2.事件の前夜
高校に入学してから二週間ほど経ったある日、葵は祖父――川村源太郎の家を訪ねていた。
大した要件ではなかったのだが、気がつけば学校の話、旧友の話と、思ったより長々と話し込んでしまっていた。
「それじゃ、あんまり遅くなるといけないから、あたしは帰るね」
「まあ、その方が良いだろう。最近は物騒だからな、お前も知っとるだろ?」
源太郎は三日ほど前の新聞を引っ張り出してきて、その中の地方記事の紙面を開く。祖父の指さす先には、小さく、隣町で少女が姿を消して二日たった今でも連絡が取れないことを知らせる記事が載っていた。
「そういえば、これって、月の初めに東京と横浜で起こったことと何か関係あるのかな?」
四月三日、東京の区立中学に通う十三歳の少年が、二日後には同じく、都内の私立高に通う十七歳の少女が、十日には横浜市内の私立高に通う十五歳の少女が、忽然と姿を消すという事件が起きた。三人とも黙って外泊をするような人物ではないことから、何らかの事件に巻き込まれたのでは、との見方が強まってきている。
そして、ちょうど日を置いて今から五日程前、隣町のカトリック系のミッションスクール、聖家族学院に通う十五歳の女子生徒が、謎の失踪を遂げたのである。
「分からんな。だが気をつけたほうが良いだろう。一昨年の東京でのテロ事件あたりから、どうも不吉なことが起こりよるわ」
祖父の言葉に、葵は少し顔を曇らせる。
まだ葵が中学一年生であった二年前の一九九五年三月某日の早朝、東京で無差別テロ事件が発生した。おりしも、ちょうど葵の兄が高校を卒業後、進学のために一足先に上京していたときなのである。しばらくして本人から電話があり、無事が確認できた時には葵も父親も胸をなで下ろしたものだった。しかしその時の、いつもは心優しい兄の、怒りと哀しみをないまぜにしたような重々しい口調は、未だに葵の記憶に鮮明に残っている。
葵の顔が暗かったのを察し、祖母の加代子が源太郎の隣に座り、膝を数回叩いた。その意味を理解した源太郎は、数回咳払いをした。
「とにかく、関係あるなしに関わらず十分に気をつけることだ。お前なら腕っ節もそこらの貧弱な男より強いし、何よりも気合いは有り余っているから、そんなに心配には思えんが」
腕っ節という言葉に、あまり素直に喜ぶことができなかったが、もう慣れた。
「ところで葵」
呼び止める祖父の声に、葵は振り返る。
「あれからもう三年近く経つが、答えは見つかりそうか?」
祖父の問いに、葵は「まだ見つからない」と答えて首を横に振った。
かなり年代物の掛け時計を見ると、八時を示そうとしていた。これ以上遅くなるわけにもいかないので、葵は「じゃあまたね」と祖父と祖母に一声かけ、祖父の家を後にした。
祖父の家を出た葵は、そのまま灯りがまばらな住宅街をぬけ、駅前通りに出た。
住宅街からほんの百数十メートルほど進むだけで、盛り場に入り、もう周囲の様子は一変してしまう。会社帰りのサラリーマンを客として待つ飲食店や居酒屋の灯りが煌々とあたりを照らし、メインストリートから伸びる小路の薄暗さを際だたせる。薄暗い小路の奥からは男達の目を引くような派手なネオンの光が見え、メインストリートとは違う猥雑さが漂ってくる。
少し歩くだけでも、酒にひどく酔った者達の怒声や、酒とこの場所が発する雰囲気に煽られた男女の艶がかった声が、いやでも耳に届く。彼女はできるだけ見ず、聞こえないように足早に盛り場を通り過ぎていく。
騒がしい盛り場を抜けるとようやく駅前にたどり着く。盛り場の喧噪もさすがにまばらにしか聞こえてこない。
ふと、先ほど自分が通ってきた盛り場を振り返る。そこには背の高い、葵と同い年ぐらいの少年の姿があった。肩幅はそれなりにあり、短く刈り上げた髪はスポーツ選手のようにも見える。細長の目は暗がりもあって少々恐そうな印象も与えるが、全体的に見れば整った顔だちをしている。
しかし、その目には活力があまりなく、時折下を向いたかと思ったら、盛り場の灯りや、行き交う人をただ眺めていたりする。
その姿に、彼女は見覚えがあった。
「あの人は……、確か……」
ところが、葵が動く前に、少年は小路に消えていった。
葵は少年の消えていった方角を見つめ、しばし記憶を辿ってみた。
「あの人、同じ学校に通ってるはずよね……」
しかし、肝心の名前が一向に浮かんでこない。結局、思い出すことが出来ず、葵はそのまま帰宅を急いだ。