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第四話 代償の天秤

 その瞬間、世界が反転したようだった。

 互いの指が触れ合い、記憶の欠片が共鳴した直後、美咲の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちたのだ。


「美咲ッ!」


 拓海はとっさに彼女を抱き留めた。

 腕の中の美咲は、火がついたように熱かった。呼吸が浅く、早くなっている。うわ言のように


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


と繰り返し、目尻から涙が溢れ続けていた。

 ただ事ではない。救急車を呼ぶべきか? いや、これは病気じゃない。

 記憶の拒絶反応だ。

 無理やりこじ開けようとしたパンドラの箱が、彼女の精神を蝕んでいる。


「あの店だ……!」


 拓海は美咲を背負い、雨の中を駆けた。

 重さを感じる暇もなかった。濡れたアスファルトを蹴り、迷路のような路地裏を最短距離で突き進む。

 頼む、あってくれ。

 祈るような気持ちで角を曲がると、そこには薄ぼんやりと光る『質』の看板があった。

 拓海は引き戸を蹴破る勢いで店に入った。


「ばあさん! 助けてくれ!」


 カウンターの奥にいた老婆は、拓海の背中の美咲を一瞥すると、キセルを置いて立ち上がった。その表情はいつになく険しかった。


「……やれやれ。無理に記憶の蓋を開けるからこうなるんだよ。奥の長椅子に寝かせな」


 拓海は言われるままに美咲を寝かせた。彼女は苦悶の表情を浮かべ、空中で何かを掴もうとするように手を彷徨わせている。


「何が起きてるんだ? 俺たちはただ、昔の話をしただけだぞ」

「共有された記憶がリンクしたのさ。お前さんが持っている『鍵』が、彼女が捨てた『箱』を開けちまった」


 老婆は美咲の額に冷たい手ぬぐいを乗せながら、静かに告げた。


「彼女の心が、思い出すことを拒んでいる。このままだと、記憶の奔流に精神が押し潰されて、彼女は壊れちまうよ」

「そんな……! どうすればいい? 記憶を戻せば治るのか?」

「そう単純な話じゃない」


 老婆はカウンターに戻り、店の奥から一つの黒い箱を取り出した。

 箱を開けると、そこには漆黒の、まるでブラックホールのように光を吸い込むビー玉が鎮座していた。


「これが、彼女が売った記憶だ」


 老婆の指先がその黒い玉に触れると、店内の空気が一瞬にして凍りついたような冷たさを帯びた。


「お前さん、覚悟はあるかい? 彼女が何を捨てたのか、その『真実』を見る覚悟が」

「……ある。教えてくれ」


 老婆はビー玉を拓海の目の前にかざした。

 その瞬間、拓海の脳裏に鮮明な映像が流れ込んできた。

 

  ――雨の日だった。

 高校二年の秋。拓海の家が借金取りに追われ、夜逃げが決まったあの日。

 教室に残っていた美咲は、封筒を握りしめていた。それはクラスのみんなから集めた文化祭の売上金の一部と、彼女自身の貯金だった。

 彼女は知っていたのだ。拓海が金に困り、進学どころか明日の生活さえ危ういことを。


 『これを渡せば、拓海くんは助かるかもしれない』


 彼女は拓海を探して走った。校門で拓海の後ろ姿を見つけた。

 だが、声をかけようとしたその時、彼女の足が止まった。

 恐怖が勝ったのだ。

 もし関われば、自分も巻き込まれるかもしれない。親に知られたらどうなる? 私の進学は? 私の未来は?

 彼女は震える手で封筒を隠し、柱の影に身を潜めた。

 そして、雨の中を去っていく拓海の背中を、ただ黙って見送った。


 『ごめんなさい、ごめんなさい。私は自分が一番大事なの。ごめんなさい……』


 映像が途切れる。

 拓海は呆然と立ち尽くしていた。

 美咲が売った記憶。それは「拓海との別れ」の悲しみではなかった。

 拓海を見捨てた、自分自身の「罪悪感」と「保身」の記憶だったのだ。


「……そうか」


 拓海は乾いた声を出した。

 彼女はずっと苦しんでいたのだ。拓海を見捨てて手に入れた平穏な日常。その罪悪感に耐えきれず、彼女はこの店に来た。そして、「見捨てた自分」ごと記憶を消し去った。

 だから彼女は成功できた。過去を捨てたからこそ、今の輝かしいキャリアがある。

 思い出せば、彼女はまた「自分は最低な人間だ」という十字架を背負うことになる。今の彼女が耐えられるはずがない。


「彼女はね、お前さんが憎くて忘れたんじゃない」


 老婆が低い声で言った。


「自分が許せなかったのさ。優しい子だよ。だからこそ、自分の弱さが許せなかった」


 長椅子の上で、美咲が小さく呻いた。


「拓海くん……行かないで……」


 無意識に漏れたその言葉が、拓海の胸を鋭く抉った。

 彼女は俺を嫌ってなんかいなかった。ただ、弱かっただけだ。そして俺もまた、彼女に頼れるほど強くなかった。

 どっちもどっちだ。俺たちは二人とも、自分の人生を守るのに必死だっただけなんだ。


「ばあさん」


 拓海は顔を上げた。その目に迷いはなかった。


「彼女を助けたい。この記憶を……彼女の中に戻さずに、消滅させることはできるか?」

「できないね。一度預かった記憶は、持ち主に戻るか、誰かが代価を払って引き取るしかない」

「なら、俺が引き取る」


 拓海は即答した。


「俺がその『罪悪感』ごと全部もらう。そうすれば、彼女は苦しまずに済むんだろ?」


 老婆は目を細めた。


「お前さんが引き取れば、彼女の中の『拓海』という存在は、完全に消えるよ」

「え?」

「彼女が苦しんでいるのは、お前さんという存在と、罪悪感がセットになっているからだ。お前さんが罪を引き受けるということは、彼女の人生から『拓海』という人間の痕跡を全て消し去るということだ」


 老婆は天秤のような道具を取り出した。片方の皿には黒いビー玉が乗っている。


「彼女を救う代償は、お前さんの記憶だ。お前さんの中に残っている『美咲との楽しい思い出』も、全て差し出してもらう。そうすれば、天秤は釣り合う」


 拓海は息を飲んだ。

 それはつまり、二人の関係の完全な消滅を意味していた。

 俺は美咲を忘れる。美咲も俺を忘れる。

 過去の共有も、再会の喜びも、今のこの痛みさえも。

 俺たちは、ただの赤の他人になる。

 拓海は振り返り、眠っている美咲を見た。

 涙の跡が残る頬。苦しげな寝顔。

 もし記憶を戻せば、彼女は一生自分を責め続けるだろう。「私があの時助けていれば」と。


 そんな顔を、見たくはない。

 彼女には笑っていてほしい。あの高校の文化祭の時みたいに、夢を語って、キラキラしていてほしい。

 たとえその隣に、俺がいなくても。


「……分かった」


 拓海は静かに言った。


「一番高い買い物だな」


 ポケットから、自分の持っているビー玉を取り出す。美咲との再会、雨の中の会話、そして取り戻したばかりの青春の記憶。それらを天秤のもう片方の皿に乗せた。

 カタリ、と天秤が傾く。

 黒いビー玉と、輝くビー玉が混じり合い、光の渦となって溶けていく。


「契約成立だ」

 老婆が厳かに宣言した。


「お前さんは空っぽになる。だが、彼女は救われる。……後悔はないね?」


 拓海は美咲のそばに跪き、その冷たい手に触れた。これが最後だ。

 温もりが指先から伝わってくる。


「ああ、後悔なんてないよ」


 拓海は微笑んだ。その笑顔は、どこまでも澄んでいて、悲しいほど優しかった。


「さよなら、美咲。……幸せになれよ」


 店の中が、眩い光に包まれた。

 雨音が遠ざかり、意識が白く塗りつぶされていく中で、拓海は最後に美咲の寝顔を目に焼き付けた。





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