1.上京
「ん~、ようやく着いたね、葵。ホント、東京って人が多いよね?」
「本当。名古屋は比較にならないわね」
中央に駅員が立って誘導するほどに混雑する階段を、一歩一歩慎重に下りてようやく改札を出た二人の少女は、はじめて訪れる東京の人混みの異様さに思わず言葉を漏らした。
東京都千代田区外神田。俗に秋葉原(行政区名としての秋葉原は隣接する台東区のほんの一部分にすぎない)と呼ばれる土地に二人の少女は夏休みを利用してやって来た。所謂お上りさんである。
「おー、葵ってば見てよ、見て見て! 都会のど真ん中にバスケットゴールがあるよ。ていうか、スリー・オン・スリーやってるし。あっちはスケボーやってるよ! これが都会ってものなのかな?」
少女のうちの一人は糸のような細い目を可愛らしくカーブさせてはしゃぎ声を上げる。彼女が指さしている先には、上野方面へと向かう山手線、京浜東北線に並行するように設けられている広場がある。少女が興奮して小さく上下に体を揺するたびに、かなり雑な束ね方をしたお下げ髪ふたつが可愛らしくぴょんぴょんと跳ねる。
「分かったからちょっとは落ち着きなさい。正美ったら、久しぶりに会ったっていうのに相変わらずなんだから」
正美という少女を、背の高い少女がたしなめる。小柄な正美よりも頭ひとつ分ほどの上背があり、背筋もまっすぐ。短くカットされた髪と体格によさも相まって、遠目からは少年と見間違うところもある。
「そういう葵も、ちょっとかっこよくなった所以外は、案外変わってないよね?」
正美と呼ばれた少女は屈託のない笑顔で、もう一人の少女――葵に言った。
「かっこいいって、どこのあたりよ?」
「前よりもちょっとハンサムになったよ。何て言うか……、そう! 何となくお兄さんに似てきたね。前みたいなオチョンボ髪じゃなくなったのもあるかもね」
「それって、わたしが男顔ってこと?」
「違うってば。ほら、その服だって相変わらず徹お兄さんのお下がりなんでしょ?」
正美は、葵の身につけていた服を指さす。
「た、確かにそうだけど……」
「ん~、何だか嫉妬しちゃうな。親友としてお願い。その匂いを嗅がせて欲しいな」
「何を気持ち悪いこと言ってるのよ。暑さで頭がやられたの?」
正美の奇天烈な発言に、葵は露骨に嫌な顔をした。
「だって妹ってだけで、そうやってお兄さんの持ち物を貰えるんだもん。私がお兄さんに『お願いです、お兄さんの匂いが大好きです! Tシャツください!』なんて言ったら、変態みたいじゃない。だから、お裾分けしてよ。ね?」
正美はヌルリとした緩慢な動きで葵の衣服に顔を近づけていく。
「絶対にだめ。大体そんなことを考えて、そういうことをしてる時点で変態でしょ?」
「ずるいよ、葵ばっかりお兄さんを独り占めなんて。もしかして、お下がりばっかりなのは、私に見せつけるため? ね? そうなの」
「はいはい、それよりも今は何時かしら? 大きな時計が見当たらないわ。正美、時計持ってる?」
「何を今更。私に時計なんて求めても駄目よ。私たち、同類でしょ?」
「つまり持ってないってことね。言っておくけど私はちゃんと持ってるわよ。えーっと、今はちょうど十一時を回ったとこかな? お兄との待ち合わせの時間まで、あと小一時間ってところね」
葵は正美に対して見せつけるように、ジーンズの前ポケットから古ぼけたデザインの懐中時計を取り出した。
「ふんだ! 時間に縛られないのが私の良いところですよ!」
からかわれたことに怒った正美は、むくれて唇をとがらせた。
「話は変わるけど、正美はこれまでに何回学校に遅刻したの?」
「ああ……、あまりに多くて、もう二回もお父さんを呼び出されてるよぉ。わたし、朝は苦手なんだよね。お母さんが言うにはベッドに張り付いてるみたいだって」
「正美のおじさんもおばさんも苦労してるわね。あんたの所は私立なんだから、そのうち退学にされないか心配よ」
「まあ、そこらへんは部活の成績次第ですから。この前だって、部内の選抜試合を勝ち進んで一年生なのに団体戦の選手になったのよ。すごいっしょ? 部では“眠りの田村”なんてあだ名を付けられちゃって」
「眠りの田村? 一応聴くけど、何があったの?」
「実は試合当日に寝坊しちゃってさ、それからね……」
正美は得意気にふんぞり返って自分の功績を語り始める。
「……信じられない。あんた何考えてるのよ」
正美から聞いた事の顛末に、葵は開いた口がふさがらなくなってしまった。
曰く、正美の自宅まで学園所有のバスが迎えに来て、ベッドに張り付いた彼女を男子部員たちで無理矢理引き離し、男子が退室した後に女子が制服を着せ、寝たままの正美と剣道用具一式とをまた男子達が担いでバスに乗せて、試合会場に到着したそうだ。
「いやあ、目が覚めたら試合会場だから私も驚いちゃってさ。でも、私ちゃんと試合で勝ったよ。デビュー戦でなおかつ初勝利! ああん、その事も含めてお師匠様に早く報告したいんだけど、稽古が遅くまであるし、なかなかお邪魔できないんだよねぇ……」
脳天気に自慢をする正美。葵は友人ながら、世の中こんなに甘くてよいのだろうか? と思ってしまった。
「いい加減にしとかないと、そのうち大変なことになるよ。それに、お祖父ちゃんにそんな話を聞かせたら、間違いなく怒られるわよ。何でそんな風なのよ?」
「寝るのが大好きだからね。寝覚めの時のあのスッキリした気持ちは格別だよ」
「そんな正美が、今日に限ってはちゃんと朝に起きられたわけだ……」
葵の揶揄に対して、正美は特に気にする様子もなく「愛のチカラですから」と胸を張る。その時の正美は、憎たらしいほどの爽やかな笑顔であった。
その後も、二人はとりとめの無いおしゃべりを続けていたのだが、予定していた待ち合わせ時間が過ぎているにもかかわらず、葵の兄である徹がやってくる様子がない。
「それにしても、お兄さん本当に遅いよね?」
「お兄のことだから待ち合わせに遅刻するとは思えないけど……。やっぱり、正美もおかしいと思うよね?」
葵は、正美の思案する顔を覗き込みつつ、意見を求めるように尋ねる。普段から、どこかふざけているとしか思えない言動が目立つ彼女ではあるが、ごくたまに、周囲をうならせるような本質を突く鋭い指摘をすることもある。今回、そんな彼女の「勘」に頼ってみようという思いが葵にはあったのだ。
「まさか、東京の派手なギャルにもうご執心なのかしら? 今も、腕なんか組んで私たちのこと忘れてるんじゃ……。私という将来のお嫁さんがいるっていうのに!」
だが、正美のあまりにも頓馬な物言いに、葵は思わず「は?」と声を漏らしてしまう。
「……それよりも今、聞き捨てならないことを言わなかった? 誰が、お兄のお嫁さんになるのかしら?」
そして、すぐさま葵は青すじをうっすらと浮かびあがらせて問い詰める。
「え~? そんなの私に決まってるわよ。結婚したら、毎日お兄さんのネクタイを締めてあげて~、夜もイチャイチャ、ちゅっちゅちゅっちゅしながら一緒に寝て、そんでもって~、子どもは四人ぐらい、みんな男の子とか憧れちゃうよね♪ きゃはっ♪ 私ったら、なんてことを! いくらお兄さんとの未来だからって、思ってることを口に出しちゃうなんて、ひひゃわしぇしゅぎて……ふごご!」
「……あんた、人が大勢いるところで! その口を今すぐ閉じなさい! あたしはあんたとお兄の結婚なんて、絶対に認めないからね!」
惚気る正美の両頬を挟み込むようにして口の自由を奪う。そのせいで、正美の顔は「ひょっとこ」のような間抜け面になり、それが糸目と相まって、顔に独特の面白みを与えてしまう。
もっとも葵としても、正美に少々の恥をかかせて溜飲を下げるつもりなので、つねったり小突いたりする気も無い。正美もそれは長いつきあいで知っている。ある種のじゃれ合いの一環のようなものである。
――もう! 早く来てよ。お兄!
それでも、この独特の感性を持った友人をこれ以上たった一人で相手をしなければならない状況に対して、少女は心の中で嘆かざるを得ないのであった。




