5.温かい世界
「ねえ、櫻井君を借りてっていい?」
四限目が終わり、これから昼休みに入るというところで葵は隣の席の和彦にそう告げると、教材を片付けている櫻井慎二に詰め寄る。
一方、状況を飲み込めていない慎二は詰め寄ってくる少女の、ややキツさのある切れ長の目に見据えられ、一時の間、体が硬直した。その時に少年は、彼女が他人と話すときにあまり眼を合わせないようにしている理由を知ることになった。何だか殺されそうな気分だ。
「あ、あの~? 僕、何か気に障ることでもしたかな?」
「いいから付き合ってもらうわよ」
引きつった顔の慎二を構わず、少年の右手を掴むと強引に引っ張って教室を出て行った。
戸惑う慎二を連れて向かったのは、教室棟の最上階、ちょうど屋上の出入り口にあたるところだ。普段から屋上へと抜ける扉は固く閉ざされているし、最上階は特別教室以外は存在しない。昼休みの、生徒達が昼食をとっているような時間であればほとんど人は来ない。内緒話をしたり、二人っきりになるにはうってつけの場所だ。とはいえ、今ここにいるのは恋仲の男女ではない。それゆえ、連れてこられた慎二はこれから自分の身に何が起こるのか心配でならなかった。
「……ごめんね、ちょっと聞きたいことがあるの」
「な、何かな? こんな所で聞く事って」
「連休が近いから、もう一度聞いておきたいことがあってね……。私疑問に思ったの。櫻井君は一体いつ頃今回のことを考え出したのか? って」
葵にとっては不本意ではあったが、例の声が投げかけた言葉が脳裏に焼き付いて離れないのだ。彼の言うとおり、ここ最近の慎二達の言動には奇妙なことが多すぎたのだ。注意が散漫になったり、授業中にぼんやりしたり、とにかく普段とは明らかに様子が違うことに最近気づいたのだ。
「ああ、簡単だよ。それは二年位前の記事を読んでね……」
「そうじゃなくて、今回のことを具体的に計画したのはいつ?」
「……先週あたりだったと思うよ」
その話が本当ならば、随分と急な話である。何だかあの声の言っていることがいよいよもって真実味を帯びてくることになる。
「そこのあたりも詳しく聞いてみたいわね」
「どうしてだい?」
「私が知りたいからよ」
わずかな表情の変化を見逃すまいと慎二の目を注視する。すると少年も彼女に顔を向け、普段では開けることのなかった目蓋をしっかりと開き、見つめ返す。細い眼からは小さいながらも黒く輝く瞳が覗いており、普段うかがうことが出来ない分、不思議な迫力が感じられた。
葵は彼の双眸に吸い込まれるように、視線が釘付けになった。背中には悪寒のようなものが走り、思わず唾を飲み込んでしまう。
「……ごめん。詳しいことは憶えていないよ。……話しは変わるけど、朝比奈さんも一緒に来るかい? ……君ナライツデモ僕等ハ歓迎スルヨ。イツデモネ」
一瞬、意識が薄れてきた。急な睡魔に襲われたような、心地よさと気怠さが彼女の思考を停める。暗示を掛けられているようだ。
慎二は言い終えると目蓋をいつものように閉じた。
「それじゃあ、僕はお昼を食べに行くよ。朝比奈さんも早くしないと食べる時間がなくなっちゃうよ」
いつものように軽口を言うと、慎二はその場から立ち去っていった。
一人取り残された葵の耳には、彼が最後に付け加えた「君ナライツデモ僕等ハ歓迎スル」という言葉が記憶に刻み込まれるように繰り返し響いていた。
※
放課後。いつも通りに閑散とした武道場で、二人っきりで準備運動をしている葵と誠。それ自体はいつもの光景なのだが、葵には例の不思議な声が発した言葉が気になってしょうがなかった。昼休みに慎二に尋ねたが、要領を得なかったし、その後、和彦にも事の経緯を聞こうとしても、本人の与り知らぬ事であったらしく有益な情報にはならなかった。
「……ねえ、近藤君? 本当にお宝探しなんてするつもりなの?」
「えっ? 本気だけど、それがどうしたんだ」
「ううん。ちょっと聞いてみただけ」
どうやら本気のようだが、どうも彼の本心は推し量ることが出来ない。あまり好きではないが、少しかまを掛けて見ることにした。
「ねえ、近藤君と櫻井君が、二人して遅く学校に来たときがあったじゃない?」
「おお! そういえば先週はそんなことがあったよな。あれは参ったよ。妹達に起こされて急いで家を飛び出してったんだからな。いつもは俺が起こす役なのになぁ」
頭をボリボリと掻きむしって、恥ずかしそうに言った。
「そうそう、あまりにも珍しかったからさぁ。……で? その前日は何か夜更かしでもしてたのかしら?」
「…………記憶にございません」
数秒間の沈黙の後、誠はどこかの国会議員が疑惑を突きつけられて知らばっくれる時に使うような言い回しをした。
「……怒るわよ。こっちは真面目に聞いてるんだから」
その言いぐさにムッとした葵は、誠の鼻を洗濯バサミで挟むように指でつまんだ。
「痛ってえな! 俺だって真面目に答えてるよ。本当に憶えてねえんだからしかたねえだろ。こっちだって何でか知らないけど思い出せないんだよ!」
振りほどき、額に手を当てて首を軽く横に振る誠。その様子は、昼休みの時の慎二ほどではなかったが、やはり違和感を感じさせた。
「悪いな。本当に全然憶えてねえんだ。何だか、そこだけすっぽりと抜け落ちてるみたいな感じなんだよ。……もしかして記憶喪失か? 先輩にボコボコに投げられてっからな」
むず痒そうに首筋を掻きむしりながら悶える誠に、その光景を横で見てきている葵は苦笑した後に「まあ、たしかに頭はしこたまに打ってるわね」と付け加える。彼女の言葉を聞いて少し気恥ずかしそうに笑顔を作った。
「まあ、コテンパンなのは私も一緒なんだけどね。先輩には何度やっても勝てないし」
水平に、切れるようにして伸びる鋭い目尻を少し弛ませて自分を指さしながら微かに笑みを作る。そんな風に誠とやり取りをしながら、彼女は何だかくすぐったい気持ちになった。
ちょっと前までは家族や親友以外にこんな軽口を叩くことはなかったというのに、どうも高校に入ったあたりから妙に調子が狂ってしまう。裕美に毒されてきたのかもしれない。
「へえ、朝比奈もそういう顔ができるもんなんだな」
「……変かな?」
「いや、良いんじゃねえの? いつもみたいにムスッとしてるよりは良いぜ」
誠はそのまま葵に顔を向けることなくそのまま稽古に戻っていった。
※
「へへへ、ごめんね。急に付き合わせちゃってさ」
上田裕美は葵の耳元で囁く。そんな彼女に、葵は渋い顔で無言の返事を返すことしかできないでいる。彼女の姿勢にもそれは滲み出ている。行儀が悪いと言われても文句が言えないくらい、豪快に胡座をかき、右手の拳を握りしめて頬杖にしている。自分がこの場所にいることをどうも納得していないようである。
そんな葵は今、制服姿のまま裕美の家にいる。
なぜ、彼女が裕美に家にいるのか。そこにいたるまでの経緯は実に単純なものであった。
「ねえ、今晩あたしん家に遊びに来てよ。今日から母さんが出かけちゃうんだからさあ」
と、帰りのバスの中、唐突にきりだしてきた。裕美の話だと彼女の母親は連休の間中、父親の赴任先である九州へ行って家を空けてしまうらしい。要するに退屈だから話し相手をして欲しいということだ。
断った葵だったが、バスを降りた途端に裕美が腕に絡みついて自宅まで連行していった。相変わらず強引である。
ちらりと横目で裕美の顔を覗きこむ。さっきまで三人でビデオを鑑賞していたのだが、口もとを大きく引き上げてつくる独特の笑顔を見ると、自分をここに連れてきたのはビデオを見せるためではないのだろう。
「さあて、ビデオも見終わったし、そろそろ本題に入りましょうかねえ」
案の定、先ほどのビデオは前置きであったらしい。随分と長い前置きである。
「そう、アメリカでは、パジャマパーティーなるものがあるらしくてね」
「……帰る。あたし制服だし」
これ以上付き合いきれない、と判断したのか、葵は腰を上げてそのまま帰宅しようとした。実際、掛け時計の針はかなり遅い時間を指している。一応家に連絡は入れたが、余り遅い時間に帰宅するのも父に申し訳なく思えてしまう。
「おおっと! 帰さねえぜ」
回りこむようにして裕美が前に立ちはだかる。
「これ以上、何があるっていうのかしら?」
「あるのよ。あの水原君の事件以来、葵って元気ないじゃない? これはそんなあんたを元気づけることも兼ねてんだから。身体を張ったお付き合いをしようよ、ね?」
「……腹を割ったお話、の間違いでしょうが」
美穂はぴしゃりと裕美の言い間違いを正す。
「まあ、それはともかくとして、お互いを知るまたとない機会よ。観念して身も心もあたしに晒して、素っ裸になりなさい」
とんでもない言葉を口走る裕美である。
「あたしはそういうのが嫌なの。それに、そんな付き合いが深くない上田さんに一体、あたしの何が分かるっていうの?」
無遠慮、というよりも相手にズカズカと入り込もうとする彼女の言動に少々腹を立てた葵は冷たく突き放すような口調で裕美を遮る。
「やあねえ。あたし、こう見えても人の悩みや性格を読み取るのが得意なのよ。何なら今ここで当ててあげよっか?」
裕美は、葵の遮るような言葉にも動じることなく、口元に笑みを浮かばせる程の余裕綽々の態度で話を続けた。
「えーっと、それではまず私が朝比奈葵さんについて知っていることについて発表したいと思います!」
裕美は、普段と全く違う芝居掛かった口調で切り出してきた。こういう喋り方をするときは大体の場合、悪ノリをするときであることを、葵は最近までの経験から知っていた。大体、何の前振りも脈絡もないのだから、思いつきだとしかいえないだろう。
「まず私、思うに葵さんはクール且つ無愛想を装っていますが、実際は負けず嫌いで、すぐにムキになるし、ノセられやすいし、そのうえ、情に絆されることが多いと思うのですが。これに異議はありませんか?」
予想はしていたが、いきなり言いたい放題である。あまりの滅茶苦茶な言いぶりに、昔なじみの美穂も、眼鏡がずれ落ちそうなほど口を開けて呆然としてしまった。
「おおいにあるわね。そんなの、どんな証拠があって言ってるのか理解できないわ。大体、上田さんが引っかき回しているようなものじゃないの」
「よっしゃあ、大当たりぃ! いやぁもう、いきなりムキになってるねぇ。でも、そう言う分かり易さとか、好きだねえ。……でも、当たってるでしょ?」
ヘッヘッヘッと、とても年頃の女の子とは思えないような笑い声とともに、得意げな顔でふんぞり返る。完全に遊ばれているように思えてしまい、葵は悔しそうに対面に座るイタズラ少女を睨む。
「まあまあ、怒んないでよ。そこが葵の善いところでもあるじゃない」
対する裕美は、睨み付ける葵にさして気にする様子もなく明るい悪戯っ子な笑顔のままで彼女をなだめた。
「本当に見かけと第一印象通りの根暗な冷たい女だったら、あたしは嫌だな。あっ、逆に社交的で人当たりが良くても、中身がなかったら駄目だけどね」
「……まったく、どっちなのよ」
「要するに、葵は中身があるってことよ。プラスで言うなら普段のあんたがむしろ、作った性格じゃあないの? この照れ屋さんめ!」
猫のように四つん這いで葵ににじり寄る裕美。いつぞやに和彦に対して迫ったときと同じような体勢になる。鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけると、裕美は目の前で狼狽える少女の額を人差し指でつついた。
「ほおら、そんな眉間に皺寄せないでさあ、きゃわいく行こうよ。こんな感じでさ」
言うやいなや、空いている左手で器用に後ろで髪を束ねている白紐を解く。きつく縛りつけられていた髪が解放され、やや硬さのある漆黒の黒髪が背中に流れ落ちる。
「ほらあ、ちょっとイメージ変わるかもよ。葵の髪、硬そうだけど割と綺麗な色だし、そのまんまでも良いんじゃあない?」
突然の出来事に惚けていた葵は、髪を縛っていた白紐が解かれたことを知ると、途端に恥ずかしそうに顔を赤らめる。そんな彼女の様子を見て、裕美は何故彼女が恥ずかしがっているのか分からずに、キョトンとしている。
葵は、ひったくるようにして白紐を裕美から奪うと、前髪を残してすべて後頭部にかき集めて縛りつけた。
「またあ、葵といい、美穂といい、綺麗な長い髪持ってるのに、なんでそういう地味な髪型にするのかなあ? ポニーテールとか可愛いのに」
自分のファッションセンスがかなり怪しいということはひとまず棚上げし、顔なじみの二人を眺め、裕美は彼女たちの美的感覚や、ファッションセンスに注文をつける。
「うーん、強いて言うなら動きづらいし、髪の毛が邪魔になるから、かしら?」と美穂。
「私は男に綺麗に観て貰いたいと思ってないし、この方が簡単だからね」と葵。
思い切り即答で、綺麗に着飾ることに無関心な発言を並べられる。裕美は半ば呆れつつも、内心では「類は友を呼ぶ」という言葉の意味をしみじみと感じていた。
結局、その後も裕美の家でどんちゃん騒ぎに近い時間が過ぎていった。
そして夜も更け、家に父親を独りにしておくことも良くないので、裕美の家をお暇することにした。裕美の手によって玄関が開けられると、外はすっかりと闇に包まれていた。開け放たれた玄関から漏れる昼光色の温かみのある光との間にすっかりと対照的な世界の境界が生まれる。
「随分と長居しちゃったね。それじゃ、連休明けにでもまた学校でね」
その言葉に裕美と美穂は無邪気に微笑み、右手を小さく横に振る。そんな二人の手に返すように右手を軽くかざすと、葵は光と夜の境をまたぎ、暗く、肌寒い夜に向かっていった。
裕美の家を後にし、街灯がまばらな住宅街を一路自宅へと向かう葵の耳に、あの奇妙な声がそっと囁きかける。
――羨マシイノカネ?
彼の問いに葵は答えなかった。
――彼女タチハ、マサニ君ニトッテハ、君ノ家族ト同ジヨウニ、光ノヨウナ温カイモノナノカモシレナイネ。誰モガ恋イ焦ガレルヨウナ、幸セト祝福ニ彩ラレタ世界ヲ彼女タチハ未ダニ持ッテイルノダロウネ。モシ、コノ世ヲ光ト影ニ分カツコトガ出来ルトシタラ、彼女タチハ光ノ世界ノ住人ダロウネ。……イヤ、影ヲ、人ノ業ヲ、罪深サヲマダ知ラヌ幼子デアルノカモシレナイナ。
彼の言っていることが、葵には理解できなかった。確かに、彼女たちは自分とは違う、しかし、自分の中にあるような罪とか、キズといったようなものが在るとは思えないからだ。
――戻リタイノカネ?
彼の問いに、葵は歩みを止めて地を見た後、星が瞬く夜の空を見上げて、彼に、そして自分に言い聞かせるように言った。
「戻るつもりはないわ。……でも、そう思う気持ちがあるのは、未練がましいものがあるのは否定しないわ。あの二人といると安心する。自分が昔にしたことが少し軽くなるような気がする。……けど、もうあの時から、自分が過ちを犯したときから、あたしにはもう戻ることが出来ないんだってことも思い知らされるわ」
――君ガ欲スルノハ孤独カイ? ソレトモ温モリカイ? ソレトモ、ソノ両方ヲ欲シテイルノカイ?
「……さあね。そんなのは知らないわよ」
あっさりと彼の問いを突っぱねて、葵は夜道を歩き始めた。




