倭人の漁労民モデル
何度も意見を変えると思われるかもしれないが、O1b2はひょっとしたら満州地区で生まれた可能性がある。O1b2は北上したのではなくて南下した可能性がある。これ中国での民族移動を複数回に分ける必要がある。どうも決まりきった話しで、戦国時代の南方国家の滅亡が弥生人の元になったと言う説があまりに安直に広がってるからになる。
だがこれ私が支持する斉藤教授の3段階モデルに合わない。それは単純に1回の出来事で弥生人の渡来を片付けようとしてるからに成る。ただし、劇的な遺伝的変化があったのは重要なのはほぼ1回になる。それは戦国時代じゃない、単純に灌漑式水田稲作の渡来からになる。実際はここから後は何度も来てるが遺伝的変化がわからないので無視されてるだけだ。
戦国時代の渡来はこの分からない時代の可能性がとても高い。
じゃ何故南下したのか?で漁労になる。そもそも地域に固定される概念が多分漁労民には無い。O1系の漁労民が中国の海岸沿いに広く分布していた。それ答えで、そこから北部で生まれて南部にも広がっただと見ている。そもそも日本にやってきた重要な稲作は山東省発祥であり、長江文明ではなく時代はずれるが黄河文明や遼河文明になる。
血族ではない緩やかな文化ネットワークの倭人連合として伝播しただけだと見ている。そうなると遼河の付近で発生して広がった無文土器の広がりに説明が付く。南からやってきた血族集団が日本に来たのじゃないと見ている。無文土器のルーツが南方であるのは問題が無い。それをO1B2と言う長江で生まれた血族がまとめて移住して持ってきたというのとは違うと思う。
もっと緩く中国海岸沿いに父系O1系の集団が文化ネットワークを作っていたと見ている。この集団は漁労が主であるため、特定の固定化された定住地という概念と違うと側面を持つ。分かりやすくいうと、スキタイととても似ている。スキタイの大半は農業スキタイであったと言う点。漁労が主である集団や農業が主である集団など多分分かれていたと思われる。
正確には南下ではなく、交易や漁労の面が強い場合は、特定の地域に固定化された集団じゃないという点。
はっきりと考古学的に分かってるものとしては、黄河文明の南下がまずある。これはほぼNやD1A系と混血したO2系で説明が付く。時期は違うがミャオ族もこの系統になる。これが何故考古学的に明らかなのか?分かるかと言うと北方適応した人骨の混血の跡が見られるからになる。これがベトナムで確認されるのが4000~5000年ほど前になる。
ただし中国では2回の南下がある。アボリジニに近いC系集団が初期にいて、C1系のオーストラロイドがアジア南部の人種だったと考えられる。この次に北方適応してないO系の集団で特にO1系の集団がこれらと混血したと思われる。復元された顔を見るとやや東アジア人に近くなるのが分かる。明確に骨の専門家も、この集団は北方適応して無いが、オーストラロイドとは違うとの見解を出している。
この前にC2系の北上と言うイベントがある。ただこれは全然時代が違う旧石器時代になる。これは朝鮮半島の歴史と関係する。朝鮮半島の最初の土着したグループはC2系だと思われる。というか朝鮮付近になる。明確に半島に土着したとは言えない。その前にC1系の北上がある。日本に残るC1A1以外はいなくなってしまったようだが、過去の遺跡からはC1系がシベリアなどで見つかる。
1度目のこの南下の原因は中国北部の寒冷化に伴う乾燥化じゃないか?と見ている。ただしこれは大きなイベントとして1度にしたが、スタートである、この後何度も起こる寒冷時期による農作物の不作は北部民族の南下を引き起こしている。
じゃ2度目が何故分かるか?ならそれは歴史時代に記録が残ってるからになる。華夏民族の拡大となる。文明人としての拡大と、雑多な北方民族の南下は意味が違う。O1B2はこの1度目の拡大で南下したのではないか?と見ている。時期的には大体生まれたばかりで合う。しかもその後の華夏民族の拡大と戦争も含めて追いやられるのも含めるともっと後の時代の変異も取り込んで南に広がった可能性がある。
以前まで考えていた長江文明の崩壊による離散。このシナリオは南下したO1B2の2度目の拡散なのじゃないか?と見ている。
とてもややこしいのだが、長江文明の崩壊は、洪水と北部民族の南下がほぼ同時ぐらいに重なっている。これは意味があるかもしれない。急激な寒冷化の後に大体揺り戻りとなる温暖化がやってくる。これによって河川の氾濫や海からの侵食があった可能性がある。
ここにやっかいな問題が絡むのだが、稲作の北限の拡大がある。これと絡んで夏王朝と近い集団だった可能性のある、長江文明の後裔となる民族の崩壊に伴う北上がある。私はこれらがO1b2の北上だと思っていたが、多分O1B2は南下後にこのイベントで4方に離散したと見ている。
しかも南下という明確な形じゃない。そもそも固定化された故地って概念が薄い集団だったと見ている。
そもそも長江から弥生式水田は広がったのではない。どちらかと言えば渤海よりに故地があるO1B2が山東省の稲作文化共有して広げたと見ている。O1B2の民族の移動があったのか?はなんとも言えない。それと言うのも明らかにすべては山東省から始まってるのに、ここにO1b2がい無さ過ぎるので、文化的な繋がりを持った集団だったのではないか?と見ている。
N系の母系集団であるD4系の血族集団だったのではないか?と見ている。渤海沿岸の半農漁労集団は、たまたまその父系がO1B2多かっただけじゃないか?と見ている。山東省にO1B2の集団が大量にいて民族ごと移動したというのは考えにくい。後で滅びてしまうほど、当時から薄い分布だったのじゃないか?と見ている。
民族として移動したのは母系D4のN系が多い漁労集団だったのじゃないか?と見ている。C2やD1Bが壊滅したのは、スンダランドの消滅と、旧石器時代と言うかなり古い時代だったせいが大きくて、ここまで長江流域は仕方ないとしても、弥生式水田の発祥の地である山東省からO1B2が消えてしまうというのは民族大移動では不自然だとやはり思う。
3段階モデルのためにどうしても必要なものとして漁労民としての倭人の存在がある。そのためにすべてを組みなおした。元々私はO1B2の北上モデルは好きじゃない。それは戦国時代の呉の崩壊に全てを求めるからになる。そういった人達が日本に来たのは間違いないと思うが、その時期を大陸系北方適応民族の遺伝子流入の時期として統一したくない。
その倭人の中で日本語を操るO1B2の中心的な故地は渤海湾だろうと見ている。倭人とはおそらく統一された血族言語集団じゃない。緩やかな漁労半農文化圏で、これに後に稲作の北上とともに水田稲作が農業の主体を絞めるようになったと見ている。これを水田稲作を中心に考えるとおかしくなる。
そもそも金属器と水田稲作を同じ文化で見るべきじゃないとの指摘がある。調べてみるとこの時期は鉄器や青銅器でもずれているし、必ずしもセットではない。じゃ何故これらがセットになりやすいのか?ここで、江上氏の発想が重要になる。騎馬民族=天皇は下らないと思ってるが、それでも江上氏の漁労と騎馬民族は遼河において密接な関係があると言う指摘はかなり鋭い。
殷と東夷の関係がまさにその典型モデルだからになる。殷はおそらく、内蒙古に広がる遊牧民、この民族は遼河文明と密接に関係している。それは北荻と東夷は明確に分離できるものじゃないと分かる。あの分類は、殷後の発想で、それらの発想が出来る前の殷自体はその辺りかなり複雑な出自だったと見ている。
これらの遊牧民が後に騎馬民族化したのだ。稲作と漁労も単純にセットにしてみるべきじゃない。それにはタイムラグがあり、これが3段階モデルの重要な根拠になっている。稲作は当時からあるが、弥生時代の労働集約的な山東省式稲作はまだ誕生してなかった。この時期の倭人の生業が無視されてるためいまいちきりっとした話しにならないと見ている。
ここから私は天皇は漁労民だと見ているんだ。縄文人が渤海に住んでいたなんて飛躍は思ってない。血族言語がばらばらの漁労文化圏としての日本地域の集団が天皇の出自だと見ている。やがてここから倭人の半島日本への進出が始まる。この時期に日本で倭人集団と日本列島で混血して天皇家は弥生人の元となる民族になったのではないか?と見ている。
これらの集団の中で自然と新しい弥生式水田の伝播が当たり前の様に広がるのは全く自然だと思ってる。そもそも、日本の水田はかなりの部分船で広がっている。これと全く同じ事が、大陸から伝わってきたと考えてもおかしくはない。
私は天皇家を系統的にはD1B系の文化的には渡来系弥生人だと見ている。水田稲作によってグループに加わったのではなくて、すでに漁労時代に倭人文化圏に日本生まれの縄文人として日本地域で混血によって参加していると見ている。天皇家が仮にD1B系であっても日本古来の縄文文化の継承者だとならないと見ている。たまたま父系が日本固有の系統だったに過ぎない。
ハプロを使って、D1Bは縄文系、O1B2は弥生系などと言うのは単純極まりない下らない発想だと私は見ている。天皇家は第3段階目の弥生式水田稲作の流れに乗った漁労民のグループだと見ている。ひょっとしたらそのグループと血族関係になってる可能性もかなり高い。
日向の国じゃなくて、北九州の日向出身だという説に私は同意する。どうみても天皇家は渡来系弥生系集団に近い。しかも水田稲作じゃなくて、金属器の流れで渡来人と結びついた可能性が高い。ある意味騎馬民族征服説に近い。漁労と騎馬民族全く繋がらないが実際は繋がってると見ている。金属器文化は騎馬民族の流れだから。
馬が同時に入ってくる必要は無い。
ただし南方民族が日本に来てるのは間違いない。それが父系O1B2だと決め付けるのは問題があると思う。稲の北限の拡大、これによって山東省に南方の民族が広がっていくのは間違いない。それはO1B2だったと決め付けるのが早計だとなる。遺伝子の流れとハプロを単純に一致させるべきじゃない。
ハプロは所詮直系に過ぎない。この山東省に広がった稲作を山東半島と遼東半島で船を使って伝播させたのは間違いなく南方系にルーツを一部もつ集団になる。何故それをO1B2だとするのが問題なのか?弥生式水田が生まれた山東省にO1B2があまり居ない。直系に囚われるのじゃなくて、遺伝的なつながりのある集団としてぼかしたほうが良い。
2つの理由から南部からの移住があったのは明白。1つは下戸遺伝子になる。これはその後北方の中国人や遊牧民と混血した半島人や満州人よりも高い比率を示すため、明確に南部出身の中国人が日本人に色濃く遺伝してる証拠になる。次に、HLA分析で、直接的な血族はもう残ってないが、兄弟関係の血統的な繋がりがある点。これがおそらくO1B1の集団だろうと予測できるため。
ただし、母系直系に関しては、山東省、満州、朝鮮半島はとても近い。同時に日本もこれに縄文系を加えてかなり近い。父系直系はあまり真面目に遺伝的繋がりで考えるべきじゃない。山東省の母系直系はものすごく渤海湾を中心とした同一血族集団であるのを意識させる。
別に長江から北上したでも良いけど、私の主眼は、長江文明じゃなくて、元々は遼河文明に属する半農半漁の渤海湾の倭人こそが弥生人(3段階モデルの場合2段階目は縄文時代人になる)のルーツだと見ている点。人種的ルーツの一部がそうだったとしても、呉越の文化圏の末裔ではない。
訂正:元々O1B2はあまり重要じゃない。今回の主題は渤海湾沿岸を中心に活動していたって話しで、突然北上して日本にやってきたって考えは無い。訂正するのはO1B2が中国東北部で生まれたは苦しい。これ勘違いしてた。半島の系統と、日本の系統が別れたのと、O1B2がO1B1と別れた年代を間違えていた。これは大きな勘違い。
年代から考えて北方で生まれたというのはちと苦しい。何故か?と言うと、あの付近は古代N系が大半を占めていて、これが崩れ始めるのが、5000年ぐらいになる。
割合的に低いので、遺跡からは漏らしてしまった可能性は高い。それでも、1万年以上前から中国東北部にO1Bがいたというのはちと苦しい。あくまで、渤海湾中心に有る程度の長い年月活動していた民族で、決して戦国時代に呉越が滅びたため日本にやってきた系統では無いと思う。
ただし、呉越の滅亡で、北上した民族が日本に来たというのは事実として捉えて良いと思う。それがすべて弥生人=O1B2のルーツだというのは違うと思う。




