2.両親の絆
家に戻ると、普段は見かけぬ靴が玄関にあった。珍しく夏希が帰ってきているのである。
家に上がると、それにあわせるかのように夏希が秀男と共に書斎から出てきた。
廊下で葵と目が合うと「あら、帰ってきたの?」と夏希は普段と変わらぬ態度で娘に接してくる。
「母さんこそ、こんな真っ昼間に家に居るなんて珍しいね」
数日前のことをまだ少し気にしているのか、まだ言葉に硬さが残ってしまう。そんな娘の心情を知ってか知らずか、母はいつもの調子で接してくるのだ。
「数日ここを空けることになるから少し顔を出したのよ」
「何処に行くの?」
「上司からの命令で東京と横浜に。情報収集のため、だけどね。詳しいことを聞きに行けってことよ。それよりも留守は頼んだわよ」
そう言って夫と娘の肩を軽く叩き、家を発とうと玄関に向かう。その愛する妻に留守を任された夫は彼女の背中に語りかける。
「夏希さん、あまり後輩に無茶をさせてはいけないよ」
「あら? 私は心配じゃないのかしら?」
笑顔で振り向き、妻は夫に問うた。顔はにこやかであったが言葉には何か有無を言わせないような気迫がこめられている。
「も、もちろん心配さ。そうに決まっているじゃないか。で、でも言わないって事は、夏希さんはそれだけ信頼してるってことだよ」
秀男はバツが悪そうに、しどろもどろになりながらも妻のフォローをする。もっとも、夏希にしても実際にはそんなに怒っているわけでもなく、どちらかというと夫を少しからかっているような節がある。決して夫婦喧嘩などではなく、この家ではごく自然な光景なのである。年齢も秀男の方がが六つ年上とかなり離れており、なおかつ二人で居るときはあまり多くない。けれども強い愛情で結ばれているのを娘は知っている。
「ありがと。私もあなたのこと信じてるわよ。だから頑張りなさいね。未来の文豪さん」
片手を振りかざし、しばしの別れを告げると夏希は家を出た。
その背中を見送ると葵は隣に立つ父を見る。先ほどのやり取りを見ていると、日頃から疑問に思っていたところを無性に聞いてみたくなった。
「ねえ。父さんはなんで母さんと一緒になったの?」
その言葉に父は「何で急に?」と、怪訝そうな顔で娘を見る。
「急に聞いてみたくなったの。教えてよ」
「……話すような事じゃないよ。大体、聞いてもつまらないと思うよ」
はぐらかす父親に娘は「いいから教えて」と食い下がる。
「二十年以上前になるかな。まだ僕がうだつの上がらない貧乏作家だった頃に高校生だった夏希さんと知り合ってね。それからは普通に、ってわけじゃないけどお付き合いをして結婚したんだよ」
「へえ、じゃあ父さんが母さんにプロポーズしたんだ?」
父親は娘の問いに首を横に振って否定する。
「その逆だよ。急に部屋にまで押しかけてきて、私はあなたの夢を手助けしたいから結婚しましょう、って言ってきて……。それで、夏希さんが高校を卒業してからも……まあ、色々あってね。結婚までに。今思えば、随分と無茶なことをする人だと思うよ」
そう言うとこめかみを掻きむしり、恥ずかしそうに娘から目をそらした。
「何だか今と変わんないね。じゃあ、父さんが食べられちゃったんだ? でもまだ夢成らず、なんて状態じゃない」
「そうだよ。そのおかげでさっぱり夏希さんには頭が上がらないし、何だかんだ言って義父さんにも顔を合わせづらいんだよ」
頭を押さえて軽い溜息をつく秀男を見ていると、何だか父と母の出会ってからの夫婦生活が容易に想像できてしまう。同時に、そんな簡単に結婚を決意してしまう母の行動力、大胆さ、もとい無茶苦茶さに少し拍子抜けしてしまいたくもなった。
「でもいいんじゃない? 今では売れてるポルノ作家なんだから。方向は違うけど」
「まあ、そうなんだけどね。でも、葵は嫌じゃないのか? あまり大っぴらに言えるような職業じゃないだろうし」
「平気よ。作家、小説家って家族覧には書いてるだけだから。大体、ペンネームなんか教えるわけ無いじゃん。でも、これで分かったことはあるわね」
葵の言葉に、父は首を傾げる。いつもの娘の雰囲気とは違い、どこか無理に明るく振る舞おうとしているようなところがあるからだ。
「お兄はちょっと父さんに似てるのかもね。ロマンチストなところとか、割と流されやすいところとか。……それから、優しいところとか」
いつも家族以外に話す時のような、少し寂しそうな声色で最後の言葉を囁く。
「……じゃあ、葵は優しくないのかな?」
「……分かんないわ」
瞳に暗い影を落とす娘の頭を、父は優しく撫でた。葵の方が背が高いため、秀男が少し背伸びするような形になる。久しぶりに父に頭を撫でられ、嬉しい反面、少し気恥ずかしい思いに駆られてしまう。
「お前も充分に優しいよ。僕と夏希さんの子なんだから。それにお前のことは小さいときからずっと見てるんだから。困っている人の所に飛び込んでいってしまうような無茶なことをするぐらい真剣だってこともね」
父の柔らかな声に身を委ねる。自分の両親はどこか男女の役割が逆転してしまっているような節があり抵抗を感じることもあるのだが、今はそんなことと関係なく、葵は自分を優しく見守ってくれている父に甘えていたいのであった。
少し落ち着いて、部屋に戻ろうと階段に足を置いた娘は、ふとあることに気がついて、振り返り際に父に言葉を投げかけた。
「あれ? さっきの話が本当なら、お兄が生まれたのは一九七六年の十月だから、結婚してからすぐに、ってことになるよね? いくらなんでも早いような気が……」
娘のその言葉に、秀男はそそくさと書斎に引っ込んでしまった。




