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パッション ― 受難のロザリオ ―  作者: 遠藤賢治
Episode1.「受難のロザリオ」 序章
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序章

 それは春の、桜が散り始める頃のことであった。

 横浜の街。この日本でも有数の大都市も、郊外となると都心部の高層ビル群とは対照的に、過去に外国人の居留地であった歴史を匂わせる異国情緒あふれる空間が広がっている。外国人墓地にはじまり、異人館や歴史の古い学校などが建ち並び、都会の喧噪とは縁遠い静けさに包まれている。そこの昼下がり、帰宅途中であった少女はふいに足を止めた。

 少女の視線の先には壮年の男の姿があった。まだ時間的に早いのか、周囲を見渡してもこの場所には少女と男性以外はいない。歳は四十の半ばであろうか、あるいはもう少しいっているかもしれない。彼女がそう判断した理由は、髪は黒々としているが、顔をよく見るとシワは目立たないものの、ツヤは衰えて輝きを失ってしまっているからである。

 全身を黒い服で覆ってはいるが、その色には薄気味悪さや、恐怖感というものがなく、どこか修道士か、あるいは教会の牧師を思わせるような神秘さと、優しさがある。熱心なプロテスタントの家に生まれ、自身も幼少の頃より聖書に慣れ親しみ、将来は両親のように洗礼を受けるつもりで教会にもよく足を運んでいた少女には少なくともそのように映った。

 春の強い風が、肩で切りそろえた髪と、少女が身にまとうセーラー服の襟とスカートをたなびかせる。

 少女は、街でも長い歴史を誇るミッションスクールに通っており、この春に高等部に進級したばかりである。新調したての制服に身を包んだ少女は、まだ子供っぽさが残る顔を男に向けている。何故か男から顔を背けることができない。否、背けようという考えが浮かばない。男の不思議な光をたたえた横長の黒い双眸に吸い込まれそうな気分になる。おぼつかない思考のまま、少女は男に問うた。

「……あの、わたしに何かご用でしょうか?」

 問いに対して男が何かを言ったかもしれない。男の唇が動いた。ただその事だけしか少女には理解できなかった。眠りと目覚めの境をさまよっているような、まどろんだ意識では、これが限界であった。

 静かに、ゆっくりと男の右手が差し出される。少女は、カバンを置くようにして捨て、右手に引き寄せられるように男に歩み寄っていく。自分の左手が、男の手の平に触れたあたり、少女の意識は途切れた。

 あたりが夕日に染まる頃、少女の持っていたカバンだけがその場に取り残された。

 その日、横浜の街から一人の少女が姿を消した。


 ――事件の数日ほど前。

 その日、横浜から遠く離れた、とある地方都市の高校では入学式が執り行われていた。

 式を終えたばかりの少しざわついた中、それを避けるように人の輪から距離を置いて少女がグラウンドと校舎を隔てるように植えられている桜並木を眺めていた。彼女はこの春、高校生になったばかりの十五歳の少女だ。学校指定の紺のセーラー服と長い髪が、本来の性別を物語っていたが、太めの眉、切れ長の目が、彼女を少年を思わせるような顔立ちにしている。背も高く、同年代の男子にも引けをとらない。

 吹き抜ける風に乗せて散った花びらが舞い、白いヒモで一つに束ねられた、肩胛骨のあたりにまで達する長い後ろ髪を何度も跳ねさせる。

 不意に、彼女の右肩に誰かの手が置かれるのを感じた。特に慌てる様子もなく首ごと視線を右肩の方へと向けるとそこには、ショートカットの、活発そうな印象の少女がいた。

「よっ! そんなところで何ボーッとしてるのよ、朝比奈葵さん」

「……何だ、上田さんか」

 ボソッと呟き、朝比奈葵(あさひなあおい)は少し面倒くさそうな顔をした。

 人懐っこい笑顔で声を掛けた女生徒、上田裕美ひろみは葵と同じ中学出身であり、お互いによく知っている間柄である。とは言っても一方的に裕美が友達みたいに接してきているだけであり、葵にはどう接するかが分からず、中学時代にはそのあまりのしつこさに辟易していた時期もあった。

「……ちょっと桜を見てた」

「桜をねぇ……。んなもんよりもクラス表を見に行った方が良いんじゃないの? これから高校生になるってのに、何だか暗いぞ」

 元気を出せ、と言わんばかりに無遠慮に葵の背中を何度も平手で叩く。

「まあ、これから三年間、またいっしょに通うことになるんだからよろしくね。もうつれない態度は無しにしてよ」

 親指を立てて変なポーズを見せる。何の意味があるのか分からない葵はただ苦笑するしかなかった。

 そんな二人のもとに背中まで届くような長い髪を一本の三つ編みにした女生徒が寄ってきた。

 葵や裕美に比べて小柄で体つきも華奢な印象を与えている。今どき珍しいであろう太い黒縁の眼鏡からのぞく目は少し垂れていて優しげな雰囲気を醸し出している。

「やっほ、美穂。クラス見てくれた?」

「見に行ってきたわよ。私と裕美ちゃんは三組、朝比奈さんは七組ね」

「あれま、同じクラスになれなくて残念ね。まあ、でもお昼とかには遊びに行くから安心しなさいって」

 笑みを浮かべながら裕美は葵の顔を伺う。

「……別に無理に来なくても良いよ」

「そう言うと思った。でも、来るなと言われても行っちゃうもんね。あたし、葵のことには興味があるし、色々知りたいことがあるし。……葵は、あたしのこと嫌いかしら?」

 嫌いなわけではない。ただ、どう接すればよいのか分からないからこれまで接触を避けていただけだった。

「嫌いじゃ……ないよ。別に」

「なら、いいじゃん。お互いのことはこれからよく知っていこうよ。それじゃあ、お互いの教室に、レッツらゴー!」

 掛け声と共に裕美は一人、意気揚々と教室に向かっていった。

「ごめんね、朝比奈さん。裕美ちゃんはちょっと馴れ馴れしいけど悪い子じゃないから」

「別に気にしていないから、高橋さんは心配しないで」

 高橋美穂という名の少女を気遣うように、葵は言葉を返す。

 彼女の言葉に「よかった」と美穂は微笑むと、教室に向かう裕美の後を追った。その姿を見送ると、自らも教室に向かって歩き出した。


 教室に入り、自分の座るべき席に座る。最初は出席番号順であったので、廊下側から二列目の一番前の席であった。時間いっぱいまで友人達と談笑している生徒が多いのか、まだ教室にいる生徒はまばらである。特にすることもなく頬杖を突いて何となく周囲を眺めていると、不意に隣の席に人が座ろうとする気配を感じた。

 ほとんど条件反射のように顔を隣の席に向けると、一人の男子生徒がその席に腰を下ろしていた。入学式でも葵の隣に立っていた生徒で、短く小綺麗に切られた髪、キチンと着こなされた制服が真面目そうな印象を与え、小さめの目と、緩やかに下がった眉毛のラインは、温厚、柔和な雰囲気をつくりだしている。式の時にも横目で見たが、横顔はどこか少年らしくない、少し大人びたような感じであった。

 視線に気づいたのか、少年も顔を葵の方に向けた。

 しばしの間、目が合うと少年は微笑みかけて言った。

「これからよろしく。僕は相原和彦あいはらかずひこ。……君は?」

 何度か口ごもった後、葵はゆっくりと口を開いた。

「……葵、……朝比奈、葵」

 目を合わせることができず、視線を横に反らしながら何とか言い終える。そんな彼女に、和彦は優しげな声で語りかけた。

「うん、よろしくね。朝比奈さん」

 葵は、上手に返事をすることができなかった。

 その後、和彦は教室に入ってきた二人の少年と親しげに話をした。その姿を横目で見ると、視線を再び正面に戻して時が過ぎるのを待った。

 彼女の高校生活、そして彼女が経験する奇妙な出来事は、この日から始まったのである。


 ――それから数日後。

「さあ、共に参りましょう。あなたは心清い人、義の人。天の国の門に近き人。あなたの魂は神に祝福されるでしょう。そして地上という暗き迷宮に彷徨う人々の標となるでしょう」

 少女は優しく抱擁されているような、不思議な安息感に包まれながら、男の声に耳を傾けていた。自分の意志とは関係なく、男の言葉が耳に届く度に陶酔にも似た感覚を覚える。

「あなたは誰ですか?」

 少女の問いに、男ははっきりと答えた。

「私は荒野で呼ばわる者の声、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』との言葉に遣わされた者です。さあ参りましょう、約束の時のために。人々を御許へと導くために」

 そして、また一人の少女が忽然と町から姿を消した。

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