ニ、 砂漠の中のオアシス
藪押は、左手首に巻いたセイコウの時計に目をやった。
十一時。
腹が空いてきた。先程の落してしまったお握りが脳裏に蘇ってきた。
春日井市に入ったようだ。随分と歩いてきたものだ。交差点の看板でそれを知った。
もはやスーパーやコンビニに入ることが躊躇われた。これ以上人目につくのは危険だ。なるべくなら防犯カメラのない店に入りたい。
小道に入ると、ポツンと昔ながらの食事処を発見した。店の名は食事処 幸。
店は小さく、古びており、外から店内を見ても、客の姿はないようだった。まだランチ前だ。今の内に食事を済ませておこう、そう思った。藪押は、サングラスを外し、店内に入ることにした。
「ごめん。やってるかな?」
暖簾を潜り、藪押は店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃい。今店を開けたばかりなのよ。どうぞ、どうぞ」
中は外から見たように狭かった。カウンター席が三席に、四人掛けのテーブル席が二席しかない。勿論のこと防犯カメラはなかった。
安心して席に着いた。
客はおらず、店員も七十を超えた、少し背中の丸まった老女が一人切り盛りしているだけだった。
ほっ、息が漏れた。
店員は、なかなか感じのいい老女だった。
藪押がテーブル席に腰を下ろすと、すぐさまお茶を持ってきてくれた。
「注文は後から?」
「何があるかな?」
「お店の入口にサンプルがあったでしょ?」
「済まない。見ていないんだ」
「そう。じゃ、これがメニューよ」
老女は、久しぶりの新規の客に、精一杯の笑顔で答えた。
「それにしても今日も暑いね。昔はこんな暑かったかしら。いえ。きっとニュースで言っているように温暖化が進んでいるのよね。
年々台風の発生率も上がり、その影響も強い。ほんと怖いわよね。あら、ごめんなさいね。あなたみたいに新規で来てくれるお客さんは久しぶりでね。話過ぎよね」
老女は笑顔を向けた。
藪押はハニカミながら、首を小さく振った。
「最近じゃお得意さんも減ってきてるのよ。ま、でも私も、ほら歳でしょ。だから体力的にも丁度いいの。今じゃボケ防止として店を開いているだけだから」
と言ってハッハッハハハハッと豪快に笑った。
それに釣られ、藪押も微笑んだ。
何だか久しぶりに笑ったような気がする。そう思うと共にホッと安らぎを感じた。
「何がお勧めですか?」
「ええっと。ヒレカツ善なんかが良く出るわよ」
「じゃ、それを頼もうかな」
「わかったわ」
店内は昔ながらの食堂を思わせる造りで、所々傷み、壁も剥がれ落ちているのを見かけた。
それでも老女の性格なのか、小奇麗に清掃が行き届いているのを見かけると、快適に思えた。
老女はカウンターの中に戻り、支度に余念がない。
入口の棚の上に二十インチのテレビがあるので、何気なく見た。昔のドラマが流れていた。
藪押も一度か二度見た記憶がある。内容もおぼろげではあるが、覚えていた。その時もそうだが、ドラマに対し、それほど執着心はない。ただ時間潰しに丁度いい、そんな風に思える。ただそれだけだのことだ。
「はい。お待ち」
老女が重箱を運んで来た。
蓋を開けると、ヒレカツが五キレ、お浸しに赤味噌、ヒジキ、キャベツサラダにポテトサラダ、そして、ご飯がテンコ盛り。かなりのボリュームだった。
「旨そう」
思わず言葉が漏れていた。
先ずはサラダから頂く。現役時代からの名残りもあってか、どうしても太りたくない、というのがある。
なので、肉などは後に廻すようにしている。サラダから先に食べると、身体が真っ先にそれを吸収するからだ。腹が空いているので、なおさらだろう。
「お仕事の途中かい?」
「え?」
いきなり話しかけられ、ようやく箸で掴んだヒレを、元に戻した。
「あ、ごめんなさいね。変なことを訊いたりして」
「いえ。いいんですよ」
別に、不快に思うことはなかった。
「最初は会社に、行く気だったんです。でも、途中で、嫌になっちゃった・・・・・・」
「・・・・・・今日は、サボり?」
藪押は微笑んだ。そして、ようやくヒレを口の中に入れ、しばらくは咀嚼し、その味を楽しんだ。
目を瞑り、やや上を見、タレントが食レポをするようにう~んと唸ってみた。しっかりと口の中に入れ、咀嚼して。
「旨い」
「よかった。お口に合って」
老女は、本当に嬉しそうだった。
「それじゃ、ゆっくりしてってね」
「有難うございます」
藪押は減量から解放されたボクサーのようにヒレカツ善をガッツいた。
「若いわね。そんな風にモリモリ食べてくれると、こっちも嬉しいわ」
「若くないですよ。もう三十四ですから」
「そう。でも見えないわね。ところで、家庭は?」
「独り者です」
ちょっとした間が生じた。
その間は訊いてはいけないことを訊いてしまった、あるいは、逆に相手に気を遣わせてしまった、という気まずさの残る、そんなような間だった。
「三年前までは、」
藪押は、なぜかは分からなかったが、口にしていた。
今までこんなことを口にしたことがなかった分、自分でも軽いショックを受けたことを知る。
「女房も、息子もいました」
止まらなかった。
老女は、しばらく押し黙っていた。二人しかいないこの店内に、沈黙が広がった。
相変わらずテレビからは場違いな笑い声が漏れていた。異世界のように。
「暑いわね」
老女のその一声に救われた。
「エアコンの温度、下げようかしら」
藪押は、老女を見た。
「いえ。大丈夫ですよ。私は丁度いいですから。なにせ、今までにないくらい、外を歩いてきたのですから。まるで砂漠の中で、ようやく見つけたオアシスのような所です、ここは」
「そう。で、何処からきたの?」
「北区です」
「え? あら、まあ」
老女は口をポカ~ンと開けた。
「本当に?」
藪押は頷いた。
「何でまた?」
老女は、お茶を継ぎ足してから言った。
「車は、乗れないの?」
「いえ」
「じゃ、何でこんな暑い日に、歩いてここまで来たの? ところで、会社をサボったんでしょ。だったらそんな苦しいことしなくてもいいじゃない」
「ここには、たまたま立ち寄らせてもらいました。私には、歩いて行かなければならない所があるからです」
「何処に行くの?」
藪押は、ポテトサダを食べ、それからお茶を一口啜っただけで、喋ろうとはしなかった。
「あ、ごめんなさいね。込み入ったこときいちゃって」
藪押は首を振った。
老女は、一旦厨房に戻り、アイスコーヒーを取り出してきた。
「普段は淹れないんだけど、良かったら飲む?」
「いいんですか?」
頬が緩んだ。
「ええ」
「では頂きます」
老女はコップに氷を入れ、コーヒーを注いだ。
「私は渡辺文代っていいます。十年前に主人を亡くし、この店を畳むことなく、一人で続けてきたけど・・・・・・。
最近じゃめっきり客が入らなくなってね。もう畳もうかな、ってちょっと弱気にもなっているんです」
藪押は、その老女の顔を見つめていた。
「お子さんは?」
「いるには、いるよ。孝子っていう娘がね。結婚して、子供もいるんだけどね・・・・・・」
「たまには、来てくれるのですか?」
「年に数回よ」
少し淋しそうだった。
「年に数回だけ・・・・・・」
藪押は老女を見た。
「私も親の基には年に行くか、いかないかで今年はまだ・・・・・・」
「そんなものよ。今の世の中、人の顔色を窺って働いたり、学校にいって勉強したり、本音では会いたくもない友人、知人に会い、そして、ろくでもない話をする。
そうやって社会の中に溶け込むというのか、馴染んでいくと、空いた時間を見つけるので精一杯で、古いものがいる所になんか、来てはくれないわけよ。わかる。
こっちは成長した孫の顔でも見たい、と思ってはいるんだけど、ちっとも来てくれない。なんだかね」
「お孫さんはいくつですか?」
「二人いてね。三十と三十二の男共。三十二の男は、結婚して最近子供が生まれたの。早いわね、もう曾孫よ」
「そうですか。僕と同じくらいですね」
「そうね。だから、か・・・・・・」
「え?」
「いや、お客さんが孫に見えて、こんな風に話しかけかちゃった。迷惑だった?」
「いえ、全然」
「ありがとね。暇な老人の話しに付き合ってくれて」
「いえ」
「最近じゃ、この辺りにも子供の声を聞かなくなってね。昔なんか、いつも外から子供の笑い声や怒鳴り声、時には泣き声なんかが聞こえてきて、それだけでも楽しかったな。
ああ、私も生きて、この場で生活してるんだ、って思えた。でも、今じゃ、人の声もなくてね、聞こえてくるのは、たまに通る車の無機質な排気音。
これじゃ質素で、簡易的で、それでいて無機的な人生でしかない。わからない? だから、時折私は、生きてるの? 死んでるの? って独り言を言ってるような怪しい老人よ。ハハハッ」
「私も、似たような人間です」
薮押も笑顔を見せたが、その後、ふさぎ込む。
しばらくはお互い、顔を見つめ合い、黙り込んでしまった。




