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3.不思議な声

「おっはよー! 葵」

「おはよ、朝比奈さん」

 四月二十八日、月曜日の朝、駅前のバス停で裕美は大きな声を張り上げた。美穂も遠慮気味に手を振る。

 駅前は通勤客と通学する学生でごった返している。われ先にと改札へ駆け足で急ぐサラリーマンや学生、バスの到着を寝ぼけ眼で待っている高校生、コンビニエンスストアで買った新聞を見ているサラリーマン、と様々な姿を見せていた。

 葵は「おはよう」と親しげに二人に挨拶を返した。裕美と美穂が確保しておいた空間に入り込む。

「……この前はゴメンね。変なことに巻き込んじゃって」

 葵が二人に申し訳なさそうに詫びた。

「いいよ。朝比奈さんが気にする事じゃないよ。むしろ大事件にならなくて良かったじゃない」

「そうよそうよ! 気にしない気にしない。それに結局、お叱りだけで済んだんだからいいじゃん」

 裕美もケラケラと笑いながら葵の肩を軽く叩き、励ました。

「それにしても、あれから彼、どうするんだろね?」

 葵は、あの事件の後、水原がどうなったのか気になっていた。

「さあ、分からないわ」

 裕美が素っ気なく言った。

 そんなことを話してるうちに最寄りのバス停に到着した。

 バスを待っていた乗客は次々とバスに乗り込んでいく。


「そういえば、もうすぐ連休でしょ? 二人とも、何をする予定?」

 バス停から学校に向かう途中、美穂が言った。

「どこかに遊びに行こう。なんていう誘いなら無理よ。連休中は部活で忙しいと思うから。きっと先輩のことだからみっちり練習よ。そういう美穂はどうなのよ?」

「えっ? わたしは東京の親戚の家に行くことになってるけど」

 美穂が、連休中に東京に行くと知ったとき、裕美の目の色が変わった。

「あら? じゃあ、お土産を期待しちゃってもいいかしら?」

 裕美の目がランランと輝いている。

「はいはい。じゃあ葛餅でも買ってくるね」

「ちょっとそれ、東京名物じゃないし。それよりさ、夏休みになったらあたしも東京に行こうと思うから案内してよ」

「本気?」

「だってあたしら高校生になったんだよ。今ぐらいしかこんな地方から抜け出す機会なんてないわよ。もうその為だけにお小遣い貯めてるんだから」

 裕美の顔は何時になく真剣だった。

「そんなに行きたいものなの? 都会だったら名古屋があるじゃないの」

「何言ってんのよ! 交通博物館は秋葉原にしかない。パンダは上野動物園に行かなきゃ見られない。という感じで、東京にしかないから行ってみたいんだから。仮に東京人でも名古屋でしか見られないものがあれば行きたいと思うでしょ?」

「まあまあ、でもそういうことならパンダは居ないけど東山動物園にはコアラが居るよ。あれだってとても貴重なんだから」

 葵は、鼻息を荒くして自分の思うところを語る裕美をなだめるようにフォローした。客観的に見ると彼女のなだめ方も、少々トンチンカンなきらいがあった。しかし勢いとその場のノリで話している時の裕美を、あまり角を立てずに黙らせるにはこれ位ずれていても問題がなく、むしろちょうど良いのだということに最近は気がついたのだ。

「ちぇ、二人して何言ってくれちゃってるのよ。感じ悪いの」

 二人の連れない態度にむくれる裕美を見て、美穂はヤレヤレといった仕草を見せる。

「嘘々、ちゃんと案内してあげるわよ。私が裕美ちゃんのお願いを断ったことある?」

「数え切れないほどあるね! まず中学の時にノートを見してくんなかった! 夏休みの宿題も手伝ってくれんかったし! んでもって給食であたしの嫌いなシイタケを食べてくれんかったじゃんか!」

「そんな自分本位のわがままなお願いを聞く人はいません」

 美穂はあっさりと裕美の発言を退けると、彼女を置いていくようにスタスタと早足で校門に向かって歩いていってしまった。もっとも、裕美の方が歩くのも、走るのも速いのですぐに追いついてしまうのだが、こうして見ていると、どちらが面倒を見ているのか、見てもらっているのか分からなくなってしまう。

 そんな二人の微笑ましいやり取りを見て、安堵の息を吐くと、少し軽い足取りで葵も校門へと向かっていった。


「おはよ、朝比奈さん」

 教室に入ると、すでに登校してきた和彦が挨拶をしてきた。今日は誠や慎二も一緒に登校して来ているようで、二人して和彦の席に陣取っている。

「お、いつも早いなあ、朝比奈は」

 誠は右手を軽く挙げて「オッス!」と、まるで男友達同士で交わすような挨拶をしてくる。ほとんど葵のことを同じクラスの女子ではなく、お友達にでも思っているのかもしれない。

「ま、バスが少ないからね」

 無邪気な笑顔を向けてくるツンツン短髪頭の少年に向けて、軽く右手を挙げて彼女なりの親愛の情をあらわす。

 教室にまだ他の生徒は来ていない。居るのは葵、和彦、誠、慎二の四人だけである。自分の席に腰掛けていつものようにこの閑散とした教室が喧噪に包まれていくまでの時間を無為に過ごすのがいつもの日課になりつつある。

 もちろん退屈なのだから、早めに登校してきて教室で世間話をしている生徒たちも何人かいるので、会話に混ざればよいだけの話だが、生憎のところ同じ年頃の、特に同性と世間話が出来るほど葵は会話のレパートリーが豊富ではない。テレビドラマもあまり見ないし、音楽の話題にしても最近になって裕美から無理矢理聴かされた様々なアニメの主題歌の情報が増えただけで、流行のグループやアイドル歌手の話題にはついて行けない始末だ。そんなことだから隣で男子三人が話し込んでいたとしてもとてもその中に混ざろうという気にはなれないのだ。

 頬杖を突いて隣で何やら秘密会議をしているような姿勢で話し込んでいる三人を横目で見る。

 時折耳に入ってくる言葉の断片を拾い集めていくと、どうやら三人は五月の連休中の予定について話し合っているようだった。

「あれ? 朝比奈さんも会話に混ざりたいのかな?」

 横目で見ているのを目ざとく察知した慎二は細い目をさらに細めて独特のスマイルを葵に向ける。マイペースなように振る舞っていながらも実は見ているところが侮れない。

「何だ、混ざりたかったら言えばいいのによ。よそよそしすぎだぜ。別に女だからって気にするこたぁないんだ。むしろ朝比奈なら大歓迎」

 誠など完全に友達感覚である。ただ同じ武道場で練習しているだけなのだが、彼にとってはそれだけでお友達になったような気持ちになってしまうのだろう。

「で、何の話しをしてたの?」

「お宝探しの話さ。龍巫島たつみしまの地下に眠る紅石の話が結構有名になったはずだぜ」

「そういえばそうだったね。いつだったかしら? そういう話が話題になったのは」

 龍巫島とは、葵たちの住む街から遠く離れた、東部県境に飛び出すように伸びている半島の沿岸に、ぽっかりと浮かぶ小さな無人島のことである。人は住んでいないが、島の頂上付近には龍神を祀った神社が建っており、昔は人が住んでいたのだろうという趣は遺されている。昔は信じられないほどの長大な吊り橋で島と陸地を結んでいたのだがそれも何年か前の台風で破壊されてからは誰も足を踏み入れない島になってしまったのだ。

「……二年前ぐらいじゃないの? 何かよくわからないオカルト研究家が珍説を唱えてマニアの間でだけ騒ぎになったって話だよ」

 慎二が言っているのは、ずいぶん前から一部で唱えられている日本人はユダヤ人説、と言ったような信憑性の疑わしい説のノリで語られていたものであった。

 ちょうど、その話は葵も気まぐれに買ったオカルト雑誌で読んで知っていたのだ。ユダヤの聖典である『旧約聖書』をもとにしていたと記憶している。詳しいことは、そんなに真剣に読んでいたわけではないので忘れてしまったが、その記事の中に例の龍巫島も採り上げられていたのだった。

「で、結局そういう趣味の人が興味本位で島に入ろうとして近くの村に迷惑がかかったって話しなんでしょ?」

「うん、でも朝比奈さんは結構物知りだね。そういう話しを知ってるなんて」

「ちょっとはね。でも本気なの? 宝探しをするって」

 まさか、この年齢になって本気で宝探しをしようなどとは考えていないだろう。

「それがどうも冗談じゃないみたいなんだよ。誠も、慎二もこの連休に行くつもりみたいだからね」

 ちょっと困ったような顔をして和彦が肩をすくめた。どうやら本気のようである。

「そりゃあ本気だよ。僕等はもう高校生だよ。ほら、担任の先生も授業で言ってたじゃないか。『お前達は、厳密に言うと子供ではない』ってさ」

「そうそう、俺らは子供じゃあない、ってことよ」

 慎二に相づちを打つように豪快に笑う誠。しかし、親友二人を見る和彦の目には呆れの色があった。

「それって、『でも大人でもないけどね』っていう落ちをつけられたじゃないか」

「えっ? そうだっけ。何か覚えがないなー」

 和彦に指摘をされてボサボサ頭を掻きながら慎二は苦笑いをした。見かねた葵は、つい最近現代社会の授業で取り扱われたことがらを思い出させるように言った。

境界人マージナル・マン、って先生が言ってたじゃない。子供から大人へと移り変わる過渡期、青年期を示すレヴィンの定義よ。……テストはもうすぐだってのに、大丈夫なの?」

 調子よく笑っている慎二と誠を横目に、葵は呆れたように息を吐く。しかし、内心では二人のように何だかいい加減ではあるが毎日楽しそうに、悩みのなさそうにしている姿を見ると少しホッとしてしまう。もちろん彼らにも悩みもあるだろうが、それを感じさせないような明るさは見てて気持ちが和む。

 普段は落ち着いた佇まいをしている和彦も口数はそれほど多くはないものの彼らに対して非常に楽しそうに眼差しを送っているのを彼女は知っていた。以前に大切な人たちだと和彦が言っていた意味が少しだけ分かった気もする。

「で、どうかな? 朝比奈さんも興味があるんだったら一緒に行かない?」

 話しを戻すような形で、慎二は葵にも宝探しの旅への参加を促した。

「……行かない。男子たちと遠出なんて何だか恥ずかしいし、不良じみてるし」

「お前、古風なこと言うんだな」

「何だ、そんな事は僕は気にしないよ。今の世の中は男も女も関係ないでしょう」

「問題あるわよ。だから行く気はないのよ」

 ――ソンナコト言ワズニ、一緒ニ行ッタラドウダネ?

 葵の背筋に悪寒が走る。一瞬、誰の声ともに判別がつかない、吐き気を催すようなおぞましい声が耳に響いた。

「ん? どうしたの朝比奈さん」

「櫻井君、さっき、何か言わなかった?」

「えっ? 別に言ってないけど」

 慎二は不思議そうな顔で葵を見つめる。その様子から、何か自分がとんでもなくおかしな事を口にしてしまった事を感じた。

「おいおいどうしたんだ、具合悪いのか?」

「ええ、何だか調子が良くないのかもしれないわね。空耳のようなものが聞こえてきたし」

 ――イイヤ! 空耳ナンカデハナイヨ。

 ――コレハ、ハッキリトシタ声トシテ、君ニハ聞コエテイルハズダヨ。

 葵の顔が険しくなる。あたりを見渡すがまだ教室にいるのはやはり自分を含めた四人だけだった。彼女の挙動がどう見ても正常でないことは他の三人の少年にはすぐに分かった。

「おいおい、本当に大丈夫かよ? 何か変だぜ?」

 いつもは脳天気な誠もさすがに訝しんだ。和彦も言葉にしないがただならぬ険しい顔をして葵を見る。

「……ちょっと、顔洗ってくる」

 力なく言うと、葵は飛び出すように教室を出て、足洗い場に向かった。


 足洗い場で顔を何度も洗い、心を落ち着かせようとする。その時、彼女の耳にふたたびあの耳障りな声が響いてくる。

 ――君ハトテモ強情ダナ。ソノ頑ナサハ、一体ドコカラ生マレテクルノダロウカネ? ドコマデ自分ノ信ジラレヌ事ヲ、自分ヲ作リダシテイル、アラユル原因ヲ見ヨウトシナイノダロウネ? 君ガドレダケ無視シヨウト、コノ声ハ実際ニ聞コエテイルハズダ。サア、コノ声ニ答エタマエ!

 自分が戸惑っていることを嘲笑うかのような、心底腹立たしくなるような言い草である。

「もう良いわ、ここには私しか居ないし。せっかくだから構ってあげる。あなたは誰?」

 ――誰トハ心外ダネ。ぼくハ誰デモナイ者サ。ケレドモ、君ハズット前カラ、ソレコソ何年モ前カラ、ぼくヲ知ッテイルハズダヨ?

「知らないわよ、あなたのことなんか。だけど、何だか不快な気分ね。いい加減に教えてくれても良いんじゃない?」

 ――ダカラ、サッキモ言ッタダロウ? 誰デモナイッテ。

 言い終えると、声がでるように笑った。その声を聴いていると、それこそ怒りを通り越して吐き気をもよおしてくる。

「じゃあ、質問の仕方を変えてみましょう。もしかして、あなたは霊とか呼ばれてるものかしら?」

 ――ソノ言イ方ハ、少々正確サニハ欠ケルガ、概ネ当タッテハイルネ。ぼくハ思念ノミノ存在サ。ソシテ、君ノコトハ、ソレコソ何年モ、何年モ前カラ見テキテイルノサ。

「気味の悪い事言うのね。でも、私はあなたの事なんて知らないわよ」

 ――ソレハ君ガ気ヅコウトシナカッタカラダヨ。自分ノ眼デ見エテイルモノシカ、物質的ナモノシカ信ジテイナカッタカラダヨ。コノ機会ニ憶エテオキタマエ。自分ノ眼デ見テイル世界ハ、自分ガ現実デアルト信ジテイルモノハ、君ノ頭ノ中ガ生ミ出シタ表象ニ過ギナイ。ケレド真実ハ人間ノ感覚ガ及バヌ所ニ在ルモノサ。

「それは勉強になるわね。……けど、一つだけ解せないことがあるわ。なんであなたは、あたしが龍巫島に行く、なんて断言できるの?」

 ――ソレヲ説明スルニハ、少シ時間ガ必要ニナルネ。ダカラ、有リ体ニ結論ダケ言ワセテモラウヨ。何ヲ隠ソウ、君ガ島ニ向カウノハ君ノ意志ト、ソシテソウアルコトヲ望ム神様ノ御心ナノサ! ドウダイ? 驚イタロウ?

 言い終わると、また彼女を嘲るような、人を小馬鹿にしたような笑い声を上げる。こうも不愉快な言動をつづけて聞かされると、得体の知れないものや見えないものに対する恐怖心よりも憤りの方が強くなってくる。そんな彼女の心情を知ってか知らずか、声の主は囁くように彼女の耳に語りかけてくる。

 ――ソレニ、君ヲ苦悩サセルモノノ正体ヲ、君ヲ不愉快ニサセル、ぼくノ様ナモノノ正体ヲ知リタイダロウ? 本当ノ自分ヲ知リタイダロウ? 迷ウ必要ナド無イジャナイカ。コノ街ニ留マッテイタラ、コノ狭イ殻ノ世界ノママ、自分ガ何者カ分カラナイママ、コノ生ヲ彷徨ウコトニナル。何モ知ラズ、何モ見ルコトナク、君ヲ堕トシテイク。ヨクヨク考エタマエ! 異ナル、新タナル世界、即チ新時代ノ到来ヲ人ハ必要トシ、ソシテ世界モ人ニ絶エザル変革ヲ求メテイルノダカラ。

「……たく、よく喋るわね。言っておくけど、私はお喋りな人は嫌いなの」

 いい加減、彼の声に耳を傾ける気が失せてきた。これほどのお喋りな者には中々巡り会えるものではないだろう。どちらにしろ、葵はもうこれ以上、彼の御託に付き合うつもりは無いので単刀直入、分かり易く言ってやろうと思った。

「どうでも良いけど、私は学校で授業や部活があるの。だから話しかけるなら、時と場所は選びなさい。そうしたら、少しだけあなたの悪ふざけにも付き合ってあげるわ」

 ――イヤア、君ハ思ッタ通リ愉快ダ! 良イダロウ、君ヲ怒ラセルノハ、ぼくモ本意デハナイカラネ。約束シヨウ。君ガ学校ニ居ルウチハ、一切ノ干渉ハシナイヨウニ努力シヨウ。ダカラ君ハ、セメテ束ノ間ニ与エラレタ安息ノ時ヲ楽シンデクレタマエ!

「二度と来なくて良いわよ!」

 吐き捨てるように先ほどまで語りかけてきた見えない相手に言葉をぶつける。ともかく、彼のおかげで朝からとんでもなく不愉快な気分を味わうはめになった。もう一度顔を冷たい水で洗い、気分を落ち着かせると足洗い場から教室へと戻ろうとした。

「大丈夫? 朝比奈さん」

 聞き慣れた声に葵はビックリして振り返る。

 振り返った先――足洗い場から教室棟へと向かう渡り廊下に立っていたのは級友の相原和彦だった。いったい何時からそこにいたのだろうか? もしかしたら自分の先ほどまでの会話を聞かれてしまったのだろうか。そんな不安が彼女の脳裏をよぎる。

「さっきまで一体誰と話していたんだい?」

 和彦の問いはそんな彼女の危惧が見事に的中したものであった。おそらく、和彦の言い分からも先程まで彼女の耳に響いていた例の声は、まったく聞こえていなかったものと思われる。ちょうど見えない誰かを相手にして独り言を言っていたように映ったのだろう。

「もしかして、あの事件の時に何かあったのかい?」

 彼女の身に何か異変があると察した和彦は、数日前に自分も関わった例の騒動のことをすぐに思い浮かべた。実際あの事件を境に、今日ほど露骨ではないものの、ここ数日は彼女の様子がどこかおかしいことに気付き、気に掛けていたのである。

「大丈夫よ。きっと色々あって少し滅入っちゃってるだけだから。さ、教室に戻ろ」

 葵は和彦に微笑みかけるも、その笑顔はどうみても空元気にしか見えなかった。

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