『代わりはいくらでもいる』と言われたので本当に辞めたら、四日で無能上司の嘘が全部バレました
「相沢さんって、文句言わないから便利なんですよね」
白石主任がそう言ったのは、月曜の朝の定例会議だった。十二人が座る会議室で、全員の前で。
大型取引先・丸藤食品向けの特集ページに誤表記が見つかり、先方から朝一番でクレームが入った。会議室には営業部全員と、部長の三浦さんもいる。
原因は明白だった。先週金曜の夕方、白石主任が「俺の判断で差し替える」と言って、すでにチェック済みだった原稿データを勝手に上書きした。
私はその場にいたし、「確認を通してからの方が——」と言いかけた。遮られた。
「細かいことはいいから。判断は俺がする」
それなのに今、白石主任は腕を組んで、まるで被害者のような顔をしていた。
「相沢さんさあ、君の仕事って、黙って言われた通りにやるだけでしょ?」
白石主任はわざとらしくため息をついた。全員が見ている前で。
「それで確認漏れって、何が残るの? ねえ。チェックだけが取り柄なんだからさ、それすらできないなら、マジで何のためにいるの?」
会議室が凍った。
新人の佐伯くんが俯いた。営業の田中さんはボールペンを回す手を止めたけど、目を合わせてはくれなかった。倉庫の美緒さんはオンラインで繋がっていたはずだけど、画面の向こうは沈黙していた。
誰も、何も言わない。
言い返したかった。金曜にデータを勝手に差し替えたのはあなたですと、そう言いたかった。口を開きかけた。
「あ、言い訳はいいから。原因は結果で分かるから」
白石主任は手のひらをこちらに向けて、物理的に遮った。まるで子供の駄々をあしらうみたいに。
口が閉じた。声が、喉の奥に戻っていった。
私は金曜の夜のことを思い出していた。白石主任が差し替えたデータの整合性が気になって、退勤後に二時間かけて周辺の数値を修正した。もう終電ギリギリだった。それでも拾いきれなかった一箇所が、今朝のクレームになっている。
二時間かけて尻拭いした側が、全員の前で無能扱いされている。
「まあ、私の監督不足でもあるんですがね」
白石主任は部長に向かってそう言い、眉を下げてみせた。反省しているけれど部下を見捨てはしない、面倒見の良い上司——そういうポーズ。この人はこれが上手い。上への媚び方だけは天才的だった。
部長の三浦さんは小さく頷いた。
「白石くん、フォロー頼むよ」
私のことは見なかった。十二人、誰一人。
会議が終わり、席に戻ると、デスクの上には朝の間に溜まった伝言メモが五枚。取引先二件、社内連絡一件、クレーム一次対応の折り返し依頼が二件。全部、私宛。
白石主任はもう自席でコーヒーを飲んでいた。あの会議のことなど、もう忘れたような顔で。
◇
食品系の通販会社で事務をしている。従業員は三十人ほど。小さな会社だ。
私の肩書きは「営業事務」だけど、やっていることは事務の範囲をとっくに超えていた。
受注と出荷の橋渡し。取引先ごとに違う納品ルールの管理。白石主任が営業先で適当に約束してきた条件の火消し。クレームの一次切り分けと対応履歴の記録。誰も文書化しなかった業務手順の整備。新人が来れば業務説明。季節キャンペーンの資料作成。
白石主任の名前で出ている提案書のうち、半分以上は私が叩き台を作っている。
でも表に出るのはいつも白石主任の名前で、ミスが起これば矢面に立つのは私だった。
昼休み。フロアの電話が鳴る。白石主任は席にいるけど取らない。営業の田中さんも出ない。佐伯くんはまだ電話対応に慣れていない。
三コール目で、私が受話器を取る。弁当の蓋は開けたまま。
「お電話ありがとうございます、丸川食品販売——」
取引先からの在庫確認だった。対応して、メモを書いて、白石主任のデスクに置く。主任はスマホを見ながら片手でメモを受け取り、こちらを見もしなかった。
席に戻ると、弁当は冷めていた。
夕方。定時の十五分前。白石主任が私のデスクに書類を落とした。
「これ今日中ね。得意先に明日の朝イチで送るから」
A4で八ページの比較表。数値の更新と体裁の修正。十五分でできる量ではない。
「明日の午前では——」
「朝イチって言ったでしょ。聞いてた?」
白石主任はもう歩き出していた。定時きっかりに帰るのは、いつもこの人の方だ。
翌日。白石主任が得意先に送った比較表は、当然、私が作ったものだった。先方から「分かりやすい」と好評だったらしい。白石主任はCCに入っていた私のアドレスを外して、お礼メールに一人で返信していた。
「白石主任の資料、評判いいみたいですね」
通りがかりの佐伯くんが言った。悪気はない。
「ああ、まあね」
白石主任は笑った。
私はパソコンの画面を見たまま、何も言わなかった。
別の日。取引先からクレーム電話が入った。配送遅延の問い合わせで、先方はかなり怒っていた。原因を辿ると、白石主任が先方に「最短で翌日届けます」と営業トークで約束していたのに、実際の出荷リードタイムは三営業日だった。
私は一時間かけて先方に事情を説明し、代替案を提示し、なんとか納得してもらった。受話器を置いた時には手が少し震えていた。
翌日の日報で、白石主任はその案件についてこう書いていた。
「クレーム案件、私が対応し収束済み」
佐伯くんが横から日報を覗き見て、不思議そうな顔をしていた。でも何も言わなかった。入社三か月の新人に、言えるわけがない。
また別の日。新人教育の一環で、佐伯くんに受発注システムの操作を教えていた時のこと。白石主任が通りかかって、佐伯くんの肩を叩いた。
「佐伯、相沢さんは言われたことだけやってればいい人だから、仕事の考え方とかは俺に聞けよ」
そして私の方を見て、笑いながら付け加えた。
「ね? 相沢さんもそう思うでしょ。自分でも分かってるよね、そのへん」
同意を求められた。自分を侮辱する言葉に、笑顔で頷けと。
佐伯くんは目を泳がせていた。私は画面を指したまま、何も言えなかった。
恥ずかしかった。怒りより先に、恥ずかしさが来た。そしてそれに反論する気力すら湧かないことが、何より辛かった。
こういうことが、毎週のようにあった。
一つひとつは些細に見えるかもしれない。でも些細なことが三年も四年も積み重なると、人はだんだん、自分が何のためにここにいるのか分からなくなる。
◇
限界は、ある日突然ではなく、静かに積もっていた。
母が定期検査を受ける日だった。去年見つかった腫瘍のフォローアップで、遠方の大学病院まで行かなければならない。検査結果次第では、その場で追加の処置が必要になる可能性もあった。母は一人で行けると言い張ったけど、前回は検査後にめまいで動けなくなっている。付き添いは必要だった。
二週間前に有給休暇を申請した。上長欄の三浦部長の承認印も押されている。万全を期して、当日の業務の段取りも組んでおいた。
その申請を、白石主任が勝手に取り消していた。
「え、来週の金曜、有休入れてたんですけど——」
「ああ、あれ外しといた」
白石主任はパソコンから目を離さずに言った。片手でマウスを動かしながら。
「棚卸しの週に事務が一人抜けるって、考えたら分かるでしょ」
「棚卸しの集計は翌週の月曜ですが——」
「その前に準備があるんだよ。いちいち言わないと分かんないの?」
準備なんかない。棚卸し作業は倉庫チームの仕事で、事務が関わるのは翌週月曜の集計だけだ。金曜に私がいなくても何一つ困らない。
白石主任はそれを知っている。知っていて、潰している。
「母の検査なんです。去年の腫瘍の——」
「あのさ」
白石主任がようやくこちらを向いた。心底うんざりしたような顔で。
「家庭の事情を職場に持ち込むの、やめてくんない? みんな忙しいんだからさ。こっちは仕事してんだよ。親の病院くらい、他の家族に頼めないわけ?」
親の病院くらい。
くらい。
腫瘍のフォローアップを、くらい。
「それとも何? 事務が一人休むぐらい、大したことないとでも思ってんの? だとしたらそれ、普段の君の仕事がいかに大したことないかって証明してるようなもんだけど」
結局、母の付き添いは姉に頼んだ。姉は「いいよ、任せて。あんたは気にしないで」と言ってくれた。でも姉だって仕事を休まなければならない。姉の職場にも、姉の事情がある。
母にはLINEで「ごめん、仕事どうしても抜けられなくなった」と送った。母は「大丈夫だよ、一人で行けるから」と返してきた。前回めまいで動けなくなった人が、大丈夫だよ、と打っている。
スマホを閉じた時、手が震えていた。怒りなのか、情けなさなのか、自分でも分からなかった。
そして金曜の朝。出勤した私に、白石主任は開口一番こう言った。
「で? 機嫌悪いの? 家のこと引きずってるなら顔に出さないでくれる? 周りに迷惑だから」
私は何も言わなかった。自分のデスクに座って、パソコンを立ち上げた。メールが三十二件。うち十四件が白石主任がCCに入れずに受けたまま放置していた案件の催促だった。一件ずつ、処理を始めた。母の検査の時間が近づいていた。画面の右下の時計が気になった。でもここにいるしかない。
昼前、白石主任がフロアを横切りながら言った。独り言のような、でも確実に私に聞こえる声量で、確実に私に向けて。
「代わりなんかいくらでもいるんだけどね、事務なんて。いなくなっても誰も困んないよ」
その瞬間、何かが切れた——というより、何かが静かに外れた。
怒りでもなかった。悲しみでもなかった。
ああ、もういいんだ、と思った。
もうここで頑張る理由がない。
不思議と、その瞬間は穏やかだった。長い長い綱引きで、ようやく手を放すことを自分に許した感覚に似ていた。
◇
午後の業務を一通り片付けてから、私は自分のデスクの周りを見回した。
個人の持ち物はほとんどない。マグカップと、引き出しのハンドクリームと、ロッカーのカーディガン。それくらいだった。五年間いて、このデスクに私の痕跡はほとんどなかった。
考えてみれば、私はずっとこの場所に「置かれていた」だけだったのかもしれない。自分からここに根を張った覚えはない。
夕方、総務の鶴田さんに退職届を出した。鶴田さんは少し驚いた顔をしたけれど、何も聞かなかった。ただ「体調は大丈夫ですか」とだけ聞いてくれた。鶴田さんは色々と察していたのかもしれない。
有休が二十三日残っていた。使ったことがほとんどなかったから。
最終出勤日は翌週金曜。そこから有休消化に入る。
白石主任は翌日、私が退職届を出したことを知ったらしい。廊下ですれ違った時、鼻で笑うように言った。
「え、辞めんの? まあ、別にいいけど。正直、そんなに困らないと思うよ。事務なんか誰でもできるし」
いつもならここで黙って頭を下げるだけだった。五年間、ずっとそうしてきた。
でもこの日は違った。もうここに残る理由がない人間は、怖いものがない。
「そうですか。よかったです」
白石主任が一瞬、きょとんとした。
「私がいなくても回るなら、安心して辞められます。代わりの方に、よろしくお願いします」
笑顔でもなく、怒りでもなく、ただ事実を確認するような声で言った。
白石主任の表情が固まった。言い返そうとして、口が動いて、でも何も出てこなかった。たぶん、初めてだったのだと思う。いつも黙って従う人間が、その言葉を額面通りに受け取って、本当にいなくなるということ。
白石主任は「ああ、うん」とだけ言って、足早に自席に戻った。その背中が、少しだけ小さく見えた。
残りの日々で、私は引き継ぎ資料を作った。
業務手順書。対応履歴一覧。取引先ごとの注意事項リスト。共有フォルダの整理。季節キャンペーンの年間スケジュール。クレーム対応の判断基準メモ。白石主任が把握していないであろうことを、全部まとめた。
三十ページ以上になった。
これは白石主任のためではない。残る人たちが困らないように。佐伯くんや、次に入る誰かが、私と同じ思いをしないように。
最終日の朝、白石主任は私が辞めることを知っていたはずなのに、何も言わなかった。昼過ぎ、佐伯くんが「相沢さん、本当に辞めちゃうんですか」とおずおずと聞いてきた。
「うん。お世話になりました」
「あの……僕、何もできなくてすみません」
「気にしないで。佐伯くんは何も悪くないよ」
定時になった。
私は社用スマホと、共有ロッカーの鍵と、セキュリティカードをデスクに置いた。引き継ぎ資料の保存先を書いたメモも添えた。パソコンはログアウト済み。
白石主任は取引先との電話中だった。こちらを見なかった。
帰り際、私は白石主任のデスクの方を一度だけ見た。別に何か言いたかったわけではない。ただ、五年間そこにいた風景を、最後に確認しただけだった。
ビルを出ると、六月の風がぬるかった。駅までの道を歩きながら、涙が出るかと思ったけれど、出なかった。
代わりに、長く息を吐いた。身体が少しだけ軽くなった気がした。
◇
私が最終出勤を終えた翌週の月曜日から、職場は壊れ始めたらしい。
それを教えてくれたのは、倉庫の美緒さんだった。有休消化に入って三日目の水曜、LINEが来た。
『真琴さん、大丈夫? ゆっくりしてる?』
『うん、ありがとう。のんびりしてるよ』
『よかった。——こっちは大変なことになってるけど』
美緒さんの話を要約すると、こうだった。
月曜。白石主任が取引先の電話を自分で取らなければならなくなり、丸藤食品の納品ルールを把握しておらず十秒間固まった。折り返しを忘れて二次クレーム。火曜。私が毎週入れていたキャンペーン校正のリマインドが消え、締切を落とした。旧価格のまま刷り上がった販促物の刷り直し費用、二十万円超。水曜。出荷指示の商品コードを間違え、三十箱分のやり直し。
たった三日で三件の事故。私がいた頃は、一件も起きていなかった。
『白石主任、何て?』
『「前の事務がちゃんと仕組みを作ってなかったせいだ」だって。うちのスタッフ、全員呆れてた』
そして木曜。ここからが本番だった。
部長の三浦さんが月次の定例報告を確認する日。白石主任が毎月出していた営業レポートの数値が更新されていない。
三浦さんが聞いた。
「この数値の根拠は?」
白石主任は答えられなかった。ファイルの保存場所すら知らなかった。
三浦部長は過去半年分の営業報告と、実際の対応記録を照合し始めた。白石主任が「自分が対応した」と報告していた案件の大半が、私の名前で記録されていた。
美緒さんが送ってきたのは、その後の会議室でのやりとりだった。佐伯くんからの又聞き。
三浦部長。
「引き継ぎ資料は?」
白石主任。
「相沢がまともな引き継ぎをしないまま辞めたんですよ。あの子、最後まで無責任でしたね」
佐伯くん、手を挙げた。
「あの、共有フォルダに三十ページ以上の手順書があります。保存先のメモも、白石主任のデスクに置いてありました」
会議室、沈黙。
三浦部長。
「君はそれを見てないのか」
白石主任。——何も言えなかった。
『佐伯くんが言うには、白石主任、顔真っ白だったって。口パクパクして、金魚みたいだったって。あの白石が、一言も言い返せなかったんだよ? 真琴さん、五年間黙って支えてた結果がこれ。たった四日で化けの皮が全部剥がれたの』
三浦部長は会議の後、自席で「なぜもっと早く気づけなかったのか」と呟いていたらしい。この人も、無傷ではいられなかった。
『対応履歴も全部残ってたから、白石主任が「俺が抑えた」って報告してた案件、ほとんど真琴さんの対応だって筒抜けになったよ。虚偽報告のオンパレード』
佐伯くんも三浦部長に呼ばれて、入社以来見てきたことを全部話したらしい。会議室での公開処刑。新人の前での侮辱。有休の取り消し。
さらに人事が過去の退職者を調べたところ、前任の山下さんにも同じことをしていたことが判明した。白石主任の下で事務を担当した女性は、過去五年で四人辞めていた。全員、一年以内に。
『ごめんね、もっと早く声上げてたらよかった』
『美緒さんのせいじゃないよ。ありがとう、教えてくれて』
スマホを置いて、窓の外を見た。平日の昼間に、自分の部屋にいる。こんな時間があったのだと思った。
◇
有休消化が終わり、正式に退職した。
一か月ほど休んでから、ハローワークに通い始めた。
七月の終わり、地元の小さな食品卸会社に採用が決まった。従業員は十五人。面接は社長と事務の先輩の二人だけで、三十分で終わった。
社長は「経験があるなら助かります」とだけ言った。過剰に持ち上げられることもなく、試されるような質問もなかった。普通だった。その「普通」が、ありがたかった。
八月から出勤が始まった。
最初に驚いたのは、昼休みが昼休みだったことだ。
十二時になるとみんな手を止めて、休憩室に移動する。電話は留守電に切り替わる。お弁当を広げて、天気の話をして、コーヒーを飲む。誰も仕事の話をしない。
私は最初の三日間、十二時を過ぎても席を立てなかった。電話が鳴るかもしれない、誰かに呼ばれるかもしれない、と身体が勝手に構えてしまう。
「相沢さん、お昼行かないの?」
事務の先輩——杉山さんが声をかけてくれた。
「あ、すみません、今行きます」
「謝らなくていいよ。ご飯は食べないとね」
三日目に、ようやく時間通りに席を立てた。四日目から、弁当を全部食べられるようになった。
定時は十七時半。十七時半になると、杉山さんが「お疲れさまー」と言って帰り支度を始める。社長も「じゃあまた明日」と事務所の電気を消しにかかる。
最初の週、私は十七時半を過ぎても帰れなかった。何か残っているんじゃないか、急に仕事を振られるんじゃないか、帰った後で「あれどうなった?」と連絡が来るんじゃないか。
来なかった。
二週目に、定時で帰れるようになった。駅前のスーパーが開いている時間に買い物ができることに驚いた。五年間、閉店間際の値引きシールしか見ていなかったから。
ある夜、夕飯を作りながら気づいた。今日一日、胃が痛くなかったことに。前の職場では月曜の朝から胃がきしんでいた。それが普通だと思っていた。普通じゃなかった。
九月の初め、有給を取って母の通院に付き添った。杉山さんに「金曜お休みいただきます」と言ったら、「了解、行ってらっしゃい」の一言で終わった。
それだけのことで、目の奥がじんとした。こんなことで泣きそうになる自分が少しおかしかったけど、たぶん、こういう普通がずっと足りていなかったのだと思う。
母は待合室で「あんた、顔色よくなったね」と言った。
◇
九月になった。
新しい職場にも慣れてきた頃、美緒さんからLINEが来た。
『真琴さん、元気にしてる?』
『うん。新しいとこ、いい感じだよ』
『よかった。——報告なんだけど、白石、降格になったよ』
美緒さんによると、あの四日間の混乱をきっかけに、三浦部長が本格調査に入ったらしい。対応記録の虚偽報告。ハラスメントの複数証言。過去五年で事務員が四人辞めていた事実。全部、繋がった。
『主任から外されて、担当も減らされた。丸藤食品からは名指しで「白石さん以外に変えてほしい」って。三浦部長も朝礼で「管理職として見抜けなかった責任がある」って言ったらしい。白石の顔、見てみたかったな、あの時の』
『真琴さんがどれだけ支えてたか、みんな今さら分かってるよ。遅すぎるけど』
スマホの画面を見つめた。
以前の自分だったら、この報告でどう感じただろう。胸がすく思いがしたかもしれない。あるいは「ほら見ろ」と思ったかもしれない。
でも今の私には、それほど大きな波は来なかった。
白石主任がどうなろうと、もう関係ない。恨んでもいないし、許してもいない。ただ、遠い。
『ありがとう、教えてくれて。美緒さんも無理しないでね』
通知を閉じて、スマホをテーブルに置いた。
今日は定時で上がれた。帰りに駅前のスーパーに寄った。
惣菜コーナーを通り過ぎて、デザートの棚の前で足を止めた。少し高いプリンがあった。以前なら手を伸ばさなかった。値段じゃなくて、そんな余裕が自分にあると思えなかったから。
カゴに入れた。
家に帰ると、まだ窓の外が明るかった。
キッチンでお湯を沸かして、好きな紅茶を入れた。カップを持ってテーブルについて、プリンの蓋を開けた。
時計を見た。十八時二十分。
この時間に、自分の部屋で、温かい紅茶と甘いものを前にして座っている。
それだけのことが、どうしようもなく幸せだった。
電話は鳴らない。
誰にも怒鳴られない。
息が苦しくならない。
あの日、置いてきたのは仕事じゃない。
私を雑に扱ってもいいと思っている人たちの中で、黙って便利に生きる自分の方だった。
プリンは、甘かった。




