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四、あの日のことは、今でも鮮明に頭の中にある


 ―その日は会社が暇で、昼から帰ってきた時のことだった。


「明も帰って来たのか?」


「うん」


「それじゃ、お父さんも早く帰ってきたから、どうだ。今から公園に行って、キャッチボールでもするか?

 それとも、この前言っていた柔道でも教えてやろうか。明、教えて、っていっていたよな」


「うん。でも、今はいいや。また今度にする。だって、ほら、僕は、宿題を早く終わらせなくちゃいけないから、ね」


 明は、いつだって父親の顔色を窺い、気の休める日がなかった。


 ちょっとしたことで、すぐ機嫌を損ね、それで怒るし、何より想定外のことが度々起こることが怖かった。


 身構えることができない、ということがいかに怖いことか。


「そんなのは後からでいいじゃないか。ほら外もまだ明るいし、お父さんだって、そうそう、こんなに早く帰れることなどないからな。そのことが分かってるのか」


 そんなことを息子に言っていると、彩加がやってきた。


「パパ、子供には、子供なりの予定があるのよ。そうゆうところはちゃんと弁えてよ。いつだってパパの思い通りにはならないんだからね」


「でも・・・・・・。分かったよ」

 藪押は、仕方なく、スーツを脱いでから言った。

「彩加、コーヒーを持ってきてくれ。喉が渇いた」


「はい、はい」


 藪押は、ソファに腰かけ、テレビのリモコンを取り、電源を入れ、昼間のバラエティを見た。


 しばらくして、明に視線をやった。


 いきなりテレビから笑い声が聞こえてきた。


 明が眉間に皺を刻むのが見えた。


「パパ、テレビは辞めて。今、明が宿題をしてるんだから。気が散るでしょ」


「宿題なんて、テレビを見ながらでもできるよな」


「う、うん」

 明の困ったような顔。何を言っていいのか分からない顔。


「あ、お父さんは疲れてたんだよ。ごめん、ごめん」

 藪押は仕方なく、テレビを消したが、大きな溜息をついた。


 明の背中がビクンと波を打った。


「明、勉強部屋でやってきなさい。お母さん、パパと話しがあるから」


 彩加の助け舟に明は頷き、素直に国語の教科書を閉じ、リビングルームから出て行った。


「パパ、疲れてるところを悪いんだけど。大事な話しがあるんだ」


「大事な話し? 一体何の話しだよ。そんな神妙な顔をして」


「実は、私ね、前々から考えていたんだけど、パパ、私の考えていること、分からないでしょ。理解してないでしょ」


「な、何だよ。急に何なんだよ。そんな神妙な顔して・・・・・・」


「分かるわけないわよね。いつだって自分のことしか考えてないんだもん。私たちが、そんなパパに振り回されているということを。

 私ね、もう疲れちゃった。こんな風にパパと暮らしていくの、何だか本当に・・・・・・。もう、だ、駄目かもしれない」


 彩加は、その神妙な顔をしたまま、藪押を見つめていた。


 その顔はもう後戻りできないとでも言うような顔であった。


「私、結婚生活に疲れちゃった・・・・・・」


 嫌な風がこのリビングルームに漂っていた。


 その風を押しやることも、止めることさえできずに、藪押は身体全体でそれを受けとめていた。


「離婚してほしい」


 突然その風を利用して、彩加が言った。


「ちょっと、ちょっと、何だよ。いきなり。冗談だろ。変な冗談なんか笑えないぞ。ハハハッ」


 笑顔が引き攣り、顔が強張ってきた。


 それでも彼女は真剣に、覚悟を決め、どうしても引かない、という意思を前面に出してきた。


 こんな彼女を今までに見たことがなかった。


 真剣に言っていることが分かった。どうすればいい?


 俺の知らない所で、時間が廻っていたことに、今初めて知る。


 今まで、ずっと幸せだと思っていた。


 こんなシチュエーション、考えたこともなかった。


 なぜだろう。なぜ彼女はこうなってしまったのだ。分からない。藪押は、今まで、そうなってしまった彼女のこの様子に、まったく気づかなかったのだ。

 

 思い起こせば、しばらく彼女の笑顔を見てないような気もする。


 でも、まさか・・・・・・。こんなことになるなんて。


「子供のことや、今の住まい、二人の財産なども話し合っておかなきゃいけないわね・・・・・・」


 最後の方は訊きとれないほどに動揺していた。


 まったくの寝水に耳だった。


 どうしていいのか分からない程に混乱していた。


 大きな声を出していたのかもしれない。


 その声が明の耳に入っていたのかもしれない。


 藪押は、気づいたら外に出て、街を歩いていた。


 取り乱していた。生まれてこの方、これ程までに取り乱したことはなかったかもしれない。


 浴びるほどに酒を飲んだ。未だに分からない。

 その日は、いつ自宅に帰ったのか。そして、何処をどう歩き、帰って来たのかも。


 覚えているのは、あくる日、激しい頭痛で会社を休んだことくらいだ。




「その時、奥さんに、他に男がいたの?」


「分かりません。恐らくは、その時にはいなかったと思います」


「そう。価値観の違い、かもしれないわね。こればかりは、しょうがないよ。恋愛と結婚って違うものだから。それに気が付き、奥さんは出ていったのかもしれないわね」

 老女は言った。

「家はどうしたの? あなたが今でも住んでいるの?」


「一軒家を購入していたんですが、一人で住むには広いし、周りの住人の目も気になります。

 だから、出て行かれてから、私は家を売り払いました。今は一DKのアパートに一人で住んでいます。前の家のローンも残っていますし」


「そう」

 老女は、言った。

「コーヒー、お代わりいる?」


「いえ。結構です」


「遠慮しないでね」

 そう言って、老女は厨房に戻っていった。

「ゆっくりしてって」


「はい」


 なんだか今までにないくらいに疲れていた。気が抜けた、というのか、このまま布団に入って、眠りたい心境に陥った。

 体はダルく、まるで根を下ろしたかのように、動くことが出来ずに椅子に座っていた。







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