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1.公園での一幕

「そうですか、そんなことが……」

 状況は多少違えど、やはり三年前に自分が直面したものと似たような出来事であった。話しているうちに、ここ数日、自分を悩ませていたものの正体があらためて彼女の心の内に現れてきた。

「おかしいですよね。もう吹っ切れてると思っていたのに、あの時、黒崎さんに助けられたのに、母や父に諭されたのに、結局私はあの時から何も変わってないなんて」

 どこか遠くを見つめながら、悲しげな表情を見せる。そんな彼女を見て、黒崎は横に並び、努めて彼女の方を見ないようにして語りかけた。

「三年前に、貴女にお話ししたことを憶えていますか?」

「もちろん、憶えていますよ。聖書の最初の方の物語ですよね? 忘れるはずがありません。人の祖と女が神様の命に背いて善悪の果実を食べて楽園を追放された話と、その後に生まれた二人の兄弟の間で殺人が行われて、兄が追放される話ですよね?」

「その通りです。人の祖、アダムは主の言いつけに背き、人類の母となる女、すなわちエバと共に善悪の果実を食した。主に受け入れられず、嫉妬と絶望に狂う兄カインも主の警告にもかかわらず弟アベルを殺めた。何故でしょうか?」

「ええ、それも憶えてます。人は神の似像にすがたとして創られた。獣と違い、自由な意志を授けられたのですよね」

「そうです。そして、憶えているのならば思い出してください。人は主の御言によって物言う術と、自由な意志を授けられました。これはこの世の生きとし生けるものの中で人にのみ許されたことです。神に従属することなく、自らの意志で神の御許に戻るのが人なのです。しかし、人はそれ故に苦しまなければならなくもなりました。

 特に、禁断の実によって、神の如く善しと悪し様を知ることが出来るようになった時、その苦悩は計り知れぬものになったでしょう。意志を持つがゆえに迷い、満たされぬが故に求め、そして悪しきを知るがゆえにそれが持つ甘美な誘惑に苦悩する。これこそ私達人類の消すことのできない原罪、アダムの末裔、カインの末裔であることの証なのです」

 黒崎の言葉に、少女の瞳に暗い影が現れる。

「やはり、私は罪深い者なのでしょうか?」

「しかしながら我らの救い主イエス=キリストは言われます。『心の貧しい人たちはさいわいである、義に飢えかわいている人たちはさいわいである』と。貴女は自分の罪深さを、心の弱さを知っている、そして善きことを求め、欲する心を持っています。悩むことはありません。主は完全なる善人よりも、迷い苦しむ罪人にこそ至上の愛をお与えになるのですから」

 黒崎の言葉を終えると、彼の言葉に耳を傾けていた少女は目の前に立つ壮年の男に微笑みを送る。

「ふふふ、やっぱり黒崎さんは変わった人ですよね?」

「と、言いますと?」

「だって、よく考えてみれば最初は他人同士、三年前の時だってお互い見ず知らずの間柄だって思えたじゃないですか? そんな人に親切にしてくれるなんて事、無いと思いません?」

「けれども、出会いとはそのようなものですよ。それにあの三年前の時、傷ついた貴女の心は悪霊に奪われようとしていました。それを見るのが忍びなかったのです」

「そうそう、そうやって悪霊だなんて、何だか突拍子もない話が突然でてくるんですから」

「そんなにおかしな事でしょうか? 仕事柄、そういうものを見ることが多いものですから。でも、多くの人が普段気がついていないだけで、霊的なものはそこら中を漂っています。無性に苛立ったり、善くないことばかりが心に芽生えてきたり、そういう経験があると思います。日本では良く『憑かれる』いう言葉で言い表されると思いますよ。突然、人が変わったようなことになる、精神に異常をきたすという意味を指す言葉ですが」

「それは霊の存在が引き起こしたりする。ってことですか?」

「すべてにおいてあてはまるものではありません。しかし、この世界には物質以外にも人間の視覚によって認めることが出来ない存在、いわゆる魂だけの存在が在るのも事実です。

 それを霊と言います。日本で言うところの幽霊のようなものと考えればいいかと思います。その霊の中で人を守護し、善へと向かわせようとする霊を、聖霊と呼び、人を悪や破滅、堕落へと向かわせようとする霊を、悪霊と呼ぶのです。特に後者の餌食となり、不幸にも身を滅ぼしてしまった人も少なくないのです」

「もしかしてあの時は、その霊というのが私に取り憑こうとしたんですか?」

 幽霊や、悪魔といったものの存在をあまり信じていない葵にとっては、やはり腑に落ちない点が色々とあった。

「はい、悪霊は病んだ人の精神、絶望した人の精神に働きかけることが多いのです。あの時、私は貴女の心に悪霊が入り込もうとしたのをはっきりと感じたのです。ですから悪霊が貴女の魂に入り込めぬよう細工をしておいたのですよ。……たしかあの時、あなたにロザリオをお渡しましたね?」

「ええ、憶えています。今でも持ってますよ。一週間これを肌身離さずに持っていなさいって、私にくれたんですよね?」

 葵は前ポケットに手を突っ込んだあと、手を引き出すとそこには、銀で出来たロザリオが握られていた。かなりの年代物で、十字架や数珠状に繋がったペンダントは、銀が放つ神秘的な輝きは失われ、くすんだ色をしている。それとは対照的に装飾に使われていると思われる紅い石は色あせぬ鮮やかな色彩を放っている。

「けど、これに何か意味があったんですか?」

「ええ、ロザリオには聖霊の加護を授けられていると聞いています。もっとも、私は悪魔払い師ではありませんし、詳しくは分かりません。それにカトリックの司祭という地位も、とうの昔に捨てています。けれど、祈ることはすべての者に赦されています。そして祈ることによって聖霊の加護が与えられるのです」

「これが私を護ってくれていたんですか?」

 掌に乗るロザリオを見て、葵はしばし黒崎の言葉を考えていた。

「やっぱり私にはいまいちピンとこないです。……けど、黒崎さんは私にとって間違いなく恩人です。このロザリオはまだ私が持っていても良いですか?」

 葵の申し出に黒崎は「ええ、是非そのロザリオは持っていてください」と快諾する。


 しばしの間、この不思議な時間が周囲に訪れ、それが終わると、黒崎は感慨にふけるような目をして、かつて自分が救った少女を見つめて言った。

「私も、この街を発つ前にこうしてまた貴女と再会できたことを神に感謝したいです。傷ついた旅人を癒した善きサマリア人のように、貴女の隣人となり、その貴女がこうして再び歩み始めている。これ以上の歓びも、慰めも無いでしょう」

「もうこの街を離れるんですか?」

「ええ、もともとここには研究調査の合間に少し立ち寄るだけのつもりでしたから。明日はまだいますが、明後日には発つことになります」

「相変わらず忙しいんですね。たしか古代信仰、とかいうのを研究しているんですよね?」

 三年前、黒崎がこの地を訪れたのも研究のためであった。彼は元々は聖職者であったが、一方では様々な地域の古代信仰、伝説を研究する学者でもあった。司祭を辞した後はこうして各地を回り、伝説や伝承などの研究に専念しているのだという。

「もう、この街には来ないんでしょうか?」

 少女の顔にもう会えないのでは? という一抹の不安と寂しさがにじみ出る。

 そんな彼女の不安を紛らわせようとしているかのように、この神秘的な雰囲気を持つ男性は語りかける。

「それは分かりません。けれども主の思し召しであるのならば、また近いうちに巡り会うこともあるでしょう。けれども、もし再び貴女が道に迷うことがあったら、これから言う言葉を思い出してください。若者は、これからもっと、この世のあらゆる矛盾や不条理、すなわち人生の真実の姿を目にすることでしょう。その時に貴女が迷うことなく生命へと至る径を進んでいくことを願わずにはおれません」

 そう言うと、黒崎は低く深みのある神秘的な声で、日頃好んでいる聖書の一節を詠んだ。


 ――けれどもわたしは常にあなたと共にあり、

 ――あなたはわたしの右の手を保たれる。

 ――あなたはさとしをもってわたしを導き、

 ――その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。(詩篇 第七十三篇)


 黒崎が言い終えると、葵は何かを思い詰めたような眼差しを真っ直ぐ彼に向けた。

「私も、黒崎さんみたいに誰かの隣人になることが出来るのでしょうか?」

 彼女の問いに、黒崎は慈愛に満ちた顔を見せ、光の届かぬ深海を思わせるような黒い瞳で彼女の瞳を見つめた。

「ええ、貴女ならきっと善き隣人に、誰かを支え、導き、歩む人になれるでしょう。自分を信じ、歩んでいってください」

 何でもない、特に根拠があるわけでもない、さりげない言葉であった。しかし、その言葉に葵は幾らか救われた気持ちになった。

「ありがとうございます。黒崎さんもどうか気をつけてください。ここ最近、変な事件が多いですから。一週間ほど前にも隣町で女の子が姿を消して、まだ見つかってないんです。何なんですかね? 最近になってどうしてこんな変な事件が立て続けにおこるんですか……」

「ええ、話しは伝え聞いております。二年前のテロ事件もそうですが、今この国も、世界中も善くない道へと歩んでいるように思われます。ですが、だからこそ貴女も気をつけて、軽はずみな行動は慎むように。貴女は昔の夏希さんのように、思いこむと周りを冷静に見ることができないところがありますので……。今はただ、彼らが一刻も早く捜し出され、無事に保護されることを祈りましょう」

 葵はその言葉を聞いてむず痒くなった。それはつい少し前にも夏希に言われたこととそっくりのことを黒崎にも言われたからでもあった。しかし、一番の理由は彼が自分の母の過去を知っているということである。これは知り合ってしばらくしてから判明したのだが。

 彼と出会った当初はそんなことは考えもしなかった。これも人の縁というのだろうか、世間というのは広いようでいて狭いということなのだろう。

「それって、昔の母と私がそっくりだってことですよね? そんなに似てましたか?」

「はい、感情が表に出やすいところが貴女とは正反対でしたが、困っている人を助けたいという気持ちを貴女と同じように強く持っていました。あと、貴女の少々無鉄砲なところも昔の彼女を見ているようです」

「そ、そうですか?」

 ついつい余所見して頬を掻いてしまう。尊敬はしているが、自分にとってどこか遠い存在のような夏希の過去の面影と自分を重ねられて、照れくさいような、気まずいような、何か複雑な気持ちになってしまうのだ。

「あの、母は東京にいたときはどんな人だったんですか? やっぱり、黒崎さんとは……」

 性格が正反対なのに本質の部分は同じだ、という意味を彼女はまだ上手く理解できない。しかし、今まで考えもしなかった自分が生まれる前の母はどんな人なのだろうか。

「立場上、知り合った経緯について話すわけにはいきませんが、非常に活発な女性でしたよ。ただ、どんな人であったかは私よりも貴女のお父さんに聞く方がよいかと思います。彼の方が夏希さんと過ごした時は長いのですから」

「そうですよね。じゃあ、さっそく帰ったら父にそれとなく聞いてみます。黒崎さんも色んなところを駆け回ってるみたいですけど、また会えることを祈ってます。今日はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。今日、明日は街外れの教会にいますから、もし何かありましたら立ち寄ってください」

 最後にそう言い残すと、黒崎は公園を後にした。

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