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5.影の正体

 黒崎を追って洞窟の最奥にたどり着いた二人が見たものは、信じがたい光景であった。松明の火で照らされた空間に映るのは、通常よりも一回り小さな礼拝堂のような場所だった。かつて江戸の時代、幕府の監視を避けてキリスト教徒が集った地下の礼拝堂のように、窮屈そうな空間でありながら、宗教的な象徴物が至る所に設置されている。地面に目を配らせると、人工的に造られたように思われる小さな溜め池が見つけられる。

 しかし、そこに置かれた象徴物はカトリック教会に見られる十字架に架けられたキリスト像や、幼子イエスを抱く聖母マリア像ではない。いびつな、この世にはきっと存在しないであろう形をした――天に向けて根を張る樹と、それに巻き付くようにして絡みつく蛇、他にも十字架に身体を巻き付ける蛇、自らの尾を喰らう蛇、何処を見渡しても蛇の象徴物で覆い尽くされていた。

 そして、この場所の中枢部とも言える祭壇のような場所には、逆さになった十字架と、その十字架の根本に、真紅の輝きを放つ宝石が安置されていた。

 和彦は、その神秘的な光景に魅入られるようにして引きつけられ、何の言葉も発することも出来ずに立ちつくしてしまった。思考が混濁し、時折、唾を飲み込む音が自らの耳に届くだけである。

「これが紅い石、本当にあったなんて」

 対して、葵は祭壇に安置されている宝石に、得体の知れぬ恐怖を憶えていた。その紅い石に引きつけられる心と、本能的にそれを恐怖する心とが同時に彼女の心を襲い、思考を混乱させる。

「見てみたいのでしょう? さあ、来て、もっと近づいてきてください」

 ――サア! オ待チカネノ時ダ。求メテイタモノ、知リタカッタモノハモウ目ノ前ニアル。

 黒崎の言葉に、耳に囁きかける声に引きずり回されるかのように、葵は一歩一歩、震えながらも祭壇に近づいていく。心がそれを拒絶しているにもかかわらず、意志とは正反対に身体が紅い石を求めていく。

 今、彼女の目の前には人の血を思わせるような、神秘的な紅い輝きを放つ石がある。

 もはや、目をそらせることも叶わない。おそるおそる、震える右手が紅石へと向かい、指先が石に触れた。

 刹那、彼女の心の奥底から得体の知れない力が湧き上がってきた。それはどす黒く、暴力的で、ありとあらゆるものを破壊しつくさんとするような、負の感情となって彼女の精神を支配しようとしている。これまで、経験したことのない邪悪な感情とそれに対する恐怖がない混ぜとなって彼女の精神を蝕んでいく。

 葵の明らかに異常と判る異変に気づき、我に返った和彦は、彼女の肩を掴み強引に石から手を引き離す。

 咄嗟に引き離されたことで正気に戻った葵は、ショックから吐き気をもよおし、手で口を押さえ、体液が逆流してくる苦しみに必死で耐えた。

 背中に悪寒のようなものが走ると、たちまちのうちに皮を引き剥がされるような激しい痛みが彼女を襲った。雛が卵の殻を破るように、何かが自分の中から出ていこうとしている。

 葵に側に寄り添う和彦には、彼女の背中から人の姿をした生き物が、幽体離脱のようにして現れてくるのを目の当たりにした。しかし、それは幽霊とは違う、明らかな質料を持った物体としての存在、そして悪霊、怨霊の類以上に恐怖に包まれた存在であった。……悪魔、そう言う表現がしっくりくるもののようにそれを見た少年の直観は感じた。

 完全に葵の身体から離脱した物体はやがて形を変化させていき、人と変わらぬ姿――西洋的な彫りの深い、三十代の男性のような姿になった。

「ご苦労でした、アモン」

「これで俺の仕事は終わりか? あの女の中にいるのは楽じゃなかったぞ。聖職者以外で、あそこまで強情な奴は珍しい」

 かすむ意識の中、葵はその声を聞いて意識を徐々にはっきりとさせた。ここ数日、彼女の心に語りかける声と寸分も違わぬ声であった。おそるおそる、顔を上げていく。アモンと呼ばれた男性がそれを見逃すことはなかった。

「はじめまして、お嬢さん。あの石に触れた感想はどうだった」

「……あなたは、ずっとあたしに語りかけてきた人……なの」

「ご明察」と、彼女の問いにアモンと呼ばれた男は不敵な笑みを浮かべ、黒崎の姿がはっきりと見えるように立ち位置を移動した。

「貴女には何が見えましたか? 朝比奈葵さん」

「一体何なんですか!? 石に触れた途端、何であんな恐ろしいものが」

「先程、貴女が触れたこの石は神々に屠られた蛇の遺した純粋なる世界の知識の結晶、旧約聖書において善悪の知識の樹と譬喩されたものの正体です。古来、錬金術師の間では第五元素、即ち《賢者の石》あるいは《哲学者の石》と呼ばれるものです。絶えず、幾多のもの錬金術師によってこの石の探究が続けられてきました。その過程の中で賢者の石に限りなく近い石が製造されたことも事実です。しかし、これは世界中でも稀に見る純粋な、蛇の遺した物と言えるでしょう。ところで、私は貴女にロザリオを渡したわけですが、そこに嵌められた紅い石は、過去に私が譲り受けた人工の賢者の石を加工したものです。純正のものに比べれば力は劣りますが、それでも計り知れぬ可能性を秘めていました」

 葵はジャケットのポケットから、古びたロザリオを取り出す。掌にのる十字架と、メダイにあしらわれた紅の宝石は、純粋な賢者の石に感応しているのか、不気味なほど赤く、血の色のように輝いている。

「さて、この石が貴女に見せたのは何だったのか、それは宇宙の始まり、闇と混沌です。世界の原始の姿を聖書の伝承は次のように伝えています。

『地は定形なく曠空くして、黒暗 淵の面にあり、神の霊 水の面を覆たりき』と。

 世界はタルタロスとカオス――すなわち闇と混沌という絶えず存在し続ける永続的な世界、前世界を始まりとし、混沌を制御する理性との対立から絶えず変化し更新されていく現在の世界、そしてこの二つを超越し、且つ包括する時間世界、超世界から成り立っているのです。

 そして、石が貴女に見せたもう一つのものはパトス――すなわち激情という貴女の魂の本質でしょう」

「……激、情?」

「人間に潜む攻撃性、闘争本能とでもいいましょうか。三年前の事件の時、貴女は少年を助けようとして立ちはだかりました。だが、貴女はよく憶えておらず、腕を刺された痛みで我に帰った時には相手を打ち伏せていた。その我にかえるまでの間に貴女の心を支配していたのが激情です。これが表に現れる時、人間は歯止めを失い、恐ろしい力を発揮するのです。運良く、貴女は戻ってくることが出来ましたが、行き着くところまで行ってしまい、カインのように自らを破滅させることもあります」

「それを私に見せた意味は何ですか?」

「貴女に私の助け手になって欲しいからです」

「助け手……。黒崎さん……、黒崎さんは……」

 ――黒崎さんは、何をしようとしてるんですか?

 言おうとしても、その言葉を声に出すことが出来なかった。

「私は《ウロボロスの使徒》、あるいは《自らの尾を喰らう蛇の同志》と呼ばれる者でもあります。蛇より授かりし正しい世界の知恵を以て、人を救済することを目的とした者と言っても良いでしょうね。もっとも、結社と言って良いかは私自身、疑問に思いますが」

 もう、何も考えることが出来なくなった。自分の今見ている世界、耳に響く言葉、すべてが何かの悪い冗談のように思えた。もはや目はどこを見ているのかも定かではなく、ただ絶望の内にかつての恩人を見るだけであった。

「待ってください! あなたの目的は何なんですか? なぜ、そのことを朝比奈さんに話すんですか」

 打ちひしがれて生気を失っていく葵の姿を見て、たまらず和彦は黒崎を見据え、彼の瞳から庇うように立ちふさがった。

「近い将来キリストの再臨、つまり人類の歴史が終わる終末の時が訪れるからです。人祖アダムが負った原罪がまさに清算される時です。イエス・キリストによって開かれた贖罪のための猶予期間はもう終わろうとしています。その時、人類は神とともにあるか、神から離れて悪魔に服従するかを選択しなければなりません。そして、人は何が何でも前者を選ばねばならないのです。争いと罪にまみれたこの古い世界を変え、新たな世界を、神と共にある世界を。たとえ、私が罪のために裁きの炉に投げ込まれ亡ぼされようともです」

「……な、何をするつもりなんですか? 黒崎さんがいなくなるって」

 最後の言葉に胸騒ぎに駆られた葵は、震える声で黒崎に訴えかけた。それが、たとえ聞かなかった方がよい事のように思えても。

「兄弟の和解、浄と不浄の結合、即ち罪に討ち滅ぼされし受難の義人アベルの救済、悪に堕ちた彷徨と贖罪の罪人カインの帰還とでも申しましょうか……。

 この石を狙う悪魔の眷族は、過去に何度となく歴史の裏で人々を罪と殺戮に導いていきました。人の心の奥底に潜む自己愛を揺り動かし、人々の不安をかき立て、偽りの英雄を出現させて……。人々は絶望と不安の中、彼の発する勇ましい言葉、耳に心地よい話、単純な信条に酔いしれ、その者を救世主と讃え、人と神とを繋ぐ最後の絆である自由を捨て、奴隷となるのです。彼らが欲するのは秩序や平和ではなく、支配と服従する人間でしかない。

 私の蛇から受けた啓示で、終末後の世界を見ました。人が神に背を向けてこれを滅ぼし、悪魔を選んだ世界を……。彼らは自らの選択を後悔し、自らが殺めた神に向かって叫ぶ世界を。二度と救われることのない世界を……。

 私の目的はその前に再び神言を、すなわち御言の受肉を完成させること。イエス・キリストがそうであったように、人々を神へと導く存在を。それも神の御言と人と、そして原始の闇とを包括する、より完全な魂を錬成するために。そのために私は清い魂、彷徨える魂、そして悪しき魂を集めてきたのです」

 その言葉に、葵は確信を持った。そして信じたくはないと思った。

 ――じゃあ、もしかして今までの二つの失踪事件は……。

 その考えが彼女の顔にありありと表れてしまっていた。瞳孔が広がり、哀しみがその瞳に宿るのを見て、黒崎は彼女に肯定を意味する沈黙を以て答える。

「う、嘘ですよね? 黒崎さんは、黒崎さんはそんなこと……」

 黒崎は目蓋を閉じる。その意味を悟った葵の瞳から光が完全に消えた。

 ふいに、葵の耳に和彦の悲鳴が聞こえる。慌てて振り返ると、先程自分の身体から出てきた男よりも大柄で筋骨たくましい男が、和彦を羽交い締めにしている。

 囚われた少年を救出しようと、整理の全くついていない状態で臨もうとした。当然、自分の置かれている状況は頭に全く入っていない。背を見せたことによって、アモンと呼ばれた男にいとも簡単に組み伏せられてしまった。

「目を背けてはいけません。人も、この世界も闇、混沌から出たのですから」

 黒崎の言葉を合図に、アモンは洞窟に設けられた人工の池まで葵を引きずっていき、彼女の顔を水中に沈めた。強引に水中に沈められ、呼吸が止まり、窒息寸前まで追いつめられる。意識が遠のきかけたところで、水の責め苦からようやく解放された。

 何度も咳き込み、口の端から、不用意に飲み込んでしまった水がこぼれる。

 ――シカト見ヨ! 自分ヲ。

 アモンの声に、水面を凝視した葵は恐怖で声が出なくなった。

 水面に映るそれは確かに自分の顔をかたどっていた。しかし、そこに映る顔はとても正視できるものではなかった。

 口は如何なるものをも通さぬほど固く結ばれ、両眼は大きく見開かれ、そこには見るものをすべて滅ぼし尽くそうとしているかのような破滅的な悪意に満ちた光を放っている。その眼に引き寄せられるように柳眉は上目蓋に近づいている。

 憎悪、憤怒、あるいは激情。自らの顔を見た時、そんな言葉が彼女の脳裏をよぎった。

「貴女は無意識に感じていたはずです。三年前に貴女が犯した罪、それは貴女の心の深層に潜む闇が顔を覗かしたことによって引き起こされたのです。ちょうど、カインがアベルを殺めたときのように、自らの内から生まれる激情に飲み込まれて」

「そんな……こと、ありません。こんなの、わたしじゃ、ない……。こんなもの、見せないでください、黒崎さん」

 少女の目から大粒の涙が止めどなくこぼれ落ち、その度に水面を波立たせる。しかし、彼女を正面から睨み付けるようにして映る分身の姿はゆがむことなく彼女の目に焼き付けられる。それがより一層の苦しみと、恐怖をもたらしていく。必死に思い出に残る自らの支えとなった男にすがるように、託されていたロザリオを握りしめて嗚咽を漏らす。

 そんな彼女を見つめながら、黒崎は怖いほど穏やかな口調で告げた。

「しかし、今すぐ決心せよというのも酷でしょう。貴女に少しの猶予を与えましょう。その間に生くべきか、生かざるべきかをお決め下さい」

 その言葉に葵は初めて顔を上げ、眼差しを黒崎に向けた。

 黒崎の、赤く光る双眸を視界に捉えたとき、身体が自分のものではなくなってしまったような感覚に襲われた。そのまま身体がクレーンで引き上げられたかのように宙に浮き、岩壁にそのまま叩きつけられた。

 全身に衝撃が走ったと同時に彼女の意識は消え、地面にうち捨てられた。


「じゃあ、契約は果たしたから俺は失礼させて貰うよ。……しかし、あんたの力を以てすればあんな小娘の心を支配するのも容易いだろうに」

 アモンは意識を失い横たわる少女を見て、契約者たる黒崎に皮肉をこめた問いを放つ。

「それでは意味がないのですよ。彼女の力の源は激情と理性という、対立し続ける二つの顔にあるのですから。それに……」

 うつ伏せに倒れ、気を失っている少女の顔を覗きこむ。その時の黒崎の顔は、先程までの冷徹に思えるほどの無表情から、我が子を見つめる父のような顔になっていた。しかし、何故そのような顔を自分がしているのか。どうしてそんな顔になっているのかを考えることが、今の彼には出来なかった。

 突然に、黒崎の表情がこわばる。

 すぐさま体を前にかがめるや、何度も激しく咳き込む。どれだけ咳き込んだのか。やがて症状がおさまり、肩で息をするようにゆっくりと呼吸を整える。だが、口元を押さえていた右手は、彼の体内から吐き出されたかなりの量の血によって染められていた。

 その様子を、アモンは顔色一つ変えないで見ている。

「それでは見返りは必ず払って貰うぞ。約束の時にな。それまではせいぜい死なないでくれよ」

 そしてアモンは黒崎と、つい先程気を失わせた少年を担ぎ上げる寡黙な大男を一瞥すると、不敵な笑みを浮かべて自分が戻るべき場所へと帰っていった。

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