私と百合創作について
私は百合が好きだ。
植物の百合ではない、創作ジャンルの話である。
非常に定義の難しい言葉だが、おおよそを纏めるなれば「女性同士の友情、恋愛といった強い関係性に焦点を当て、それらを描くジャンル」だろうか。
無論これは私の案でしかないので人の数だけ定義がある。
ガールズラブ(GL)という言葉に対しては、百合が恋愛以外の関係性も含むのに対し、ガールズラブはあくまで恋愛が必須要素という考え方が主流に思える。
さらに女性の同性愛者を指してレズビアンという単語があり、それを省略してレズという単語を使われる。レズもの、といった用法が見られがちだと思う。
この定義も人によってまちまちなので言及は避けるが、ともかくこの近辺では色々な言葉が密集したり反発し合ったりしていることは確かだ。
私は百合というジャンルをそれなりに摂取してきた。
だが決して詳しいわけではなく、通ってきた作品は正直多くない。
識者のように歴史を語れるわけでもなく、熱烈に推し作品について語れるほどの情熱を持っているかと問われればそこまででもない。
自分の立場がひどく曖昧に思える。
ただ、異性間の関係や男性同士の関係、あるいはそれらに類しない様々な性別にまつわる人たちの関係は、どれも自分にとってしっくり来ない。ゆえにこのジャンルにずっと留まっているとも言える。
私と百合、百合創作の関係性は一体どんなものなんだろう?
それを改めて紐解くべく、この文章を書いている。
まあ先に結論を言ってしまうのであれば「私にとってしっくり来るのは女性同士の関係だけだから」「女性同士の関係性こそが自分にとっての当たり前だから」である。
ではこの結論に辿り着くまでにどういった思考を辿ったのか。
幼少期から順に紐解いていくとしよう。
・幼少期~小学生
とはいえこの頃の記憶は少ないが、少なくとも周りに同性愛に対する理解を備えた人物はいなかったと思われるし、百合作品に触れる機会すらなかった。
これは時代柄もあるのだろう。
誰のせい、何のせいという話ではない。
その頃楽しんでいた創作物はやはり絵本だったり、子供向けのアニメだったり、国民的漫画だったり、そういうものがほとんどだった。好きな絵本シリーズもあったし、名探偵コナンのアニメは毎週楽しみに見ていたし、ドラえもんの漫画はよく読んでいた。
ジェンダー観の印象が強いというか、対象性別がおおよそ決まっていそうな作品には触れていない。プリキュアとか、戦隊ヒーローとか、特撮とか、アイドルものとか。
そして人間同士の深い関係性にまつわるような作品にも触れていない。
要するに比較的まっさらに近く、純粋すぎたのがこの頃の私である。
でも小学生ってそんなものかも?
・中学生
小説を読むことが増えた。多くは両親からのプレゼントである。
赤川次郎の『三毛猫ホームズ』シリーズも、太宰治の『人間失格』や『斜陽』も、松本清張の『ゼロの焦点』も『点と線』も、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も、この頃読んだ。
三毛猫ホームズはミステリー爽快解決ものとしての面白さが好きだったし、太宰作品は不思議とその世界にのめり込んだし、松本清張のミステリーは映画を見るかのようにドキドキしながらその結末に深く息をついた。村上春樹はもうわけわからん。
私の読書に関する下地はこの頃に出来上がったと言えよう。
ただ、そこに恋愛や強い友情といった深い関係性の要素はそこまで絡んでこなかった。
人間失格には生々しい男女の行為が描かれていたが結局は語り手の内省であったし、ゼロの焦点は行方不明の夫を探す妻が主人公だったが親密な関係自体は舞台装置の面が大きかった。主題ではなかった。
つまるところ友情も恋愛も、百合という関係性への親しみになりうる「人間同士の親密さへの慣れ」という準備要素はなかったのである。
青春小説というか小中学生くらいの登場人物が奮闘する作品も読んだ気がするが、正直そこまで覚えていないのが現状だ。それらの作品もどちらかと言えば生き方をアドバイスしたり友達を大事にしなさいといった子供向けの薫陶の面が大きかったと記憶している。
しかし、この時代にはひとつ大きな出会いがあった。
深夜アニメとの出会いである。
きっかけは友人に勧められた当時放映中の作品。
それは友情も恋愛も出てきていたが、他にもバトルやコメディといった多数の要素を詰め込んだ作品であり、更に最大のポイントはキャラクターごとの人生観や生きることへの希望・願いといった「生」への訴えだった。
というわけで残念ながらここでも親密な人間関係への助走はできなかった。
その後も興味を持った作品に触れていくことになるが、どちらかといえばストーリー重視で悲劇のカタルシスが重かったり、物語のドラマチックさを印象付ける作品が多かった。
たぶん、違う世界に没入して物語に浸ることで現実逃避をしていたのだと思う。世界が違えば違うほど、その深度は深かったのだと今振り返って思う。
ただ、この出会いは後に繋がっていく。
・高校生
中学時代と変わらない部分もあったが、明確に変わったこともあった。
まず部活動で近しい趣味の友人と出会えたことだ。
中学時代は深夜アニメを見ていることをひた隠しにしていたのだが(公言すると迫害されるので)、高校の部活動は遠慮なく喋れた。
艦これ最古参サーバーのガチ勢もいたし、PCで重めのFPSを嗜んでいる人もいた。ブラック・ラグーンのファンでついでに世界史に詳しいという識者も、ボカロに入れ込んで聴きまくってるというタイプもいた。
その中で私は色々なオタク文化、サブカルチャーに触れていくことになる。知らなかった世界を教えてもらったのである。自分の世界が大きく広がった時期とも言えよう。
そういった背景に加え、PCをある程度自由に操作してネットの海を渡れるようになってきた私は、古い深夜アニメも見るようになった。不朽の名作と称される"あの頃"の作品たちである。
ぱっと浮かぶのはリリカルなのはシリーズ。
特に1期はなのはとフェイトの友情の強さが心に残っており、最終話のリボンを交換するシーンなんかは今でもはっきりと思い出せる。
加えて所謂日常系を知ったのもこの頃である。
ご注文はうさぎですか?、略してごちうさのアニメ1期が放送された頃、たぶん私もニコニコ生放送の公式上映会で見ていたはずである。これは記憶があやふやなので何とも言えないが、そんな気がする。
日常系以外で思い出すのは天体のメソッドで、これはKanonの久弥直樹がストーリーを手掛けることから視聴を決めた作品だった。本作も少女同士の友情に心を惹かれた経験のひとつだと思う。
そういう風にいつの間にか少女間の友情に親近感を覚え、それが好きだという気持ちを(まだ言葉にはなっていないが)持ち始めていたのが高校時代と考える。
そしてそれを決定づける出来事が高校3年生のある日、突如起きた。
とある模試の現代文で一編の小説が出題された。
米澤穂信 『玉野五十鈴の誉れ』― 主従百合の傑作と称される短編である。
なお、後に私は本作を収録した短編集『儚い羊たちの祝宴』に触れ、ぞくぞくとした恐怖を覚えながら読了している。確か大学内の書店で購入したはず。
具体的な内容は各自で調べてもらうとして、模試の出題範囲は五十鈴が純香に初めて笑顔を見せる場面を含んでいたのだが、私はその場面であろうことかにやけてしまったのである。
大事な模試の最中に、静かな教室で、クラスメイトが真剣に問題用紙に向かう中、一人にやけているオタク。
もうクソキモである。隣の人に見られたらどうするつもりだったんだ。
当時の私聞いてる???
しかし、にやけるのを我慢できなかったのである。不可避のオタクスマイルである。尊い百合を摂取した百合オタクがニチャァと口元を綻ばせる仕草と完全一致である。うわキモすぎる……マジヤバ……
しかしこれは私が女性同士の(というか少女同士の)親密な関係性が好きなのだと明確に認識した瞬間として、私の脳裏に深く刻まれることになった。あの瞬間は今でも思い出せる。
ここが百合人生のターニングポイントと呼んで構わないだろう。
これは完全に余談だが模試の国語には面白エピソードがある。
ある模試の日、私は微妙に体調不良を感じていた。それは英語数学と試験が進むにつれ悪化し、最後の国語の前で静かに悟った。ああ、これ風邪だわ、と。
しかし厳しい教師の監視の中で模試受験をやめるわけにはいかない。
私は高熱で朦朧とする意識の中、必死に国語の試験を解いた。解いている最中のことは記憶がない。無我夢中とはこのことだった。
そして試験が終わった。私は健気にも誰の力も借りずに公共交通機関で自宅へと帰り付き、布団へ倒れたのである。
ところが後日模試の結果を受け取ってみると驚愕の内容が。
なんとあの熱にうなされながら解いた国語が校内1位だったのである。
嘘だろ、ここ一応進学校だぞ。
この時私は「火事場の馬鹿力」というものを人生で初めて実感したのだった。
・大学生
さあいよいよ文化的生活の開花である。
高校時代に女性同士の関係性に親しみを覚え、好きなのだと自覚した私はこの時期に完全にそちらへ傾倒した。
まずアニメである。自由に使える多少のお金と大量の余暇を獲得した私はアニメ視聴を思う存分楽しんだ。サブスクの浸透もあり、それまでは前述のニコニコ生放送の公式上映企画を主な視聴場所としていたところからサブスクへと完全移行した。時間的な自由の獲得である。
大抵のオタクの例に漏れずdア○メストアと契約した私は昼夜問わずアニメを摂取した。dア○君もにっこりである。僕をたくさん使ってくれてありがとう!と感謝を述べられても良いレベルだった。
そこでは百合ではない作品も多数視聴したが、やはり記憶に残っているのは今を駆け抜け、歴史上にきらめく百合作品の数々だった。
神無月の巫女は契約してすぐに見た。最終話のカタルシスに溺れた。
咲-Saki-はとにかくキャラが大量に出てきて関係性も様々で見ていて飽きなかったし、はいふりことハイスクール・フリートは熱すぎる友情とクライマックスの展開に胸を撃ち抜かれて今でも大好きである。
BLUE DROP ~天使達の戯曲~は傑作だと思っていて、この儚さと切なさと美しさは他ではそうそう出し得ない色だと感じる。同じく美しさが光る佳作のリズと青い鳥は映画館まで観に行った。
ゆるゆりは頭を空っぽにして見ていたし、きんいろモザイク、ごちうさ等をはじめとする天下のきらら系作品も大量に視聴した。
きららはまさしく金字塔で、GA芸術科アートデザインクラス、ゆゆ式、桜Trick、ハナヤマタ、わかば*ガール、三者三葉、ステラのまほう、ゆるキャン△、スロウスタート、こみっくがーるず、はるかなレシーブ、アニマエール!…………こんなにも作品名が出てくる。
それ以外でもフリップフラッパーズ、紅殻のパンドラ、ひなろじ~from Luck & Logic~、小林さんちのメイドラゴン、このはな綺譚、終末のイゼッタ、プリンセス・プリンシパル、魔法少女サイト、つうかあ、となりの吸血鬼さん、喰霊-零-、刀使ノ巫女、悪魔のリドル、はねバド!、ひなこのーと、 メルヘン・メドヘン、やがて君になる、citurs、少女☆歌劇 レヴュースタァライトなどなど。
ちなみに百合であれば全て好きというわけでなく、苦手な作風もあった。
ストロベリーパニックはお嬢様校の堅苦しい感じとドロドロ系の展開が辛くなり、結局1クール目の途中でギブアップした。という経験からマリみても避けている。お嬢様学校はきつい。
あとこれはシリアスすぎると察知して逃げたのがシムーンだったり、青い花だったり、ささめきことだったりする。たぶん性差への嫌悪を否応なく喚起されて心が痛むという気配を感じたのだろう。まだまだ若いな。ちなみに今も見ていないのでどんな話なのかは知らない。
そして同様に小説でも百合方面に関心を寄せている。
エスの偉大な作家である吉屋信子の『花物語』『小さき花々』は文庫を購入して読んだ。鎌倉市の吉屋信子記念館も訪ねた。とてもよい場所だった。
漫画はどうだっただろう?
その頃は確か電子書籍をまだ使っていなかった時代なので、ほとんど読んでいなかったと考えられる。可処分所得の面でも仕方ない。お金は有限だ。
ともかくこの時代、私にとって百合作品はアニメを中心として自身の嗜好に大きく影響し、「そっか、私は百合が好きなんだな」という自認が強固になったと考えられる。
ただ、その自認から更に思考が深まるのはまだ先の話だった。
・社会人(20代前半~中盤)
さて、一部の方はご存知の通り(?)、社会人1年目はこれまでの人間関係から逃げて来た人生のツケを払う形で心身を壊した悪夢の一年だった。
そしてそこから3年目~4年目頃までは我が人生の暗黒期の一つとして記憶と記録に刻み込まれている。生きるために必死に働き、職場という社会で心を削り取られ、休日はその反動で生きがいを求めて散財した。
うつ病やそれに類する病の症状としてベッドから起き上がれなくなるというのは本当なのだと自分の身で思い知ったのもこの頃である。
アニメは引き続き視聴していて、百合作品の数も少々増えてきた時代だったと勝手に記憶しているが、その内容は正直ほとんど覚えていない。大学時代の方がよほど覚えている。
恐らく現実逃避が度を過ぎ、社会の苦痛から一時的に逃れるために作品を摂取し、中身までが自分の心に入ってこなかったのだと思う。
小説は読めていなかった。そんな余裕はなかった。
そんな時代に私の心を曇らせていた要素がある。
それこそが性差への扱いであり、現在の私を構成する「性差への嫌悪」を生み出した元凶である。
職場をはじめとする社会で私は様々な人間が放つ性差への態度に愕然とした。明らかな女性蔑視、社会で働くからこそ見えてくる男女格差、そういったものに私の軟弱なメンタルは打撃を受けた。
引きこもって出来るだけ苦痛を受けないように生きてきたからこそ、こうして盛大に直面した社会の現実にショックを受けたのである。ずっと前から気付いてはいたし、何度も実感もしていた。でも、こうして真正面から叩き付けられたのは初めてだった。
実に情けない話だが嘘を書く気はないので包み隠さず書くことにする。
ここではとても書けない(私の精神的にも、内容的にも)発言や文化に相対し、得も言われぬ負の感情を覚えた。できるだけ思い出したくない。
そうした話も含め、人生全般の相談に乗ってくれたのが、今もお世話になっているカウンセラーの先生である。
この方と巡り合えたことは人生の大きな幸運の一つで、出会えなかったら私はとっくのとうに首を吊っていたかもしれないとすら思う。そんな先生と言葉を交わし、自分の感じる苦しみや辛さを言語化していったのもこの頃だった。
つまりこの暗黒期を格好良く表現するなれば、次への準備期間。
そういうものだったと今振り返れば思える。
・社会人(20代中盤~現在)
そんな暗黒期を乗り越え、私はなんとか安定した暮らしと心身を手に入れた。無論この「安定」には(当社比)という注釈が付くのだが。
環境が変わり、関わる人が変わり、世界は少しだけ明るくなった。
カウンセラーの先生と続けていた自己分析も進み、自分がより楽に生きていくための道筋と方法が徐々にわかるようになってきた。壊れそうになった自分の修理方法も習得しつつあった。
そして安定は余裕を生んだ。心の余裕である。
そんな余裕から生まれたのが、私が初めて完結させた小説であり、人生で初めてネット上に投稿した短編小説『弓張月と夜霧花』だ。
投稿したのが2022年の3月だから、正確にはまだ暗黒期の終盤のような時期だった。なお同年夏には『アンブレラ・ディスタンス』という短編も投稿した。
その後諸事情で間が空き、次に投稿したのは翌2023年の終わり頃であり、そこから創作が加速していく。2024年の5月にはノクターンノベルズにR18の百合創作も初投稿している。
この頃は辛うじて安定した生活と呼んでよい暮らしを送っており、心の余裕が創作に繋がったことを感じさせる。抑うつ症状で慢性的に苦しんでいた状態の私には創作など出来なかっただろう。そこから解放されての話なのだ。
・ようやく本題に入る
実に長くなったが、「私にとってしっくり来るのは女性同士の関係だけだから」「女性同士の関係性こそが自分にとっての当たり前だから」という今の結論にどう至ったのか、ここまでの内容を踏まえて考察する。
今回考察するにあたって主題にするのは以下の二点である。
①百合創作への親しみ
②性差への嫌悪
①百合創作への親しみ
これはもう思考だの理性だのどうこうではない。
長く親しんできて、単純に好きだから。好きに理由はいらない。(あってもいいが強要されるものではないので、無理に語る必要もない。)
思春期を過ぎ、自分の趣味嗜好を明確に持てるようになった段階で私の傍には百合作品があった。そこにあることが当たり前であり、女性同士の関係性を眺めることも、その恋模様を応援することも、ごく自然な行為だった。
その時点でもう私にとって異性間の恋愛というのはアブノーマルなものだった。異性間の関係を創作するという選択肢はもはや頭になかったのである。
「なるほど、世の中には異性間で恋愛をして恋人になる人もいるんですね。自分の中にはなかった考え方なのでびっくりですが……でも、ご本人たちが幸せであればそれは素敵な形ですよね。幸せの形は一人一人違って、世の中には色々な形がある。またひとつ勉強しました!」
人によっては「え?」と思うかもしれないが、実際今の私はそういう思考をしている。百合は趣味とか好き嫌いどうこうの話ではない。私にとっての「自然」な概念なのだ。
朝起きて顔を洗う、ご飯を食べる、歯を磨く、服を着替える。
これらが当たり前のことであるように、私の創作においては女性同士の関係性を描くことが当たり前なのである。人生に染み込んでいる。
「女性同士の関係性こそが自分にとっての当たり前だから」という言説は、こういった経緯によって私の中から出てきたものだ。
②性差への嫌悪
社会人初期の振り返りでこの話題を持ち出したが、思えば幼い頃からそうだった。「女の子/男の子だからこうしなさい」と言われるのは嫌だった。「女らしくない/男らしくない」と言われると反発を覚えた。
他人がそう言われているのを見るのも嫌だったし、社会がそういう風な言論に基づいて動いている様を眺めるのは苦痛だった。
たぶんこの時点で異性間という性差が存在する関係性に対して、馴染めないと悟っていたのだと思う。思えば小説のさわりのような文章を細々と書いていた頃も異性間を描くことはなかった。
そしてもう一つ極端な話をする。
私は、男性という生き物が嫌いである。
私の見てきた世界はどうやっても男性が上に立つ社会だった。
男尊女卑の匂いがしていた、男性の方が偉いというような空気を感じていた。私はそれが嫌いだった。今も嫌いである。
もちろん世の中には逆の場合も多数存在することは疑いようもない。
女性が男性を蔑視し、高圧的な態度で性差を振りかざし、様々な暴力で心と身体を傷付ける例など数え切れないほどある。下劣な犯罪も生まれる。
ただ、それでも私の視界は明らかに男性優位の世界を映し、それに辟易した。そんな世界に関わっていることを恥ずかしいと思った。
一個前の話題で私は異性間関係に馴染めないと述べた。
ではそこに男性への嫌悪が加わったらどうなるか。
もう消去法で一択である。女性同士の関係だけが私という人間の思考が安堵できる世界になった。他にはもう馴染めないのである。
この馴染めなさを考えると、「私にとってしっくり来るのは女性同士の関係だけだから」という言説にも説明がつく。しっくり来るという表現にしっくり来る。ありがとう朝井リョウ。生殖記めっちゃ面白かったです。ファンです。
余談だが私は自分の性別を公言はしていない。
(実際にお会いしたことのある方には当然知られているが。)
まあこの文章の内容からして推測はできると思うので自由に予想して自由に解釈してもらえればそれで結構なのだが、私個人の気持ちとしては無性を名乗りたいところである。どちらでもない。立ち位置としてはイソギンチャクあたりを所望する。性別は無でーす!
③???
④???
いや、まだあるんかい!って話なのだけど。
これは自分でも内省を続けている最中の話なので、今は書かない。
……なんだかすごく長くなってしまったな?
七千字は超えている気がする。自分語りでこの文字数なのだから、やはり私はナルシストの気があるのだろう。薄々気付いてはいたが。
以前どこかで「役者ナルシストバカ」というキャッチーなフレーズを読んだことがあるのだが、それに倣うのであれば「物書きナルシストバカ」である。非常に情けなく、元ネタの持ち主の方に謝罪するべきとしか思えない。
こんなほぼ誰にも読まれていない文章を大量に書いておいて物書きを名乗ったあげく、貴方様と同じ地平に並べてしまい誠に申し訳ございませんでした。
という謝罪文を公開したところで、結局こういう人間であることは変わらないので、こういう人間を上手く操縦しながらぼちぼち人生を進めていくだけである。
ただ、健康は自分でもどうしようもない側面があるので、書けなくなったらその時は仕方ないということで。できるだけ健康でいられるように努めるけど。




