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1.恩人との再会

 教室は、重々しい雰囲気に包まれていた。無秩序に散らばるようにして倒れた机とイス、獰猛な犬から距離をとるようにして、教室の隅に固まり、恐怖の色を含んだ声で喧噪を生み出す生徒達。そんな教室の中央では、この騒ぎの渦中に居る人物が立っていて、音として聞こえるほど荒い呼吸を立てていた。両腕はガタガタと音を立てているかのように痙攣をおこし、極度の緊張と興奮、恐怖とで両膝も笑ってしまっていた。

 右の拳にはわずかに血が滲み、手の甲がすりむけている。そうした自分の体からもたらされたもの以外にも、何か別の人物のものと思われる血が付着している。制服の袖は二の腕のあたりに鋭利な刃物で刺されたような破れがある。その周辺は赤黒い染みが出来ていて、そのまま腕を伝い、紅い液体が指先から教室の床に滴り落ち、溜まりを作っている。

 床には十センチ程度の片刃のナイフが転がっており、刃には血糊が付着している。

 その人物のすぐ側に二人の少年がいた。一人は顔を赤く腫らせ、床にうずくまっている。ときおり体がわずかに動くこともあるが、それはすぐ側に立つ者、恐怖の対象から少しでも遠ざかろうとする力のない動きであった。

 もう一人の少年も倒れている少年ほど酷くはないが顔の至る所に擦り傷や腫れをつくっており、暴行を受けた形跡が所々に見られた。腰を抜かしているのか、尻餅をついた状態で散乱した机にもたれ掛かり、体は小刻みに震えている。その視線は目の前の恐怖に怯えているようで、眼前の人物に向けられている。

 視線に気がついたのか、その人物の眼差しは、ゆっくりと倒れている少年から、座り込んでいる少年へと向けられる。見据えられた少年の眼は恐怖で染まり、瞳孔が開き、その者を体全体が拒絶した。

 その人物の心が言った。

 ――どうしたの?

 ――何でそんな眼をしているの?

 ――どうして、そんなに怯えているの?

 ――どうして、私を怖がるの?

 少年は、その人物の眼差しにただ怯えるしかなかった。それがその者をさらに哀しみと失望に陥れる。

 ――やめてよ。

 ――そんな眼で見ないでよ……。


「……!」

 葵は唐突に目覚め、飛び上がるように布団から上半身を起こす。彼女の眼前にはいつもの見慣れた年季の入った畳と、シンプルなデザインの窓枠があった。

 それを確認すると、若干ではあるが彼女の心が平静を取り戻してくる。しかし、体からは寝汗とは違う、じっとりとした汗がにじみ出て、寝間着や布団に染みこみ、それに合わせるかのように呼吸も不安定になる。

 何か悪い夢にでもうなされたような、すこぶる悪い寝覚めを味わう。

 ここ数日は同じようにうなされることが続いている。それがつい最近の出来事のためなのか、それともずっと前に起こった出来事を引きずっていたためなのか、よく分からない。

 洗面所で顔を洗うと、朝食を済ませ、気分を変えるために外出着に着替え家を出た。

 日曜日の朝は、平日の朝に比べてのんびりとしている。いつもならこの住宅街も、向かいのマンションや社宅からサラリーマンが足早に駅に向かっているというのに、今は人が余り歩いていない。

 駅前にたどり着くと、そのまま線路に沿って繁華街とは正反対の方向へと歩いていく。しばらく歩くと、私鉄とJRの二つの線路に挟まれるようなかたちで大きな公園があった。ここは葵のお気に入りの場所でもあり、特に休日の早い時間帯は時折ゆっくりと通過する列車の走行音ぐらいしか聞こえてこない静かな場所である。

 踏切を抜けて公園にはいると、いつも通りに中を散歩することにした。こうしてただ何となく歩くだけでもここでは気分を変えることができる。小鳥のさえずりを聞きながら、散歩をしていると、黒い修道服のような衣服を身につけている壮年の男性を目にした。

 男性も葵の存在に気づいたらしく、ゆっくりと体を彼女の方へと向け、柔和な笑みで声を掛けてきた。

「お久しぶりですね、朝比奈葵さん」

 かなり良く通る、低く深みのある声だ。しかし、人を威圧したり、怖がらせたりするようなものではなく、同時に優しさのこもった落ち着き払った声である。

 葵はこの男性をよく知っていた。そして、彼がここにいることは彼女にとって驚くべき事であった。

「黒崎さん! お久しぶりです。いつこの町に来ていらしてたんですか?」

 思わず声にも驚きと、歓びの色が現れる。

「一週間ほど前です。それにしても何年ぶりですかね? 随分と見ないうちに貴女も大きくなりました」

「三年です。でも、別に大きくなった訳じゃないですよ。背は四センチしか伸びてませんし」

 照れ隠しに少しおどけたように言った。

「いえいえ、三年という歳月は人を変えるのに十分な時間です。まだ幼かった貴女も今は随分と精悍な顔になりましたよ」

「か、からかわないでください。……でも、またお会いできるとは思ってもいませんでした。お礼を言うことも出来ませんでしたから。あの時は本当にありがとうございました。もし黒崎さんに会っていなかったら、私は壊れてたかもしれません」

 恥じらいを見せた直後、ごく真面目な顔になり黒崎に感謝の言葉を述べる。

「いいえ、これは主――神のお導きでしょう。あの時、貴女の魂は救いを求めていました。それ故に貴女の魂は主に適い、救われたのです。救い主イエス=キリストも、『求めよ、然らば与えられん』と言われております。神は迷える者、求める者の心に救いをお与えになります。私との出会いもまさに神の恩寵(めぐみ)によるものでしょう」

「相変わらず難しいことはよく分からないですけど、あの時の黒崎さんがどれだけ私を励ましてくれたかわかりません。そういう意味ではきっと、神様の導きかもしれないですね」

 クリスチャンではない葵は、黒崎の説教めいた話につい苦笑してしまう。それでもこうして目の前の男性にかつて救われたこと、そしてその恩人にたった今、こうやって再会できたことを考えると、神に感謝しても良いような気になるのだから不思議である。

 けれども数日前の騒動のことを思うと、彼女の心には途端に暗い影が差し込んでしまう。あの事件のことを考えると目の前の恩人に対して申し訳なく思ってしまうのだ。

「けど、最近不安なんです。確かに私は三年前、黒崎さんのおかげで前に進むことが出来ました。……でも、時々思うんです。私はあの時から変われたのかなって、まだ私の心は暗い闇の中を彷徨ったままなんじゃないかって」

 元々感情の起伏が顔に出やすい性質なのか、自然と態度と顔にもそのような感情が表れ、黒崎の顔を正視できなくなってしまう。

「何か、新たな悩みがあるようですね。よかったらお話いただけないでしょうか」

 案の定、そんな彼女の様子を敏感に感じ取り、黒衣を身にまとった男はその穏やかな眼差しを目の前の少女に向けて言った。

「……ははは、やっぱり黒崎さんに隠し事は出来ませんね」

 苦笑した後、葵は数日前に起こった騒動を話しはじめた。

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