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3.朝比奈徹

 秋葉原の駅前広場では、葵と正美が、一向にやって来る様子がない徹を待ち続けて、暇を持て余していた。

「ねえ葵、もしかしてお兄さん、大きい方のトイレに行ってるのかな?」

「……知らないわよ。そんな長い時間、トイレにいるわけないでしょ?」

 年頃の少女が言うべきではない言葉を平気で口にする正美を適当にあしらいながらも、葵は兄である徹の到着が遅れていることを案じていた。

「……はあ。でも私がまさかナンパされちゃうなんて……。嬉しいような、ちょっと怖いような。不思議な気分」

 浮かれているのが丸わかりな言動とともに、正美はどこか遠いところを見るようなぼんやりとした表情をしている。

 そんな正美を無視して、葵は目を閉じて兄である徹のことを考えている。

 ぼんやりと顔を上げている少女と、腕組みをし、うつむき加減で思案している少女。

 対照的な二人の少女が見せている仕草は、周囲の喧噪から、少々浮いた様子である。

「ねえ、もしかして私ってば、かなりの美少女なのかな? ねえ、どう思う?」

「静かにしてくれない? 今は考え事をしてるの」

 心穏やかではない葵は、脳天気な正美に対してかなり強い口調で苦情を言う。

 そんな葵の様子に、正美は少々面食らったが、すぐにいつもの調子に戻って葵を窘めるかのようにしゃべりかける。

「考えたって、答えが出ないものはしょうがないじゃん? それよりも、私はお兄さんを待つわ。だって私、待てる女だから! それにね、私ってばさ……」

 そして、自分の思っていることだけを滔々と語り始める。

 葵は、そんな彼女の発言をほぼ右から左へと聞き流しつつ、話を遮るタイミングを探る。

「相変わらず前向きよね? その気持ちを少しは分けてもらいたいわ」

「何せ、学校の近くの神社で引いたおみくじにも、待ち人来たる、って書いてあったし。……あ! そんなこと言ってる間に! ねえ葵、あそこに見えてる人ってお兄さんじゃない?」

 正美が指さす方向に目を向ける。すると、駅前広場のさらに向こう側から、葵と似たようなファッションをした男性がこちらに向かっているのが見えた。

「本当だ。というか、あんたはどうして分かったの?」

 呆気にとられる葵に、正美は「愛の力だよ」と得意げに応える。

「ごめん、遅くなった」

「……お兄ってば、遅すぎ」

 兄という気安さもあるのか、葵はむくれた顔をして、年頃の少女らしい子どもっぽい口調で文句を言う。

 徹も、久しぶりに見る妹の可愛い反応に、ついつい頭をなでてしまう。無論、葵には照れ隠しついでに払いのけられてしまったが。

「きゃー! 徹お兄さん、やっとかめですぅ! 逢いたかったんですから」

 もう一人の少女――正美はというと、まるで芸能人とばったりと会ったかのようなはしゃぎっぷりで徹に迫ってくる。それだけではなく、あからさまに徹に対して頭を差し出すように近づいているのだ。

 そのため、ちょうど徹の視界は、正美の頭が大半を占めてしまっている。少女の持つ素朴さを感じさせる手入れの足りない髪質や、正美のトレードマークとも言える二つの旋毛が丸見えになっているのである。

「久しぶりだね正美ちゃん。葵から、正美ちゃんも来るって聞いたときは、少し驚いたけど……。少し見ないうちに、ちょっとだけ大人っぽくなったね」

 ハイテンションの正美に気圧されながらも、自分を慕ってくれる少女に対して失礼がないように、当たり障りのないコメントを送る。

「えへっ、ありがとうございます。ねえねえ、徹さん。私、先月ついに十六歳になったんですよ。どうです? 可愛くなりました? それとも、綺麗になりましたか?」

 ところが、徹の社交辞令を真に受けて調子に乗った正美は、締まりがなさすぎるほどのにやけ面と、媚びを売っているとしか思えない甘えた口調で、成長した自分を徹に見せつける。

 そのクネクネと動き、懸命にしなをつくる様子は、端から見ると不格好にしか見えない。

 そんな友人の姿を見て、葵は煩わしさを抑えることが出来なくなった。

「はい、そこまで。お兄が困ってるでしょ?」

 葵は正美の二の腕を引っ張り、強引に徹から引き離す。

 脇から聞こえる正美の抗議の声を無視して、葵は徹に向き直る。

「葵も、久しぶりだな」

「それはそうよ。お兄ってば、ちっとも帰ってこないんだから。今年の年末年始には、ちゃんと帰ってきてよ」

 妹の拗ねたような物言いに、徹は思わず顔を緩ませる。

「それよりも、暑い中で待たせたのは本当にすまないと思ってるよ。だから、休憩もかねて喫茶店にでもいくか。もちろん支払いは俺が持つからさ」

「ま、それでいいよ。でもどうせなら、おやつじゃなくてちゃんとした昼食が食べたいかな。正美? あんたはどう思う?」

「葵に賛成! 私はカレーライスが食べたいです。でもって、その後はコーヒーもご馳走になりたいです」

 徹が食事をおごるという展開に、正美は浮かれた気分を隠すこともなく無遠慮にリクエストを口にしていった。

「あんた、それはさすがに調子に乗りすぎじゃない?」

「構わないさ、葵。一応、財布も余裕があるし、正美ちゃんも、せっかく東京に来てくれたのに待たせてしまったわけだ。ちゃんと埋め合わせをしないとな」

「さっすがは徹さん。私、ますます好きになっちゃいます♪」

 笑顔でウキウキとする現金な正美と、少々気前が良すぎる兄に挟まれて、葵は何となく疎外感を覚え、憮然としてしまうのだった。


 三人は、そのまま山手線を使い、有楽町駅で下車した後、日比谷公園内にある松本楼で昼食を摂ることになった。

 その後、徹は銀座の中心街にある少し高めの喫茶店へ行き、二人にコーヒーをご馳走することになった。

 喫茶店でお茶をしている三人であったが、松本楼での食事の時といい、この時間といい、正美は徹に対してのべつ幕なしに話しかけており、葵は正美のおしゃべりに遮られて、兄である徹と話す機会が得られずじまいであった。

 そのためであろうか、葵はどこか面白くなさそうな表情を浮かべて、正美を恨めしそうに見ていた。

 その気持ちは、頬杖をつき、コーヒーをスプーンでかき回し続ける姿にも現れていた。

 葵は、いらだちを紛らわすように少量の砂糖を少し溶かし込んだコーヒーをすする。

 と、ちらっと正美のコーヒーに目をやる。苦いのが嫌いな正美は、いつもはコーヒーに大量の砂糖を入れて飲むのだが、コーヒーがきてから一度も砂糖を入れていないのである。それどころか正美は、がらにもなく砂糖を入れていないコーヒーをすすっていたのである。

 ――最後に正美と一緒にお茶をしたのは、いつ頃だっただろうか?

 そんな感慨に耽りながら、久しぶりに見る友人の変わりように感心してしまうのだった。

 だが、人間というのは、取り繕っていればすぐにボロが出るものである。

 徹が少し席を外してしまった隙に、正美は砂糖をコーヒーの中にドッサリと入れて、スプーンでかき混ぜていく。

「……あはは、やっぱ私、苦いのダメなんだ……」

「あんた、もしかしてお兄の前だからって見栄を張ってたの?」

 図星を突かれた正美は、恥ずかしそうに人差し指で頬を掻いた。

「……バレちゃった? へへ、子どもっぽいところは見せたくなかったんだけど。……あと、葵って、怒ってる? やっぱり私が付いてきたのって、迷惑だった?」

 正美の問いかけに、葵は首を横に振る。

「久々に会えて嬉しいのは分かるしさ……。でも、あんまり遠慮なくお兄に話しかけるのは感心しない、かな?」

 正美は、その言葉に気まずそうに微笑むのだった。


「それじゃあ、これから叔父さんの家に二人を案内するよ。滞在中は、そこに寝泊まりして構わないそうだから」

「え~! 徹さんのアパートに行けるんじゃないんですか?」

 正美は徹の発言を予想していなかったようで、驚きの声を上げた。

「いやあ、部屋は狭いし、散らかってるし、行っても特に楽しくないと思うよ。何よりも他の住人もいるから。あんまり女の子を連れて行くのは気が引けるんだよ。男同士の間にも、色々あるんだから。な、分かってくれるかな?」

 徹は申し訳なさそうに、駄々をこねる正美をなだめる。正美はというと「お部屋を見るだけでもダメなんですか?」と、諦め悪く食い下がっている。それに対して、徹は「また今度ね。今日は許して欲しい」と口約束をしてしまった。

 そのやりとりを傍目に、葵は徹が父親に似ていること――片付けが苦手、どこか人に対して甘いところがあるなど――を改めて実感するのだった。


  ※


 上野駅からしばらく歩いたところに、葵と徹の叔父宅がある。叔父の川村秋彦は、二人の母である夏希の弟にあたる。さらに言えば叔父宅は、夏希の生まれ育った家でもある。

 叔父宅にはじめて訪れる葵は、自分の母が多感な十代の時期を過ごした場所とは、どのような所なのか、母がそこでどのような青春を過ごしていたのか。

 そんな思いを巡らせているうちに、三人は叔父の家に到着した。

 叔父宅の前について一息を吐いた葵だったが、その隣にいる正美は、何故か顔を真っ赤にして身体をモジモジさせていた。

 それは無理もないことかも知れない。

 というのも、叔父宅への道すがら、葵たちの目に飛び込んできたものは、日本の最大の遊郭があった吉原だったのだ。現在でもここは日本で最大級の風俗街としてあり続けているわけだが、昼間ということもあって特にネオンが輝いていたわけではない。よくよく目をこらさなければ分からないほどだ。

 葵は自宅の近所に風俗街があるため、ある程度の耐性がある。が、そのような環境にない正美にとっては、そうではなかったようで、終始落ち着かない様子だ。

「……ねえ、葵。道の途中で見えとったのって、……そのぉ、男の人と女の人が、え……、エッチなこととかをする場所、だよね?」

 正美はどうやら完全にあてられてしまったようで、太ももを擦り合わせるようにして気を紛らわせていた。彼女には刺激が強すぎたのかもしれない。

「……大丈夫だって。特に気にしないでいれば平気よ」

 顔を赤らめて恥じらう正美を慰めつつ、葵は母の生まれ育った場所が自分の生活環境とかなり似かよっていることに、どこか因縁めいたものを感じてしまっていた。

「お兄ってば、もうちょっと違ったルートとか、なかったの?」

 案内人である徹を、葵はジッと睨み付ける。

「すまない。だけど、ここは下町だ。道が複雑なんだよ。迷子になっちゃまずいだろ?」

 妹に平謝りをしつつ、徹は呼び鈴を鳴らした。


 叔父宅に案内された葵と正美は、叔父の秋彦とその家族、妻と二人いるという子どもの一人――在宅していたのは小学生の妹で、中学生の兄は外出中だった――に挨拶を終えると、空き部屋に案内された。

 叔父が言うには、ここがかつて夏希が使っていた部屋だそうだ。もっとも、思い出話に話題が向くと、叔父は渋い顔をしてしまった。彼の話によると、姉は頼りになる反面、弟に対しては少々横暴なところがあったようで、姉の部屋に呼ばれたときは大抵の場合、こき使われる羽目になり、気が重くてたまらなかったという。父親――葵にとっては祖父――との派手な喧嘩も近所では評判だったようで、お転婆娘として有名だったそうだ。

 今現在の夏希の姿しか知らない葵は、そんな話を聞いて、人間は変われば変わるものだ、と妙な感慨を抱いてしまう。と、同時に聞かない方がよかったかもしれない、という気持ちも抱いてしまった。ただ、叔父曰く、夏希がそういう積極的な性格であったからこそ、父である秀男との出会いやその仲の深まりは可能だったのではないのか、と評していた。

 ただ、叔父はといえば、夏希が秀男の部屋に通う際や、デートの際の口裏合わせに何度もつきあわされ、それがばれたときには巻き添えで怒られていたそうだ。そのエピソードを聞くと、叔父は破天荒な姉、夏希に随分と振り回されてきたようだった。母の知られざる一面を聞かされた葵は、叔父に両親についての話を聞かせてくれたこと、二人の仲を応援してくれていたことに感謝を伝えた。

 しかし、叔父が知っているのは、あくまでも両親の関係やその馴れそめだけであり、もう一つの人間関係、つまり自分の恩人でもある黒崎慶吾との関係までは語ることがなかった。その線については、上京前に母である夏希から教えてもらったところで聞くしかなさそうだ。


 ※


 夜もだいぶ深まってくる時間になった。

 夕食を終えた後、叔父がいい機会だろうから、と紹介してくれた銭湯で、葵と正美は汗を流した。そこから部屋に戻ってきた二人は、明日のための支度を終え、就寝までの時間を思い思いに過ごしている。

 自室がフローリングである正美にとっては畳敷きの部屋が珍しいようで、目一杯身体を伸ばして横になり、ゴロゴロと意味もなく転がって楽しんでいる。

 葵はというと、自宅から持ってきた手帳をじっと見ていた。夏休みを利用して東京に行くことを決めたのは、龍巫島での事件後、黒崎のことを調べるためでもあった。夏希が言うには、彼のことを本当によく知る人物は、残念なことにほとんどが鬼籍に入ってしまったらしい。

 とはいえ、彼の人となりを知る人物は多いはずだとも付け加えてくれた。手帳に記載されているのは、夏希が書いてくれた関係者のリストと、その所在地である。ただ、夏希自身の東京時代のことなので、今もそこにいるかは保証がない。だが、葵にとっては、それも重要な手がかりに思えた。

「葵ってば、さっきから何読んどるの? 難しい顔してさ」

 間近からぬうっと顔を覗き込んでくる正美に、葵は思わず「きゃあ!」と柄にもない悲鳴をあげてしまう。

「い、いきなり覗き込まないでよ」

「ごめんごめん。何か、せっかく東京に来たのに、葵が楽しそうじゃないから、心配しちゃったんだ♪」

 屈託のない顔で話す正美を見て、葵はどこか自分の中で張り詰めていた糸が弛緩していくような感覚を覚えた。そう。正美は自分が上京した意図も、龍巫島での一件も知らないのだ。

 彼女を心配させたくないという理由で話していないことに思いを巡らせる。そう考えると、正美に勘づかれるわけにはいかないし、自分の事情に彼女を巻き込むまい、という気持ちが強くなってくる。

 そうすると、自然と顔には、笑みが浮かんでくる。

「別にそんなことないわよ。あたし、明日は一人で行くところがあるから、正美に寂しい思いをさせるかもしれないな、ってちょっと考えてただけよ。それに、迷子になったらって思うとちょっと心配よね?」

 不敵な笑みを浮かべ、正美を挑発する。このような顔をできるのも、遠慮のないことを言える数少ない相手が正美だからだ。

「言ったわね。私だって、ちゃんとお父さんから東京の地図をもらってきたんだからね」

 正美も、負けじと応戦する。何とも子どもっぽいやりとりだが、二人の気持ちは、どこか晴れ晴れとしていた。しばらく会っていなかったにもかかわらず、こんなやりとりがまだ出来てしまうことに、不思議な幸福感をおぼえるのだった。


 布団に横になった葵は、ちらっと隣で眠っている正美を見る。左を下にして、横向きの体位でスースーと寝息をたてている彼女の寝顔は、どこか幼さをまだ残しているように思えた。

 その光景を見て、葵はふと、あることに気がつく。正美とこうやって一緒の部屋で寝ることは今日が初めてだったと。

 同時に、今までは知らなかった正美の可愛い寝顔を見たことで、気心が知れていても、知らないことは案外多いのかもしれないとも思えた。自分が正美に秘密にしていることがあるのだ。正美だって、秘密にしていることが案外多いのかもしれない。

「ん……、と、徹さん……、好き、です」

 不意打ちのように発せられた正美の寝言に、葵はドキリとした。心臓が早鐘を打つように鼓動を打つ。正美は、一体どんな夢をみているのか、気が気でならなくなってしまった。

「んふふ、ダメですよ徹さん……、お夕飯よりも、お風呂よりも先に、私じゃなきゃ、イヤですよぉ……、ふふ、んふふふ、徹さんのキス、早く欲しいですぅ……ん、ん~」

 今度は血流が頭に集まり、顔が真っ赤になってくる。と同時に、葵は自分の兄に、夢の中とはいえ、何てことをさせているんだ、と心の中で抗議する。

「へへ、徹さんの香り、とっても好きです……、きゃぁ、だ、だめですぅ、私のにおいは、その、か、嗅がないでくださいぃ……。だめぇ、首筋を舐めるなんて、恥ずかしすぎですぅ」

 ついには思わず飛び起きてしまう。奇妙な寝言を発する正美をたたき起こして「な、なにをやってるのよ!」と文句を言ってやりたい気分になってしまうが、結局それもできずに、胸がドキドキしたままで、再び横になるしかなかった。

 結局、葵は断続的に聞こえてくる正美の寝言に一晩中苦しめられることになった。

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