第1話 In the Darling’s morning -Emile-
19世紀のイギリスをイメージしていますが、あくまでイギリス「風」ですので、細かい部分についてのご指摘はご容赦下さいませ。
最後までお付き合いいただけたら幸いです。それでは、どうぞ!
「ほら、もう起きないと」
「もう少しだけ」
「駄目よ。ああ、そんなところ触らないで」
「ずっとこうして君を抱きしめていたいのさ」
「んもう、ウィリアムったら」
はいはい、さっさと起きて下さいねー。あなたがたの所為で朝食がいつも遅れるんですから。
私は眼を細めてこの光景を何ともなしに傍観していた。
屋敷の主の寝室で、毎朝延々と繰り返される甘い睦言。いい歳した夫婦がいつまでもベッドの中でいちゃいちゃいちゃいちゃ。限度という文字は彼らの頭には存在しないらしい。
西部にある都市、クレヴィング。
この地の領主第5代クレヴィング伯爵のウィリアム・ダーリング様はそれはそれは高貴なお方なのだが、その実態は愛妻家ならぬ変態夫とでも言うべきであろうか。
「レイチェル、着替えは私が手伝おう」
「恥ずかしいわ……」
「この朝日の下で、私を虜にする君の肌を堪能したい。そしてもう一度君の身体の隅々にまでキスをしてからでないと私の一日は始まらないのだよ」
匂い立つ色気と共に朝から妻を押し倒す夫。お分かりだろうか? 変態夫たる所以を。
妻を溺愛しすぎて妻を愛でる事に至上の悦びを感じて止まない伯爵は、常人には理解しがたい行動に出る事もしばしば……。
とはいえ、伯爵の名にふさわしい政治手腕を持ち、その親しみやすい人柄と美しい容姿も相まって領民からの尊敬を集めている。
奥方のレイチェル様もそんな旦那様へ少女のような恋心をいつまでも抱き続け、ウィリアム様からの重すぎる愛を一身に受け止めているのだ。
くあああ……。
はあ、この夫婦を眺めていれば欠伸も止まらない。そろそろ次へ行こうか。
大階段を堂々と通過し2階へ。ここにはダーリング家のご息女たちの部屋がある。
「あー、頭痛い……」
おや、扉の隙間から見えるのは、勢い良く洗面器に顔を突っ込むご長男のステファン様。今朝も朝帰りだったのか動作が緩慢で気だるげだ。
「あれ、居たのか」
扉の前で佇む私に気付いたステファン様は、そっと私の身体を持ち上げた。
「おはよう」と掠れた声で囁きながら頬を擦り寄せてきたのだが、どうにもこうにも酒臭く、私は身を捩って彼の腕からすり抜けた。
私の嗅覚を舐めてもらっては困る。酒だけじゃなく、女の甘い香りもプンプンするのだから。
お父様譲りの魅惑的な碧の瞳で、一体何人の貴婦人たちを落としてきたのか。毎晩のように遊び歩いては恋愛遊戯を賞味して社交界に浮名を流す彼。その上どこか自尊心が強い。
ご両親様はステファン様の跡継ぎとしての資質を見抜いているらしいが、私にはどうも未来のクレヴィング伯爵としての自覚が足りないように見えてならない。
真実の愛だけがステファン様を変える事ができるのだろうか……。
ベッドに倒れ込むステファン様を尻目に私は部屋を後にした。
廊下に出ると、既に身支度を終えたエイプリル様と出くわした。
「まあエミール、あなたはいつも早起きね」
私と目が合った瞬間、エイプリル様は太陽の如き笑顔を湛えながら私の首元を撫でて下さった。気持ち良過ぎてまたもうひと眠りしてしまいそうだ。
「今日はね、お友達とお芝居を観に行くのよ。もちろんお芝居も楽しみだけど……今日こそ素敵な男性と出会えないかしら?」
そんな切なそうな顔で私に訊かれても困りますよ。占い師じゃないんで。
エイプリル様は今年で18歳。しかし未だに“運命の王子様”とやらを追い求めて止まない夢見る乙女なのだ。
エイプリル様とて美貌と教養を兼ねそろえた方、言い寄る紳士は数知れず。しかし莫大な資産を持っていようと、甘いマスクで愛を囁かれようと、彼女の御眼鏡に適う男はまだ現れていない。
それもこれも、今や世の女性たちを魅了して止まない超売れっ子恋愛小説家、ジュリアン・ハワードの作品にのめり込んでいる所為でもある。元々空想好きだったお嬢様にさらに拍車をかけ、めくるめく激しい妄想へと駆り立てた犯人だ。
エイプリル様の幸せを願う身としては頭痛を覚えるのだが。
「そうだ、あの子を起こしに行かなきゃ。あなたも一緒に来る?」
どこへ? と思いつつ先を歩くお嬢様の後を付いて行くと、そこは弟君のフランシス様の部屋だった。
彼女がノックをして扉を開けると、まだ寝間着姿のまま、ある物を恍惚とした瞳で見つめていたフランシス様が。
「おはようフランシス」
「おはよう姉さん。どうしたの?」
「あなたはいっつもソレを眺めてる所為で身支度が遅れるから、様子を見に来たのよ」
“ソレ”とは、フランシス様お気に入りの“チョウ”たちの標本だ。
年頃にも関わらず、女性よりもチョウにしか眼中にない方で、朝っぱらからその美しさに魅入っては時を忘れてしまう始末。
幼子のように純粋で無邪気なフランシス様はチョウに対して溢れんばかりの愛情を注ぎ、自分は絶対にチョウの生まれ変わりなのだと3日に1回はそう主張して周りを辟易させている。
「昨日は歴史の授業を抜け出して、勝手に外へ出て行ったんですって?」
「だって……あの教師の授業って退屈なんだもん。本に書いてある事しか喋らないんだから」
その逃亡劇の一部始終は私も密かに目撃していたのだが、おそらくチョウの幼虫を捜しにでも行っていたのだろう。来年は名門寄宿学校に入学するというのに、先が思いやられる……。
私は溜め息を吐き、フランシス様の部屋を出た。
さあて、ダーリング家の面々が朝食のテーブルに集まるのにはまだ時間が掛かりそうなので、一足先に私は腹ごしらえと行こう。
え? その前にお前は誰だって?
このダーリング家にやって来て早7年。元は他の貴族で飼われていた子猫だったらしいが、私にそんな記憶は残っていない。私が自分の家だと思うのはここだけ。
グレイの短毛にグリーンの瞳、そしてこのスレンダーなボディ。身のこなしは何時いかなる時も優雅さを失わず、紳士そのもの。それが私、エミールなのだよ諸君。