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1.黒崎との思い出

「朝比奈葵さん、貴女は自分のことが嫌いですか?」

 いつものように黒崎慶吾と、駅の近所の公園で落ち合い彼と話すのが、あの事件以来の葵の日課になった。両親にはこのことはまだ伝えていない。いずれは話すつもりだが、まだ二人や兄と顔を合わせづらいのだ。

 包帯を巻き付けている左腕にできた、深くナイフでえぐられた傷痕に手を置き、地を見ながら彼の問いかけに答えた。

「これだけは変わりようがありません。……嫌です。あんな事になった自分が……。刺された後、頭が真っ白になって、それから、それから……」

 事件以来、級友達は彼女に潜在的な恐怖を憶え、距離をとるようになってしまった。被害を受けた少年も、隣のクラスの問題児も脅え、努めて彼女に近づかないようにしている。それは彼女の心にポッカリと穴を空けた。

「さてと、今日は二人の兄弟の話の続きをしましょうか。カインは神に顧みられなかったことからくる絶望の中、自分の弟アベルを殺めてしまった。そしてその罪に対して神からは追放という重い罰を与えられることになった。しかし、神は更なる絶望に陥ったカインに対して、ある“しるし”をお与えになった。何故でしょうか?」

 頑なな態度を変えぬ葵は「……そんなの、分かりません」と端から彼の問いに答えることを拒み、地に顔を伏したままであった。そんな彼女を猶も優しい眼差しで見つめる黒崎は、彼女の心に語りかけるように話を続けた。

「罰とはその行為、即ち罪に対する報いであるのです。『罪と罰』が一括りで使われるのはそのことからも判ることでしょう。……ですが本来、神が求めているものは、人に課そうとしているのは罰ではないのです。では、何でしょうか?」

「……何なんですか? それは」

 ――それは変革への情熱ですよ。

 黒崎の言葉に、葵は思わず顔を上げる。

「どんな絶望的な状況でも、人にはそれを切り抜ける術が備わっているのです。ですが、それは一般論として言われます漠然とした希望を見出すことではありません。もっと純粋で躍動する人間の生命の証――情熱を呼び覚ますことなのです」

 ――情……熱……。


         ※


 頭の中に響く鈍い痛みに目を覚まし、葵はゆっくりと身体を起こす。したたかに全身を打ち付けられてせいで、まだ鈍い痛みが残っている。

 ――気を失っている間に、昔を思い出してしまった。

 自らの過ちによって、自分の心を、護りたかった人をも失った。そんな惨めで、無力感に囚われていた自分に前を向くように諭してくれた恩人との忘れることの出来ない時間を。

 この場には彼女一人しかいない。黒崎も、彼の使役する悪魔も、彼らに囚われた和彦もどこかに行ってしまった。暗闇の中、彼女は独り取り残されていた。

 傍らに落ちているロザリオを拾い上げ、赤い光にわずかに照らされる十字架を見つめる。

「……黒崎さん、どうして……、どうしてなんですか?」

 十字架を握りしめ、力無く、哀しみを抱いた声で、少女は誰もいないこの闇に包まれた世界に語りかけた。涙すら出ない深い傷が彼女の心に再び甦ってきた。

 まだ体に残る痛みを堪え、洞窟の奥へと進んでいった。

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