エピローグ
龍巫島の事件から数週間が経ち、葵たちは徐々に日常の生活を取り戻しつつあった。
水原亮輔もその後、自分の過去と決別する道を選んだ。学校から言い渡された特別指導も三日前に終わり、正式に学校に復帰することになる。
また事件で知り合い、共に協力し合った八重樫遥香とはその後、親交が生まれ葵達と連絡を取り合うようになった。当初、彼女の通う学校の関係もあってよそよそしい態度になってしまっていたが、彼女の庶民的な人柄を知り、今では気軽に電話や文通をする仲になっている。彼女の明るい溌溂とした笑顔を見ると、葵達は幾分か救われた気持ちになる。
しかし、現実には事件の被害者である誘拐された少女達の心の傷はそう簡単には癒えてはくれないだろう。そのことが葵をはじめとした事件に関わった者達の心配の種でもあった。
そうした心配をよそに、無情にも時間は過ぎていく。けれども、そうした自分の目の前に容赦なくさし迫った様々な事柄が、人を少しずつではあるが前へと進ませてくれるのもまた確かなことであった。
日々の忙しさの中でも、葵を取り巻く状況に少し変化が見られるようになった。その一つが龍巫島の事件をきっかけにして、彼女が自分なりに過去と向き合い、自分が何故強くありたいのかを考えるようになったことである。
夏希からは今回の事件について思い切り怒られた。初めて彼女から本気の拳を喰らい、痛い思いをした。しかし、それと同時に彼女の娘に対する想い、愛情を少しばかり感じた。やはり痛かったが。だが、今なら母が、祖父が自分に言い聞かせてきたことの意味がほんの少しだけ分かった気がした。少しずつ、少しずつ過去と向き合っていこうとしている。
「む! 朝比奈さん。どうしたのかな? その髪は?」
学校の昇降口で、慎二にそんなことを言われた当の葵は、髪を短く切っていたが、少女がよくやるショートカットとは違い、男性的な雰囲気を作りだしている。そしてその切れ長の目の奥には、意志の強さを感じさせるような瞳が覗いている。
「別に失恋とかじゃないわよ。単に雰囲気を変えてみたくて切っただけ」
面倒な奴が来た、と言わんばかりに少しばかり眉をひそめた葵であったが、それに反して口元はどこか楽しそうに微笑んでいた。
「まあ、とにかくまずは一枚撮って良いですか? 部長が早くしなさいってうるさくて」
言い終わる前からカメラを構える慎二であったが、彼のカメラとその被写体とを遮るように美穂が間に割り込んできた。つま先立ちになり、カメラのレンズにキスをせんとばかりに顔を近づける。
カメラをさげた慎二に人差し指を立てて、たしなめるように言った。
「櫻井君、朝比奈さんにも釘を刺されなかった? そういうのは良くないって」
「ははは、そう言われるとつらいなー。でも、これは部活のためだから」
「何言ってるの、駄目よ! そんなことしてると変質者に間違われるでしょ!」
「ふー、仕方ないな」
諦めたのか、慎二はボサボサの髪を掻いた。
「そう言うって事は、高橋さん。僕専属の被写体になってくれる気になったのかな? 僕としては良い返事を聞けるとありがたいんだけど」
あまりに唐突な発言に、葵は目が点になった。どうやらいつぞやの武道場でのことを思い出してしまった。どうやら本気らしい。
「え、えーと。……こ、困るわよ、急に」
当事者の美穂は、何故か顔を真っ赤にしている。
「そんな遠慮することないさ。眼鏡ごしに見える知性をたたえた瞳、艶やかな黒髪、清楚なたたずまい。部室に押し掛けていったとき、一目見てなかなかの素材だと思ったよ。ねえ、どうかな、やってみないか?」
美穂はもう何も言えずに、耳まで真っ赤にして後ずさる。
「いーや、今日こそは逃がさないぞ!」
「朝っぱらから馬鹿なこと言って女の子を困らせてるんじゃねーよ! 何が専属の被写体だよ! な? 朝比奈」
誠は慎二の後頭部を軽く小突く。
「そうね。まあ、櫻井君らしいけど」と葵はくすくすと笑った。
「なあ、お前何かあったのか? そんな髪型にして」
怪訝そうな顔をして尋ねる誠に「秘密よ」と葵ははぐらかすように言った。
「おはよ、相原君」
呆気にとられている誠を置いて楽しそうに和彦に挨拶をした。
「俺は蚊帳の外かよ……。そりゃあ、あの島で二人きりになってたけどなぁ」
仲が良さそうな二人を見て拗ねるように誠はポケットに手を突っ込んだ。
「あっ! いたいた! おい! あたしを差しおいてあんたらは朝っぱらから男子たちをはべらせちゃってぇ、もう」
遅れて昇降口にたどり着いた裕美は男の子のような動作でスニーカーを脱ぎ、スリッパに履き替えると、葵と美穂、二人の間に割って入った。
「どこをどう見ればそうなるのよ? ねえ」
「まったく……」と葵も裕美のトンチンカンな発言に肩をすくませる。
「またまた、どう見たってモテモテじゃないの二人とも」
それを火ぶたに裕美と美穂、いつもの二人のやり取りが展開されると、葵は和彦に歩み寄ってニコリと微笑んだ。
微笑みを投げかけられた少年の瞳に映る葵は、四月の時よりも多くの感情の起伏が伺え、かつてのとっつきにくさが少なくなり、その表情も活き活きとしている。まるで、雛が卵の殻を破って初めて見る世界と、まだ見ぬ世界とを見て、不安と期待、新しい出会いに胸躍らせているようでもあった。
「さ、みんな早く行かないとチャイム鳴っちゃうよ」
言うなり、葵は足早に教室へと向かう。後を追うように和彦も彼女の横に並ぶようにして歩き出した。
「俺らも教室に戻るか。おい慎二、行くぞ」
「じゃあ高橋さん、さっきの話考えてといて」
「嫌だってば!」
「照れない照れない! 美穂ぉ、あんたそんなこと言ってて、実はまんざらでもないんじゃあない?」
「勝手に決めないでよ!」
背後で繰り広げられている彼らのやり取りを見て、葵は思わず笑みをこぼしてしまう。それを横に並んで歩いている和彦は目にとめ、彼女に語りかける。
「どうしたの?」
「こういうの、悪くないかもって思ったの。さ、行きましょ」
葵は、スカートのポケットから十字架だけになった、黒崎から託されたロザリオを取り出した。事件の後、和彦が十字架を必死で探し出してくれたのだ。以前に比べて弱くなってはいるが、当面は悪魔結社から自分の存在を嗅ぎ取らせないようにすることは出来るという話を和彦から聞いた。
自分を狙う存在があるというのは不安であり、また彼女の周りにいる人を巻き込んでしまう可能性があることを考えると、胸が苦しくなってしまう。彼らに見つかってしまったとき、自分はどうなるのか、どうすべきなのか、考えなければいけないことはたくさんある。しかし、いま自分に与えられたこの温かい世界だけは何とか守りたいということは、彼女の心の中でハッキリしていた。
そして、もう一つ心に決めたことがあった。自分の恩人である黒崎のことをもっとよく知ること――彼の足跡を辿ることである。両親に彼がどんな人であったか聞きたい、彼がどんな道を歩んでいったのかを自分自身の手で確かめたい。そんな思いが彼女の心の中に芽生えているのだ。無論、それは良いことだけではないのかも知れない。知らない方が幸せだったと思えるようなことになるかも知れない。黒崎の行方を追うことによって、自分を狙っている結社に出会ってしまう恐れも十分に考えられる。それでも、と葵は決意していた。彼を探し求めること、それは同じように自分にも備わってしまった力の意味を探し求めることでもあるのだから。
くすんだ銀の輝きを放つ十字架を見つめると、そっと握りしめ、少女はまた一歩一歩、前を向き、歩き出していった。
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