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花の簪  作者: たびー
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絹の歌声 4

お納めください……m(__)m

 三日後、わたしは再び姫さまの居室の前にいた。日陰にいるというのに扉を叩く手が汗ばむ。

 中から近づく足音に耳を澄ませると、じき扉は開けられた。いつもの侍女が固い瞳でわたしを見つめた。心なしか、やつれたように見えた。

「よろしいでしょうか」

 侍女は視線をそらさずにうなずき、体をずらしてわたしを通した。前室は静かで中の様子は伺えなかった。ただかすかに中庭の棗椰子の葉が風にざわめく音ばかり。嗅ぎなれない甘い香りを鼻が感じ取る。

「ユェジー姫さま。サーデグ殿がお見えです」

 いつもの錦を羽織り、背中を向けた姫さまがいた。髪はわずかばかり上でまとめて、必ず身につけている地味な簪で止めてあった。

「姫さま」

 わたしの声に腰を過ぎるほどの長い髪がゆれ、ゆっくりと首を巡らせ、姫はわたしを見た。

 頬骨がまた目立つようになっていた。化粧はしているが、目の下の黒ずんだ皮膚は隠しようがなかった。

 深くお辞儀をしてから侍女に目配せする。

「お食事は」

 わたしの小さな問いかけに、侍女は厳しい表情で首を横に振った。おそらく彼女も気に病んでいたのだろう。近くで見ると肌が荒れていた。

 わたしが歌うまで何も食べないとでもいうのか。

 ご自分を大切にしない姫さまの情の(こわ)さに、わたしは腹が立った。

 それを感じ取ったのか、姫はかさついた薄い唇を引き結び、眉間にはさらに深くしわを寄せた。

 前回は絨毯に平伏することしかできなかった。今日とて、うまく歌える気はしない。けれど、もう逃げるわけにはいかない。わたしは大きく深呼吸して、姫のまえに腰を下ろした。


 初心に立ち返って、一つずつ。

 三日前、自室へと戻ったわたしは、ウードは持たずに、一音を一息でできるだけ長く発声した。

 喉を緊張させぬよう、体をこわばらせぬよう、腹から出した声を頭へと抜けていくように思い描いて。

 師匠からおそわったことを、今ひとたびなぞる。

 低い音から、少しずつ高い音へと移っていく。


 焦るな、糸を手繰るように腹から声を出せ。


 師匠は男のままであったけれど、低い音域の豊かさはもちろん、高い声も堂々とした体躯に響かせ歌った。酒場で難しい顔で話し込む男たちも、よく通る歌声に思わず振り向いたものだ。

 拙いながら師匠に合わせてウードを弾き、歌った日々のことを思い出した。粗末な土壁が並ぶ町の片隅。小さな窓に灯りがともる夕暮れ時から、師匠とふたりで酒場や宿屋を巡った。

 男ではなくなった自分は、酒場に集う者たちから奇異な視線を向けられているように感じて、いつもおどおどしていた。体に釣り合わぬ大きなウードを抱え、身を縮めていた。

 そのたびに師匠はわたしに語りかけた。

 怖がることはない、背中を丸めるな、顔を上げろ。

 おまえの声はとてもきれいだ、と。


 怖がるな。

 姫に歌って差しあげるのだ。


 ウードで前奏をつま弾く。ゆっくりと息を吸い、歌い出す。

 緊張から弦を押さえる指が汗ばみ滑りそうになる。焦らずに弾け、大丈夫だ。姫はわずかに顎を引き、わたしから目を離さない。いつもの撥鏤(ばちる)は持たず、中庭を背にしてわたしの正面に座す。


 姫から口づたえに教わった曲、遠い異郷の哀愁を帯びた歌。意味は分からないが、歌うときにはいつも胸が締めつけられるような、郷愁に似た思いに駆られる。

 音律は徐々に高まる。

 天へ、天へとのぼれ。祈るような思いを胸に抱く。


 この部屋に来るまで、幾度練習をしたことか。

 自室の一角に住まうものはみな演奏者とはいえ、夜が更けても歌い続けるわたしの部屋の壁は、隣の太鼓(ダルブッカ)奏者に何度も蹴られた。

 姫さまや侍女の顔色の優れないことばかり気になったが、おそらくわたしも似たようなものだろう。


 曲は最後の高音にさしかかる。力みそうになる肩をつとめて寛がせる。

 高みに昇る(きざはし)を踏み外さぬよう、慎重になりすぎウードの拍子がわずかにずれた。それに気を取られ、高く歌い上げるはずの声は細かくふるえてとぎれた。


 ……失敗だ。

 最後の和音を弾き終わったとき、わたしは奥歯を噛みしめていた。


 室内はまた無音になった。姫は置き物のように動かず、ただわたしを見ていた。逆光の中で、切れ長の瞳ばかりが光って見えた。


「もういちど、お願いします」


 あきらめるわけにはいかない。姫は静かにうなずいた。

 再びウードを抱え直し、わたしはしくじった部分を何度か繰り返した。自室での練習では辛うじて成功していた。けれど、それはあまりに弱弱しく、姫さまの声には遠く及ばない。細くともしなやかに豊かに響けばいいのに。

 呼吸を整え、また頭から歌いなおした。お手本である姫の歌を耳にした時に、思い浮かべる情景をそのまま声にしていく。

 けれど思いとは裏腹に、つまずき、音は外れ、ウードの指先はついて行かず、幾度となく失態を姫のまえで繰り返す。

 気づかわしげに、侍女が控えの間の扉を細く開けて様子を伺っているのが分かった。

 姫はただ座っている。ひたいに下りた髪の一すじも動かさず、まるで人形のように。

 棗椰子の影が短くなった。侍女はわたしと姫を隔てる黒檀の小卓に、そっと水を入れた杯を置いた。貴人の前で水を飲むという無作法に気を回すよゆうもなく、のどを潤し歌い続けた。


 どれほど時が過ぎたのだろう。やがて茜色の光りが部屋に差し始めた。

 これほどやっても、うまく歌えぬ自分が歯がゆかった。もう次で終わりにしよう。一介の楽師が王の妃たるユェジー姫の部屋にいてよい(とき)ではない。

 不甲斐なさに滲んだ悔し涙をうつむきざま、ぞんざいに袖で拭う。

 と、姫がひとつ手を打った。思わず顔を上げると、姫はウードを弾くよう手で示した。

 命じられるままに、ゆったりとした前奏を始めると、姫は歌いだした。

 滑らかな白絹のような声が夕暮れが訪れ始めた部屋に響く。姫はわたしにも歌うよう、さし招くように腕を動かした。それはまるで、舞踏のような雅な仕種だった。

 遅ればせながら、わたしも姫と声を重ねた。

 繰り返しなぞった曲の道しるべ、姫の声はどこまでも伸びやかだった。つられるままに、わたしも同じく歌った。姫はわたしの声と手をとるようにして声を合わせた。

 触れたことのない姫の手のあたたかさを感じた。歌声は姫ご自身だ。豊かな音量、細やかな表現、歌詞の意味は分からないけれど、聴く者の胸に迫る哀切。


 そうか、姫さまはもう二度と故郷の地を踏むことはかなわないのだ。

 遙か遠く、東の果てにある故国を姫は見ることはないのだ。


 高く伸びてゆく梯子にとりつき、遅れまいと姫について行く。高く、高く、天上に手が……。

 不意に手を振りほどくようにして姫は歌を止めた。わたしはそのまま、一気にのぼり詰めた。

 ぱん、と目の前で水がはじけたように感じた。音は反転し、更に高みへと駆け上がり最後の扉が開いた。

 声は信じられないほど高く伸びていった。

 わたしは青空に解き放たれた。

 最後の一節まで、声は外れることがなかった。わたしは、歌い上げた。

 ウードの弦ふるえか、わたしの体がふるえているのか。

 我が両手を見つめた。歌い上げた高い声は自分のものだったのか、それとも疲れが見せた夢幻か。わたしはすぐに歌った。幾度も幾度も。

 声はあやまたず、記憶の中の姫の高音をなぞった。わたしの(まな)うらに美しい草木の模様に織あがった絨毯が見えた気がした。


 頬が熱い。いつの間にかわたしの頬を涙が濡らしていた。

「姫さま……」

 姫さまは、今まで見たこともない笑顔でうなずいた。

 思わず姫の前にひざまずき、ひたいを床につけた。

「ありがとうございます、ありがとうございます。あなた様こそは無上の教え手でございます」

 むせび泣くわたしの背に小さな手が当てられた。

「ちがう」

 ささやくような声だった。

「ちがう、あきらめない、あなた」

 いつものようにたどたどしく、掠れた姫の声はわたしの努力を労わった。

 渡された手巾で顔をぬぐい姫さまにもう一度、平伏する。

「ユェジー姫さま。わたくしの師匠さま……」

 姫はわたしに顔を上げるよう肩に触れた。恐れ多くも、わたしの目の前に姫さまの瞳があった。

「おなじ」

「今なんと……」

「おなじ、なかま」

 姫さまの瞳にも涙が光っていた。

 そのとき、わたしも知った。長い長い旅路の果てに、声を重ね心を重ねる人に出会えたことに。

 夕暮れの朱色の光は部屋に満ち、城門の閉鎖を告げる鐘の音が遠くに聞こえた。





予定のエピソードまで入りきれませんでした。

次回、早めに更新したいと。

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