第9話 A butterfly led me -Francis-
ボンネットの彼女との出会いから約2週間。
その後も森へ何度か足を運んだけれど、それきりあの娘と会うことはなかった。
「恋でもしたのか」
家族そろっての晩餐の席でそう訊いてきたのは父だった。
通りでさっきから両親の生温かい視線がこっちに送られてたのか……。
「ここ最近、暇さえあればナヴァラの森へ出掛けているそうじゃないか」
「それがどうして恋だと?」
「決まってる。男が同じ場所へ何度も赴くのは、“女”がそこにいるからだ」
父が得意げにそう断定すると、母まで「まあ~」なんて笑って浮かれていた。こうなると、兄や姉も黙っているはずはない。
「わたくし、あまりにあなたが女っ気がないものだからちょっと心配していたのよ。でも安心したわ」と姉さんが言えば、
「とうとうフランシスにも春が来たんだな。どんな娘だ? まさか人妻じゃないだろうな」とワインを片手に冗談ぽく言う兄。
これじゃあ、せっかくの料理がどんどん不味く感じてしまうじゃないか。
「女というのは当たってるよ。でも意味が違う」僕はナイフとフォークを置いた。
「見たこともないような珍しいチョウと遭遇したときと同じなんだ。そのチョウが見たくて何度も森へ通いつめるような」
「好奇心?」母が訊く。
「まあね。出会ったのは僕と同い年くらいの女の子なんだけれど、これがなかなか面白そうな娘なんだ」
「……」
それっきり彼らはもう何も言わなかったけれど、何か意味深な目配せを送り合っていたのは知っていた。
でも誰が何を言ってもべつに良いさ。
僕はきっとあの娘と友達になりたいだけなんだから。
◇
それからさらに数日後、今日も僕はスケッチブックを持って森へ来ていた。
もうこの頃には彼女とは友達としての縁はなかったのだと思い始め、あの日の出会いは既に良い思い出として心に仕舞われようとしていた。
でも結局のところ、もしも今、彼女が森に来ていたらとそんな心配をして、気付けば出かける準備をしている。結果がこの有様さ。意外と僕って諦めの悪い奴なんだなあ……。
すっかり歩き慣れた道を進んで行きながら、もしまたあの娘と会えたらまず何を話そうかと考える。
自己紹介をして、その後は? チョウの話をしてもきっとつまらないだろうな。
叶うかも分からない願望を頭に描きながら歩いて行くと、ふと花の蜜を吸う1匹のチョウが目に留まった。あれは……ツマキチョウじゃないか!
まだ絵でしか見たことのないツマキチョウが今自分の目の前にいる。興奮で胸が高鳴るが、僕は一気に沸きあがるその波をどうにか内に留めようとした。
春にしか見られないらしいからこれは貴重だ。翅の先端が橙色ということは、あのチョウは雄だ。
もっと近くで見たい。僕はそんな欲求に素直に従った。
息を止めながらゆっくり、ゆっくり、そーっと……
しかしそんな僕を嘲笑うかのように、ツマキチョウはあっけなく飛び立ってしまった。
優雅に翅をはためかせながら森の奥へと進んで行くのを見て、僕も咄嗟にその後を追った。
小走りで、決して見失わないようにするのに必死だった。
こんなに自分が必死なのは、きっとあの女の子のせいだ。2度と会えないかもしれない。そんな気持ちを味わうのはもう御免だった。
ツマキチョウが向かっている先には、あの草原がある。
のどかな町が遠くの方に臨める気持ちの良い草原。そしてそこにはやっぱり彼女はいなくて、僕は何度目かの溜息をつくんだろう。
もしかてこれは、ツマキチョウからのメッセージなのだろうか。“ほら、やっぱりあの娘はここへは来やしないんだから、さっさと諦めろよ”という。
そんな感傷的な気分を吹き飛ばすかのように、僕はつい大股でぐんぐんと勢い良く森を突っ切ろうとしてしまった。そこが足場の悪い所だとは気付かずに。
「うわぁ!」
案の定、すぐに足がもつれて僕は不様にも見事に転んでしまった。
咄嗟に突いた手がジンジンと痛い。膝も少し擦り剥いたようだ。
でも、なぜかとても可笑しい。だってあの時の彼女と全く同じだったから。
ボンネットを追いかける彼女が転んで、僕は彼女のところへ駆け寄って「大丈夫?」って声をかけたんだ。
「……大丈夫ですか?」
そうそう、こんな風に……え?
急いで見上げると、そこに居たのはまぎれもなく待ち侘びていた彼女だった。
今日もボンネットを被り、あの青色のくりくりとして瞳でこちらを見つめている。
僕は慌てて立ち上がり、手のひらや服についた土を掃った。
こんなことって、あるんだろうか!
「この前とは逆ですね」
目の前の彼女はそう言ってふわりと笑った。
「よくここへピクニックに来るんですけど、今日はたまたま散歩に。そしたら貴方が見えて……」
派手に転んだ自分の姿を思い出し、急に羞恥心で体が熱くなった。
堪らずに「僕を覚えている?」と訊くと「もちろんです」と頷いてくれた。あの日の事が脳裏に鮮やかに蘇ってくる。
「あの、名前を訊いても?」
「はい、私はフィリル男爵家の娘、マーガレット・レイモンドと申します」恭しく膝を折って会釈する彼女。
「僕はフランシス・ダーリング。よろしく」
「まあ、クレヴィング伯爵のご子息だったのですね。私ったら失礼なことを……」
「いいんだそんなこと。それより、また君と会えないかとずっと思ってたんだ。君との出会いはあまりにも印象的だったからね」
「……っ」
思ったことをそのまま言うと、マーガレットはなぜか頬っぺたを赤くして口を噤んでしまった。もしかして、何か彼女の気に障るようなことを口走ってしまったのだろうか。
「あの……もしかして迷惑だった?」
途端に不安になってそう尋ねると
「いいえ! 滅相もありません! 私もいつかまたお目にかかれたらと」
「そう? よかった」
首をブンブンと横に振るマーガレットを見て僕は胸を撫で下ろした。
さて、あとは何を話そうか。