3 焼き鮭
3 焼き鮭
焼き鮭は皮も含めてクコの好物だが、そのあとの洗い物は大嫌いだった。
晩ご飯の洗い物の前にイヤホンを耳に突っ込んで、先に皿を洗っていく。選曲はロックナンバー。うるさいくらいに鳴らして唄ってほしかった。こういうとき用に編集してあるプレイリストを再生する。
――区のマンションで幼児が虐待されて死んているのが見つかり、警察は両親を……
――中学校で生徒が飛び降りた事件で、遺書が発見されたことから自殺と見て……
クコはテレビが嫌いだ。録画しておいた映画やDVDを見るときくらいしか使わない。小さな頃は消していたが、中学に入る頃には食事の沈黙の間を持たせるためにニュース番組をつけていた。天気予報目当てだが、いやでもほかのニュースも流れる。それにいくらかは知っておかないと学生である以上授業で困ることになる。
それにしたって、とクコはスポンジに力を込めた。
児童虐待。
小中高校生の自殺。
一家心中。
いじめ。
殺人事件。
事実は小説よりも奇なりとはよくいったもんだとクコは思う。小説がどんなに残酷な殺人鬼を描こうとも、人を殺してから捕まるまでのうのうと一般人の振りのできる人間のほうが恐ろしい。
けれど、クコが耳をふさいでしまいたかったのはニュース自体ではなかった。
「ユズ、クッキー食べる?」
「食べる食べるー!」
部室での出来事だった。前日にどうしてか部活に来なかったために渡しそびれたクッキーを、顔を出したユズに渡して、そのまま一緒におやつの時間を過ごしていた。文化部にはポットと日本茶、紅茶のティーバックと、インスタントコーヒーが常備されているのだ。カップはポットと同じでもともとの備品で少しあるが、だいたいは入部したときにマイカップを置いている。たまにお菓子も入っているかごには、お湯を注ぐだけのお茶やらコーヒーを各自が持ち寄っている。
ユズにカフェオレ、自分は紅茶をいれてクコは席に戻る。ありがとー。どいたま。なにそれー? どういたしまして、を略してみました。
くだらない話にけらけらわらう二人は、クラスが違うが同学年だ。
あーおかしい、とユズが落ちた髪を耳にかけるときに、長袖から包帯が見えた。クコの視線に気付いたのだろう、ユズは綺麗にわらって「ゴメンネ」と袖を戻した。そのまま手首に手を当てて、壁にもたれる。
「虐待された子供は親になると虐待するって、よくいうでしょ?」
そうだね、と唐突な言葉にクコは頷く。どんなデータと神経で言ってるのかわかんないけどね。だよねー、反面教師って言葉もあるのに。
「あたしは、叩かれたからって自分の子供叩きたくないな」
「私も。優しいおかあさんじゃなくても、ふつうになれたらなあって思う」
「クコはいいお母さんになるよー……あたしは、さ」
ユズはぷらぷら右手を顔の横で揺らしてみせた。
「コレ、一生残るでしょ? 子供はきっといやだよなあって、最近思うの」
ふわふわのボブに整った華やかな容姿のユズと、肩までの黒髪にすっぴんの物静かなクコ。
そんなふたりが出会ったのは、クコが文化部に入部してしばらくの頃だった。
濡れネズミのユズと部活に行こうとしたクコは廊下で鉢合わせた。大丈夫? と言いかけたクコの言葉は、ぽたぽた水の滴る髪の隙間から思いきり睨まれて宙ぶらりんになった。クコが反対方向へ走っていくと、ユズは足早に教室へ戻っていった。
「……」
鞄がなかった。この分だと靴も危ないかとユズはため息をついた。
そのとき、教室のドアが開いて、クコが「あ、いた」とユズのところに歩いてくる。
「風邪引くよ、ジャージある?」
クコは保健室に走って行って、タオルを借りてきたのだ。クコの学校はブレザーで、名札の色が学年で違う。ユズの名札が自分と同じ色だったので、とりあえずタオルを借りてから教室を見ていけばいいと思ったのだ。しかし、タオルをかけられたユズは黙ったままで拭こうともしない。
とりあえずと自分のジャージを出していると、ぼすっと頭に何かが当たった。ユズにかけたタオルだった。
振り向くと、可愛らしい顔がクコをきつく睨みつけていた。
「同情のつもり?」
母親を思い出しそうな、感情的な顔だなとクコは思った。
「同族嫌悪か、類は友を呼ぶ。どっちがいい?」
だから、クコはそう言った。
上履きを隠され、ゴミ箱に捨てられ、スニーカーを隠され、植木に放り込まれ、教室に戻れば筆箱や持ち物が必ずなくなっていた。教科書は破られ、修正ペンで本文が消され、体操服はゴミ箱に靴跡つきで突っ込まれていた。掃除道具入れに外から鍵をかけて閉じ込められ、トイレに押し込まれて上から水をかけられた。
挙げればきりがないそんなことを、クコは小学生の頃に味わった。
勉強ができたからか、運動もできる優等生だったからか、そこそこ容姿が整っていたからか。
理由は何だったのか、いまでもクコにはわからない。
無視され、遠巻きにいつもわらわれ、挙句担任の教師までクコを何かと呼びつけてクラスメイトの前で叱りつけるようになった。
わかるのは、相手はもうそんなこと覚えてすらいないこと。きっといま顔を合わせれば親しげに話しかけてくるだろう。
いじめって、曖昧すぎる。
クコは、いまも同年代の女の子が怖い。きっとしばらくはこうだと思う。
クコを閉じ込め、教科書を破り、体操服を踏みつけくすくすわらっていたのは、クコと仲良しだと思われていた「ともだち」だったのだから。
声が、媚売ってるって。髪も、顔も、話し方も、男狙いだっていわれた。
ユズはクコのジャージに着替えながらつっけんどんに話した。嫌がらせのテンプレートでもあるのだろうか、持ち物がなくなったり無視に始まり、それはクラスメイトにとどまらず、先輩からも呼び出され、結託した女子にトイレに閉じ込められて水をかけられたのだと言った。
「なんで、女子ってトイレに押し込んで水かけたがるんだろうね」
クコが思わずつぶやくと、ユズがはじめてわらった。吹き出して、お腹をかかえてわらいだした。
「そだね、ワンパターンだよねえ」
クコはユズを文化部に連れて行き、あたたかいお茶を飲ませた。
そのまま、ユズは文化部に入部した。
「あたし、幼稚園の先生になりたいんだ。でも、ピアノ弾けなくて」
それを聞いていたマツが、音楽の先生になりたい部員を連れてきて、ユズは週に何回か練習を見てもらっている。マツと同じ二年の男子部員だが、美人のオネエなので「ものっすごい気が楽!」とユズはわらっていた。おしゃれの話も気が合うらしく、よくガールズトークをしている。
ユズは大きく口を開けてケラケラわらうようになった。
クコはユズのそんな笑顔が好きだった。
「うちさ、兄貴が引きこもっちゃって。期待がぜーんぶあたしにきちゃってさ。なんかもうとにかくがんばらなきゃ! って、可愛くて自慢のお嬢さんになろうとして、期待に応えようとしてたんだ。兄貴はだめだって、失敗した、産まなきゃよかったって両親が話してるの聞いちゃってさ」
マグカップを両手で包んで、ユズはゆるくため息をついた。
「……あたしは、兄貴のこと嫌いじゃなくて。また一緒にゲームしたいなーって、いまでも思うんだけどさ」
死んじゃうんだもん、ずるいよね。
あくまで軽く、薄らわらって言うから、まだ受け止めきれていないのだなとクコは思う。
「きっと、お兄ちゃんも聞いてたんだね」
ユズは一口カフェオレをすすった。
ユズの手首に包帯が見られるようになったのは少し前、ユズの兄が亡くなってからだった。
いじめられてじゃない。
中学半ばから不登校になり、ユズが小学生の頃から自室に引きこもっていた兄が、遺書を残して自殺したのだ。
ときどき、ユズだけはこっそり部屋に入れてくれて、一緒にゲームをしたりもしていた。わらっていたのにとユズは拗ねたように口を尖らせる。
「……わらってたんだよ」
俯くユズに、クコは何も言えなかった。
兄が自殺したことで、ユズの家は壊れてしまった。もうユズがいくら「可愛い自慢のお嬢さん」になったって無駄なのだ。
「あたしがいなくなったほうがよかったのかなって、思ったりもするんだよ」
死なないけどね、と薄く笑うユズが儚くて、クコは何も言えない自分が悔しくて情けなかった。
でも、いま辛いのはユズだ。
クコは紅茶のマグカップを包む手にぎゅっと力を込めた。
「……ユズは、私のともだち?」
ユズは目を丸くして、クコを見る。薄い笑みの消えた、ぽかんとした顔が、ぷふっと吹き出した。
「クコは、あたしのともだちでしょ」
いきなりなんなのーと吹き出してケラケラわらう。大きな口を開けて笑う、クコの好きなユズがいた。
笑い涙を拭って、ユズが呟く。
「ありがと、クコ」
クッキー美味しいや、とまだ溢れて止まらない笑い涙を袖で拭った。
そんなユズの頭をぽんぽん撫でて、クコは紅茶を一口すする。
「どいたま。今度は何食べたい?」