18.百聞は一見にしかず
その部屋に、音はなかった。
時折ペンを走らせる音がするが、すぐに止む。
「……っ」
ジョセフは、知らず流れてきた涙に慌てて天を仰いだ。
仕事に集中すれば忘れられるかと思ったが、なかなかどうして仕事に集中出来ない。
最愛の人の笑顔を思い出しては目頭が熱くなる。
一目惚れで手篭にした。
そして可愛い娘を産んでくれた。
娘を可愛く思った時、母親になった彼女はどうなったのか、やっと気になって会いに行った。
母親としての彼女は、たくましく、そして美しかった。
もう一度、恋に落ちた。
彼女は息子を産んでも、また美しさを増していった。
乳を吸う息子に嫉妬してしまったのは秘密である。
そして、先日。
3人目を産んで微笑んだ彼女は女神でしかなかった。
だがそれはすぐに失われた。永遠に。
ジョセフは後悔した。
もっと彼女との思い出を作れば良かった。
家族で過ごす時間を持てば良かった。
今度こそ家族としての時間を大切にしよう。
そう思うのだが、彼女がいない家族団欒に耐えられるか分からなかった。
彼はただ、一人で耐えることしかできなかった。
コンコン
「ヴィクトーです。入りますよ」
返事をする前に扉が開かれる。
ジョセフはやれやれと顔を上げた。
「とりあえずノックをすれば良いというものでもないと思うのだが」
「入る前にしていますよ?」
「開けるのが早すぎるのだ」
「時は金なりです」
ため息をつくが、同時に苦笑も浮かぶ。
きっとジョセフは一生彼には敵わない。
「書類はどのくらい片付きましたか?」
「う……」
全然片付けられていないジョセフは狼狽えるが、ヴィクトーは頬をかくだけだった。
「進んでいるとは思っていませんでしたよ。ただ、このままでは困ります」
「……わ、分かっている」
「こんなものが届いているのですがね」
ヴィクトーが差し出したのは複数の絵だった。美女が描かれ、出自や名前が書いてある。
「……もう嫁は取らないと言ったよな?」
「ええ。でももう彼女はいない。彼女の代わりを置いても良いでしょう」
ジョセフの眉間に皺が寄った。
「もう金翼の後継者がいる。他にも5人も子供はいる。十分だろう」
「そうですね。母方に問題のない後継者であれば」
眉間の皺が深まった。
「身に覚えがあるでしょう」
ジョセフは歯を食い縛った。
ジョセフの母親は、男爵の娘だ。貴族とは言え、王族の血は引いていない。
普通ならば王に嫁ぐことの出来ない出自だった。
それ故、ジョセフは何度も暗殺の危機に面していたし、父は子供を作り続けた。
アンヌが産まれるまで、そうだった。
だが、だからこそ、と思うのだ。
「アンヌに辛い思いを味わわせたくない」
振り絞ったジョセフの言葉に、ヴィクトーは鼻で笑った。
「今さらでしょう」
「ぐ……」
正論だ。
だがとてもイラッとさせられる。
「だ、だが、私は王太子になってから、少し風当たりが良くなった。せめて王太子に……」
「ダメですね」
「なぜだ?!」
立ち上がるジョセフに対し、ヴィクトーは全く動かなかった。
「誰も認めていないからです」
ジョセフは怪訝な顔をする。
「なぜだ?アンヌは優秀だ。私よりずっと」
「なぜ分かるのです?」
え、とジョセフは固まった。
なぜと言われると……。
「……教師が皆、難しいことを教えている」
「物覚えの良い証拠にはなりますね」
「それではダメなのか?」
ヴィクトーは頷いた。
「王の資質は、そこではないからです」
ジョセフは黙った。
自分はアンヌほど物覚えの良い子供ではなかっただろう。
だが、人に助けてもらう才能には恵まれていたように思う。
今もヴィクトーを始め、優秀な臣下に支えられている。
だが、それが自分だけとは限らない。
「物覚えが良いだけではないかもしれないではないか」
アンヌは、根性がある。集中力もすごい。そして何より華がある。
長く一緒にいるわけではないジョセフでも、たくさん良いところを言うことが出来る。
「親バカかもしれぬが、アンヌの良いところはたくさんある。そう言うなら、そなたが見て来い」
ヴィクトーは少しだけ目を見開いた。
だがそれは一瞬で、いつもの皮肉げな笑みを浮かべた。
「承知いたしました。ではそうですね、政治の教師としてでも潜り込ませていただいて良いです?」
「ああ、良いだろう。そなたに教わる政治は勉強になるだろうし」
ヴィクトーは頭を下げた。
「では、週に一度はアンヌ姫のお勉強を見ましょう。
私がその間できない仕事は陛下がやってくださいね」
ジョセフは瞬間固まった。
復活すると青白くなる。
「……な!ま、待て!そなたに任せきりの仕事もあるのに無茶だ!」
「これを機に任せきりをやめてください」
ジョセフは背中にガーンという文字を背負った。
それを見てヴィクトーはくすりと笑った。
彼は本当に人間味あふれる好人物だ。
誰もが彼を助けたいと思う。
その気質を、娘も受け継いでいるかどうか。
ジャッジは厳しくしてやろうと心に決めたヴィクトーであった。




