第五話 一番高い買い物
目が覚めると、拓海は公園のベンチに座っていた。
早朝の冷たい空気が肌を刺す。カラスの鳴き声が遠くで聞こえ、東の空が白み始めていた。
激しい頭痛が残っていた。まるで二日酔いのような、重たく鈍い痛みだ。
「……俺、何してたんだっけ」
拓海は額を押さえて身を起こした。
確か、昨夜は雨が降っていたはずだ。ずぶ濡れになって、誰かを背負って……いや、違うか?
記憶が曖昧だった。
自分が誰で、どういう状況にあるかは分かっている。名前は拓海。二十一歳。日雇い労働者。昨日は現場が休みで、一日中職探しをしていたはずだ。
それなのに、なぜか胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感がある。
何かとても大切なものを失くしたような、あるいは、何かをやり遂げたような、不思議な感覚。
拓海はポケットを探った。
小銭入れと、古びたスマホ。そして、湿ったハンカチが入っていた。
ハンカチには微かに、嗅いだことのない甘い香水の匂いが残っていた。
「誰のだ、これ……」
思い出せない。
ただ、その匂いを嗅いだ瞬間、鼻の奥がツンとして、わけもなく涙が滲んだ。
悲しいわけじゃない。むしろ、胸の奥が温かくなるような、懐かしい痛みだった。
拓海は立ち上がり、朝日を背に歩き出した。
腹が減っている。とりあえず、いつものコンビニでおにぎりを買おう。
そう思って路地裏を抜けた時、ふと足を止めた。
ビルの隙間にある、何もないコンクリートの壁。
ここには以前、何かがあったような気がする。古い店か、自販機か。
だが、そこにはただ、朝露に濡れた雑草が生えているだけだった。
「……気のせいか」
拓海は首を振り、雑踏の中へと消えていった。
季節は巡り、セミの声が聞こえ始める初夏になった。
拓海は新しいバイトを始めていた。運送会社の配送助手だ。体を使う仕事はきつかったが、汗を流して働くのは性に合っていた。
昼休憩、拓海は配達先のオフィス街にある公園でパンを齧っていた。
サラリーマンやOLたちが行き交う。華やかな世界だ。かつては彼らを羨んだり、自分の境遇を呪ったりもしたが、今は不思議と穏やかな気持ちで眺めていられた。
その時だ。
一陣の風が吹き抜け、ベンチの横を歩いていた女性の帽子が飛ばされた。
麦わら帽子がくるくると回り、拓海の足元に転がってくる。
拓海はそれを拾い上げ、砂を払って顔を上げた。
「あ、すみません!ありがとうございます」
駆け寄ってきた女性が、息を切らして礼を言った。
栗色の長い髪。笑うと三日月になる目。凛としたスーツ姿が似合う、綺麗な人だった。
拓海はその顔を見た瞬間、心臓が早鐘を打つのを感じた。
初めて会うはずだ。こんな美人と知り合いだった覚えはない。
なのに、なぜだか目が離せない。
彼女の瞳の奥に、自分の魂の一部が埋まっているような、強烈な引力を感じたのだ。
「……いえ、風が強かったですね」
拓海が帽子を渡すと、彼女の手が微かに触れた。
バチッ、と静電気が走ったような衝撃があった。
女性もまた、ハッとしたように目を見開いて拓海を見つめた。
「……あの」
彼女の声が震えていた。
「どこかで、お会いしましたっけ?」
ありふれたナンパの文句のようだったが、彼女の表情は真剣そのものだった。
拓海は記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
学生時代の友人? バイト先の客? いや、どこにもいない。俺の記憶の中に、彼女の居場所はない。
「いえ……初めてだと思います。俺みたいな作業員が、あんたみたいな人と会う機会なんてないですから」
拓海が自嘲気味に笑うと、彼女は少し悲しそうな顔をして、それからふわりと微笑んだ。
「そうですよね。……ごめんなさい、変なことを聞いて」
彼女は帽子を受け取り、一礼して去ろうとした。
その背中を見送ろうとした時、拓海の口が勝手に動いた。
「待ってください!」
彼女が振り返る。
拓海は自分でも何を言おうとしているのか分からなかった。ただ、このまま彼女を逃してはいけないと、本能が叫んでいた。
「その……俺も、なんです」
「え?」
「俺も、あんたのこと知ってる気がして。……いや、知ってるっていうか、ずっと探してたような気がして」
何を言っているんだ、俺は。気持ち悪いと思われるだけだ。
そう思って口をつぐんだが、彼女は驚いたように目を見開き、そして、大粒の涙をこぼした。
「……私も」
彼女は涙を拭おうともせず、真っ直ぐに拓海を見つめた。
「なんでだろう。あなたの顔を見たら、涙が止まらなくて……。すごく、安心するの」
彼女の頬を伝う涙が、陽の光を浴びてキラキラと輝いた。
その光景を見て、拓海の脳裏に、一瞬だけ映像がよぎった。
燃えるような夕焼け。路地裏の水たまり。そして、「綺麗だ」と呟いた自分の声。
あれは一体、いつの記憶だったか。
ビルの陰から、一人の老婆がその様子をじっと眺めていた。
手には豪奢なキセルを持ち、着物を着崩している。通行人たちは誰も彼女の存在に気づかない。まるで彼女だけが別の次元にいるかのように。
老婆の手のひらには、一つの美しいビー玉があった。
黒と白、灰色とピンクが混ざり合い、宇宙のように深遠な光を放つビー玉だ。
「やれやれ。馬鹿な客たちだよ」
老婆は慈しむようにビー玉を撫でた。
「記憶は消した。辛い過去も、罪の意識も、二人が過ごした時間さえもね。だが、魂に刻まれた痕跡までは消せやしない」
老婆はニヤリと笑った。
「あいつが払った『代償』は大きかった。だから少しばかり、サービスしてやったのさ。二人の『縁』だけは、結び直しておいてやったよ」
老婆がキセルを一吹かしすると、紫色の煙が風に乗り、二人の方へ流れていった。
煙が晴れると、そこにはもう老婆の姿も、路地裏への入り口もなかった。
公園には、まだ二人が立ち尽くしていた。
涙を拭い、女性がはにかむように微笑んだ。
「私、美咲っていいます」
その名前を聞いた瞬間、拓海の胸の穴が、温かいもので満たされていくのを感じた。
ああ、そうだ。この響きだ。俺がずっと呼びたかった名前は。
「俺は、拓海です」
拓海もまた、自然と笑顔になっていた。
過去の記憶はない。共通の思い出もない。
俺たちは赤の他人だ。
けれど、これから作っていけばいい。
辛い記憶も、楽しい記憶も、全部ひっくるめて、もう二度と手放さないように。
「拓海くん……ね」
美咲は懐かしむようにその名を呼び、手を差し出した。
「はじめまして、拓海くん」
「ああ、はじめまして。美咲さん」
二人の手が握られた瞬間、初夏の風が吹き抜け、木々の緑がざわめいた。
それは、失われた記憶の彼方にある、二度目の初恋の始まりだった。




