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7.事件の収束

「……ここは?」

 気を失っていた和彦は目を覚ました。未だにはっきりとしない意識であたりを見渡すと、すぐに倒れた人の姿を見て取る。

「朝比奈さん!」

 その異様な光景に、少年の意識がハッと正常に戻る。

 気絶していたときの後遺症で少し足下がおぼつかないが、和彦はそれにかまわず駆け寄って跪き、葵を抱き起こす。

 しかし、彼女の肌に付着した血の脂で滑って掴みにくい。

 それだけでなく彼女の服にもおびただしい量の血が付着し、赤黒い模様を白いシャツに描きだしていた。

 よくこれで生きているものだ……。葵を支えながら和彦は考えてしまった。

「そのままにしていてください」

 そんな彼女の様子を見つめていた黒崎は、足を引きずりながら二人の傍に寄り、自由のきく左手で法衣の懐をさぐり、紅い――人間の血のような液体が入った瓶を取り出した。

「……私を信じてください、ですか」

 和彦と替わるように、黒崎は傷を負った少女を抱き起こす。右手は先程彼女に貫かれ自由がきかないため、膝を枕にするような形で彼女の頭部を支えた。

 黒崎は左手に持っていた小瓶を右脇に挟み込んで固定し、瓶の栓を抜く。

「なぜ私のような者のために、貴女は傷つかなければ、死ななければならないのですか?」

 葵の額に手を添えて、ゆっくりと顔を天に向けさせる。

「私は思います。……貴女には生きていて欲しい、そして本当に終末の時が来たとき、貴女が自身の運命を決めなければならないとき、決断してもらいたい。貴女を三年前に助けた男は、もうこの世にはいないのです。貴女に会うまでの間、そして別れた後も、私は罪を犯しすぎた。いや、これも私の運命であったかもしれない」

 小脇に挟んでいた瓶を再び左手で掴むと、彼女の開きかけた口元に、瓶の口を付けて液体を流し込む。しかし、彼女の口から、虚しくその液体がこぼれてしまうばかりであった。

 衰弱していく葵を見つめ、何かを決したように、黒崎は何かに語りかけた。

「憐れみ深き主よ、私はあなたに背を向け、御許から去った罪人です。赦しは受けられぬ事を承知で、それでもお願いします。どうか、まだ私の声が届くのであればお聞き下さい。私の罪の故に、私の躓きの故にこの娘を取り去らないでください。私の魂が地獄へと投げ込まれようとも、彼女までは取り去らないでください。

 主よ、憐れみ給え。キリストよ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え」

 祈るように天を仰ぎ見て黒崎は言った。そして、再び紅い水を葵の口元に注ぐ。

 葵の喉が下がるのを、和彦は確認した。

「主よ、感謝します」

 黒崎もそれを確認すると、少しの休みを入れた後もう一度、彼女の口に液体を流し込んだ。「何ですか、その薬は?」

「これは遥か昔に教会の禁呪とされてきた錬金術の秘技によって造られた秘薬です。チェコスロヴァキアに隠れ住んでいた術師から私はこの薬を譲り受けました。ですが、もうこの薬を造っている術師はこの世にいません。私が持っているのはこれが最後です」

「……黒崎さん、あなたは何を見てきたのですか?」

「彼女にはけっして話さないと約束できますか?」

 黒崎の真剣なまなざしに、和彦は頷くことしかできなかった。

「私はこれまでに三人の重要な人物と出会いました。一人は私と同じ孤児院で育ち、私と同じ聖職者の道を歩みましたが、内戦下のレバノンで殉教しました。後の二人は同じ蛇の使徒として出会いました。そのうちの一人は悪魔結社によって暗殺され、もう一人は救おうとしている者たちの無理解と憎悪とに苦しみ、絶望して私の前から姿を消しました……。その後、最後の一人の消息を追って日本に帰国した私は、かつて訪れたパレスチナやユーゴスラヴィアで起きた悲劇を知りました。現地で出会った人々に降りかかった運命が頭をよぎりましたよ」

 黒崎は言葉の一つ一つをゆっくりと、しかしはっきりと語った。その声色は意志の強さと同時に、その強さが秘めている危うさを感じた。しかし、彼の心を、彼の辿ってきた足跡を慮ることは、まだ少年には無理であった。

「あなたは、結局自分がキリストになって世界を救おうとしたんですか?」

 少年の問いに、黒崎は目をつむり静かに首を横に振った。

「……いいえ、私はキリストになどなれません。私は、自分が創ろうとしていたメシアとなるべき方の道しるべになりたかったのです。洗礼者ヨハネのように、多くの預言者のように、塞がれた人々の目を開き、真の民を導くべき方に眼を向けさせる者に……」

 抱きかかえた葵を見下ろす黒崎の顔は、先程までとうってかわり、穏やかな壮年の男性、様々な人々の苦しみ、哀しみ、嘆きを引き受ける教会の聖職者のようであった。この男をこれほどまでの狂気に駆り立てたのは、彼の傲慢さからきたものなのか、それとも、理不尽、不条理に対する押さえ難き怒りと哀しみと、ただ一途なまでの信仰心であったのか、彼を見つめる和彦にはまったく見当もつかなかった。それでも、この時の黒崎は葵の言っていたように、人の重荷を引き受け、共に歩む人のように見えた。ただ、そのように彼の目に映った。

「もう大丈夫でしょう。……それでは、私はここを去ります。去らねばなりません。私が彼女に渡しておいたロザリオは、手放さぬように彼女には言っておいてください。完全な形とは言えませんが、力を嗅ぎ付けられないようにすることは出来ます」

「何処に行くつもりなんですか! その傷じゃ命が危ないですよ!」

 和彦は黒崎の血の気の失せた青い顔をみた。葵に貫かれたときに動脈を傷つけたのかもしれない、ここまでの間に相当の量の血を失っているのは明らかだった。このまま行けば失血死することは目に見えている。

「……そうだとするならば、私の行き着く先は決まっていることです。道を踏み外した者の末路は、孤独という名の闇です」

 そのようなことなど知らぬとでも言いたげに、よろよろと黒崎は一歩一歩を踏みしめるようにその場から、深い暗闇が広がる場所へと入っていった。和彦は彼の姿が闇に飲み込まれて見えなくなるまで、ずっとその背中を見ていた。その背中が、和彦には楽園を追放されたアダムとエバの後ろ姿に、エデンの東へと嘆きながら去っていく二人の間に生まれた息子、カインに見えた。

「……黒崎さん、僕は違うと思います。孤独も、闇も、全部人が選ぶんだと思います。アダムとエバも、カインも自分から去っていったんです。だから……」


 葵を手当てしているところに、夏希と沢村刑事がやってきた。

「随分とひどいやられ方ね……。その割には顔色が良いみたいだけど」

 葵の服に付いたおびただしい血を見て、その有様と本人の顔色のあまりの違いに、夏希は少し当惑した表情を浮かべた。

 そんな母をよそに葵は、夏希の顔をまともに見ることができなかった。やはり、和彦や誠達とは反対の方向を見てあえて夏希と顔を合わせないようにしている。

「まあ、話は後でゆっくり聞かせてもらうわ……。とにかく、無事で良かったわね」

 そんな葵のそばに寄りほんの少しの間、彼女の体を両腕で抱きしめた。


 程なくして、応援が駆けつけて島の施設をアジトにしていた男達は全員取り押さえられた。島にいた作業着姿の六人はやはり東京の刑務所から失踪した受刑者であった。ついで、誠、慎二、遥香の三人も無事に発見されて船で落ち合うことが出来た。三人とも服がボロボロになっていて、和彦はビックリしていたが、葵の服に付いたおびただしい量の血痕はそれ以上に誠達を驚かせた。

 だが、黒崎慶吾の行方については杳として知れなかった。恩人が何とか生きていたのか、それとも死んでしまったのか。彼女は彼の今後を考えると複雑な気持ちになった。おまけに黒崎に付き従っていた長身の男と小男の行方も結局分からずじまいになってしまった。だが心のどこかでは、黒崎はきっと生きているはずだ、という確信めいた思いを抱いていたのだった。

 葵自身もその後、その現場を案内したがそこには初めから誰もいなかったかのように血の痕すら残っていなかった。理由は分からない。使役していた黒崎の魔力が消滅したことによって現実世界からいなくなったのかもしれない。

 腑に落ちないいくつかの謎を残したまま、連続失踪事件、東京の受刑者失踪事件は形の上では幕を下ろすことになった。今後は、行方をくらませた黒崎の捜索に全力を尽くすことになるだろう。一方では、黒崎と対立している結社については再び闇の中に隠れることになるのだろう。葵から話を聞いた夏希も、さすがにそこまでは首をつっこむことは出来ずにいる。黒崎の捜索についても知人という間柄のため、捜査チームからは外れ、他の管轄に委ねることになる。だが、しばらくの間は彼女にもやるべきことが多いから休息の時は訪れないかもしれない。

 船に乗り龍巫島をあとにするとき、葵はふと自分が先程までそこにいた島を振り返った。そんな彼女の眼と耳に、島の一部が音を立てて崩れていく光景が飛び込んできた。あの恐ろしい力を秘めた紅い石も、世に出ることなく再び眠りに就くのだろうか……。そう願わずにはおれなかった。複雑な思いを胸に恐ろしい体験をした島を、葵はいつまでも見つめていた。

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