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4.闇の世界

 帰宅しても、葵の心は晴れなかった。

 自分の部屋に入ると、制服姿のまま畳の上に仰向けに寝転がる。もう、何も考えたくない気分だ。

 葵はしばしの間、何を考えるでもなくボーッと天井を見つめていたが、意を決して起き上がると机の引き出しから一冊の和本を取り出した。それは三年前の事件があってからしばらくした後に祖父の源太郎から渡されたもので、この書の中には彼の修めた剣術の奥義が記されているという。

 祖父が何を考えてこれを渡してくれたのかを、考えたこともあったが、結局、答えや道を見いだすことが出来ずに、しまい込んでしまっていたのだった。

 しばらくぶりに、葵がその本を開いて読もうとしていたその時、今朝に彼女を不快にさせた声が耳に届いてきた。

「……本当にまた来たのね」

 嫌悪の感情を露わにして何処にも居ない声の主に語りかける。

 ――当然サ。コッチモ紳士的ニ、君ノ要求通リ学校ニイル時ハ声ヲ掛ケナカッタノダカラ。君モ約束通リ今ハぼくノ相手ヲシテモラウヨ。

 無視という手段で相手の要求を拒むと、黙々と本の頁をめくる。

 ――イヤハヤ、中々ニ面白イ物ヲ読ンデイルデハナイカ。紛レモナク、コレハ殺人ノタメノ剣を記した物だ。君のお祖父さんは、何故に可愛い孫娘にこんなものを与えたのだろうね?

 答えずに頁を進める。だが、彼の言葉も見当違いではない。漢文調で書かれている文は、その本来的な意味を幾分か抑える効果があるが、それでも、そこに書かれている内容は、殺戮の技術、相手を如何にして絶命させるかの思想で埋め尽くされているのだ。

 羅睺(らごう)――腕を断ち、後に敵を両断する。計都(けいと)――刀を投げ敵の急所を射貫く。朧――脇をすり抜けて敵を背後から貫く。それぞれの技術が、中国の陰陽の原理と自然現象に譬えられながら説かれている。

 そんな内容に溢れていることもあって、三年前の事件で力や強さに対して不信を抱くようになった葵は、結局向き合うことが出来ずにこの書を遠ざけてしまっていたのだった。

 ――君ノ祖父ハ、恐ラク君ニ殺戮者トシテノ素質ヲ見イダシタノデハナイダロウカ? ソウデアルナラ、彼ハ御目ガ高イ。三年前ノ事件デ、ソレハ遺憾ナク発揮サレタノダカラ。何故なら、君は戦いに身を置く者たちの『サラブレット』と言うことも出来るからね。

「……黙れ」

 挑発的な言動に、無視することが出来なくなった葵は本を閉じて、言葉を失いそうなほどの怒りを抑えながら声を上げる。

「……それ以上は、喋るな」

 それは、普段の彼女なら絶対に使わないような言葉遣いで語られる。

 ――イヤハヤ、トリツク島モナイ。デハ話ヲ変エヨウ。聞クダケデモ良イノデ、耳ヲ傾ケテクレタマエ。モウスグ日本デ言ウ連休トヤラガ始マルワケダガ。何故アノ少年達ガ唐突ニソンナ旅行ナドヲシヨウナンテ思ッタノダロウネ?

 独り言のように、けれどしっかりと聞こえるように語るその芝居がかった声に、葵は苛立ちの余り奥歯を噛みしめて歯軋りをたてる。顔が見えているなら、触れることが出来るなら一度でもいいから思い切りぶん殴ってやりたい。そんな気分になる。

「……いい加減に口を閉じたらどうなの?」

 不満を口にすると、一番上の引き出しを開け、黒崎からもらったロザリオを取り出す。

 ふと思い出したかのように、葵は声の主に尋ねた。

「そう言えば、もう一回聞くけどあなたは誰? 悪霊なの。それとも」

 数日前に公園で聞かされたことが彼女の頭をよぎる。

 彼女の問いに、声の主は高笑いで答える。

 ――マサカ、マダ君ハぼくガ悪霊カ何カノ類ダト思ッテイルトイウノカイ? 残念ダガソンナモノハ通用シナイヨ。何セ、ぼくハ悪霊ナンカデハナイノダカラネ。

 そう言うと、今度は一呼吸置いた後、反対に神妙な面持ちで語り始める。

 ――ソレトダネ、ソノ君ガ持ッテイル十字架ノコトダガ……。何故、君ハソンナ古ボケタ骨董品ヲイツマデモ後生大事ニ持ッテイルノダネ? マサカ、君ハ骨董好キナノカネ?

「そんなんじゃない。これは黒崎さんからもらった大切なものだからよ」

 ――ナルホド。感謝スル気持チハ大事ナノカモシレナイガ。シカシ、君ハ今マデ、不思議ニ思ッタコトハナイノカネ?

「どういうこと?」

 ――例エバ、君ハアノ男カラ魔除ケノタメニ、ソノ十字架ヲ渡サレタワケダ。ケレド本当ニソレダケダロウカネ? 老婆心デ言ッテオクガ、人ガ人ニ何カ物ヲ託ストキ、手ヲサシノベルトキハ何ラカノ意図ガ存在スルト思イタマエヨ。本当ノ善意ニヨル贈与モ救イモ無イト思ウコトガ大事ダ。

 その声を聞き流し、葵は黒崎から託されたロザリオを見つめる。くすんだ輝きを放つ十字架と磔にされたキリスト像とは対照的に、十字架の中央部と、鎖で出来た数珠紐と十字架との連結部分にあしらわれている紅い宝石は、このロザリオが歩んできたであろう長い年月を忘れさせるような、キズ一つ無い、怪しくも美しい輝きを放っていた。その輝きに魅せられるように彼女の両の眼が宝石から離れることはなかった。

「……これ、何ていう宝石なんだろう?」

 ルビーとも、ガーネットとも言えない、不思議な色の石である。強いて言うならば、人間の血を染みこませたような真紅の輝きだ。

 ――ソノ宝石ガ気ニナルカネ? ソレガ何デアルカヲ知リタイノカネ?

 意地悪そうな口調で、宝石に魅入られている葵に囁きかける。

「その言い方だと、何か知っているような口振りね」

 ――アア、知ッテイルサ。ケレド教エヨウトハ思ワナイネ。モシ君ガ幸セヲ願ウノデアルナラ、無知デアルコトニヨッテ得ラレル仮初メノ安ラギヲ得タイノナラバ、コノコトハ知ラヌガ良イト思ウ。ナゼナラ、ソレハ君タチ人間ガ無意識ニ黙殺シテキタモノヲ、眠ッテイルモノヲ呼ビ覚マスモノダカラネ。ケレド、ソレデモ知リタイノナラバ、追イ求メルベキダ。トダケハ言ッテオクヨ。

 忠告とも、煽動とも採れるような口調でその声は彼女にそっと告げると、その声が発した言葉は何度も彼女の脳裏を駆けめぐる。

「はぐらかさないで! 何を知ってるのよ」

 ――知リタイノナラ、教エテヤラナイデモナイヨ。モシ知リタイノナラ、今カラ駅前ニデモ行ッテミルト良イヨ。アソコナラ分カリ易イダロウサ。

 その言葉に葵は得体の知れぬ胸騒ぎを憶えた。

 ――行クノカイ? 一度知ッテシマッタラ、モウ引キ返スコトハ出来ナイヨ? ソレデモ良イノナラ、君ハ真実ノ光カ、アルイハ救イノ無イ暗黒ノイズレカヲ見出スダロウサ。

 その言葉を心に留めながら、葵はロザリオをそっと制服のポケットにしまって家を出た。


        ※


「着いたわ。ここで一体何を見せようっていうの?」

 ――慌テルコトハナイ。今カラぼくノ言ウトオリニシテミレバ良イノダカラ。

 駅前に着いた葵は、未だに彼が自分にさせようとしていることが解らなかった。

 駅前はやはり多くの人通りがある。あるものは盛り場へ、あるものは駅舎へという感じでせわしなく人と人とが交錯している。その一方では、何をするでもなくその場に留まっている者や、地べたに座り込んでいる、関わりたくないような不良少年達の姿も見受けられる。

 しかし、それはけっして特殊な世界ではなく、いつもと何も変わらぬ世界のありふれた風景である。ここが一体何の意味を持っているというのであろうか。

 ――マズハ、目ヲ閉ジルンダ。今見テイル世界ヲ一度消スンダ。

 言われるままに葵は目を閉じる。

 光は目蓋によって完全に遮られて、彼女の周囲だけに光のない暗い世界が訪れる。

 ――次ニ、《ロザリオ》ヲ掌デシッカリト握ッテ……、ソウ、アノ《紅イ石》ノ色ヲ思イ浮カベナガラ、十字架ヲ胸ニ抱クンダ。

 ロザリオを取り出し、祈るようにそれを優しく掌に握りしめ、自らの胸元にそっと抱く。

 あの神秘的でありながら、妖しい光が彼女の脳裏に浮かび上がってくる。しかし、それが何であるのかは、彼女には解らない。

 ――サア、目ヲ開キタマエ。ソノ時、君ハ今マデ観ルコトガ叶ワナカッタ、モウ一ツノ世界ノ真実ヲ垣間見ルダロウサ。

 ゆっくりと目を開けた葵は、目の前の世界に言葉を失う。しかし、世界が別のものへと変わったからではない。先程まで見ていた世界に一切の狂いや歪みはないのだ。その世界に、あるものがハッキリと、彼女の目に見えてしまったのである。

 無数の黒い、おぞましさを周囲に撒き散らしている霧のような存在。時には人を完全に飲み込むようにその人を覆っている。そして、行き交う人の周囲を微かに包むようにしている乳白色の霧が見えた。しかし、圧倒的に黒い霧が周囲を覆い尽くさんとしている。しかし、誰一人として、彼女以外それに気付く人はいない。

 ――ソウ、コレガ普段人間ガ見ルコト適ワヌ、幽世カラ絶エズ現世ヘト湧キ上ガッテクル霊ノ姿ダ。君ヤ、マタ此処ニイル多クノ人ノ想念ヤ欲望ガコウシタ地上ヲ漂ウ悪霊達ヲ呼ビ寄セルノサ。彼ラハ迷イヤ絶望シタ人間ノ魂ガ好物ナノダカラネ。絶エズ人々ノスグ傍デ、彼ラヲ慕イナガラ、ソノ人ヲ破滅サセル罪ノ門口ヘト招コウトシテイルノサ。

 声を出すことも出来ずに、この現実を拒むように首を振る。

 ――認メタクナイノカイ? ケレドモ、コレガ世界ノ本当ノ姿ダヨ。人ハ誰シモガ幸福ナ人生ヲ送リタイト思ウダロウ。シカシ、災イハ常ニ人々ノ上ニ臨ンデイル。ソシテソレヲ防グコトハデキナイノダヨ。君ハ三年前ニモ経験シタハズデハナイノカ?

 恐怖で思考が麻痺してくる。

 何も形がないはずなのに、一つの黒い霧は、まるで眼と意志を持っているかのように葵の方に向かって迫ってきた。それは、まるで自分が獲物であるかのようであった。なのに逃げることが出来ない。足がまるで金縛りのように地面に根を張ったように動かない。

 ――コノ世ノモウ一ツノ姿ヲ見タ気持チハドウダネ?

 黒い霧は葵のすぐ目の前まで迫ってきた。

 この極度の恐怖は、却って彼女を足の竦みから解放した。

 逃げ出した。何も考えることが出来ずに、何も答えることが出来ずに、目の前の異常と平常がない混ぜになった世界から葵は逃げ出した。

 彼女が逃げた先は、町はずれにあるカトリック教会が管理する小さな教会だった。教会の門をくぐると、右手の方に両手を広げた慈愛に満ちたイエスの像が立っており、正面には小さいながらも荘重とした雰囲気を見せる教会堂が見える。

 会堂の入り口で足を止め、荒くなった呼吸を無理矢理にでも落ち着けると、ゆっくりと教会の中に足を踏み入れた。

 少々古めかしい内装の空間が眼に飛び込み、混み合って設置された会衆席には、信者と思われる人々が四、五人、腰掛けて祈りを捧げている。神聖な静寂に包まれた空間を、少女は何かを探し求めるように見渡した。まだ呼吸も落ち着かぬ彼女の視線の止まった先には、先日に再会した黒崎の姿があった。葵の視線に答えるかのように黒崎は眼差しを無言のまま返した。


「突然申し訳ありません、昨日の今日で」

「気になさる必要はありません。ところで、相談とは?」

 教会を出た二人は、昨日と同じ公園にいた。

「はい。実は、突然今朝になって変な声を聞いたんです」

「声、ですか?」

「……はい。空耳とか、幻聴とか、そんなのじゃなくて、はっきりと私の頭の中に語りかけてくるんです……。けど、その声は私以外には聞こえないみたいで、正直、不安なんです。頭がおかしくなりそうなんです」

 その後、葵は自分に語りかけてくる声が、どのようなことを彼女自身に語りかけてきたのかを、彼の声にしたがって駅前で垣間見た世界について説明した。かつての恩人である黒崎とはいえ、信じて貰えるかどうかは正直彼女には確信が持てなかった。しかし、抱え込んだままでいては自分が狂ってしまいそうで、誰かに話さずにはいれなかったのである。

「その声に言われるままに、町中でこの十字架の紅い石に触れたら、突然あたりに黒い霧みたいなのが出てきて、色んな人を飲み込んでいたんです」

 言葉を紡ぎ出す彼女の肩は心なしか震えている。

 それを誤魔化すように、葵は自分の身体を抱きしめた。

 そんな彼女の肩に、そっと黒崎の手が置かれる。

 ……気が付いたら、彼女は黒崎の胸にすがりついていた。彼の身体を包む黒い服ごしに肩に両手を置き、胸に顔を埋め、額を押しつける。

「黒崎さん……、私、私どうなってしまったんですか!? どうすればいいんですか!? 私、……怖いんです。何故あんなものが見えたり聞こえたりするんですか!? これは、これは私が罪を犯したからなんですか? 私が償いを果たしていないからなんですか!?」

 言っている間に、両目からは勝手に涙が溢れてきて、それが黒崎の服に黒い染みを作る。

 黒崎は泣きながらすがりつく少女を慰めるように、優しく抱き留める。

「今はただ、泣いて良いのです。そして、泣きやんだら、また自らの道を歩んでください」

「でも……、でも私、自分が何なのか解らないんです。知りたいんです、自分が何をするべきか、自分が何なのか。……だから、だから黒崎さん、お願いです。私の傍にいて下さい、まだ私には黒崎さんが必要なんです。私を独りにしないで下さい」

 引き留めようと腕の中で泣く少女の頭をしっかりと抱きしめながら、黒崎は厳格な調子で諭すように語りかけた。

「……人はいつでも孤独なものです。生まれたときも、神の御許へと帰る時も、そして生きているときも……。しかしだから我々は隣人を見いだすことが出来るのです。大丈夫、貴女は孤独であっても、一人ではありませんよ。私ではなくとも支えてくれる友がいるはずです」

「……でも、でも私には、私にはそんな資格ありません! 三年前のあの時も、あの子を救いたいと思ったんです。なのに、私が傷ついてまでも助けたのに……。あの時のことが追いかけてくるんです、私に忘れさせないように」

 服が破れそうなほど強く掴み、葵は声を絞り出す。

「……しかし、よく聞いておいてください。人は誰かを支えることは出来ても、理解はできても、その人を解き明かすことは出来ません。貴女は貴女自身が解き明かさなければならないのです。貴女を悩ますその声に、従うか、それとも抗うかは貴女が決断すべきです。主もそれを見守ってくださいます。怖れず歩きなさい、私がいなくても。そして見つけなさい、貴女のすべきこと、進むべき道を。歩み続ければ、必ず道は見えてきます」

 黒崎は優しく葵を抱擁する。包み込むような温かい匂いに抱かれ、葵は心が安らいでいくのを感じた。

「もし本当に己を知りたいというのならば、その龍巫島へ行きなさい。伝承ではあの島は人々に啓示を与えていた神が祀られている島です。以前調査したところによると、そこには人に真実を見せてくれる不思議な石が眠っていると聞きます。固い意志を持っているなら、きっと何かを得ることが出来るでしょう。あとは自らの意志で決断してください」

 黒崎の言葉を噛みしめながら、葵は彼の胸にいつまでも身を委ねていた。

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