キリと霧の竜
――ねえ、知ってる? 霧の中には竜がいるのよ。
――なにそれ?
――霧の中では、この世とあの世の……人の世界と神の世界の境界がぼやけるの。だから、そこは半神たる竜の領域なのよ。
――ふうん。
――そして、夜と朝の境界に現れる朝霧に隠れ、竜はたった一人で旅をしているのよ。
――ひとりで? さびしくないの?
「ひとりか。寂しいもんだよ」
かつての会話が幻聴の形をとって、霧の中から聞こえてきた。つい返事をする。
何十年も前のことだ。今になって思い出すとは。
この深い霧が、おれに故郷を思わせたのだろうか。
……ああ、また霧か。つくづく霧には縁がある。
”キリ"という名が悪いのだろうか。つい最近に、異世界語で”霧”を意味するらしいと知って合点がいった。
崩れかけた石畳の街道を、ゆっくりと歩く。
かつて古代の帝国が栄華を極めた時代には、蛇のように馬車が連なって道を埋め尽くしていたというが、今となっては通るものもない。
……何か事情のある人間でもないかぎり。
おれは背後を振り返った。深い霧の奥に、まだ追手はいるだろうか。
いいかげんに諦めてくれると助かるのだが。背の弓はもう数日も弦を張ったままだ。
こんなことで故郷の弓を痛めたくはない。
――なぜわたしを置いていくの、キリさま?
――あの夫だって、あんたを愛してないようじゃなさそうだぞ。おれが誘拐したと言えば、丸く収まるさ。
――そんな。こんな夢を見させておいて、いまさら元鞘に収まれなどと。
――背嚢より重い荷物は背負えないんだ。わるいな。
今度はつい最近の幻聴だ。
……幻聴にしては、ずいぶんはっきりとしている。しかも、おれの発言まで聞こえてくるとは。
何かの魔法か? 可能性はある。
あるいは……ここが”当たり”だったか。
「こんな事になるんなら、善意なんか見せなきゃよかったな」
いくら相手が夢見がちなお嬢様とはいえ、ちょっと格好をつけすぎた。
ほとんど外出の機会も与えられない恋する少女じみた妻と、領土の統治にかかりきりの夫。
冒険譚をせがまれた所まではまだ良かったが、外の世界を見せてやるのは少しばかりやりすぎた。
どうせ板挟みになるのは分かっていたが、ここまでこじれるとは。
あの街でおれが得たものといったら、しつこい追跡者だけだ。
ふと石畳に違和感を覚えて、立ち止まる。
まばらに露出している石の向きが、よく見ると揃っていない。
少しぐらいのズレならば年月の仕業だろうが、直交するように九十度ちがう角度で埋まっている石があった。
それどころか、そこらの石を適当に埋め込んだようなものもある。
幼子が積み木で遊んだあとのような乱雑さだ。
石のかけらで地面を掘り返し、石の深さを測ってみる。浅い。
古代の帝国が滅びたのはずっと前のこと、手入れされていなければとっくに地中へ埋まっているはず。
……誰かが石を掘り起し、道しるべのため適当に置いていったのだろうか?
完全に埋まってしまうよりはマシだろう、という発想はたしかに冴えているが……。
――ヨミ! 俺だ、キリだ! 何があった!
幻聴とは思えないほど力強い声が、はっきり耳元に届く。
これは……竜脈や精霊たちの遊びが引き起こす偶発的な魔法の可能性も、ある。
しかし、この記憶は……。
――覚えてる? 霧の中の、竜の話。
ああ、覚えているとも。
忘れられるはずがあるものか。
初恋の人を失ったのだから。
- - -
いつものように深い霧が煙る、良い朝だった。少なくとも、記憶の中では。
先日に十四の誕生日を迎えたキリ少年は、早朝から裏庭に出て弓矢を振り回している。
ところどころ乱雑に埋まった石が頭を出す、細かな段差だらけの荒れた庭を、彼は苦もなく走り回っていた。
通過儀礼の儀式で負った真新しい傷が、左腕に一筋刻まれている。
もっとも彼に言わせれば一人前の証し立て、傷ではあっても恥じるようなものではない。
全力疾走から段差に足をかけて急減速、傷を霧へかざすように堂々とした姿勢で、木の板へと矢を放つ。
既に刺さった一の矢を切り裂いて、二の矢がぴたりと同じ場所へ突き刺さった。
「おっ!? すっげ!」
キリは板に駆け寄って、真っ二つに割れた矢を満足げに眺める。
彼はひとしきり自尊心を満たしたあと、さっきよりも遠くまで行って弓を構え……ようとした。
なぜか転がっていたボールに足が乗っかって、つるりと滑る。
「なんだよ」
どこかの子供が忘れたのだろう。蹴り飛ばし、気をとりなおして弓を構える。
弦が空気を打ち、的へ突き立つ……はずが、空中で伸びてきた手に掴まれた。
……的のそばに、人影がある。
「あっ」
「何してるの? そんなに狩りへ行きたくないわけ?」
「よ、ヨミ……いや、これは……」
「傷が癒えるまでは大人しくしてるって誓ったでしょ?」
日が昇り、霧の薄まるにつれ、その少女の姿が露わになる。
幾何学模様の美しい民族衣装と白い肌、美しく垂れる黒髪。
妖精のようにかわいらしいが、しかしそれはヨミの本質ではない。
強弓のようにしなやかさと強靭さを兼ねそなえた表情が、彼女の資質を雄弁に語っている。
彼女は空中で掴み取った矢を右手に持って、キリの頭を軽く叩いた。
「おー中身の詰まってない音がする。楽器にしたら?」
「な、なんだよ! 別に傷なら治ってるし、腕を磨く分には問題ないだろ!」
「でも誓ったでしょ? なら言葉を裏切っちゃだめ。あんまり言葉を軽く見てると、嘘しか吐けなくなるよ」
「む、むう……とはいえ、狩りに備えて腕を鍛えなきゃいけないじゃん。傷が治るまでじっとしてたら、一から練習しなおしだよ」
「確かにね」
ぺぺん、とキリの頭を叩いて、ヨミは言った。
なんだよ叩くなよ、とキリが矢を取り返した。
「なら、少しだけ練習を見てあげる。内緒で」
「よっしゃ! 見て驚くなよ!」
キリ少年は大いにいきり立って、早足で的のある場所まで歩いた。
自慢したくて仕方がない、と誰でもわかるような調子だ。
ヨミは何かを見透かしたように小さく笑みを浮かべた。
「これこれ、見てこれ!」
キリは矢の上に矢が突き立った的を指差した。
その全身から自慢げな空気が漂っている。
「あーあ、矢がもったいない」
「何だよその反応。すごいだろ」
「うっかり矢をダメにしないように、ちょっとづつ間隔をあけて狙うのが普通なの。そんなんだから頭が楽器なのよ」
「うっせ、中身詰まってるし。詰まりすぎてかえって音が響くんだよ。そういう楽器もあるだろ……多分」
「無いと思うけど」
ヨミが刺さった矢を抜いて、キリに手渡す。
「ま、どれだけ上達したか見せてみなさい」
彼はよどみない動作でそれを矢筒へ収め、所定の位置に立った。
おおよそ十メートルといったところだ。弓としてはかなり近い。
だが、一撃必殺を狙う狩りの射撃としてはこれぐらいが適当な距離である。
それに、このあたりでは突然の濃霧で視界が無くなることは珍しくない。
年がら霧の立ち込めている土地柄、そして霧の中で戦うことを前提とした弓術。
ゆえに、彼らは〈霧の民〉と呼ばれている。
「よっ」
キリは弓を斜に構え、矢筒から弦へ手を往復させるようにしてなめらかに速射する。
最後の一発だけはまっすぐ垂直に構えて、中心をよく狙った。
木の板にマークされた中心点を、寸分たがわず撃ちぬく。
「ふうん」
ヨミはいくらか感嘆したようにため息を漏らし、刺さった矢を引き抜く。
「キリってさ、すごいバカっぽいけど案外バカじゃないよね。その斜めに構える速射ってオリジナルでしょ? なかなか効率いい方法だと思う」
「まあな!」
「矢筒から弦につがえるまでの動きを効率よくしようっていうのは、たしかに冴えてる。まあ、必要ない技術だと思うけど」
ヨミは静かに瞳へ闘志を灯しながら、キリの弓を要求した。
「〈リング〉は? おれのを使うか?」
「意味分かってる?」
「……あっ。な、なんだよ! そんなんじゃないし!」
わかりやすく赤面したキリを尻目に、彼女は懐から指輪のようなものを取り出して親指にはめた。
突起部分を引っ掛けて、弦を引くために使う道具だ。
……リングというだけあって、男女の間で受け渡すのはやや意味深になる。
一回渡せばプロポーズだし、往復すれば承諾だし、三回目は結婚の誓いだ。
彼女は垂直に弓を構え、矢をつがえた。
その右手には、小指と手のひらに挟むようにして、四本の矢がまとめて握られている。
「速射ならこっちのほうが速い」
目にもとまらぬ速さで腕が往復する。瞬く間に、四本の矢が的に突き刺さった。
的の上下左右へ、正確にズラされている。
「ね?」
「……ぐぐぐ……」
矢筒から引き抜いた最後の一本を構える前に、彼女はなぜか地面に落ちていたボールを拾った。
それを空中に放り投げる。地面に落ちるよりも早く弓矢を構えて、彼女は待った。
最適な瞬間に、彼女はボールへと矢を放った。
下半分を掠めるように矢尻がぶつかり、再び空中へ跳ね返る。
そして、ボールは四本の矢の間にぴったり挟まった。
曲芸だが、しかし彼女の技量を物語っている。
「キリもさ、もう少し物事を学んで頭の使い方が分かってきたら、もっといい弓士になるよ」
「お、おう……」
「いや、弓士なんかよりもっと遠くに行ける。そのためには、探究心と遊び心がないとね」
彼女はにこりと的に視線を走らせ、期待してるから、と言い残して霧の中へ消えていく。
かなわない、とキリは思った。
速射にしても精度にしても曲芸にしても、何にしても。
「……み、見てろよ! すぐに越えてやるからな!」
彼女は振り返らずに、小さくキリへ手を振った。
キリはさっそく小指でまとめて矢を握ってみる。
弦につがえようとして矢がぽろりとこぼれ、引き絞ってまた一本こぼれ、撃ったときに最後の一本がぐるぐる回って地面を転がった。
「す、すぐだからな……畜生!」
太陽の光がゆっくりと霧を散らしていく。
キリは日が昇りきるまでずっと練習を続けたが、二本握るのが精いっぱいで、矢は変な方向に飛んでいってばかりだ。
焦燥感がこみ上げるばかりで、一向に成果は出ない。
いい加減に切り上げないと見つかってしまう時間だ。
敗北感で胸をいっぱいにしながら、キリは家に戻っていった。
「ただいま、シネイおばさん」
「こんな時間までずうっとやってたのかい? あまり心配させないでおくれよ、霧の竜にでも食われたかとハラハラして……ほら、傷を見せてごらん」
「……いいよ、別に。 大丈夫だから」
キリの両親は、狩りで死んだ。
仲間を逃がすため、最後尾で獅子奮迅の働きをして、最後には笑顔で仲間たちに別れを告げ魔物の群れへ突入していったのだという。
それに比べて、引き取られた先のシネイおばさんと来たら、なんと軟弱なことか、とキリは思っていた。
体が弱くて、狩りどころか庭の手入れすらできない。……年をとっているとはいえ、おばさんと同じぐらいの年で狩りに出ているものもいる。
「そうかい? じゃあ、朝餉にしよう。 腹が減ってるだろう」
「別にいいよ」
「これこれ、体をいたわりなさい。あなたの親の血を引いてるのは、あなた一人なんですからね。親のように立派な狩人になるためにも……」
「……うるさいな。あんたみたいな軟弱ものが、おれの親を語るなよ」
彼は冷たく突き放した。
部屋に駆け込んで、扉を乱暴に閉める。
キリは少しだけ窓の外を見つめてから、背中から弓を降ろし、弦を外してヒビや傷の有無を確かめた。
掃除用の布で汚れを落とす。普段に比べて、手つきは明らかに乱雑だった。
「はあ……こんなんじゃ」
自然とため息をついた。
彼は作業を放り出して、ベッドで手足を伸ばす。
「追いつけない」
確かにヨミは少し年上だから、キリよりも上なのは道理だ。
しかし彼は、ただの年の差ではきかないような差を感じていた。
小さいころから、彼女の背中を見ているばかり。
このままではどんどんと遠いところに、キリが知らないような世界に消えてしまう。
……ヨミは、昔から物知りだった。伝承などは一字一句たがわず覚えているし、行商人が来たとみるや世界中の話をねだってまるごと覚えてしまう。
単に知識を知っているというだけではなくて、既に知っていることから別のことを導き出す力もあった。
そうしたとき、彼女の話には小川のように美しい流れがあってよどみがない。
きっとああいう人間のことを、天才と呼ぶのだろう。
……嫌だ。天才だとかなんとか言って、自分とは違うんだとあきらめたくはない。
彼女の隣に立ちたい。彼女が見ている世界を知りたい。
……ヨミの話を聞くのが好きだ。この霧の外に広がる世界のことを思わせてくれる。
キリははっと頭を上げて、赤面しながらベッドの上でもだえた。
まるで誰かにのろけ話を聞かれたような反応だ。
無駄にばたばたエネルギーを使ってひとしきり暴れると、キリはふたたび弓の整備に取り掛かった。
「……頭の使い方」
そうだ。ヨミに追いつくためには、たぶん、頭を使う必要がある。
とりあえず、まずはここからだ。
傷の一つからでも学んでやろうといわんばかりに、丁寧に観察と対処を繰り返す。
乱雑な手つきが徐々に平静を取り戻していった。
「……謝らなきゃ」
平静に戻ったキリは、自分の発言がどれほど刺々しいものだったか気づいた。
八つ当たりにしてもひどい。
彼は扉を開き、様子を伺った。
シネイおばさんは窓際に立って、静かに外を眺めている。
「あの……ごめん」
シネイおばさんはキリに気づいて少し驚き、そして柔らかな表情を浮かべた。
「謝らないでおくれ。 わたしのほうこそごめんなさいね、キリの気持ちも考えないで……」
「いいよ、別に……」
キリは何かを言おうとしたが、うまく気持ちが言い表せなかった。
とにかく謝りたい気分なのでごめんごめんと繰り返し、シネイおばさんがいんやわたしが、と繰り返す。
数回ばかり同じことを繰り返しているうちに、どちらからともなく笑いが込み上げた。
「ああ、すごい腹が減った。遅いけど、朝餉が食べたいな」
「ええ、いますぐに持ってきますよ」
パンとスープの質素な朝食だが、いつもと味が違った。
”食事はね、食べ物だけじゃなくて、場の空気も食べるものなの”という、いつかのヨミの言葉を思い出す。
だから仲のいい人と食べるご飯はおいしいし、嫌いな相手と食べたら味がしない、と続いた。
……親に比べて飯がまずいと思っていたが、先入観だったかもしれない。
改めてスープを味わってみる。いや、やっぱりまずい、とキリは思った。
それでも、少し優しげなまずさだった。
「お?」
窓の外に行列が見えた。
狩人たちと、それを見送るものたち。
屈強な大人たちに混ざって、ヨミの姿もあった。
黒色の大きな弓と矢筒を背負い、なぜか服の右膝のあたりからも六本ばかり矢が生えている。
服を改造して矢筒替わりにしたのだろう。相変わらずの発想力だ。
霧もすっかり晴れて、暖かな日差しが注いでいる。
「見送り……今日はいいか。まだ飯食ってるし」
夕方になればまた会える。 あのヨミがそこらの魔物と戦って命を落とすわけがないし、狩人たちの評価も既に高い。
彼女には劣るキリだって、大人に混ざって狩りに出れるぐらいの実力ではあるのだ。
ゆっくりと食事を終えて、部屋に戻る。
彼は矢を数本まとめて握って、弓を放つマネをした。どうにも保持が甘くなって、矢がぶらぶらと揺れてしまう。
握力ならば負けていない。何かコツがあるのだろう。
それに問題は、小指に握った矢をどうやって弓につがえればいいのか分からないことだ。
彼はひたすら矢を握り、力の入れ方を変えながら総当たりで試していく。
「お?」
うまくいったかな、と思った次の瞬間に、矢が指の間から抜け落ちた。
……弓を持たずにこのざまでは、実際に撃つことなどできやしない。
ならば、やる事は決まっている。
「よし。 練習だ」
キリはひたすら自室で練習を続けた。
怪我が治るまで弓は持つなという話ではあるが、持たずに練習する分には問題がない。
途中に昼飯を挟み、日が傾くまでひたすらに繰り返す。
才能で負けているなら、それだけ多くのものを費やさなければいけない。
ヨミに追い付くために。
「分かった」
小指に矢を握ったまま矢を放ち、そこで掌を返すのだ。
そうすると矢は前方へ向く。そこで弓を持った左手の指を伸ばし、一番上にある矢を指に引っ掛ける。
引っ掛けた矢の根元を手中で滑らせるようにして、掌を元の角度に戻す。
そうすれば矢が一本だけつがえられる状態で前方を向き、残りの矢は小指に握られたまま地面を向いている形ができる。
あとは通常通りに矢を放って、動作を繰り返すだけだ。
「こりゃすごいな」
大人たちが速射をするときは、もっぱら中指と薬指の間に矢をいくつも挟んで、そこから一本づつ引き抜いてつがえる射法が使われていた。
それに比べて、動作がずっと効率的だ。かわりに矢の保持が難しく、いまいち安定しない。
だが、習熟すれば間違いなく役に立つだろう。
キリは再び、弦を引くマネをした。
「キリ、キリ! 大変だ!」
……その一報が入ってきたのは、日も落ちかけた頃だった。
力の抜けた指から矢がこぼれる。
こすれて破けた皮膚の痛みも忘れて、霧の中をキリは走った。
空の赤色が、うっすらとした霧でぼやけている。この時間帯にしては、妙に霧が濃い。
キリは信心の深いほうではないが、今回ばかりは心のかぎりに祈った。
全速力で村を横断し、薬師の家の扉を蹴飛ばさんばかりに開く。
息も絶え絶えに弱弱しい姿のヨミが、ベッドに寝かされていた。
力なくしなだれた彼女の右手を、キリは強く握る。
「ヨミ! 何があった!」
「覚えてる? 霧の中の、竜の話」
「ああ、覚えてる」
「本当、なの。 伝承じゃ、ない……」
彼女は声をなんとかしぼりだすように言った。美しい民族衣装には傷跡がなく、出血や打撲の跡もない。
”霧の竜に食われた”という報告の意味が分からなかった。
こんなに綺麗な体のままなのに、なぜ彼女は命を落とそうとしているんだ?
「喋るなよ! しっかりしろ!」
「さびしく、ないか、って……きいたでしょ? 冴えてる……」
冴えてる。彼女の話に疑問を挟んだとき、たまーにキリが言われる言葉だ。
たいていの場合はバカだなんだとキリが一蹴されるばかりなのだが。
いつもは聞きたい言葉だが、今日に限ってはなぜか聞きたくなかった。
「あれも、さびしいんだ。 だから、わかってても……」
「ヨミぃ! もういい、安静にしてくれ!」
彼女は静かに首を振った。
普段の、さも呆れましたといわんばかりのジェスチャーとは違う、かろうじて体を動かせているような痛々しさ。
意味するところを、キリは確かに受け取った。
「……そんな」
「ねえ、キリ……」
ささやくような声で、彼女は言った。
握ったその右手は弱々しく、力がない。
「はなしのつづき、おぼえてる? きみが、さびしくないか、ってきいたあと……」
「ああ。 広い世界を見て回り、自然や人間の驚異で胸をいっぱいにしてるだろうから、寂しさの入る隙間なんてないよ、って」
彼女は妖精のように儚く微笑んだ。
……どういうわけか、その体が透けはじめている。
なんらかの魔法的な現象が降りかかっていることは確かだ。
「わからないのにね。たびなんて、したこと……」
「……」
「わたしの……」
ヨミは息を整えて、ふだんの強気さの片鱗を残した表情で、はっきりと言い切った。
「私の分まで、世界を見て」
最後の力を使い果たした彼女はそっと目を閉じた。
体が急激に透きとおっていく。
握った右手の感触が薄れていき、やがて完全に消え去った。
ヨミという人間など最初からいなかったかのように、後にはなにも残らない。
まったく何もかも。
こんな死にかたがあるなんて、知らなかった。
……ヨミなら、なにか知っているのだろうか。
キリは空になったベッドをぼんやりと眺めた。
「村の外に出たいって、言ってたよな」
彼は無意識に、右手の拳を強く握りしめていた。
ヨミは、こんな小さな〈霧の谷〉の村に収まるような器ではない。
そのうち出ていってしまうだろうと、昔から思っていた。
……置いていかれるかもしれないとは思っていた。
でも、こんな急に、こんな形で。
キリは右手をさらに強く握った。
血が一筋たれて、純白のベッドに赤色の涙滴を作る。
手の内側に、なにか堅いものがあった。
キリはゆっくりと右手を開く。
そこにあったのは、ヨミが弓を射るときに使っていた〈リング〉だった。
- - -
おれは首からかけたリングをはずし、指先でもてあそぶ。とくに模様もない、実用本位のデザインだ。
だいぶ小さくなってしまった。今となっては、とても親指になど嵌まらない。
……やたらとはっきりした「幻聴」だった。まるで、誰かの記憶が直接流れ込んできているかのような。
いや、最初からわかっている。
幻聴などではない。
霧の奥を強くにらむ。
おれが旅に出た理由は、ただヨミの遺志を受け継いだというだけではない。
他にも目的がある。
……そのなかでも最も大きな目的が、すぐそこに迫っている気配がした。
だが、今は後回しだ。
「しつこいやつだな」
おれは弓を背中から外した。
腰に身につけた矢筒から一握りの矢を抜いて、左手で弓と一緒に握りこむ。
あれからも、おれは鍛練を続けてきたのだ。
今となってはヨミの見せた技法より、さらに効率的な技をいくつも操れる。
……当時の、だが。彼女の背中は、まだおれの瞳に焼き付いている。
「諦めて帰る気はないのか? 殺したことにすればいい」
「愚弄するな」
霧の中から、長身の男が現れる。
革の鎧やマントの上からでも、よく鍛えていることがわかる体だ。
持久力重視のおれと比べて、ずっと重く力強い。
「我が妻を拐した男を見逃すほど、甘い男ではない。成さねばならぬ事は、成す」
彼は鞘から長剣を抜き放ち、両手で構えた。
……見覚えがある。あの夢見る少女じみた婦人の、夫。
なるほどしつこいわけだ、恨まれてもおかしくない。
「少しばかり夢を見せてやっただけだ。これに懲りたらもう少し構ってやれ」
「戯れ言を」
「これが本当なんだがな。人は誰しも旅人の面を持ってるもんだ。あれだけ過保護にされてるんだから、少しばかり冒険を求めても不思議じゃない」
人には誰しも、広い世界を見る権利があってしかるべきだ。
おれは続けたが、彼はまったく聞き流した。
「過保護で当然だろう! 今年だけで何人が暗殺されたと思っている!」
「政情不安定はあんたの責任だろ。おれに怒るなよ」
軽口を叩きながら、彼をじっと観察する。
冷や汗がひとつ流れた。隙がない。
構えはぴたりと安定し、重心は低く、脱力し、どの方向にでも踏み出せる状態を維持している。
相当な使い手だ。達人の域に入っているかもしれない。
あれだけの熟練者ならば、問題なく矢を切り払うだろう。
普通の射手なら勝ち目はないが、おれは〈霧の谷〉の射手だ。
霧の中での近距離戦闘こそおれの本分、〈霧の民〉の真骨頂。
「無駄話は十分だ。斬る」
重心移動と、それを補助するように動く足。
前に落ちるようにして、彼はぬるりと距離を詰めてきた。
左手に握りこんだ矢から一本を抜き、弓を引ききらずに速射する。
雷鳴のような袈裟斬りが矢を真っ二つに切り裂いた。
あまりに速く斬るものだから、時間稼ぎにすらならない。案の定だ。
おれは斜め後ろに走りながら、左手に握った矢を速射する。
彼が切り払うよりも早く二の矢を放った。
袈裟斬りから、走りながら軸足を切り替えて、刃を返さず斜めの切り上げ。
見事なものだが、前進速度がさすがに遅くなった。
それでも、おれが斜めに後退する速度よりは速い。
走りながら矢を次々に放つ。徐々に彼の巨体が迫ってくる。
だが、恐怖を感じているのはおれだけではないはずだ。
距離が詰まれば詰まるほど、矢を切り払うのは難しくなる。
体力の消費も向こうの方が激しいはずだ。
左手に握った矢を数える。あと四本。
彼の目線が、おれと同じところに集中していた。
この四本が切れた瞬間。その瞬間に、決戦が始まる。
すでに彼我の距離は五メートルといったところだ。
いくらか狙いをずらし、足元へ矢を放った。足さばきで回避される。
次は頭へ。最小限の動きで回避される。ちぎれた髪が空に舞った。
胴体へ。幾度も繰り返してきたように、斬撃が矢を切り払う。
最後の一本。
リズムを崩し、わざとタメを作って放つ。
放った瞬間、彼は地面を滑るように姿勢を低くして、一気に加速した。
矢が飛んでいる位置よりも低い。
右手を矢筒へ伸ばす。親指と人差し指で一本。小指で、三本。
無意識に、あのときヨミが見せた射法を選択していた。
彼は剣を構えたまま、タイミングを計っている。
おれは走るのを止めた。急速に距離が詰まる。
矢の狙いは、彼の頭。視線が絡む。
”相討ちになるぞ?”
狙う先でそんな脅しをかけても、彼に迷いはない。
度胸比べだ。焦れば負ける。おれは狙いを戻す。
矢が胸をまっすぐに狙い、剣がその狙いを軌道上に捉えたまま殺気を漲らせる。
交錯。
高速の剣撃が今まさに放たれた矢を切り払い、そして空を切った。
おれが身をかわすのが一瞬でも遅ければ、それで決まっていた。
彼は地面を滑って勢いを殺しながら、強引に振り向こうとしている。
ここだ。射手と剣士の交錯など、普通の人間は考えたこともない状況だろう。
だが、おれは選択肢をあらかじめ研究してある。
おれのほうが速い。
振り向き様に一発。彼は滑りながらも強引に、腕だけで切り払う。
小指から矢を滑らせて、姿勢が乱れたところへもう一発。
ほとんど倒れるような体の使い方で、彼はなんとか切り払った。
だが決定的に姿勢が乱れている。次はない。
最後の一発を構えて、おれは待った。彼は地面に倒れ、敗北を噛み締め、そして驚いた顔でおれを見上げる。
おれはまだ待っている。矢をつがえたまま。
「……おれに撃たせるなよ」
彼は倒れこんだまま、乱れた息を整えた。
仰向けに転がって、天を仰ぐ。
「強いな」
「ああ。おれのほうが強かった」
「ふん……少なくとも、"冒険"とやらの間じゅう我が妻を守るには十分だったか」
「危険には晒していない。ただのロマンスごっこだ。おれには本命がいる」
外を見たがる夢見る乙女に、街中を少しばかり案内してやっただけだ。
……乙女というには厳しい年だったが。あれだけで惚れるあたり、まあ精神は乙女だったのだろう。
「……信じよう。その鍛練に敬意を表して」
彼はゆっくり立ち上がり、剣を鞘に納めた。
おれも矢を弦から外し、矢筒へ納める。
そこらじゅうに切り払われた矢が散乱していた。
まるで戦場だ。
「おまえは何者だ?」
「ただの旅人だ。大したものじゃあない」
彼は訝しげな顔をしている。
「そうか」
「そうだ」
「……」
彼は少し考えてから、おれに質問した。
「アドバイスは?」
「必要ないんじゃないか? 十分に強い」
「そうではなくてだ。その……」
「……そっち? 知るかよ。あんたの頭なら夫婦仲ぐらい改善できるだろ。頭を使え」
彼は憮然とおれを見ている。
「なんだよその顔。助言を求めるなら他にいい相手がいるだろ」
「というと?」
「本人と話し合え。だいたいおれは独身で、所帯を持つ気もない。参考にならんだろ」
「むう……」
「それに」
おれは言った。
「いつまで愛する相手と話が出来るのか、誰にもわからないんだ。話ができるうちにたくさん話しておけよ。喧嘩になってでもな」
「そうか……」
彼は頭をかしげて唸りながら、くるりと元来た道を戻っていった。
あれだけの戦いがあって、最後はこれか。しまらない奴だな。
「前座はもう十分だろう」
おれは霧へと告げた。
……おれは各地を旅しながら、ある事を調べていた。
竜の生態だ。それも人間に飼い慣らされたような種ではなく、野生の、より魔法生物に近い古代竜の生態だ。
自ら文献を読みときながら、学者たちと話し合い、そして温厚な竜に直接会って話を聞いた。
そして何より、頭を使った。
そうしているうちに、いくつか分かったことがある。
遠い昔に〈霧の竜〉という名の、霧に隠れ住む竜がいたこと。
人に討伐されたこと。生まれ変わるだけの力を持つ竜だったこと。
そろそろ〈霧の竜〉が生まれ変わって出現してもおかしくない時期だということ。
これらと他の情報を合わせて考えた結果、ある推論が完成した。
「そろそろ姿を表したらどうだ、〈霧の竜〉!」
霧へと叫ぶ。……幻聴が聞こえてくるのは、今回が最初ではない。
今までに何度もあった。そして幻聴の内容に共通しているのは、その会話が行われた時に、自然現象ではない不自然な霧が出ていること。
これはおそらく、記憶の共鳴だ。
「おれを見ていたろう。あの頃からずっとだ!」
なぜおれに目をつけたのか? それはわからない。
"キリ"という名が悪いのだろうか?
あるいは……この霧の中に、おれを知る誰かが居るのか?
ともかく。十分な情報と装備を揃えた上で、この”当たり”の霧……霧の竜が潜んでいる濃霧と関わるのは、これが初めてだ。
「あんたの状態はわかっている! 転生に失敗して魂が欠落しているんだろう、近づいた相手の魂を奪ってしまうんだろう!」
ヨミの死に様と似たような死を、おれは旅の途上で見た。
悪魔と契約した強欲な男が、その末に魂を奪われた瞬間だ。
ヨミと同じように体が透き通り、あとには何も残らない。
そう。あれは、魂が奪われた人間の死に様だ。
……何が起きたのか分かっていれば、対策出来る。
おれは懐から護符を取り出して、霧にかかげた。
「おれの身は守っている! 心配は無用だ、出てこい!」
霧の奥で、何かの影がうごめいた。
それには鋭い爪がある。なだらかな曲線を描く胴体がある。
そして一対の翼がある。
だが、古代竜というには、あまりにも小さい。
人間や馬よりも大きいが、象よりは小さい程度だ。
霧がひとりでに裂けていく。
美しく輝く銀色の鱗を持った子竜が、その先でたたずんでいた。
かかげた護符がはげしく振動して、火傷しそうなほど熱くなっている。
……くそ、あの学者の皮を被った狂人め。
作ったときは、絶対に大丈夫だなんだと太鼓判を押していたくせに。
きっと、護符が失敗したら失敗したでデータが取れる、とか思っているに違いない。
「だ、大丈夫なの?」
甲高い、少年のような声で子竜がたずねる。
何事もないような調子で、ああ、大丈夫だ、と答えた。
まったく大丈夫ではない。護符が壊れたら、おれの魂まで取り込まれてしまう。
だが、相手は子供だ。親すらなく、自覚なしにたくさんの人を殺してしまう定めを持って生まれてきた子供だ。
下手に心配させれば、また霧の奥へと隠れてしまうかもしれない。
「かつておまえと誼を結んでいた古竜から、おまえに必要なものを預かってきた」
おそらく生まれ変わりに失敗したのだろう、という推論を立てたおれは、ある古竜にその対処を聞きに行った。
はっきり言って尋常ではない、数年にも及ぶ旅路だったが、ともかく成果を持ち帰ることには成功したのだ。
「これだ」
おれはひとつの果物をかかげた。
赤い果実のなかで、脈打つように金色の光がうごめている。
子竜がじっと、その光を見つめた。
「世界樹から収穫できる〈魂魄の果実〉。更に竜の祝福を込めてある。魂の欠落を埋めるに十分な力だ」
食べれば不老不死になれる、という噂のある、極めて珍しい果実だ。
……売れば間違いなく大金持ちなんだが。金に変えられないものもある。
おれはゆっくりと、〈霧の竜〉へ歩み寄った。
護符があまりに熱すぎるものだから、手との間に袖を挟む。
振動ははげしくなる一方。今にもすっぽ抜けそうだ。
「……これ以上は近寄らないほうがよさそうだ。投げていいか?」
「うん」
〈霧の竜〉はそのあぎとを大きく開き、じっと魂魄の果実へ視線を注ぐ。
なんだか、子犬とボール遊びでもするような気分だ。
ボール遊びと違って、万が一にも失敗するわけにはいかないのだが。
この実は非常に脆い。
「いや、やっぱり転がそう」
「ええー」
遊んでくれないご主人様を前にした飼い犬のように、〈霧の竜〉は不満を表した。
……まあ、思っていた通り、彼の精神が子供であることはよくわかった。
ヨミの言っていたことを思い出す。
「寂しくないかって聞いたでしょ? 冴えてる。あれも寂しいんだ」
……だから、分かっていても人に近寄ろうとしてしまった。
霧の竜に食われたという話だが、実際はただ遊ぼうとしたとか、つい近寄りすぎたとか、その程度のことだったのだろう。
「ほら! 絶対潰すなよ!」
魂魄の果実が地面を転がり、そして奇妙に突き出していた石に当たって跳ねる。
当然、そして、落下に転じる。
潰れてもおかしくない高さ。
「げっ」
おれの体が無意識に動いた。
矢筒からすばやく矢を抜き、ものすごく弱めに弓を引いて撃つ。
実の下半分をぱしりと叩き、つぶれない程度に落下速度が弱まった。
ふわりと着地した実は、そのままころころ転がって、口を開けて待つ〈霧の竜〉の中へと入っていった。
「あ、危なかった……」
転がすのもだめだ。次があったら、置いて取りに来てもらおう。
いや、次なんてないが。
「う、うえっ」
「だ、大丈夫か!?」
〈霧の竜〉はものすごく辛そうに顔を歪めている。
すぐさまうるうる涙があふれてきて、銀の鱗を濡らした。
「すごい苦い」
「……ちゃんと飲み込めよ」
「飲んだよ」
「なら良し」
心配して損した。
護符の振動が収まり、赤熱した紙が徐々に冷えていく。
外見には特に変化がないが、どうも魂の欠落とやらは埋まったのだろう。
……と思いきや、今度は別のものが振動しはじめた。
首もとでばたばたと、何かが暴れている。
おれは思わず笑みを漏らした。
そうだ。欠落した魂を、人間の魂を集めて無理矢理埋めていたのだ。
そこへ別の魂が入ったら、人間な魂は余分な荷物になってしまう。
あくまで可能性だが、それはつまり、そういうことだ。
おれはヨミのリングを首から外して、〈霧の竜〉に近づける。
遺品やあるいは思い入れの深い物品。死霊術で魂を呼び起こすときには、そういうものが必要なのだという。
なら、竜のなかで眠る魂を起こすにも使えるはずだ。
……リングがまばゆく、太陽のように輝いた。
目を閉じても、まだ光が焼き付いている。
「やっぱりね」
よく覚えている声だ。幻聴で聞いたものと、まったく違わない。
おれは目を開いた。彼女の姿は、覚えている少女のものと違った。
外見から判断すると、同じぐらいの年だ。
妖精のようなあどけない美貌はさらに美しくなり、成熟した色香を放っている。
彼女の手の内に、リングが握られていた。
「ただの弓士に収まる器じゃないと思ってた」
「そうか」
「あれだけ努力を続けられるんだから、そのうち追い抜かれると思ってた。若き天才が年を取ったら凡才なんて、よくあることだし」
「そうか」
「私を置いて、どこかに行っちゃうと思ってた」
「……そうか……」
なんといえばいいのか分からない。
言葉を操るのは、昔から苦手なままだ。
少なくとも、たぶん、感動していることは間違いない。
「でも」
彼女は満面の笑みで言った。
ヨミのこんな顔を見たことが、今まであっただろうか?
「期待は裏切らなかったけど、予想は裏切ってくれた。ずっと遠い場所まで歩んでいったけれど、私のために戻ってきてくれた」
彼女はおれの右手をつかんだ。
ちょうどあのベッドのときと正反対に、向こうから。
「あの頃のキリは分かりやすかったけど、今のキリはどう思ってるのか、もう私じゃ読めないな。だから」
気持ちを声に出してほしいな、と言われた。
うまい表現も美しい装飾も思い浮かばなかった。
「好きだ」
ときには、最も単純な答えが最も正しいことがある。
今がそうだ。
おれは身を乗り出し、接吻を交わした。
長く熱い接吻だった。
遠く離れていた距離も年月も一瞬で引き戻してしまうほどの。
ヨミはおれの右手薬指に、なにかを嵌めた。
首飾りにしていた、ヨミが使っていたリングだ。
驚くべきことに、親指には入らなくとも、薬指にはなんとか嵌まるサイズだった。
「いやあ。こんなに早く家族ができるとは」
彼女は感慨深く呟いた。
「は?」
彼女はとまどうおれの右手を掴んで、おれ自身のほうに向けさせた。
「父親」
次にヨミを。
「母親」
そして〈霧の竜〉を。
「子供」
「え? えっと、お父さんと、お母さん?」
「よくできました」
〈霧の竜〉の頭を撫でながら、ヨミは笑った。
昔と同じく、闘争心が目に灯っていた。
「ちょっと待て。おれはまだ所帯持ちになる気は」
「いやいや。あのリングは、まず私からキリに渡して、さっき戻ってきて、今渡したでしょ。ほら、結婚の誓い」
「……いや、しかし……こう……旅とか……できないだろ。家族だと」
「先入観だよ。だいたい旅ならこれからしなきゃいけないでしょ? 〈霧の竜〉の中にまだ眠ってる人間の魂を、もとの場所に返していかなきゃ」
「そ、それは確かにそうだな」
「まさか私を放置して、一人で旅するなんて言わないよね?」
「お、おう……いや、てっきり二人きりで旅をできるものかと……」
……ま、まあ、そんなに悪くない、のか……?
そう思うことにしよう。うん、まあ、幸せなことには違いない。
霧の竜だって、家族ができて幸せそうだ。
「ヨミさ、今のおれが読めないとか言ってたけど、嘘だろ」
「何のことかな」
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後日。
世界各地で、空を飛び回る銀色の竜が目撃された。
その背には、妖精のように美しい女性と、じゃっかん立場の弱そうな男が乗っていたとか。
めでたし。