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4.蛇の伝説

 服もある程度乾き、二人が衣類を再び着る頃には、雨はすっかり止んでいた。

「そろそろ行こうか? あれ、朝比奈さんどうしたの?」

「待って、私達が入ってきたところから人が来る……。誰だろう?」

 何者かの気配を感じ取った葵は、和彦の二の腕を掴んで引き留め、洞窟の入り口をジッと見据える。彼女の言うとおり、わずかではあるがむき出しの岩盤と、張り付くようにして生える苔を踏みしめる足音が聞こえてくる。

 足音はさらに近づく。自然、二人の顔にも緊張が走る。

 焚き火の明かりによってやってきた人物の顔が照らされたとき、葵の顔が困惑の表情へと変わる。火の明かりによって明らかになった人、それは彼女がよく知る、黒衣に身を包んだ壮年の男だったのである。

「お久しぶりですね、葵さん」

「……黒崎さん? どうしてこの島に」

 驚きの色を隠せぬ彼女に対して、黒崎は涼しげな顔で答えた。

「……調査のためですよ。ちょうど、この島にも古い言い伝えが残っているようなので。ところで、そちらの方は葵さんのご友人ですか?」

 視線と右手を和彦の方に向けて、黒崎が尋ねる。

「は、はい。彼は高校に入ってから一緒のクラスになったんです」

 困惑がまだ解けぬ為か、たどたどしい受け答えしかできない。そんな彼女の言動を気にするでもなく、黒崎はその眼差しを葵の隣に立つ少年に向けた。

「はじめまして、彼女に良くして下さっているようですね。感謝いたします」

 黒崎の両眼に見つめられ、和彦は全身が金縛りにあったような感覚を覚えた。ただ、それは極度の恐怖からくる金縛りとは違った。自分のすべてがあの黒い瞳にすべて見られている、自分のすべてが彼の意志に支配されている、そんな感覚だ。

「あ、あの、どうして黒崎さんはこの洞窟に?」

「そのことですか。これからこの洞窟の奥深くまで行くつもりだったのです。せっかくですから、お二人もご一緒しませんか? この島は非常に興味深い伝説と、遺物の宝庫なのですよ。この洞窟の奥深くにも、非常に素晴らしい遺跡が残されているのですよ」

 黒崎は右手を洞窟の奥へと伸ばし、葵達についてくるように促すと歩き出した。その後ろを葵達が、先を歩く父親に必死でついて行く子供のように追っていく。


「私が古代信仰を研究している、ということは知っていますね?」

 洞窟の奥深くへと進む間、黒崎は後ろからついてきている葵に問いかけた。

「はい、三年前に私達の街にやってきたのも古代信仰にまつわる言い伝えを調査しに来たんですよね」

「はい、そうです。そこで葵さん、それと相原さんに質問ですが、キリスト教の世界では蛇はどのように描かれていたでしょうか? ご存じですか」

「……たしか、女をそそのかして善悪の実を食べさせた悪魔に描かれていたんじゃあないですか?」

「僕もその話なら、そのように記憶しています。でも蛇は非常に頭の良い一面もあったといわれていましたね」

「そうです。そう言う意味で蛇はキリスト教では邪悪の対象、畏怖の象徴と言えるでしょう。ですが、その一方で蛇は世界各地で、特に東洋やアメリカ大陸においては崇拝、崇敬の対象になっています。……例えば、メキシコの翼を持つ蛇ケツァルコァトル、中国における龍の伝説は有名ですし、それ以上に日本には蛇にまつわる伝説、祭祀が非常に多くあります。ほんの一例ですが、出雲大社の蛇神信仰、奈良の三輪山を神体とする大神神社があります。この近くですと、三重県神島の八代神社にも八大竜王が祭神として祀られています。一説によると神島という名称も蛇の島、蛇島カシマという言葉が変化したものともいわれています。こうしてみると蛇は東洋、そして同じ東洋を故郷としているアメリカ先住民にとっては神聖であったのかもしれませんね」

 洞窟のさらに奥へと進んでいる間、黒崎はまるで学生に講義をするように淡々と話を進めている。所々、不明な伝承はあったが、日本の蛇信仰というものの多様さを物語っているように思えた。

「そして、蛇を忌み嫌っていたはずの西洋でも、実は畏怖の対象、崇拝の対象としてあったことも事実です。なぜなら創世記においても蛇は『主の造られた野の生き物の中で、最も賢い』存在であったといわれているからです。実際にキリスト教会によって抹殺された異端思想の多くは、蛇を模したシンボルを使っていました」

「……キリスト教が蛇を、ですか? でも、それとこの先にあるという遺跡に何の関係が」

 葵は黒崎の言葉をもう一度確認すべく尋ねる。

「そう、そこです。私は蛇という存在が示す意義について、そしてキリスト教が成立する以前の人類の信仰について探っていたのです。その発見の一つがこの先の遺跡にあるのですよ」

 黒崎の言葉はいたって普段と変わらぬ落ち着き払ったものであった。しかし、葵は彼の言葉に奇妙な違和感があるのを感じた。

「さて、信仰という言葉が出てきましたが、人はこの世においていかにして救われるのか、という問題がここから出てきます。本来のキリスト教の言う救いとは神の奇蹟と赦しによるものです。イエスが救い主と呼ばれている意味は罪に堕ちた人と神との間を取り持ったことにあります。しかしある異端では、救いは人と神との直接の合一、つまり神と一つになることと考えるのです。そこで彼らはこう考えたのです。神と等しき知恵――即ち生命の樹を獲得し、この世の神化を果たす。そう言う意味で一方的に与えられるキリストの御業ではなく、知恵の象徴である蛇を崇めるようになったのです」

 葵も、和彦も黒崎の言わんとしていることが理解できずにいた。

 洞窟の更なる奥へと進んでいく三人、あたりは全く闇に包まれ視界すらはっきりしない。葵と和彦は洞窟の壁面に手を当てて、ようやく道を確認するだけで精一杯であった。心なしか、気温も低下しているようにも感じる。そんな二人のことに気づいたのか、黒崎は立ち止まり静かに語った。

「つまりはこうです。我々の物言う術、そして物事を見る眼、これを授けたのが蛇であったのです。ちょうど、ギリシア神話のなかで知恵と先見の神プロメテウスが人に火という賜物を授けたように、蛇は人に知恵を授けた。神の似姿ではなく、神の一員となりうる高みの存在にするために、そしてこの世の根源的な姿を示すために。善悪を知る樹の実とはそれを暗示する譬えであったわけです」

 黒崎は、持っていたのであろうジッポーを探り当てて点火し、灯りにした。弱い火であったが、暗闇の中にあってはそのか細い火も、冷えたこの空間に温かみを与えてくれるようにも感じる。その後、布きれを巻き付けた棒を持ち出し、これに火をつけて松明とした。

「そして、光の世界の秩序、つまり神の世界が崩壊して人の世が始まり、蛇は呪われた存在となった。神の生み出した傑作である人も罪にまみれ、かつての正しき神と人の関係が失われてしまった。それを救わんとしてキリストたるイエスが現れたが、多くの人間は依然として罪にまみれている。それは、どうしてであると思いますか?」

 葵も和彦も答えることが出来なかった。答えられるような問いでもなかった。それは黒崎も重々承知している様子で、さして彼らの返答を待つことなく答えた。

「それは、罪に陥りながら、その罪を見ることがないからです。人間が背負う宿命としての原罪を、そして世界の根源を」

「何なんですか? それは」

 和彦の問いに対して、黒崎はまるで一つ一つの言葉を彼らの精神に刻みつけるかのように、先程よりもさらにゆっくりと語った。

「それは闇ですよ。主が天地を造る以前、地は形なく虚しく、暗闇によって覆われていた。そこに主は光を創ったわけです。光に先行して、この世界に在ったのは闇であった。この世界の一切は闇という前世界から来ているのです。もちろん、人間もですよ」

 話しながら、気がついてみれば相当に奥深くまで来てしまっていた。もう、目の前には壁しか見えない。行き止まりになったかと思っていたが、それを見つめる黒崎の態度は奇妙なほど落ち着き払っていた。

「……さて、遅くはなりましたが何故この島にきたのか? という先ほどの質問にちゃんと答えましょう。この先の遺跡は、先程まで話していた蛇の眷族と、蛇を崇拝する者達の神殿であった場所です。そして聖書の伝説によれば、世界各地の蛇の王達は主によって殺されたわけです。しかし、蛇の何体かは傷つき、流された自らの血を以てある大いなる遺物を遺した。その伝承を私は調査してきたのですよ」

 黒崎は岩壁に突き出すような形で盛り上がった岩肌に手を置き、押し込むようにして突出部分を動かすと、岩壁がまるで意志を持っているかのように二つに裂け、その先には更なる道が続いていた。まるで奈落へと三人を誘っているかのように、深遠な闇が口を開けていた。

 何の躊躇もなく、その闇の中へと入ろうとする黒崎を見て、葵は何かに急かされるようにその背中を呼び止める。

「待ってください黒崎さん! この先には何があるんですか?」

 ――何ガダッテ? 君ガ知リタカッタ事ジャアナイカ。君ガズット求メテイタモノ、ソレガ向コウニアルノサ。ソノ為ニ来タンダロウ?

 葵の耳にあのおぞましい声が響いてくる。反射的に右手で掻きむしるように頭を押さえ付けこみ上げてくる怖れを必死で堪える。呼び止めようとしても、その声に脳が揺さぶられてそれ以上言葉を続けることが出来なくなった。

「僕も気になりますね。黒崎さん、あなたは本当に学者なのですか? 何故そこまで詳しく知っているんですか?」

「……学者であることに間違いありませんよ。この先にあるのは伝承の証、この世界の始まりを伝える記憶の欠片、そして終焉を迎えようとしている人類の、最後の希望の欠片とでも言いましょうか。そういう代物があるのですよ」

 それだけを告げると、黒崎はけして二人に答えることなく、深い闇へと身を投じていく。そのあとを葵と和彦はひたすらついて行った。

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