2.迫り来る異変
葵たちが東京に到着する日の、昼近く。東京上野公園の西郷隆盛像の足下に、一人の青年が立っていた。
ゆったりとした足回りの綿ズボンと、落ち着いた色合いの襟シャツを着込んだその風体は、いかにも学生という身なりである。それでも、甘いマスクとは言えないまでも、鼻筋の通ったそこそこ端正な顔だち、意志の強そうな印象を与える深みを持った黒い瞳、姿勢の良い立ち姿と、短めに整えられた髪は、それでも周囲の人々とはどこか違う、人目を引くような存在感を見せていた。
青年は周囲を見渡す。その様子からは誰かと待ち合わせをしているようにも思える。
だが、なかなか現れないのか、それとも手持ち無沙汰なのか、ポケットからたばこケースを取り出して一服しようとしていた時だった。
「おはようございます、徹さん。お待たせしてすみませんでした」
少女の声を聞き、徹と呼ばれた青年はごく自然な動きでたばこケースをポケットにしまう。
徹が目を向けた先には、大人しそうな少女が立っていた。薄手ではあるものの清潔感がある服装を身にまとったその姿は、どこか育ちの良さがうかがえる。
「いや、それほど待っていないよ。それより、鈴子ちゃんこそ、身体の具合はもう大丈夫なのかい?」
「はい、あの時は助けていただいて本当にありがとうございました。そうでなかったら、お姉ちゃんが目を覚ました時、側に居られなくなってました……」
「お姉さんは、まだ目を覚まさない?」
鈴子はこくりと頷いた。
「でも、どうして姉がこんな目に……。それだけでなく、私まであんなことに」
少女は下唇を噛み、自らの二の腕を抱きしめるように掴む。
「私を駅のホームから落とそうとした人、まだどこかにいるんですよね?」
「ああ、多分ね。あの日から――君が線路に突き落とされそうになった日から一ヶ月くらいかな。それで、君の周りは特に変わりないかい?」
「はい、学校にも通えています。父も母も心配して私を兄の家に預けてくれましたから。兄の奥さんからもよくしてくれていますし、助かっています」
少女の周りに異変が無いことに、徹はひとまず安堵する。そして、もう一つの気がかりなことを彼女に尋ねようと考えた。
「で、お姉さんの部屋には……」
「はい、やっぱりいくつもの盗聴器が仕掛けられていたみたいです。父が言うには、私の部屋からも四個、発見されたと聞きました。でも姉の部屋はともかく、何で私の部屋にまで……」
鈴子の言葉に、徹は敢えて何も答えなかった。そのようなことができる、また、そうするような動機があるのは、一人しかいないからだ。
「一体、姉の身に何がおこったんでしょうか? 突然、人が変わったようになって……、姿を消して……、発見された時には、あんな酷いことに……」
発見された時の鈴子の姉は、奇妙なことに両手と両足の指の爪がすべて失われていた。誰が、何のために、彼女の爪をはがしたのか。
「それと、君が上野駅のホームで突き飛ばされる前に、何か変わったことはなかったかな?」
「いえ、……あ、でも私、姉が姿を消した後に何度か部屋にはいって手がかりを探そうとしたんです。それで、何かを見つけたような……」
「それは何だい? よかったら、俺にも話してくれないか?」
「……ごめんなさい、今は言えないです。もっと正確な話を出来るときに伝えたいです。口で伝えると、どこで誰が聞いているか……。兄まで巻き込みたくはないんです。ですから、それについては、また時間を作って……」
少女の、何かに怯えるような素振りに、徹は彼女の言い分を受け入れるしか出来なかった。
※
鈴子と別れた徹は、そのままJR上野駅の公園口改札へ向かっていった。そして東京文化会館と国立西洋美術館の間を通り抜けようとしていたとき、ふと後ろを振り返った。
「…………気のせいか?」
注意深く後方を見渡すが、何事もなかったかのように再び歩を進めた。
徹は公園口改札を目の前にして立ち止まると、少しの間、思案するような素振りを見せた。そして横断歩道を横切ることはせず、向かって右手の方向へ伸びている坂道を下っていった。
囲碁センターの手前にある階段を下り終えると、今度は聚楽ビルのあたりから横断歩道を渡り、山手線・京浜東北線の高架下に伸びる細い道に入っていった。
路地へと入っていった徹の目の前には、歩くのも困難なほどの人が溢れかえっていた。上野駅前から御徒町駅前までの高架下一帯は、昔からアメ横と呼ばれ、食材や加工食品など様々な商品が売り買いされている。
徹は目の前の人の波に分け入っていく。時折、すれ違う際に肩と肩がぶつかるようなほどの人がひしめきあう場所だと、夏の暑さはより際立つようだ。それだけではなく、商店の従業員が発する威勢のいい声が、アメ横というエリアの持つ独特な熱気を演出している。
徹は人と人の間をかき分けながら、急ぐようにアメ横を秋葉原方面に向かって抜け出ようとしている。
アメ横を通り抜けた後、徹はさらに高架下に沿ってひたすら秋葉原へと向かっていった。秋葉原の上野側を通る蔵前通りを横断したところには、高架下の駐車場がいくつも連なるエリアがある。
徹は足を止める。そして、駐車場のひとつにゆっくりと足を踏み入れていく。
駐車場の特に奥まった場所まで進んでいくと、そこで背を向けていた方向へ振り返る。
そこには男が四人ほど、無機質な表情で徹と向かい合うように立っていた。
「もしかして、上野公園から俺の後をつけ回してたのはあんた達か?」
しかし、男達は返事を返さない。返さないだけでなく表情一つ変えない異様な事態に、徹は鋭い眼光で男達の挙動に注意を払う。
「悪いけど、引き取ってもらえないかな? ここで手を退いてくれれば、何も起こらない」
だが、男達は徹の声を無視してポケットからナイフを取り出し、無機質な足取りで間合いを詰めていく。
「……悪く思わないでくれよ」
徹は腰を落として、男達の動作に、特にナイフの切っ先に注意を払う。
一人目が斬り掛かってくる。直線的に徹の胴を刺そうとナイフを持つ右手を伸ばして突進してくる。
徹は軌道をそらすように自分から見て左側に体を逃がしていく。ナイフを躱した勢いを利用して男の右手首に手刀を打ち込んでナイフを手放させる。
二人目が襲いかかってくる。これも胴に狙いを定めた攻撃であることを察知し、得物を打ち落とす。
やがて四人目のナイフをたたき落とした徹は、自分に向かってくる男達にどこか不自然さを感じ取っていた。
通常、徒党を組んで相手を襲う者達は、連携の精度に違いはあれども、複数のポイントを同時に、またはタイミングをずらして狙ってくるのが定石のはずだ。
にもかかわらず、相手はまるで意志を持たないかのように、ワンパターンの攻撃を繰り返すのみだ。言うなれば、素人以前のレベルの戦い方しかできていないのだ。
それだけではない、改めて観察しても、男達の顔からは生気が感じられない。見た目は人間なのに、木偶人形を相手にしているような奇妙な感覚を抱いてしまう。
「埒があかないな……」
過剰防衛になることを覚悟しつつ、徹は相手を戦闘不能状態にすることを考え始めた。
ちょうど自分に向かってくる男がいたので、右足で相手の顎を蹴り上げる。
すると、男の顔面の皮膚がいとも簡単にめくれた。
一瞬驚いた徹が目にしたのは、剥がれた皮膚から覗く、滑らかに形を整えた木材のような物質であった。
「……木偶か? だとすると」
男の正体に気づいた徹は、残りの三人の男も、掌底や蹴りで打ち倒していく。すると、やはり彼らの皮膚はもろく、たちまちに木で出来た「中身」が姿を現す。
四体の木偶人形が完全に動きを止めるのに、そう時間はかからなかった。
呼吸を整えていた徹は、周囲に人が来る気配を感じ、その方向へと顔を向けた。
視線の先には警官がおり、ジッと徹を見ている。
「……ちょうどよかった。お巡りさん、今すぐ応援を呼んで下さい」
安堵したのか、徹は事情を説明しようと警官に歩み寄っていく。
だが、警官が右手を拳銃のホルダーにもっていく動作を見るや、その表情を一瞬で緊張させた。
一発の銃声が響く。日常を崩すような物騒な音がしたすぐ後のことだった。
徹は、警官の右腕をロックすると、一気に力を込める。
骨が折れる時の、どこか金属質な音とは違う、鈍い音を伴って警官の腕がへし折れた。そこから見えたものも、やはり木材で作られた骨組みのようなものだった。
徹は追撃を加えて、警官に扮した木偶人形を打ち倒す。
徹は、目の前に横たわる五体の人形を見て、鈴子に襲いかかった異変が、今は自分に対して向かってきていることを身を以て知るのであった。
「……何だっていうんだ? よりによって、今日は葵が東京に来るっていうのに……」
徹は、妹の葵が自分を訪ねに来ることに、そして、そんな妹に自分が会うことによって起こる事態の可能性に、一抹の不安を抱かざるを得ないのであった。




