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5.覚醒

 岩壁の向こうに叩きつけられて力無く横たわる葵の目の前には、賢者の石が安置されていた礼拝堂のような空間が広がっていた。そこはちょうど、黒崎との再会の場所であった。

 葵の目にポケットから放り出されたロザリオがとまった。人間に驚異的な能力を与える神秘の石を模したものらしいが、それを使えば何とか活路を見いだすことが出来るかもしれない。けれども、その代償で人間ではなくなってしまうかもしれない。葵の心に葛藤が起こる。

 しかし、彼女は決意したようにロザリオを拾い上げた。数珠の部分を歯で噛み固定すると、自由のきく右手でメダイを力一杯に握りしめて引っ張った。次の瞬間、鎖が引きちぎられるような音と共に、真鍮で出来た数珠がこぼれ落ちて、メダイがロザリオから切り離された。

「……母さん、父さん……、それとお兄……。ごめん……」

 声にならないほど力無い声で、誰に言うでもなく呟くと、紅い石で出来たメダイを左腕にできた銃創にねじ込んだ。

 途端に、全身の血管が拡張されたような気の高ぶりが起こり、すぐさま、先に触れたときのように心の底から、攻撃的な負の感情がわき出してくる。

 葵は自分の心から湧き上がってくるものに恐怖した。黒崎の言うとおり、このおぞましい感情が自分の本性なのか? 今まで散々嫌悪してきた連中と同じなのか?

 黒い感情の渦に彼女が飲み込まれそうになったその時だった。

 恐怖におののく心に声が聞こえてきた。

 ――だから、自分を嫌いにならないでほしい。善いことも悪いこともすべては、自分の行いから生まれてくるものだから……。

「……相原君?」

 暗闇の中にわずかな光が見えたような感覚が起こった。その先に和彦の姿が見え、彼は静かに右の手をさしのべた。

 葵は必死に手を伸ばして和彦の右手を掴む。すると暗闇を彷徨っていた彼女の意識は覚醒へと向かった。

 目をカッと見開き、おもむろに体を起こす。先ほどまでに受けた攻めの痛みが、不思議なことに感じなくなっている。

「……これは?」

 ふと左腕を見ると、紅い石が体に埋め込まれている。しかし、最初に触れた時に感じた、あの恐ろしい感情の昂ぶりは起こらなかった。

 左腕から目を離し、深呼吸をすると、何かを決意したように立ち上がる。

 あれほどの猛攻を受けても手離さなかった刀を拾い上げる。

 そんな彼女の目の前に、悪魔が迫っていた。再び人外の者と対峙する葵。しかし、その眼にはもう恐れや迷いは無くなっていた。覚悟とは違うどこか、自分のしなければならないことを悟ってそれに向かい合おうとしている眼で、じっと悪魔を見据えて抜刀する。

「……通してもらうわよ」

 引き抜かれた刀身は人間の手によって鍛えられたものとは思えないほどの美しい輝きを放っていた。

 長身の悪魔も手にしている剣を抜く。長さは葵の持っている刀よりもはるかに長い。

 葵は、刀の切っ先を目の高さまで上げると、右足をわずかに後ろに引き、半身に構えた。

 男は剣を振り上げ、そのまま一気に間合いを詰め唐竹割の要領で剣を振り下ろす。

 それを十字に受け止める。強い衝撃が身体に伝わったが、刀の反りを利用して相手の背後に回り込むように受け流す。

 そのまま後方に飛び退き、間合いを取る。ちょうど先ほどと正反対の位置関係になった。

 葵は、自分の身体に起こった変化に驚いていた。先ほどの剣を受け止めたとき、相手の剣の動きがまるで時間の流れが止まったような、非常に緩慢なものに見えた。

 しかも、飛び退いたときも通常では考えられないほどの距離を一回で飛んだ。それだけでなく、この空間に流れている空気の動きが肌や耳を通じて伝わってくる。

 視覚と聴覚、触覚ともに甚だしいほどに研ぎ澄まされ、身体能力もそれに合わせるかのように人間離れした領域にまで高められている。

 模造の石の力がこのようであったなら、本物であったならどうなってしまうのだろう。

 そう考えると恐怖を感じざるを得なかったが、今はこの力が必要であった。姿勢を立て直し、相手を真っ直ぐ見据える。

 相手の武器は非常にリーチがある。刀長は目算でおよそ百六十センチであろうか。彼女の持っている刀の二倍以上ある。長さの点では圧倒的に不利だ。

 男の刀が再び襲いかかってくる。今度は横から薙ぎ払うように剣が振るわれた。

 とっさに躯を伏せる。

 すぐさま男は返す刀で地に這うように伏せている葵めがけて刀を突き刺す。

 それを横に身体を回転させて避け、飛び起きる。

「本当、洒落じゃすまないわね」

 鋭い目で、男をキッと睨むと右足を後ろに引き、切っ先を下に向ける。

 刀が地を向いてしまったため、胴、頭が完全に無防備となってしまった。

 戦いのさなかだというのにまるで命を放棄しているような構えをとった。

 しかし、彼女は生を放棄したのではなかった。彼女の眼はまるで獲物を見据える鷹のように真っ直ぐ相手を射抜くように見ている。瞬き一つしないで相手のわずかな筋肉の緊張まで見逃さない。

 不意に男が剣を強く握りしめた。

 ――来る! 葵は直感した。それと同時ぐらいに男が間合いを詰めて、今まさに彼女の左肩から袈裟に切ろうとしていた。

 葵は、一気に体勢を低くしたまま大きく踏み出した。

 男の振り下ろした刃が肩口に食い込んだその瞬間であった。

 男の剣が肩口に食い込むと同時に、葵の刀は男の前腕に深く切り込まれていた。

 そのまま、全身の力を利用して刀を振りあげる。

 男の左前腕が切断され、右腕にも深い刀傷が刻まれた。握力を失った手から剣が手放され、切断された左手に掴まれたまま突き立てるように地面に刺さった。

 そのまま、素早い足捌きで体勢を立て直して向き直る。

「はっ!」と叫ぶと同時に、地面に滑らせるように刀を振り、男のアキレス腱を断ち切る。

 男の巨体が地面に倒れる。

 初めて真剣で生きるものを斬った。

 覚悟していたことではあったが、やはり恐ろしさに駆られてしまう。掌にもまだ男の肉を断ち切る感触が鮮明に残っている。

 両腕を斬られ、足も自由を奪われた男は地面にはいつくばったままだ。

 葵は、そんな男を一瞥すると、真っ直ぐ黒崎の方を向き直り、彼のいる大空洞に向けて歩を進めていった。

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