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4.一枚の名刺

 葵と正美を叔父の家に預けた後、徹は急ぎ自分のアパートの部屋に戻っていた。

 大学でのレポートや研究のために図書館で貸りたり、買い込んだりした本が所狭しと床に平積みにされている。そんな雑然とした室内を注意深く見渡す。

「……もう少し、整理整頓をしておくべきだったな」

 自分の少々面倒くさがり屋な部分が、今回ばかりは恨めしく思える。

 徹の住んでいるアパートは、大学の近くにある安価な物件ではあるが、少なくとも外部から侵入できるほどの軟弱なセキュリティではない。それに、大学生が住人の大半であることを考えると、ほぼ、誰かがアパート内にいることになる。

 いつぞや、秋葉原の某所にあるセキュリティ用品の販売店で仕入れた情報を頼りに、徹は盗聴器の類を捜索する。

 積まれた本の山をどかしたり、ひとまずは段ボールにしまって、見えている床の面積を少しでも広くしたり、様々な手段で、盗聴器の類を捜索する。

 だが、もともとは疎い分野だ。それらしきものがあっても、それが盗聴器なのかは、まったくもって見当が付かない。

 そんな途方もない作業に追われている徹の部屋に電話の着信音が響く。

 息が一瞬止まる。呼吸の音すら聞こえない室内には、電子的な着信音が不気味なほど鳴り響いている。

 徹は神経を研ぎ澄まして受話器を取る。

「……もしもし、鈴子ちゃん? ……ああ、そう。昼頃に話したことなんだけど、……秋葉原の駅前広場で……、そう、バスケットゴールやスケートボード場があるところ。そこで待ち合わせよう。時間は……、昼過ぎ、十三時でどうかな?」


  ※


 昨日の騒がしさを余所に、朝はやってくる。

 あどけなさを残す寝顔を見せる正美の肩を、葵は軽く揺する。しかし、何度揺すっても、目を覚ます気配はない。

 さわり心地の良さそうな頬を、手の甲で軽くはたく。しかし、これも効果が無い。

 葵はその手強さに、軽く息をつく。彼女の両親が手を焼く理由が少し分かった気がする。

「……しかたない、か」

 小柄な正美を潰してしまわないよう、注意深く馬乗りになる。そして、彼女の左右の脇の下に手を差し込み、指の腹で強めにくすぐった。

「いひひ! ひゃ、ひゃひゃ! やへて、くしゅぐったい!」

 奇妙な悲鳴を上げて、正美は身をよじらせる。だが、葵はそれにもかまわず、脇の下をくすぐり続けた。

 ひとしきり悲鳴を上げさせてから、葵はようやく正美をくすぐり責めから解放した。

「……おはよ。目は覚めた?」

「………………葵? あは♪ おはよ」

 気恥ずかしそうな様子で、正美は挨拶を返した。


 寝間着を着替え、朝食を摂り終えた二人は、部屋でそれぞれに身支度を調えている。

「……はあ、徹さんはやっぱりアパートに戻っちゃったのかぁ。寝起きの徹さん、見たかったのになあ。それか、笑顔で優しく起こしてもらえたり、そういうのを期待してたんだけど」

 遠い目で己の願望を垂れ流す正美に、葵は敢えて返事をせず、黙々と自分の支度を進めた。

「それはそうとして、本当に正美一人で東京見物しても大丈夫なの? ちゃんとここに帰ってこれる?」

「もう、子ども扱いしないでよ。ちゃんと電車にだって乗れるし、地図だって持ってきとるんだから。平気だよ」

 軽口を叩きながら、正美は大雑把なやり方で髪を結う。

 だが、その髪は傍目にも見苦しいものだった。寝ぐせについては、手ぐしで大雑把になでつけただけ。結った髪も、左右で高さが違ううえに、毛先が揃ってないという有様だ。

 何も葵とて、おしゃれにしなければ女の子にあらず、と考えてはいない。だが、その無頓着さを身近なところで見せられては、どうにも放っておけなくなってしまう。

「正美、ちょっとそのままにしてて」

 葵の呼びかけに、正美は「え、何?」と振り返る。

「ほらほら、前を向く」

 葵は正美の髪からヘアゴムを外すと、櫛で彼女の髪を丁寧にとかす。

「どうしたの、葵?」

 葵は「いいから、じっとしていて」と言うと、寝癖がついたままの箇所を見つけては、櫛で丁寧になでつけて整えていく。

「せっかく東京まで来たんでしょ? だったら身綺麗にしておかないと。それに、お兄とはまた顔を合わせることになるんでしょ? 少しでも可愛らしくしなきゃ」

「葵、もしかして私の恋を応援してくれとるの?」

「それは違う。もうちょっと、身だしなみに気をつけなさい、ってこと。ほら、出来たわよ」

 仕上げに、ヘアゴムで髪をまとめてお下げ髪にする。

「うわ、びっくり! こんなちょっとの手間でこんなに変わるもんなの?」

 部屋に置かれていた立て鏡を覗き込んだ正美は、驚きを隠せずにいた。

「でしょ? いつもギリギリまで寝て、慌てて学校に通うパターンをやめれば、寝ぐせぐらいは直す時間ができるんじゃない?」

「む~、またそんな事を言う? ……でも、ありがとね、葵。どう? 私、可愛い? 男をメロメロにできちゃったりする?」

 正美の無邪気な問いに、葵は「さあ、どうかな?」とはぐらかす。しかし、彼女の顔は、正美の屈託のない笑顔に引っ張られるようにどこか緩んでいるようだった。


「それじゃあね、正美。また夕方には戻るから」

 葵の呼びかけに、正美は大きく手を振って答える。浅草方面へと歩いて行く正美の背中を見送ったあと、彼女も正美とは反対の方角へと歩を進めていった。


 ※


 電話をかけてきた鈴子に、待ち合わせ場所と時刻を伝えた翌日の午前十一時。徹は皇居に面した千鳥ヶ淵にいた。

 桜の名所として知られているこの場所も、今は木々が青々とした葉を茂らせている。かつての江戸城の堀であった場所は、年中カップル達が乗るボートが浮かんでいる。都内の有名なデートスポットとも呼べる場所である。

 徹は煙草を吹かして、その光景をボーっと眺めていた。ここにやってくる筈の人物を待っているからだ。

 早めに到着したので、もうかれこれ三本目になる。

 ボーっと眺めながらも、耳を研ぎ澄まして足音に注意を向けている。

 そのうちの一つの足音が、自分に近づいてきて、ある距離まで接近して止まったのを察知すると、音がした方向へと目を向ける。

「こんにちは、徹さん」

 視線に先にいたのは、鈴子だった。緊張していた徹の顔は、不覚にも緩んでいた。

「どうやら上手くいったかな?」

 ホッと息を吐くと、手慣れた動作で煙草を始末する。

「びっくりしました。まさか、こんなすぐに上野公園で教えてもらったことをやるなんて。忘れていなくてよかったです」

 昨日の上野公園で、徹は用心のためもあって、鈴子にはとあるメモ書きを示していたのだった。とはいえ、そのメモ書きはこれまた用心のために、その場で燃やしてしまった。

 それは、そんなに複雑なものではなく、口にした言葉を別の場所で待ち合わせることを伝えるメッセージにするものだ。

 つまり、秋葉原の駅前広場と徹が伝えれば、それは「千鳥ヶ淵で待ち合わせをしよう」になるし、十三時に集合というのは、実は「十一時に来て欲しい」ということになる。至ってシンプルなものだ。もっとも、その情報を共有していることが前提になるので、お互いに隠語を覚えていないと、まったく役に立たないのだが。その点については、鈴子が学業に優秀であることも分かっていたので、心配はなかった。

 鈴子は、一枚の名刺を差し出してきた。

「これは昨日、上野で俺に言ってた手がかりに関係あるもの?」

 鈴子はこくりと頷く。徹は、名刺に目をやる。

 ――球体関節人形制作所、鹿山工房。名刺にはそう書いてある。

「これが、私の自宅の、姉の部屋に置いてあったものなんです」

「お姉さんって、こういう人形とかを蒐集する趣味はあった?」

 鈴子は首を横に振って否定する。

「姉はマリンスポーツが好きで、いつもだったら、湘南の海でサーフィンをやったりしています。部屋にも、それ関係の雑誌や本が置いてあるんです。でも、人形とかを飾ったところは、見たことがありません」

「そんな活発なお姉さんの部屋に、この名刺があったってわけか……」

 徹は名刺をいじりながら返事をする。この名刺に細工が施されていないかを調べているのだが、それが見当たらないことを確認すると、鈴子に向き直る。

「あの、お役に立てたでしょうか? 結局、私が自宅で見つけられたのはその名刺ぐらいしかなくて……」

 申し訳なさそうに言う鈴子に、徹は労いの言葉をかける。

「ああ、大助かりだ。ご丁寧に工房の所在地まで書いてある。もしかしたら、この工房で何か分かるかもしれない」

 昨日の襲撃を鈴子に悟られないように、慎重に言葉を選ぶ。

「あの、他に私に手伝えることって、ないですか?」

 鈴子の言葉に、徹は手短に答える。

「ここまでで十分さ。心配ないよ。後は、お姉さんの側にしっかりと居てあげてほしい」

 鈴子を見送った後、徹は手渡された名刺を睨むように見る。

「……鹿山、征一。人形作家……か」

 徹は名刺に書かれた人物の名前を確認すると、それを財布のカード入れにしまった。

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