1.龍巫島へ
日が昇りはじめ、空が白む頃、白の無地のTシャツにデニムのジャケット、紺の綿製のパンツという、彼女の普段の外出着に着替える。机の引き出しをそっと開けると、黒崎から受け取ったロザリオを握りしめるとジャケットのポケットに入れた。
身支度を調えると、玄関から徹夜明けの父親が眠る夫婦の寝室に向けて静かに「行ってきます」と告げ、そっと家を後にした。
葵は、まだ日が昇ったばかりの早朝の駅前にいた。
朝焼けが空を染めている。駅舎に入ると、伝言板の前に三人の少年が立っていた。
「あれ? 朝比奈。どうしたんだこんな朝っぱらから?」
先ほどまで、眠たそうな目で欠伸をしていた誠が驚き、目をしばたかせている。
「もしかして朝比奈さんも一緒に行く決心をしたのかい?」
慎二は地面に置いてある、彼の七つ道具が入れてあると思われる背嚢を肩に掛けながら言った。その様子はどこか探検に出かけようとしている風にも見えた。
「うん、あたしも連れて行ってくれないかな?」
「オーケイ、じゃあ、切符買ってきて。もうすぐ出発だから」
葵の言葉に、慎二はそれほど間を置かずに承諾の返事をした。
早朝の人気の無い駅のホームに、程なくして電車が到着し、四人の少年少女を乗せて走り去っていった。
「しかし、意外だったね。朝比奈さんが一緒に行くだなんて」
葵の隣に腰掛けている相原和彦が言った。
四人はクロスシートの座席に向かい合うように腰掛けている。
車内は、休日でしかも早朝の列車ということもあり、乗っている乗客はあまりいない。静かな社内に列車の走行音だけが断続的に響いてくる。
「ゴメン。迷惑だった?」
「全然そんなことは無いよ。大勢の方が楽しいし、それに野郎三人の暑苦しい旅行にならなくてよかったよ」
慎二は、そう言いながら、隣に座っている近藤誠に視線を向けた。誠は朝早く起きたために寝足りないのか、座席に浅く腰掛けて眠っている。
「幸せそうに寝ちゃって……。車窓から景色を眺めるという旅行の醍醐味を知らないのかね、本当に」
慎二は誠の寝顔を指でつつく。誠の眉間にシワが寄ったような気もしたが、起きる気配がない。慎二は何度か同じようなことを繰り返した後、いたずらしようとしたのか、マジックペンを取り出して誠の額に何かを書こうとした。
「やめときなよ。後でどうなっても僕は知らないよ」
「冗談だって。大体、誠が一度寝たら起きないことぐらい分かっているだろ? 相変わらず面白くないな。和彦は」
慎二は興が削がれたようで、つまらなそうな顔をしてマジックペンをしまった。
「しかし、初めて見たな。朝比奈さんの私服姿」
隣に腰掛ける和彦が穏やかな笑みを見せながら言った。
「うんうん。……でもさ、その服って男物じゃないの?」
頷きながらも、慎二は葵の着ているジャケットの合わせが右前――ボタンの位置が右になっていること、綿パンがゆったりとしていることに注目して尋ねた。
「言っとくけど、男装趣味ってわけじゃないからね。これは兄さんのお下がり」
「はは、朝比奈さんはお兄さんのお下がりを着てるんだ。経済的で羨ましいなあ、僕の上は姉さんだから」
別に経済的な理由でお下がりを着ていたわけではなかったが、服をわざわざ買う必要がないことを考えると、確かに兄が着ていた服を着れるほど、自分の身体が大きかったのが良かったと思えるところではあった。もっとも、そのせいでファッションセンスにいまいち自信がもてないのだが。
「まあ、確かにサイズが違うでしょうからお下がりは無理だろうからね」
「いや、逆だよ。義姉さんは無理矢理、僕に自分のお下がりを着せようとしてたんだよ。そんなこと嫌だって言って断ったけど」
「慎二のお姉さんは過保護気味だったからね。でも、一回だけお姉さんの意向を汲んだことはあったよね?」
「思い出させないで欲しいね。あれほど恥ずかしい思いをしたのはないんだから。あっ、言っておくけどスカートとかじゃあないからね。上着だけだからね」
思わずその時の、およそ似つかわしくない可愛いデザインの上着を身につけた彼の格好を想像してしまった。けれどそれはさぞかし男にとっては羞恥と屈辱の念にまみれていたことだろう。少しだけ同情しつつも、苦笑してしまう。
「ところでさ、櫻井君はあんなオカルト本の内容を本気で信じてるの?」
同行しておいて聞くのもなんだが、もう一度だけ聞いてみる。
こうして眠りこけていたり、いたずらしようとしたりするところを見ると、様子がおかしかったり、そうでなかったりで彼らが本当は正常なのか、異常なのか、よく分からなくなる。
「それなりにね。だって、誰も見つけられなかったけど、もし見つけたら僕等も鼻が高いじゃない。ちょっとした有名人になれるかも。まあ、何にせよあると思わないと見つからないよ。信じる者は救われる、ってことかな?」
言葉の使い方がまったく間違っていたが、この言葉はおそらく彼の本心なのではないだろうか。その顔は純粋に何かを見つけよう、何かを見いだそうと貪欲に求める少年そのものに、彼女には映った。
「でも、本当に見つからない場合もあるでしょ?」
「その時はその時でスッパリと諦めるさ」
そんな彼らに終着駅を告げる車掌の声が聞こえた。和彦はまだ眠っている誠の肩を揺すって彼を起こした。誠は眠そうに目をこすりながら起きあがる。
駅のホームに降り立った四人。
「これから、その島までどうやって行くつもりなんだよ? まさか泳いでいくなんて言わないよな?」
誠が慎二に尋ねた。
「やっぱり船で行くしかないんじゃないかな? 橋が壊れてるしね。それに地元の人に一言は断っておかないと不味いだろうし」
葵たちは、漁村に入ると、港へと向かった。港には漁から帰った漁師達が今日の漁の成果を水揚げしているところであった。
「おい、お前ら。そこで何やってるんだ?」
その中で、若い漁師が威勢の良い声で葵たちに声を掛けてきた。
「アンタら、この村の者じゃあねえな? こんな朝っぱらから何しに来たんだよ?」
若い漁師は、訝しげな顔をして四人を見ている。
「悪いが、用がないんだったら邪魔になるから他所に行ってくれ」
慎二は若い漁師にこの村に来た理由を話した。
すると、若い漁師は豪快に笑って言った。
「やめとけやめとけ。行ったところで何もありゃあしないよ」
「そこを何とかお願いできませんか? お願いします!」
慎二が頼み込むと、若い漁師は息を吐き出すように、深い溜め息をつくと、小さく見える島を指さして言った。
「あのなあ、第一あの島は無人島だよ。お前みたいな変な迷信か何かを信じてる奴が食い下がるもんだから、仕方なしに連れて行ったことがあったけどよ。本当に神社以外は何もねえんだよ。行ってきた奴らもそう言ってたぜ」
「じゃあ、なぜあの島にはお社があるんですか?」
和彦が確認すると若い漁師はしぶしぶながら答えた。
「この村の言い伝えだとな、あの島はこのあたりを治めてた龍神とかいうらしい神様が眠ってんだとよ。強い力と深い知恵を持っていたらしいけど、神様同士の争いに敗れて命を落としたそうだ。そんで、その神様の亡骸があの島になって、神様を祀るお社を建てたんだとさ。だからここで滅多なことは言うもんじゃねえぞ。爺さんや婆さんの中には、今でもあの島を信仰してる人もいるくらいだからよ。下手すると罰当たり者! って、怒鳴されちまうぞ」
そう忠告するように言うと、若い漁師は「じゃあな」と背中越しに手を振りさっさと行ってしまった。
その後も村の住人の何人かに掛け合ってみたが、結局は誰も相手にしてくれなかった。
「おい、朝比奈」
手詰まりで立ちつくしている四人は突然声をかけられた。名前を呼ばれ、声のする方を振り向くと、そこには知っている顔の少年が立っていた。
「水原、何でこんな所に居るの?」
「何だ、居ちゃあ悪いのかよ?」
相変わらず、葵に対して素っ気ない態度を取る。
そんな水原に和彦は穏やかな口調で話しかけた。
「久しぶりだね、水原君。こんな所で会うなんて。あれから学校には来てないみたいだけど、どうしたんだい?」
「祖父ちゃんの家に来ているんだよ。親父も母さんも、少しあの街から離れた方が良いかもなって言ってたからな。そんなことよりも、お前らはどうしてこんなとこに来てんだよ」
葵たちは、水原にこの村に来た経緯を説明した。
慎二は島を見つめる。しかし葵は、その少年の背中から発せられている雰囲気に違和感を感じた。連休前日に教室で話した時に感じていた違和感とそっくりだった。その時も焦点の定まらない眼で自分を見ていた。あの時と全く同じであった。
「櫻井……、君?」
「! ああ、な、何かな? ごめんごめん、ちょっとボーっとしてたよ」
慌てて返事を返す慎二に、葵は先日に感じた違和感と重ね合わせずにはおれなかった。
何かに取り憑かれているような、精神がしっかりと定まっていないようなふわふわした状態を彼の中に見た。しかし、どうしてなのかを突きとめることなど、葵には出来ようがない。
今は、ただ漠然とした不安を持ちながら彼の挙動を見守ることしかできないのだ。
「なあ……、本当にあの島に行ってみたいのか?」
不意に水原亮輔が尋ねてきた。やはりこの少年の雰囲気もどこか妙なところがある。この少年は、どちらかというと射るような目で相手を見据えて話す傾向があるというのに、今の彼の眼にはそのような光が感じられなかった。遠くをボンヤリと見るような目つきだ。やはり慎二同様、様子が変だ。
「……だったら付いてきな」
葵達の返答も待たず、そのまま長身の少年は黙って歩き始めた。道案内をするにしては、あまりにも周りを意に介していない。顔見知りらしい初老の夫婦に挨拶されても返さず、ひたすら彼女たちを連れて行くべき場所に向けて歩いていく。
「あっ、ちょっと待ってよ」
そのあまりの異様さに、胸騒ぎをおぼえながらも彼の後を追って早足で駆けていった。
水原に連れられて葵たちがたどり着いた場所は村から随分と離れた場所だった。
「待ってよ。一体何処に行くつもりなの?」
キツめの声で先頭を歩く少年を呼び止める。無感情、無表情のまま少年は彼女の方を振り返り、淡々と答えた。
「島に行くのさ。そのためにお前は来たんだろ?」
その言葉に和彦は不審がった。たしか、この先にあるのは壊れた吊り橋だ。とても島に渡ることなどできはしない。
「ちょっと待って。この先は橋が壊れてて渡れないようになってるんじゃないのかい?」
そんな彼の問いに答えることなく、亮輔は再び歩き出した。
「どう思う? 彼といい、慎二といい、どこかおかしいんじゃないか?」
普段とは違う、険しい表情で葵に尋ねる。
「どちらにしろ、引き返すというのは難しそうだね」
もう随分と村から離れてしまった。今から引き返したとして、相当時間が掛かりそうである。それに、ここまで野草が多い茂るに任せた道では、どうやって引き返すことが出来よう。
「……それよりも行っちゃったほうが良いってことね」
成り行き任せにも思えるが、とにかく、今は彼に事を委ねるしかない。
水原亮輔に先導されてたどり着いた場所で、葵達四人は、自分の目を疑うような光景を見ることになった。そこには何故か、過去に災害で無惨に破壊された吊り橋のすぐ下から、細い砂浜が蛇の背中のように時折蛇行しながら、沖合に浮かぶ龍巫島へと伸びていたのである。
「何で……陸地が」
確かに、彼女の目にも、和彦達の目にも、その砂浜は確認できた。
海岸地方には、時に激しい沿岸流に乗って、土砂が島と陸地を繋ぐようにして堆積していくことがある。それが常時海面上に現れるぐらいにまで発達したのが陸繋砂州であるが、堆積が不十分である場合、まれに干潮の時のみ陸と島が地続きになるトンボロ現象が発生することもある。今回のことについては後者に当たるだろう。
しかし、それがどうして、今、目の前に映っているのかが分からなかった。
「おいおい、どういうこった? 橋の下に何で道があるんだよ」
狐か狸に化かされた様な声で誠は驚きの声を上げた。葵達も、ただ呆然と立ちつくすしかできないでいる。まだ自分が見ているものが現実なのかが分からなかった。
亮輔は器用に岩壁を伝って橋の下に広がる砂浜まで葵達を誘導する。
「昔の人が言うには龍の背骨、とか言うらしいぜ。今の時刻は潮が引く時間だ。潮が低くなって砂浜が顔を出したんだ。行きたいなら今を逃す手はないぜ。でも、一度渡っちまったら、しばらくは引き潮を待つしか無くなる」
――しかし、なぜこんなタイミングで?
彼女の本能がこの光景の異常さと奇怪さを脳髄に告げていた。「先に行ってはならない」と。誠も、和彦も足が地面に根を下ろしたように立ちつくしていた。その眼はこれ以上は進みたくないと言っているようにも見える。
「何をボサッとしてるんだ? 島に行くんだろ? 潮が戻ったら海に飲まれちまうぞ」
そんな四人を顔色一つ変えずに一瞥した後に、そう声を掛けて再び歩き出した。少年の足が砂浜に置かれるが少年は普通に立っている。どうやら本当にこの砂浜は実物であるのだろう。人一人がようやく通れるほどの、細い道をおっかなびっくりに四人は歩いていった。
※
「何ですって? それ、確かな情報なの?」
横浜市、山下公園。早朝の人気のない公園に、夏希の驚きの声が響く。
情報提供者は無言で頷く。その筋の人間であるこの男を、夏希はよく利用しているのだが、今回ばかりは驚きを隠すことが出来なかった。
失踪した受刑者の共通点、それは数日前まで同じ人物から教誨を受けていたこと。その人物の特徴――四十代の長身で、キリスト教の聖職者風の出で立ち。また、追加で提供してくれた情報――連続行方不明事件における情報では、事件の数日前から当日にかけて受刑者失踪事件と酷似した特徴の男が目撃されているのだという。
――まさか、そんなことは考えにくい。
「どうした?」
男の問いかけに、夏希は「何でもないわ」と素っ気なく答えると、タバコをパッケージごと男に渡し、急いで山下公園を後にした。
相棒の青年刑事と落ち合うと、急いで電話ボックスを見つけるとその中に入った。
「もしもし、秀男さん? おはよ。ところで葵は今、家にいるかしら?」
胸騒ぎに駆られた夏希は、娘に変わるよう催促するが、夫の口からは一番あってほしくはない返答が返ってきた。
「……龍巫島に行くですって!? あの娘、どうして」
「ごめん、夏希さん。まさか遠出するとは思ってもいなかったから」
これまで遠出することがなかったのだから無理もない。夏希も心中ではそう考えていた。
しかし、隣町でも行方不明になった少女が居ること、そして、考えたくはないが様々な情報から浮かび上がった人物が、自分と、自分の娘がよく知っている人物であるということが母親の焦燥感をかきたてる。
「いいわよ。それよりもあの娘を信じましょ。ちゃんと帰ってくるって」
平静を装い夏希は受話器を下ろす。電話ボックスから出ると勤務時の厳しい面構えで、待っていた相棒の青年刑事に告げる。
「沢村君、今から署に連絡するわ。急ぎ戻るから切符を買ってちょうだい。連絡したらすぐに私も駅に向かうから」
状況がよく分からない相棒は首を傾げながらも先輩の言わんとすることを理解したようで、いかにも手慣れたような機敏で切符を買いに行った。そんな後輩刑事を見送ると、署の上司に連絡するために、夏希は再び電話ボックスの扉に手を掛けた。




