3.兄からの電話
自宅に着くと、葵はまず書斎へと向かった。
書斎の扉を開けると、そこには足の踏み場もないほどの本で埋め尽くされたウナギの寝床のような光景が広がっていた。古い本独特の匂いが部屋中に漂っている。
葵の父親である秀男は、書斎の一番奥に置かれている机に座り、黙々と筆を走らせている。その後ろ姿に「ただいま」と葵が声を掛ける。
「おお、葵か。おかえり。今日は随分と遅かったようだね」
「ちょっと、お祖父ちゃんの家に寄ってたから。……それよりも、また本が増えたんじゃないの? 幾らかは捨てるなり、古本屋に売るなりしなよ。足の踏み場もないよ、これじゃ」
葵の文句を聞いた秀男は筆を休め、椅子を回転させて振り返った。
「ははは、耳に痛い話だな。そんなことよりも、最近この日本各地で若い女性が次々に失踪しているって事件がおきてるんだから、葵も気をつけなきゃいけないぞ」
「それ、お祖父ちゃんにも言われたんだけどな」
ほんの少し前に同じことを言われたこともあって、つい素っ気なく答えてしまう。
「ははは、お義父さんも心配なんだよ。なんせ可愛い孫娘だから」
「……違う。多分あたしが何か無茶なことしないか、それが心配だったの。その証拠に何て言ったと思う? 腕っ節と気合いだけはいい、なんて言い出したのよ。孫を鉄砲玉か何かと思ってるんじゃないの?」
そう言うと拗ねた子供のように鼻息をついた。
「まあまあ、それよりも夕飯はまだだろ? 早く着替えて食べておいで。ああそれから風呂もできてるからね」
「うん、そうする。それじゃ、父さんもがんばってね。締め切りが近いんでしょ?」
書斎を出た葵はそのまま自室へと向かった。廊下と部屋を隔てている襖を開くと、その先には今時の少女の部屋としてはあまりにも飾り気のない、殺風景な空間が広がっていた。畳が敷かれた六畳間には、窓際に勉強机が据えられ、机の脇に数種類の木刀が立て掛けられている。机の対角線の位置にビデオラックが置かれて、その上にCDラジカセと無造作に積み上げられた封筒型の八センチCD(シングルCD)があるのみだった。年頃の少女が持っていそうな可愛らしいぬいぐるみや、アイドルのポスター、オシャレなアクセサリーの類は見あたらない。押入にしまいこんでいる布団を敷いたらそれで終わり、という下宿している大学生みたいな簡素な部屋だ。
つけたばかりの室内灯の、うすボンヤリとした光が部屋を照らす中、手早く制服を脱ぎ、ハンガーに掛けて吊すと、Tシャツとジャージに着替えて台所へと向かう。
遅い夕食をすまし、風呂で一日の汗を流し終えた後、自室で体を乾かしている葵の耳にけたたましく鳴り響くベルの音が飛び込んできた。もはや持っている家庭が珍しいであろう黒電話の音である。随分と遅い時間でもあるので音量が余計に目立つ。
「はい、もしもし? ……何だ、お兄か。何の用? こんな時間に」
受話器を取り応対すると、その声から、自分の兄である朝比奈徹からの電話であることが分かった。
「何だとはねえ、掛けてきたらまずかったかな? と、それはそうと、だ。本題にはいるけど母さんはいるかな?」
「あいにく、帰ってきてないよ。……ねえ、そっちは……、東京の方はどうなの?」
何となくいつもの調子で聞き返したつもりであったが、兄から返事がすぐ返ってこない。
数秒ほどの沈黙の後、徹が重い口調で言葉を返してきた。
「……それは、俺のこっちでの生活のことか? まあ元気にやってるよ、それなりにね。でもな、今月の初めに行方不明事件はあったな。おまえも知っているだろ?」
「ええ、……それと……」
少し、言葉に詰まった後、葵は一週間ほど前に隣町で起こった事件について話した。
「……確かに妙だな。その子も同じようにやっぱり忽然と姿を消したか。東京、横浜、と立て続けに同じような事件が起きて、次はお前のところの隣町というわけか。タイミングが合いすぎているな」
「ねえ……、また、二年前の事件みたいなことが起きようとしてるのかな」
「……さあな。そうでないことを祈るよ。でも、隣町の事件が人さらいの可能性があるなら、そういうのは母さん達の仕事さ。なんとか見つかるのを期待するしかないな。葵も、気をつけろよ。隣町って事は、まだお前の町で起こる可能性があるって事だから」
「うん、お兄も気をつけて」
「せいぜいそうさせてもらうよ。ところで、母さんとはどうだ? 上手くやってるか?」
「……それなりには、ね」
「そうか。まあ、あまり気にしないで元気にやれよ。いつかお前も答えが見つかるかもしれんからな。頑張れよ! それじゃあ、おやすみ」
電話を切ると自室に戻る。
「……頑張れよ、……か」
殺風景な部屋の周囲を一瞥すると、机に立て掛けてある木刀を手に取り、庭先に出た。
四月の終わりとはいえ、まだ夜中は肌寒い。露出する前腕部や、ティーシャツの袖口からのぞく二の腕に冷気が触れるのを感じる。
木刀を力強く握りしめると、上段に構え、一度深呼吸をする。
「……一、……二、……三!」
小さい声ではあるものの、力のこもった声で数を数え、渾身の力を込めて素振りを始めた。
「……二百九十八! ……二百九十九! ……三百!」
素振り三百回を終えた葵は縁側に腰掛けた。
タオルで顔から吹き出る汗を拭くとそのまま寝そべった。縁側の木材と居間の畳の冷気に、火照った身体がジンワリと冷やされていく。視線の先にどこまでも暗い空が、薄い明かりが灯る居間の光と共に映っている。その光景を見ながら葵はしばらくの間、考え事に耽っていた。
「まだだ、まだあたしは答えを見つけてない……。一体いつになったら見つかるんだろう?」
少し皮がむけた掌を見て、葵は言い聞かせるように呟いた。
ふと居間に掛けてある時計を見ると、針が十二時を指そうとしていた。
「…… さ、もう寝よ」
まだ残っている汗をタオルで拭き、葵は自分の部屋に戻っていった。