序 章 一、心構え
あいつは必ずくる。
私たちの基に。
そういう男だ。明を奪いに来るかもしれないし、私の基に・・・・・・また戻ってくるかもしれない。
もう終わっていることも、理解できずにいるのかもしれない。
チュンチュン、小鳥の囀りをバックに白色のウインドブレーカを着た一人の女がもくもくと公園の中を走っていた。
ホッホッホッ。ハッハッハッ。
彼女はダイエットでもなければ、健康のために走っているわけでもない。
強くなりたくて、身体を鍛えているのだ。
毎日五キロのランニングに、百メートルダッシュを十本。
そして、スキッピングロープで十二分間飛び続けている。
そして、家に帰れば、部屋の中でボクシングのシャドーボクシングをやる。
離婚をして、時間は十二分にあった。ムシャクシャしていたのもある。
元々身体を動かすことも嫌いではなかった。だから、ボクシングジムに通った。
一番は、弱い自分を変えたいと思ったからだ。
今は仕事をしているが、それでも出来る限り暇を見つけては、顔を出すようにしている。
一度覚えたものを忘れないよう。何よりサンドバックを打っていると、気分がすっと爽快になるあの感触が忘れられなかった。
一ラウンド三分。それを五ラウンド。
目の前に相手がいることを想定し、半身に構え、左のジャブ、右ストレート。頭を振ってのウイビングやダッキング。
それからフットワークを駆使し、早いワンツゥーを出す。
そして、仕上げに腕立て伏せ、腹筋、背筋それぞれ百回をこなし、ストレッチで身体を解して一日を終える。
毎日この運動をすれば一キロは落ちる。
そのためか食事は、ダイエットを気にすることもなく、食べられる。
引き締まったこの身体。ナルシストではないか、と言われるかもしれないが、自分でも惚れ惚れしてくる。
昔はもう少し、柔らかい体であった。離婚をしてからは、ボクシングを始めたことから、硬い体つきになり、今の筋肉質の身体を手に入れることが出来た。
鎧を纏ったように、自分が強くなったように思える。
そう。彼女は離婚をした。
あの時の自分は、髪の毛も長く、ふんわりと女、女としていたかに思える。
どちらかといえば、相手に合わせる都合のいい女、そんな感じだった。
自分のいいたいことを我慢し、いつも傲慢な男の言い草に耐えていた。
彼女には一人息子がおり、その小さな肩を抱きしめて、夫の暴力に耐えていた。
離婚を経て、彼女は逞しくなった。
それが一つのきっかけになったのは間違いない。一人息子を守らなくてはならないのだ。だから、心を強くし、体も強くなった。
それから外見も変えた。髪の毛をバッサリと切り、ショートにし、誰にも頼ることのない強い女に生まれ変わったのだ。
昔からの友達も言う。変わったね、強くなったね、と。
「ママ、カッコよくなったね」
シャワーを浴び終え、居間にやってくると、息子も起きていたのか、テレビを付け、それを見、笑いながら言った。
「明」
女は笑顔を向けた。
「ほんとだよ。僕もそうなりたい、と思っているんだ」
「じゃ、明も一緒に走る?」
「それは・・・・・・」
明は、口籠った。
運動が苦手で、あまり友人もいない。一人だけで遊ぶことが多い子だ。
身長も低く、前から数えた方が早いくらいで、痩せ細っている。
だから学校のクラスでも浮いた存在で、虐めの対象だ。自分の意見を言うことは滅多にない。
言えば、反対意見が返ってくるのが関の山で、酷い時には殴られることだってある。
だから余計なことは言わないようにしている。
「何?」
「だって、きついんだもん」
「男の子でしょ。明は」
「だって、ね」
「そこのタオル取って」
「はいよ」
明はそういって、左手でタオルを持ち、右の拳を握りしめ、母親に向かって右ストレートを出した。
女は、左でそれをパリで払い、そして、右ストレートを息子の顔面に向かって出した。
「ひっ・・・」
そして、寸前でピタリと止めた。
「おお、こわ・・・」
僕にはママがいる。
「男が寄り付かないよ、そんなパンチを出すような女には」
「いいですよ。心配しなくても」
彩加はタオルで顔を拭いた。
私は、強くならなくちゃいけない。
そう、この子のためにも。きっと、またあいつがやってくる。
あいつは、しつこい男だ。今は小康状態なのかもしれないが、嵐はまたやってくる。
必ず・・・・・・。
「いつまでも明と一緒ならね。お母さんは、他に望むものなんかないよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ。だから、。いつまでも一緒だよ」