6.母と娘
すっかり暗くなった道を、葵と夏希は歩いていた。さっきから一度も二人は言葉を交わしていない。そもそも、父親に懐いていた葵にとって、このように母と並んで歩く、二人きりになるということすらほとんどなかった。
沈黙に耐えかねたのか、葵が口を開いた。
「……母さん」
夏希は声に出して返事をすることはせず、顔だけをほんの少しの間だけ葵の方へ向けた。
その眼差しに向けて何かを言いかけた少女に対し、母は短く答えた。
「今は何も考えないことね。一晩ぐっすりと寝れば冷静な考えでも浮かぶでしょうから」
言い終えると立ち止まる葵に構わずそのまま歩を進める。遠ざかりそうになる母の背中に向けて、娘は再び声を掛けた。
「……私、やっぱり答えが見つからない。そんな自分が……怖い」
母は足を止め、ゆっくりと振り返り、声が届くか届かないかの距離にいる自分の娘をじっと見つめる。
「それは、私の父からの教えのことかしら、それともまだ三年前のことを気にしてるということかしら?」
問いを二つ挙げられた葵は、上手く言葉を返すことが出来ずに、言いかけては止めることを何度か繰り返した後、俯くように母から目をそらしてしまった。
「その様子だと、あとの方みたいね。けどね、あれはあなたが責めを負うことではないと言ったはずよ」
「……だけど、どうしても自分のしてしまったことが嫌でたまらなくなるの。何故あんなことしか思いつかなかったんだろう、って。今回だって」
悔しさに葵は拳を握りこむ。こころなしか、両腕は小刻みに震えている。
「自分をしっかりと持ちなさい。そうやってあの人に、黒崎さんに言われたんでしょ?」
葵は首を軽く縦に振って頷く。
「ならあなたのすべきことはひとつよ、深く考えないようにしなさい。そういう迷いは今度また同じような状況になった時に、自分を殺すことになる。世の中は良識が通じないこと、どうにもならないことは多いんだから。そういう現実の中からしか答えは見つけられないわ」
「……相変わらず、母さんは強いんだね」
空虚な、乾いた笑いを出しながら母に羨望の念がこもった言葉を吐く。その、どこか投げ遣りにも受け取れる娘の態度に少し眉をひそめるが、夏希は努めて冷静に娘をたしなめた。
「平気な訳ないわよ。慣れてるだけよ、職業柄」
言い終えると、娘に再び背を向ける。
「彼、どうなるのかな? あいつらはどうなるのかな」
娘の問いに、母は振り返ることはなかった。
「それこそあなたが気にすることではないわ。今回がきっかけになって立ち直れる可能性ならあるわよ。それを活かすか、駄目にするかは本人にかかってる。あの不良少年達も、性根が腐りきってなければ、ね」
スーツのポケットからタバコを取り出し、口にくわえる。
「さ、行きましょ。今夜は春にしては冷えるから」
※
「じゃあ、ちゃんと歯を磨いてから寝るのよ」
自宅の前まで送り届けた後、夏希は葵にそう言うと急いでまた出掛けようとした。やはり、娘がこの年齢になってもまだ子供扱いしているんだな、と思ってしまう。そんな母親の背に娘は声を掛けた。
「また、出掛けるの?」
「ええ、詳しくは捜査に関わることだから話せないけどね。以前に新聞で読まなかった? 二ヶ月くらい前に東京の刑務所から六名の受刑者が一斉にいなくなったって話よ。脱獄事件だと思うけど、警視庁から全国に捜査協力の願いが出てね。今回は結構厄介なことになりそう。なんせ、手がかりになるものが無いわけだから。まあ、危険な事態とはいえ、いなくなったのが凶悪犯罪を犯した死刑囚じゃないってのがせめてもの救いだけどね。でも、その前に課長のお叱りが待っていそうだけど、あたしとしてはそっちの方が気が重いわよ。連続失踪事件といい、今回の脱獄事件といい本当に悪いことは重なるわね」
夏希はブツブツと文句を溢した。
葵は何となく想像がついてしまった。夏希は先ほど口にした脱獄事件を追っているのだと。そして、それが困難で危険が伴うような事件だということを。
「余り無茶はしないでよ。いくら母さんが強くても……」
夏希は豪快に笑って葵の不安をかき消すように言った。それが、彼女なりの気遣いであることも葵は知っていた。
「心配無用よ。警察なんて職業が成り立つぐらいだから世の中はいつの時代だって物騒なもんよ。それに、あんたこそ今日みたいな無茶をしないように。そこだけは覚えておきなさい」
夏希は背を向けて「おやすみ、秀男さんによろしく」と言い右手を振って自宅を後にした。葵は遠ざかる母の背中に「気をつけてね」と小さな声を掛けた。
「これが、ついこの間に私の周りであった出来事です。黒崎さん」
葵はそのように言って話を締め括ると、黒崎と向き合った。
このパートで第2章が終わります。第3章以降は15日の昼の12時頃に一部を予約掲載する予定です。




