2 きなこのクッキー
2 きなこのクッキー
クッキーを作るときに、始めにバターをクリーム状に練るのがクコは好きだった。といっても、使うのはほとんどマーガリンだったが。砂糖と合わせて、黄色よりのクリーム色したマーガリンが、ふわっと白っぽくなるのが好きだった。最近は油を使うことも多い。レシピをスマートフォンで調べれば何百何千と引っかかる。スマートフォンが欲しかったわけではないけれど、これはこれで便利かなとクコは思う。
「……まあ、ガラケーの方が好きだったけど」
あのアプリは好きじゃないとひとりごちて、溶き卵を流し入れる。バニラエッセンスを数滴、甘い香りを堪能してから混ぜ込んだ。バニラというわりに、舐めたら苦くてとんでもないことをクコは身を持って知っている。ふるった粉を加えて混ぜる。
きな粉を混ぜ込んだ生地を二等分して、片方には擦りゴマの黒ゴマ白ゴマを、もう片方には食べかけのホワイトチョコレートを刻んで混ぜる。ラップに包んで、丸と四角の棒状に形を作って冷凍庫で生地を寝かす。
ボウルと泡立て器を、昼食の食器のつけてある流しへ入れ、ふるいやらを片付ける。
日曜の午後、クコはクッキーを作っていた。相変わらず家にいるのは二人だけ。祖父は畑で土いじりをしている。母は八時前に家を飛び出していった。帰宅は九時とかその辺りだろう。
没頭してしまうと時間が過ぎてしまうからと何度も読んだ本を手に取って、三十分ほどの待ち時間。
クコの手の中では、全くの他人同士がそれこそ「袖振り合うも他生の縁」で一緒に食卓を囲んでわらっている。きっとひとつでも過去の選択が違っていたら、出会いもしなかっただろう。そんな人々が、食べ物でつながり月日を過ごす。その漫画は古本屋で百円で見つけたものだけれど、手放すことはないだろうとクコは思う。クコは音楽も好きだが本が好きで、軽く読めるものを好んでいた。とはいっても、可愛い制服の可愛い女の子や格好いい男の子が表紙を飾るものよりは、童話を愛していた。単純な言葉で綴られる物語は、善人も悪人もいる。人間でないものもいる。それでも、細かい設定なんていらない素朴な物語がクコは好きだった。あとはゆるい漫画、熱血や恋愛ものはしっくりこないのだ。
クッキーが焼きあがったらまた図書館に行こうかと考えつつ、手の中に広がる幸せそうな食卓に目を落とす。
家族でさえ、うまく共同生活が送れるかわからない。それなら、他人となんてうまくいくはずがない。
そんなクコの考えを、いい意味で砕いてくれたのがこの漫画だった。
家族だって、よく似た他人で、だから他の人とならうまく付き合えるかもしれない。――そんな趣旨の物語ではないと、クコはわかっていたが、それでも、幸せそうにご飯を食べる彼らに救われたのも事実だった。
諦めていた、自分の家族。
いつか、誰かと築けるだろうか。
冷戦さながらの家庭内別居の食卓しか知らない自分でも――いつか、きっと?
「……あ」
気付けば一冊読み終えて、四十五分経過。
まあ最低三十分だからいいか、と冷凍庫から生地を取り出して、包丁で切っていく。ゴマのはよかったけれど、ホワイトチョコレートのほうは切るたび包丁にあたって形が少し崩れる。あとで整えようと切るだけ切って、オーブンの余熱を開始。天板に並んだのはゴマの分だけだったので、ホワイトチョコレートの崩れた生地を手で四角く直しているとアラームが余熱を終えたことを知らせた。はいはい、と天板を突っ込んで、スタートボタンを押す。
形を四角に直し終えて、オーブンを覗く。きつね色の光に包まれるクッキー、あたたかい香りが部屋中に広がるこの時間がクコは好きだった。廊下につながる台所の扉を、すぐ隣の階段を登って二階まで届くように開く。
焼き上がりを告げるアラームが鳴って、ミトンを着けてオーブンから手早く天板を取り出す。焼き色がもう少し欲しいかなあ、と五分追加して様子を見る。焼きあがったそれにクコは満足そうに頷いて、今度はホワイトチョコレートのクッキーを焼く。
「マツ先輩と、……ユズも、食べるかなあ」
オーブンの前に膝立ちになって、つきっきりで見守りながらクコは呟いた。
「あ、そうだ」
百均のラッピングも捨てたもんじゃないと、クコはクッキーを詰めたカントリーらしい素朴な柄の袋を見て思う。ちょうどクコの手の大きさくらいのビニール製の袋は金色のモールで封をしてある。二回ねじって、両方の余りをくるんとリボンのように巻いてみたのだが、よくできているんじゃないかなとクコは思っている。
教室でのクコはにこやかで人当たりもいいけれど、静かだ。
女子にありがちなグループの、どこにも属さないわけではない。親しくしているクラスメイトはいるが、少し距離を取っている。
クコは、誰にでもそんなところがあった。クコ自身も自覚している。
放課後になり、クコはクラスメイトに手を振り部室に向かう。
扉を開けると、後ろの空いたスペースを使って天井に届くくらいの大きな絵を描いているグループがすでに作業を始めていた。ボリュームを落とした電子ピアノがねこを踏んでいて、その姿を収めるカメラのシャッター音が時折重なる。
そんなごたまぜな空間の、窓際の机でマツは寝ていた。
クコはとりあえずその前の椅子に座って、クッキーの袋を鞄から取り出す。突っ伏す頭の横に多めに詰めてある袋をそっと置いて、寝顔を眺める。無造作に伸びた髪はわざとではなく、髪を切るお金なんてもらえないからだとクコは知っている。
色素の薄い、日に当たると金色にも見える髪から覗く頬に、また新しいアザ。
クコがマツになついたのは、入学してしばらくのことだった。
部活は何にしようかと校内をうろついて時間を潰していたクコは、廊下の先に人がうずくまっているのを見つけて慌てて駆け寄った。大丈夫ですか? 誰か呼んできましょうか? ……ん、あ。うん?
後にも先にも、マツがあんなに無防備にクコを見上げたのはその一度きりだ。俯いていた頭がことんと揺れて、しばらく唸ると意識がはっきりしたのか、真正面からマツはクコを見上げた。
頬にかかった髪も長い前髪もさらりと滑り落ちて、頬のアザも、まぶたと唇の切り傷も、濃いクマも露わになる。
ようやくクコに気付いたらしいマツは、にやっとわらった。変わらない、ここからは立ち入るなという意味の鋭い笑み。クコは鞄から絆創膏を取り出すと差し出した。消毒するなら保健室ですけど、場所がわからないのでとりあえずこれ貼っといてください。へ? 私一年なのでまだ校内の場所ってわからないんです。いや、そうじゃなくてさ。え?
首を傾げるクコに、マツは戸惑いを隠せないらしかった。
同じくらい、クコも困っていた。にこにこしながら困っていた。
そんなクコに、マツはふらふらと立ち上がって言ったのだ。部活は決めた? え? いえ、まだですけど…… アテは? とくには……? そ。じゃあ一緒においで。え?
――おれはマツ。二年ね。文化部ってのがおれの寝床なのな。とりあえず来てみ?
そのまま流れるように文化交流部に連れてこられて、倒れるように爆睡するマツの隣の机で入部届けを書いて、そのまま入部。それ以来、クコはマツの近くにいる。
付き合ってるの? とよく聞かれるけれど、クコとマツは恋人ではない。
クコにはいまいち恋心というものがよくわからない。そもそも「心」自体、クコにはよくわからなかった。
あのとき、マツの顔や身体に散らばる明らかな暴力の痕を見ても、クコは痛そうだなあと思っただけだった。
飼っていた小鳥が死んで、かわいそうで埋められないという母親の代わりに小鳥を埋葬するのはクコだった。おつかれさま、とは思っても、かわいそうだとは、クコにはどうしても思えず、淡々と冷たくなった身体に土をかけて埋めた。それは人間でも同じで、可愛がってくれた親戚の葬式でも、ぼんやりと泣き崩れる人々を見ていた。なんで泣けるんだろう、なにがかなしいんだろうと思いながら。
おかしいのかもしれないな、とクコは思う。
こんなふうで、家族なんて作れるのかなあと。
そもそも、私は誰かを愛せるのかな、と。
「ん、んん……」
考え込んでぼうっとしていると、と突っ伏したままで大きなあくびと伸びをしながらマツが目を覚ました。おお? クコちゃん? おはようございます、マツ先輩。うん、おはよー……お?
かたわらの袋を見つけて、身体を起こす。
「どうぞ。きなことゴマ、きなことホワイトチョコのクッキーです」
「うっわ、さんきゅー。食べていい?」
「どうぞー、それと、これも」
「ん?」
さっそく口に放り込んで「うま!」と目を細めていたマツは首を傾げた。クコが鞄からがさごそと差し出したのは大きめの紙袋だった。開けてもいい? ……あんまり期待しないでくださいね。だってクコちゃんのお菓子うめーべ。
「お、パン?」
「そうです、かぼちゃとレーズンのパン」
袋に入っていたのは、優しいオレンジ色のまあるいパンが六つだった。オレンジ色から所々レーズンが覗く、クコの手のひらくらいの大きくはない丸いパン。
「クコちゃん、パンも作れんの?」
「いや、パンは初めて作ったんです。少し小さくなっちゃいましたけど」
「ええ、すげーべ。食べていい?」
頷くクコの前でぱくつく。うんまー! クコちゃんすげーな、うまいべこれ。それならよかったです。
「パンなら、マツ先輩のお腹の足しになるんじゃないかなと思って」
クッキーを作ってから、クコは思ったのだ。量が多いほうがいいのなら、お腹の足しになるものでなにか作れないだろうかと。そして、前々から作ってみたかったパンに手を出してみたのだ。ホームベーカリーに生地作りは手伝ってもらったけれど。
マツはクコの言葉にきょとんとして、わらった。いつもより柔らかい笑みだった。
「クコちゃんは、やさしーのな」
今度はクコがきょとんとする番だった。優しい、ですかね? やさしーよ。
「クコちゃんは、ずっとやさしーよ」
クコは知らないけれど、マツは絆創膏を差し出してくれたクコに救われていた。
明らかな暴力の痕を見ても、気味悪がらず、わらわず、かといって助けようともしないで、ただ近くにいて、ふつうに話をしてくれるクコ。人間扱いされないのも、奇異な目も、気遣っているのかわからない遠巻きのひそひそ話も、とっくに慣れたと思ったのに、やっぱり嬉しかったのだ。
怪我をしたら痛いでしょう? そのクコの一言が。
どこか抜け落ちたような、泣きそうな迷子みたいなくせに、にこにこわらうクコに救われていたのはマツの方。
「やさしくなれたら、いいんですけどね」
困ったようにわらうクコを、マツは長い前髪で隠れた優しいまなざしで見つめていた。