1.三人のクラスメイト
「おはよう、朝比奈さん」
朝の早い時間帯、まだ登校している生徒がまばらな昇降口で、葵は同じクラスの相原和彦に声を掛けられた。スリッパを取り出そうとロッカーに掛けた手を止め、声を掛けた少年へ顔を向ける。
「お、おはよう」
それ以上は上手く言葉が出ず、そんな自分を誤魔化すように慌ててロッカーから緑色の塩ビ製のスリッパを取り出して履き替え、通学に使っているスニーカーをロッカーに放り込む。
「おやおや、朝っぱらから男子とツーショットとは、隅に置けないねえ」
向かい側のロッカーから、ひょっこりと含み笑いとともに上田裕美が顔を出す。
裕美も、葵や美穂と同じくバス通学のため、必然的に一緒に登校することになる。今朝のバスでも、朝からどこにそんな元気があるのか、と問いたくなる程ほぼ一人で喋っていた。
「なあに、恥ずかしがることないじゃない。高校生にもなれば恋の一つや二つ! あ、でも相原君がお相手だと、いきなり美穂と修羅場になっちゃうかも……」
「バカ言ってないで教室に行くわよ、ホラ!」
一緒に来ていた美穂が、葵と和彦に「ごめんね」と申し訳なさそうに言うと、慣れた手つきで自分の腕を裕美の腕に絡めて引っ張っていく。
じたばたと暴れ、文句を言う裕美を、美穂は小柄な体で懸命に引っ張っていく。
「…… そろそろ教室に行こうか」
二人の姿が遠くなるのを見送り、和彦が言った、それに葵は黙ったまま首を縦に振った。
教室棟へとつづく渡り廊下を二人は歩いている。ふと、葵は自分の隣を歩く少年を見る。
葵が大柄で、肩幅もしっかりとしているせいか、彼女に比べ、線が細い印象がある。背も少しだけ葵の方が上になるため、若干、和彦を見下ろすようなかたちになる。
「……ねえ、あの二人は?」
葵が、めずらしく一人で登校してきた和彦に、いつも一緒にいる二人の男子生徒のことについて尋ねる。
「ああ、誠と慎二のことかな? 二人ならもっと後に来るんじゃないかな。今朝いったら二人とも随分と遅くまで起きてたみたいだから熟睡中だったよ……。今頃はおばさん達に起こされてると思うよ。慌てて教室に駆け込むなんてことにならなければいいけど」
そう言って普段のすまし顔とは違う、年相応のいたずら好きな少年のような笑顔を見せる。人当たりがよいが、どちらかと言えば人と距離を取って接する少年の意外な顔を見て、葵は興味を覚えた。
そうこうしているうちに二人は教室についた。教室に生徒の姿はなかったが、荷物が置いてある机がちらほら見えることから、何人かの生徒が既に来ているのだろう。どこか違う教室に行っているのかもしれない。
まだ席替えを行っていないため、葵と和彦の席は入学当初のまま、隣同士になる。
それぞれの机の横に通学バッグを掛け、教材を机の中にしまう。
この広い教室に、今は少年と少女の二人しかおらず、他の生徒もまだ教室に戻ってくる様子はない。
既に教材を入れ終え、着席している和彦に対して、この機会に、葵は常々疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「ねえ、相原君はあの二人とどういう関係なの?」
「どうして、そんなことを聞くのかな?」
「何でかって……、あの二人はどう見ても相原君とまるっきり違うタイプの人じゃない」
これは、葵にとっての率直な疑問であった。誠は言ってみれば、手のかかるやんちゃ小僧がそのまま高校生になったような感じがするし、慎二にいたっては、何を考えてるのかよく分からない雰囲気を持っている。二人とも、和彦と合うようには思えないタイプだろう、と思えてしまうのだ。
「確かにそう見られることは多いね。けど、だからこそ逆に気が合うのかもしれないよ。それに、二人とは小学校の頃からの大切な友達だしね」
二人の話をしている和彦の顔は、随分と嬉しそうであった。
「朝比奈さんは? 今朝の二人、高橋さんと、あの元気な子とはいつから友達だったの?」
お返しに尋ねられ、葵は恥ずかしくなり、和彦から逃げるようにして視線をそらす。
「……友達、と言えるのかどうか分からないわ。中学の時は勝手に上田さんがちょっかいをかけてきただけだったし、高橋さんとも、まともに話したのはこの学校に入学してからで、中学の時はむしろ怖がられてた。こんな顔だし、ね」
自分の顔を指さして、自嘲気味に笑う。
「だから、分からないのよ。二人のこと、嫌いじゃないけど、好きになれるのか、友達になれるのか」
「心配しなくて良いと思うよ、僕は高橋さんとは同じ部活だから知ってるけど、とても感じの良い子だよ。それに、嫌いじゃないってことは好きになれる可能性があるわけだから。それにほら、男の僕ともこうやって話が出来るんだから、ね」
和彦は優しげな笑顔を葵に投げかける。
とその時、何者かが背後から、うつむき加減の葵の首に腕をかけてもたれかかってきた。
「そーだぞ葵! 男子といちゃつく度胸があるんだから、女子同士で仲良くなることのどこに恐れることがある。そうじゃないの?」
葵に組み付き、閑散とした教室に響き渡るような大きな声で喋っているのは、件の少女、上田裕美その人であった。
「ちょ、ちょっと、離れてよ!」
「女同士なんだからいいじゃん! スキンシップ、体のおつきあいも大事よ」
裕美にしがみつかれた葵は恥ずかしそうに顔を紅潮させる。振りほどくことは簡単であったが、先ほどの会話が頭をよぎり、強い拒絶が出来なくなってしまい身をよじらせることしかできなくなってしまった。
「……いつからそこに?」
突然の来客に、和彦はあまり状況を飲み込めていないようであった。
「ついさっき来たばっかよ。あんまり仲良さそうだったから、ついつい驚かしてやろうと思ってね、こっそり教室の後ろからこう、ガバーッとね。そうだよね、美穂?」
「知らないわよ。話しかけないでくれる?」
裕美が、後ろを振り返り美穂に同意を求めると、友人として恥ずかしいのか、彼女は明後日の方向を向いて無関係を装っていた。
「ねえ、本当にそろそろ離れてくれない?」
葵から離れた裕美は、屈託のない笑顔で和彦を見た。
「あたしは上田裕美、君のことは美穂から聞いて知ってるよ。これからよろしくね」
「は、はあ。高橋さんから、ね」
和彦は呆気にとられ、戸惑った様子を隠せないでいる。
「うーん、それにしても、とても女の子二人をコロリといかせちゃうようなプレイボーイには見えないんだけどねぇ」
「な、何の話なのかな」
「いやねえ、美穂が随分と嬉しそうに君のこと話すもんだからねぇ。あんな美穂を見たのは初めてだったのよ。これは間違いなく彼女にも春が来た! ってね。で、どうなの? 美穂のことは」
興味津々の表情で、机と椅子の背もたれに手をついて、退路を断つように和彦に詰め寄る。それこそ顔と顔がくっつきそうなほどだ。端から見ると裕美が和彦に迫っているようにも見えてしまうのだが、当の彼女はそんなこと気にしている様子が全然ない。
そんな無防備に少年に迫る裕美とは対照的に、異性に至近距離まで近寄られた和彦は目のやり場に困り、いかにもやりづらそうにしている。
「はいはい、そこまで。あんまり変なことを聞いて相原君を困らせないでよね。クラブの時に気まずくなるのはこっちなんだから、もう教室に戻るわよ」
美穂は裕美の制服の袖を引っ張り、和彦から引き離す。
「まあ、でも君、おもしろそうな子だね。またこれからも遊びに来たらよろしくね」
軽いウィンクを和彦に投げかけると、文句を言い続ける美穂を連れだって教室を去っていった。二人が去ると、そこは嵐が過ぎ去った後のように静けさが戻ってきた。
「随分と賑やかな人だったね」
葵は「そうね」と相づちを打つことしかできなかった。
それからしばらくして教室にはちらほらと生徒達が登校し始め、教室は途端に騒がしくなってきた。和彦の言ったとおり、近藤誠と櫻井慎二はアクビをしたり眠い目をこすりながら予鈴が鳴る直前になって教室に早足で入ってきた。
昼休み、春の陽気が降り注ぐ各校舎の最上階をつなぐ渡り廊下で、昼食を終えた葵は、裕美と美穂と一緒に、三人で残りの休み時間をつぶしていた。
裕美と美穂は、コンクリートで固められた塀にもたれかかり、塀の向こう側に見える学校の外に広がる景色をただボンヤリと眺めている。葵も、塀に背中を預け、体重を支えながら、小さな雲が漂う、どこまでも澄み切った蒼い春の空を見ていた。
中庭や、校庭からは談笑する生徒や、昼の短い時間を利用して運動場でスポーツを楽しむ上級生の姿も見える。
彼らのはしゃぎ声と、鳥たちのさえずりが、一層この場所の静寂さを際だたせる。
「平和だねー、とても隣町で事件があったようには見えないわ」
塀の上に両肘を立てて頬杖を突き、食後のせいか、眠そうな眼で校庭を見ながら言った。
「本当はみんな恐いと思うよ。二年前には東京でテロ事件があったばかりだし、だけど、皆はだからこそはしゃぎたいんじゃないかな? はしゃいでおきたいんだと思うわ」
両腕を支えにし、裕美の方を向いて美穂は言う。
「面白味のないお返事、どうもありがと。まあ、確かにここ最近、世の中ロクでもない事件ばっかだけどね。去年は地球の裏側で日本領事館が占拠されたし。でもって一昨年は東京でテロでしょ。世紀末さながらだよね。ところで葵はどう思う? 例の事件のこと」
自分とは正反対の方向に体を向け、空を見上げている葵に視線を向ける。
春の強い風が渡り廊下を抜け、スカートで隠された三人の膝上を露出させ、葵と美穂の長い後ろ髪をくすぐる。
やがて風がおさまると、葵はゆっくりと視線を、空からコンクリートの地が露出する地面へと移した。
「昨日、お兄……、兄さんから電話があったんだけど、東京と横浜でおきた事件とどうも似てるみたい。突然なんの前触れもなくいなくなるって……。今回の事件と関係あるか、それはわからないけど、でも、こんな事件や、二年前のような事件は起こって欲しくない。それだけは思うわ」
言い終えると、葵は、難を逃れたものの、その眼でテロの惨劇を目撃してしまった兄のことを思い出し、やりきれぬ思いに駆られ、目を伏せる。
「はあ、それにしても、隣のクラスの水原とかいうヤンキーみたいな奴も、最近来てないみたいだし。何なのかな、まったく」
裕美の発した名前を聞き、葵は昨日に駅前の盛り場で目撃した少年のことを思い出す。
「上田さん、その水原って人のこと、もう少し詳しく教えてくれないかしら?」
裕美の証言によって、水原という生徒と、葵が昨日に見た少年との特徴が一致した。
葵は昨日の夜に、その生徒に似た少年を駅前の繁華街で見たということを裕美に告げた。
「なんか、臭うわね。学校に来ない、夜の繁華街で見かけた、となると、もしかしたら外のお友達と何かしがらみでもあるんじゃないかしら」
そう言うと、裕美は葵の方をちらりと見る。
「何? やっぱ気になるの?」
葵は黙ったままであったが、そんな彼女の態度を見ながら、裕美はクスクスと笑った。
「葵ってそういうとこ、まだ変わってないんだね」
「……変わってない?」
裕美の言葉の意味が解らず、怪訝そうな顔をする。
「お節介なところよ。困ってる人見るとほっとけないっていうのかな。中学の時にあんな事件があったから、もうそんな考えじゃなくなってるかな、何て思っちゃったの」
「そんなのじゃ…… ないと思うよ、あたしは」
葵はそう言葉を返すと、悲しげに目を伏せた。
「まだあの時の事を気にしてんの? あれは仕方なかったと思うし、あんただけが責められることでもないんだから。もう忘れても良いと思うよ、あのことは」
裕美は気遣うような言葉を掛けたが、彼女の耳には届かなかった。裕美の言葉も上の空でただ、暗く、目を伏してしまっている。
「朝比奈さん、色々と思うところがあるんだろうけど、今は裕美ちゃんと私がいる。だから、元気を出してよ。私、今は朝比奈さんのこと、怖くないよ」
葵が顔を上げ、美穂を見つめようとしていたとき、昼休み終了五分前のチャイムが校舎に鳴り響いた。
「ちぇ、もう終わり? もっと休み時間あってもいいんじゃないの。ねえ?」
「はいはい、文句は良いからさっさと教室に戻りましょ。それじゃ、朝比奈さん、また帰りにね」
葵は「うん」と頷き、軽く右手を挙げ、そのまま裕美達と教室へと向かった。
「なあ、朝比奈」
放課後、剣道着に着替えて、武道場にて準備体操をしている葵に、すぐ隣に設けられている柔道場で、同じく柔道着に着替えて準備体操をしていた近藤誠が声を掛けてきた。
武道場に他の部員の姿は見あたらない。ほとんどの上級生は業後行われる補習に出ているため部活の時間の前半は、たいていの場合下級生だけになってしまうことが多い。他の部活、たとえばバスケットボール部や、サッカー部、野球部などは割と人数が揃っているので一年生だけでも活気があるが、こと武道関係の部活は競技人口自体が縮小しつつあることもあって人数が少ない。そのためか、どこか寂しげな雰囲気ができあがってしまう。
武道場を交代で使用することになっている剣道部、柔道部、空手部ともに新入部員は一人しかいないため、どうしても時間を持て余し気味になってしまうのだ。それで、よく柔道部唯一の新入部員、近藤誠は時々こうして葵にちょっかいを出してくるのである。
葵は「何?」と素っ気なく聞き返す。
「暇だし、腕相撲でもしようぜ」
畳に腹ばいになり、腕を差し出す。アーモンド型の鋭い目にはやる気満々といった楽しげな光が宿っている。いかにも臨戦態勢、という雰囲気で葵に挑戦を申し込む。
「……突然何を言い出すのかしら。大体そういうのは、女の子に対して言うようなことじゃないでしょ?」
誠を冷たくあしらい、葵が稽古に向かおうとするとなおもしつこく彼は食い下がってくる。その様子を見て葵は、困ったように左手で頭を掻くと息を吐いた。
「本当に一回だけよ」
しかたなく一戦だけ受けることにしたが、自分の思いとは裏腹に場の状況などに流されてしまう自分を時々恨めしく思う。柔道場に入ると、誠と同じ要領で畳に腹ばいになり、肘と前腕で体重を支える。
「右にする? それとも左?」
誠は右腕を力強く出して「もちろん右」とアピールする。
お互いの右手が組まれ、準備が整う。
「なあ」
始まる直前、誠は葵に声を掛ける。
「朝比奈の手の平、ってさ……。何だか、こう……随分と……」
言いにくそうに、そして恥ずかしそうに顔を赤らめて誠は声を発する。そんな光景を見てしまうと何だかこっちも恥ずかしくなってしまう。
「何? はっきり言ってよ」
「……マメとかが出来てて、ゴツゴツしてるよな。男みたいだ」
「……やめにしてもいいかしら?」
あまりにデリカシーのないことを言うので、本気でやめてやろうかと思ってしまう。
必死に謝る誠をみて結局、腕相撲をすることにした葵は、誠の合図と共に腕に力をこめる。
誠も柔道部員なだけにかなりの腕力がある。自信満々に自分から申し出るだけあり実力は拮抗し、腕っ節には自信がある葵も、なかなか勝負を決めることが出来ずにいる。
結局、粘り勝ちした葵であるが、稽古と関係のないことに体力を使ってしまったことを少しだけ後悔してしまった。
「強えな。女子とは思えねえぜ」
「……そんなこと言われても、嬉しくない」
悔しそうにしながらも賞賛の言葉を贈る誠に、葵は溜息混じりに呟いた。
「そう言うなよ。その太い腕も、立派な肩幅も、稽古の賜物なんだろ? 嬉しがっても良いと思うぜ。ほれ、俺だってこの体、見てみろよ」
言うやいなや、誠は柔道着の上衣をはだけて上半身の裸体を葵に見せつける。
厚めの胸板、太い腕、うっすらと六つに割れているのを確認できる腹筋、両肩をおおう盛り上がった筋肉、誠の上半身は自慢するだけのことはあり、確かに同年代の少年にしては随分とたくましい体つきをしている。もしかしたら、そういう筋肉質な体型が好みの女子に人気が出るかもしれない。
しかし、何の前触れも無しに裸体を見せられた葵は気分がよいものではない。恥ずかしさと怒りが一斉にこみ上げてきて、鼻息が聞こえるほど強く唸って誠に背を向けてしまう。
「なに怒ってんだよ。急に」
「近藤君は恥ずかしくないの? そういうことをして。そ、それに道場でみだりに裸になるなって言われてるでしょ?」
「……え? ああ、そういえばそうだったな! 悪りい」
もっとも、兄の裸を見てしまったことが何回かあるので、別に男の裸に嫌悪感を抱いたり、拒否反応が出たりするわけではない。怒ったのは無遠慮に異性に裸を見せつける誠に対してである。
「朝比奈さん、誠はそういうの全然解らない奴だから、はっきりと言ってやる方が良いよ」
二人しかいない武道場に、少しとぼけたような、第三の声が響き渡る。ビックリして二人が声のする方に顔を向けると、武道場の窓からボサボサの頭と、開いているのかいないのかわからない細い目が特徴の男子生徒が覗いていた。
「なんだ、慎二か。驚かすなよ」
「ごめんごめん。やあ、朝比奈さん。部活がんばってる?」
平謝りをした後、軽い調子で慎二は葵に声を掛ける。
「櫻井君こそ、部活はどうしたの?」
「いやあ、そのことなんだけどね……」
と、言いかけた慎二の姿勢が彼の短い悲鳴とともに崩れる。滑り落ちそうになった慎二の右手を葵が掴む。そのおかげで慎二は窓から転落することを免れた。外で何かが倒れる音がした。おそらく余り安定しない物を踏み台にしていたのであろう。
「ふう、危なかった。助かったよ」
「…… とにかく、用があるならこんなとこから覗かないで表から来てよ」
葵の文句に、愛想笑いを浮かべながら慎二は相づちを打った。
「……と言うわけで、写真撮らせてくれる人、探してるんだよね」
糸のように細い目をゆるませて、慎二は武道場に訪れたいきさつを説明した。
話によると彼の所属する部活の三年生から、撮影の練習もかねて何でも良いから写真の題材を探してくるように、とのことであった。どういう写真を撮るかは具体的に指示されていないため、とりあえず部活動の写真でも撮らせてくれないか、とお願いしに来たのである。
「何とも適当というか、いい加減というか……。それで、どうして剣道部なの? もっと賑やかな部活はいっぱいあるでしょうに」
左手で頭をクシャクシャと掻いて溜息をつく。
「いやあ、そういうありきたりなのは僕は嫌なのさ。それに、何でも良いなら良い写真を撮りたいのが人の性ってものさ」
「……質問に答えてない」
「ハッキリと言おう。朝比奈さん、君を撮りたい」
わざとか、それとも素なのか、芝居がかった口調でキザな科白を口にする。
「な、何でよ! 他にも撮るべき人、いるでしょ?」
露骨に嫌そうな顔をしたのにもかまわず、慎二は彼女に迫る。
「いいや! そんなことはない。今日の美術の時間でよーく朝比奈さんを見て思ったよ。朝比奈さんは写真映えするタイプかも、ってね」
今日の美術の授業中、葵は慎二とペアになってお互いの顔を模写していた。その時、慎二は随分と熱心に視線を彼女に対して送っていたのである。葵は何事かと訝しんだが、彼の行動の真意はこれでハッキリとした。まさに、ネタ捜しだったのである。
「まさかあの時、妙に真剣な眼差しであたしを観てたのって、そのことなの?」
慎二は大きく頷く。
「まあ、朝比奈さんは綺麗だしね。僕は良い素材だと思うよ」
「き、綺麗って……何言ってるのよ!? 変なお世辞はやめてよ」
「別にお世辞じゃないさ。自覚無いのかな? ほら、髪とか目とか、綺麗だよね。そこまで綺麗な黒髪って、日本人でも珍しいし、後は姿勢。その正坐してるときの姿なんかさ、清潔感があって格好良いじゃないか」
さすがに恥ずかしくなってきて、ごまかしついでに慎二の額にデコピンを軽くみまう。
「な? 誠もそう思うだろ?」
おでこを擦りながら慎二は同意を求めた。
「えっ、お、俺? そうだなぁ……俺は」
唐突に話を振られた誠はジーっと葵の姿を見つめる。慎二とは別の所――髪や顔以外を褒めなければいけない、と必死で彼女を見たが、そうそう簡単に見つかるわけがない。変なところを褒めれば、つい先程のように冷たくあしらわれるのが関の山だ。かといって中身についても何かコメントができるほど付き合いが深いわけではない。
何とか見つけようとしている少年の目が偶然に葵のある部分に留まった。そこは厚ぼったい剣道着の生地を柔らかく押し上げる二つの小振りな膨らみであった。とはいえ、女子の身体、特に胸元を近くでまじまじと見ることのあまり無かった少年には、それがどんなに普段は意識しないような姿格好でも、急に異性を感じさせるものに見えて気恥ずかしくなってしまう。
身体の線が見えにくい剣道着でも分かるくらいに出てるのだから、そこそこの大きさであろうし、少なくとも形は綺麗だ。少年はそう思った。とはいえ、まさかそんな場所を褒めて喜ぶ女子はいないだろうから、褒めることは出来なさそうだ。
「い、良いと思うぜ」
気取られないように視線を外して答える。結局、言葉に貧しい誠は単なる感想を言う形にしかならなかった。
「……何よ、そのどうでも良さそうな言い草は?」
少年の心情を知らぬ葵は、その何も具体的なものがない答えに心底呆れかえった。
「と、そう言うことだから引き受けてくれないかな?」
しかし、慎二は誠を意味深な目で一瞥すると、話しを戻すように葵に切り出した。
彼はいたって真面目に言っているつもりなのだろうが、モデルをしているのならともかく、あまり人に写真を撮られた経験のない者にとっては、やはりどこかとまどいが出てしまう。もちろん、葵もできることなら避けたいところである。
「ほら、でもどうせなら運動部じゃなくて、文化部の写真がいいんじゃない? 例えば相原君の部活とか」
ますます分が悪くなった葵は苦し紛れに言った。
「男は撮りたくないね。和彦は友達だけどそこんところは別だよ」
何を贅沢なことを言っている。と、本気で文句の一つも言いたくなってしまう。そんな葵の気持ちもお構いなしに、慎二は彼女に食い下がる。
「あ、でも相原君の部活にはとても可愛いらしい女の子がいるわよ」
慎二の押しに耐えかねたのか、和彦の所属している部活と聞いて、咄嗟に言葉が出てしまった。後でまずいことを言ってしまったと思ったが後の祭り、今更言葉を飲み込むことが出来るわけがない。
「む、それは初耳だね。和彦はそんなこと何も言ってなかったよ。ありがとう、朝比奈さん。じゃあ、その娘にも当たってみるよ。だから朝比奈さんも考えててね」
勝手に一人で納得すると、慎二は武道場をあとにする。慌ただしく現れては去っていった級友を見送ると、武道場にいつものように静けさが訪れる。
「なあ朝比奈。その子大丈夫かな? あいつ結構、いや、かなり強引なところあるから」
「……ちょっと心配。どうせなら空手部の誰かさんでも紹介すれば良かったね」
入部以来、何かと彼女に対して一方的に突っかかってくる空手少女の顔を思い浮かべる。葵に対して何か対抗心を持っている節があるので、もしかしたら自分をダシにして焚きつければ了承してくれるかもしれない。などと、つい意地悪なことを考えてしまう。
葵の言ったことの意図を察した誠は、二人の相性の悪さに呆れ、柄にもなく忠告をした。
「そんなことしたら十中八九、シメられるだろうな。……こっちが」
「それもそうね」
自分のしでかしたことである分、申し訳なく思う気持ちが強くなってしまう。美穂の無事を祈りながら二人は稽古に戻った。