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